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『女林冲伝』桝田珪赤  作者: 桝田珪赤
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第六話・節目


呉用は、どうやったのか婚礼の準備を三日の内に整えた。

宋万には、正規軍の将校が使うような礼服が与えられ、その上から梁山泊の職人が作った鎧を着た。婚礼に鎧とは無粋ではないかと朱貴は言ったが、恐らくこの方が林冲の好みに合うだろう。

婚礼とは、花嫁の為にあるものだ。宋万はそう考えている。

式は、聚義庁の大広間で行われる事になった。仲人は晁蓋で、参列者は呉用、公孫勝、阮小二、阮小五、阮小七、白勝、杜遷、朱貴。それと、林冲たっての願いで、元は王倫の時代には宋万の兵であり、今は林冲騎馬隊の中核を担っている五十人を呼んだ。兵達はただ、礼装で来いと伝えられているだけだった。

着飾った宋万が姿を現すと、兵は皆これが婚礼の儀であると納得したようだった。恐らく皆、相手の女は例の妓女だと思っているのだろう。ああ、なんだそういう事かと安堵しているようでもあった。一部の察しの良い者は、ただの温情であの林冲が調練を放棄してこんな行事に出席させるかと疑ってはいたが。

自分が浮かれて、すっかり忘れていたが、今日は林冲にとっては勝負の日なのだ。開き直ったのかも知れない。部下にとっての自分の価値が、女であるという一点のみで失われるのなら、仕方がないとでも考えているのだろう。土台、嘘を吐き続けるなど、あの一本気な性格では無理だったのだ。

「皆、忙しい中集まって貰い、感謝をする」

晁蓋が口を開くと、流石にざわついていた室内も静かになった。いつの間にか、魯智深も晁蓋の後ろに控えている。中身は酒なのか、大きな瓢箪を持っていた。

「今日は、ある男女の婚礼の日である。これより、呉用を中心として戸籍を作る折、この二人は梁山泊最初の夫婦として名を連ねるだろう。花嫁の姿には驚く事だろうが、皆、どうか祝福して欲しい」

下男にあたる者が居ないので、兄である魯智深が部屋を出て、花嫁を迎えに行った。

間違っても、普通の花嫁のように被り物はしないだろうな、と宋万は思った。

そして、その予測は当たっていた。

銀の花と珊瑚の実を幾つも付けた簪を髪に飾って、林冲は姿を現した。惜しげもなく白い頬と首筋を晒して、けれど、化粧の一つもしていなかった。粉を塗っていない素肌なので、透けるように白かった。細腰を強調するような帯は金糸の刺繍が成され絢爛で、色は赤に、黒の縁取りがあった。

赤は吉、黒は凶。花嫁衣装に黒など言語道断の筈だが、それが一層、林冲の美貌を引き立てていた。こうして改めて見ると、凄まじいまでの美貌だ。龍女ではなかろうかとすら思える。不思議に青みを帯びた瞳が、こちらを見る。真っ直ぐに。淀みなく。ひたむきに。

心臓が高鳴った。

途中で、林冲は魯智深の手を解いて、駆けよってきた。一刻も早くそこに行きたいのだと言わんばかりに。布の靴を履いた足が見えた。いつものような具足でないせいか、背が低く感じる。見上げるようにして目を合わせてきた。

「宋万、俺は、今日ばかりは、ただの女でいよう。丸一日、俺はお前の花嫁だ」

宣言からして、既にただの女ではなかった。一連の事で、兵達もこの花嫁が自分たちの隊長であるのだと知っただろう。

林冲を伴って、用意された席に着いた。床に、織物が敷かれ座布団が用意されただけの簡素なものだったが、その場所こそが特別だった。上座で、平素は晁蓋しか座れない場所だ。

その場所に、恋焦がれ続けた女を伴って、座っている。

宋万は、世の全てを一遍に手に入れたかのような気分になった。同時に、これは自分の身に余る、とも思った。林冲は大人しく、隣に座っている。

朱貴の指揮によって、酒が全員に回された。

林冲が、立ち上がる。宋万は、黙って見ていた。

「婚儀の席で花嫁が口を開く無作法を、どうか許して頂きたい」

許しを乞うているという声ではなかった。断罪するならばしろ、という憮然とした態度だった。

「俺の名は、林冲という。武人であった父が、男児を望んだが為に付けた。それを恥じる気はない。名の通りに生きる己を、俺は誇っている」

大勢が息を呑んだ。口を挟む隙もなかった。婚儀であっても、林冲には戦場なのだなぁと、宋万は関心した。

「生き方を、変えるつもりはない。豹子頭林冲は、梁山泊の兵であり、騎馬隊の隊長である。だが、今日よりはその一方で、ある男の妻でもある。その事を告げる為に、お前たちを呼んだ」

