第二話・入山
なんて女だ、と思った。
その女は、船の上に立って叫んだ。自分の名前と字を。豹子頭林冲、と名乗った。不思議と、潰れ果てたがよく通る声だった。痛ましい、荒野の風に傷付いた、うつくしい声だった。長い髭が靡いていたが、青い艶のある髪とはまるで違ったごわごわの付け髭だった。
付け髭に覆われた耳元から鼻の下は隠れていたが、目元は涼やかな切れ長で、見開いた瞼の睫毛が白い頬に影を落としている。鼻は小さくてすっとしていて、付け髭を外せば大層な美人なのだろうと思わせた。
女は叫ぶ。
「豹子頭林冲、故あって逆賊となった。入山を希望する」
大気が震えていた。気迫というものだった。女だとか、そういう事は頭から飛んでいた。本物なのだ、とただ思った。体が芯から震えた。感動だった。
こんな人間がこの世に居るのか。
憧憬と畏怖だった。魂が目覚めてゆく感覚を、その場に居た全員が味わっていたに違いない。門の外を見張る櫓は、人で溢れている。ざわついていた。だが、ぼやけてしまいそうな声が、どうしてなのかはっきりと聞き取れた。
後ろに立つ楼閣の中で、簡素な玉座に座った王倫が言う。王倫の声は低い。押し殺したような声を、耳は無意識に拾った。長きに渡って、その声に従ってきた結果だった。
自分は犬のようだ、と宋万は思う。
「追い返せ」
その言葉には普段の演説をする際の威厳はなく、林冲の叫びの前には霧散していた。瞬間、感覚で理解していた。
俺が五年も従ってきたこの男は、人の上に立つ器ではなかったのだ、と。
梁山湖は大きい。
そして、その上に浮かぶ島も、島にしては大きい。
島はぐるりと浜に覆われており、その中を更に、高く聳える岩山が覆って防壁の役目を果たしている。中心部には平地があり、そこを中心として、岩山に沿って建物が作られて都市の形を成している。畑もあれば牧もある。浜には港もある。梁山湖は浅く、深いところは少ない。難攻不落の地形だ。
その天然の要塞に依って、王倫は反徒の本拠地とした。王倫は科挙に落第した学生崩れで、話によると、試験に不正があったらしい。役人の息子が金を積んで合格を買ったのだという。それに憤って国に反する為にこの地を選んで居城とした。最初は共に試験を受けた仲間の杜遷、二人だけだったという。
その後、盗賊家業をやっていた宋万が加わり、人材を見る目に長けた朱貴が加わってからはどんどん人が増えていった。
宋万も、毎日慣れない野良仕事や大工仕事に精を出した。幾つも失敗はあったが、街を作るのは楽しかった。自分たちで自分たちの国を作るのだ、と息巻いていた。
それがどうだ、軍の食糧庫を襲わずに、行商人の荷を襲う日々。まだ時期ではないと王倫は言う。食うには、命を繋ぐには何かしら奪って生きなくてはならないという理屈はわかった。単純な話だ。だが、どうしても納得の出来ないもやもやとした気持ちが残った。 宋万は文字が読めない。
全くという訳ではないが、指折り数えるほどの文字しか知らない。文章などは、てんで読めなかった。
宋万は難しい事を考えるのが苦手だった。少なくとも自分は馬鹿だと思っているし、複雑な事を考えるのは王倫と杜遷の仕事だと思っている。自分は、剣を振り回すしか能がないのだ。それが、誰かの役に立つのならばそれでいい。自分が出来る事をしようと考えた。幸いにして、部下も