どう言っていいのか、宋万には矢張り、わからなかった。尋常ではなく、美しい。身体の形、顔の形だけでなく、姿勢や声や、何よりも魂が、心が、迸るようだった。何か、人間でないものを見ているような気分になった。武器を取る天女が居る、と本気で思った。きっと、言葉を向けられている兵には、それ以上の何かに見えているだろう。全員、憑かれたように黙って、林冲を見ている。

「騙していた事は、謝罪する。だが、これからも、欺き続ける。この罪はお前たちが裁けば良い。恐れはない。指揮官足り得ぬと判断したら、即座にこの首を落とせ。文句は言わん。俺からは以上である」

沈黙が降りた。長い長い沈黙だった。林冲は、じっと耐えて、待っていた。読み取ろうとしていたのかも知れない。部下の目から、どんな気持ちでいるのかを。

「林冲殿。あなた以外に、我らを率いる者は居ません」

若い兵が立ち上がり、声を上げた。まだ少年らしさが残っている。

林冲の調練で、最も苦しんだ一人だった。涙を流して苦しいと零した夜もある。宋万はそれを知っていた。

「わたしは、あなたに鍛えられたあなたの兵です。普段の姿が全て偽りでなかったとは、ここに居る全員がわかっています。裏切られたとは、思いません」

良い声だった。鍛えられると、人は変わる。

「改めて、ご結婚のお慶びを申し上げます」

頭を下げたその一人に続き、他の全員も立ち上がり、礼を取った。立ち尽くす林冲の肩を、宋万が抱いてやる。

「感謝する。お前らの心は、決して忘れん」

最後、声が少しだけ震えていた。泣くだろうかと心配したが、林冲は泣かなかった。

「料理が冷めてしまう。食べよう」

晁蓋が言った。朱貴の部下が、料理を運んでくる。魚の蒸し物に、牛肉の煮込み、卵と筍の汁物と、羊肉の串焼き、柔らかい饅頭に、猪の肉もあった。

祝宴が始まって、各々話しながら飲み食いをしている。

部下が一人一人、挨拶に来た。全員、宋万と林冲の顔を見比べてはまじまじと見て、元の場所に戻っていった。悉く林冲に見とれているので、却って面白かった。と、同時に、自分もこうだったのだろうなと思って、宋万は苦笑した。

「おい、林冲。こっちに来い」

晁蓋と飲んでいた魯智深が、手招きして林冲を呼んだ。酒には弱いのか、既に赤ら顔だ。晁蓋も、気持ち良く酔っているらしい。林冲は素直にその言葉に従って、魯智深の傍に腰を下ろした。

「林冲、今日のお前は女なのだろう?なら、兄に酌をしろ」

「はい、兄上。平素からでも」

瓢箪を持って、林冲が恭しく魯智深の杯に酒を注いだ。晁蓋がぎょっとしたように目を見開いている。

にいっと笑って、魯智深が晁蓋の方を向いた。

「どうだ。俺の妹だ。晁蓋殿」

「何故、お前の方が先なのだ、魯智深。ここは頭領である俺からだろう」

「妹の酌は、兄の特権だ」

なあ、林冲。

魯智深がにやにやしながら言うと、林冲が返事をする。子供のような返事だった。

「はい、兄上」

「うん、持ってみて初めてわかったが、妹というのは、いいな。美人だと、自慢になる。林冲、俺は何だか、お前が可愛くて仕方がなくなってきたぞ」

「それは、そうだろう。滅多に持てるものではない」

晁蓋が、不満そうに言った。羨ましい、と顔に書いてある。

「気分がいい。林冲、もっと俺を呼べ。亭主など放っておいて、こっちに来い」

更に距離を詰めて、林冲が魯智深を呼ぶ。

「兄上」

「もっとだ」

「兄上」

「もっと」

「兄上」

暫く同じ問答が続いたが、林冲は全て、丁寧に答えた。律儀で真面目だ。魯智深はひとしきり満足すると、結い上げた髪に手を突っ込んだ。髪が乱れるが、林冲は気にしない。

「林冲、お前は傾城だな」

「光栄です」

「違う。お前、信じていないだろう」

むっとして、魯智深がまた、ずいと盃を差し出す。林冲は、黙って注ぎ足した。兄妹というよりはそれが余りに自然に夫婦のような雰囲気だったので、宋万は不機嫌になった。

「林冲、今からな、黙って奴らに、酌をしてやれ。今日ならな、奴らは何でも言う事を聞くぞ」

「わかりました」

躊躇を見せず、林冲は立ち上がって、壺を手に酌を始めた。まずは晁蓋に、次は呉用にと、席次の順に注いでいった。部下の番になっても実に丁寧な物腰でやっている。部下の方が恐縮し切っていた。中には豪気な奴も居て、鬼と恐れる師範の艶姿にやに下がっているのも、何人かは居た。

「それで、兄上。何を命じれば良いのですか」

「そうだな、今から梁山湖の周りを一周して来いとか、全員花の枝を取ってくるまで戻ってくるなとか、そういうものだ」

「兄上、そのような事は、花は兎も角、普段から命じております。躊躇う者は居りません」

「それは、調練だからだろう。だが、美女であれば、そこに理由がなくとも許されるのだ。林冲、なにか、とんでもない我儘を言ってみろ。なんでもいい。言ってみろ。今日、ここに居る男は全員、何でもお前の言う事を聞くぞ。やってみろ。きっと、滑稽で面白い」

暫く林冲は悩んでいた。その間、周囲はそわそわと落ち着かなかった。

酔っているのか、それとも生来の面白がりな気質が出たのか、晁蓋もわくわくしているようだった。宋万も、林冲の我儘とはどんなものだろうかと思って、耳を澄ました。

「杏が、食べたいです」

「なんだ。欲がないな。干したのがいいのか?それとも、酒に漬けたのがいいのか?」

「どちらでも」

まだ初春。杏の時期には早いので、確かに我儘だったのだろうが、干したものも酒漬けにしたものも、食糧庫には仕舞ってある。梁山泊には幾つか杏の木があり、季節になれば食べきれない程で、毎年、干したり酒漬けにしたりするのだ。

「よし、それでいこう。林冲の口に最初に杏を持って来た奴に、今この見事な黒髪に刺さっている簪をやろう。ああ、林冲、まだ外すな。優勝した奴が自ら引き抜く栄誉を奪ってやるな」

さあ、行け。

魯智深が手を叩くと、殆ど全員が外へと飛び出した。流石に呉用と公孫勝は残っていたが、晁蓋も千鳥足で参加している。

「ほら見ろ。俺の言った通りだ」

殆どが祭りのような感覚だが、幾何か下心や、恋心を抱いている者も居るだろう。宋万は林冲が夫である自分を放置しているのが気に入らず、先程から視線を向けているのだが、完全に無視されている。まず、気付いていないというのは有り得ないので、無視で間違いない。

それに、宋万でさえまだあの髪に触れていないというのに、赤の他人に触れさせて、あまつ解くというのを勝手に魯智深が決めたのも、気に入らない。

「晁蓋殿でさえ、ああだ。林冲、お前ならきっと、黙って首を傾げるだけで、皇帝さえも手玉に取れる」

「兄上、それなのですが…別な誰かが触れるというのが、嫌です。約束を違える事になってしまいますが、お許し頂けないでしょうか?」

ちらと林冲が宋万の方を向いた。こうなると、却ってあやされる子供のようで恥ずかしく、宋万はばつが悪くなった。狭量さを噛み締めて、反省するが同時に、恋なのだから仕方がないとも思う。

「そうか、嫌か。なら、仕方がない。お前が引き抜いて、渡してやれ。約束をしたのは、俺だ。お前ではない。済まなかった。もう二度と、お前にそのような事はさせまい。兄として、軽率だった」

「もう、止めておいてはいかがですか」

ひょいと、呉用が魯智深の手から盃を奪った。

公孫勝が呉用からそれを受け取って、懐に仕舞った。もう呑むな、と道士にまで諫められては、止めるしかない。

丁度その時、白勝が杏を持っていの一番に戻ってきた。

「一番は、白勝か」

林冲が驚いたように言った。

「ああ、ちょっとな。厨房で取り合いになってる所を、失敬した」

成程、と林冲が心底感嘆したような顔をして、頷いた。精鋭の兵を、一人の盗人が出し抜く事もあるのだと納得したようだ。

「白勝、済まないが、俺が抜いて渡す。許せ」

「いいとも。俺は、詫びのつもりで持って来たんだ」

「詫び?」

「ああ。俺は、女子供からは盗らねぇって、決めてんだよ」

「そうなのか」

女子供、と言われてもぴんと来ないのか、林冲が首を捻る。

「だってよ、子供は可哀想だしよ。女から頂戴するってなると…ほら、あれだ。障りがあるだろ。何度も、掏摸ろうとして嫌だったろ。悪かったな」

干し杏を差し出して、白勝が頭を下げた。

白勝から受け取った干し杏を一つ口に放り込むと、林冲はもぐもぐと噛み締めながら、戻ってきた。大口を開けてものを食う様子に、全くいつも通りなのだなと宋万が安心していると、部下達がばたばたと走って戻ってきた。全員、本気の走りだった。

全員目が爛々と光っていたので、宋万はぼんやりと危機感を覚えた。これは、林冲の夫となったのを恨まれるかも知れない。

何しろ、鎧姿の髭面でさえ、人の魂を奪うのだ。

これからの事を考えると、恐ろしかった。寧ろ、恐れて、宋万は考えるのを止めた。

飲んで走って、酒が廻りに回ったせいで、皆顔が赤く息も絶え絶えだ。普段の大人しい様子からは想像出来なかったが、阮小二などは大口を開けて、壷から喉に酒を流し込んでいた。白勝に杏を掏摸られたらしい兵が、肩を怒らせて辺りを探している。勿論、白勝は既に姿を消していた。

「晁蓋殿が途中で迷子になったようですので、そろそろお開きにしましょう」

全く、だらしがない。

呉用がそう言って、手を叩いて解散を告げてから、部屋を出て行った。公孫勝も続いて出て行き、阮小五と阮小七が酔い潰れた阮小二を担いで帰ってゆく。

杜遷は号泣していて、朱貴に肩を借りて送り出されていた。最後に、部下達が一人一人、宋万と林冲の元にやって来て、拝礼してから帰っていった。林冲は「余り今日の事は口外するな」と全員に釘を刺した。

気付けば、昼過ぎに宴を始めたというのに、もう夜だった。

朱貴が戻って来た。

「片付けておく。上手くやれ」

耳元で、朱貴が言った。つくづく、面倒見の良い男だ。

「林冲」

背中に手を回して、林冲を連れて部屋を出た。

新居は、林冲の部屋と、空室だった隣の部屋を繋いで作った場所だ。二部屋分の広さがあるが、二人では手狭だった。なので昨日、職人に頼んで、もう一部屋分、壁を抜いた。大柄な二人に見合う寝台が入る場所がなかったのだ。

部屋には、二人で寝る為の寝台が一つと、一人用の普通の寝台が一つある。これは、戦が始まったら、どちらかが寝る為のものだ。戦の時は、孤独であらねばならない。

戦の夜は、一人で明かすべきだろうと。

「疲れた」

「大丈夫か」

「女は、疲れるな」

溜め息を吐いた。大人しくしているのが、苦痛であったらしい。振り返ってみれば、今日の林冲は寛容だった。

「寝るか」

大いに期待していたが、慎重になった。拒絶されたくはなかった。

「今夜だ。一度しかない夜だ」

林冲が、袖を掴んだ。睨むように見上げてくるが、すぐに眉尻が下がる。

「…俺では、駄目か?」

幾ら賞賛しても、林冲の心には届かない。行動と心だけを見る目は、言葉を真実のものとは受け止めないのだ。

賢い、とはこういう事だろうか。

愚か、とは。

「宋万、教えてくれ。俺に、女とは何か、知らしめてくれ」

尚も言い募る林冲を、宋万は抱き上げてから、寝台に落とした。無事だった簪を引き抜くと、長い黒髪がさらさらと広がった。強くこしのある髪だ。絹糸のようだった。

「貰うぞ。林冲」

帯を解いて、着物を剥いだ。

白い。兎に角、白い。肌が透けて、青く血の筋がうっすらと見えた。鍛えられているが細身で、肩が丸いのが女だ、と思った。

「林冲」

夢にまで見た白い小さな乳房を前にすると、最早、何も考えられなかった。



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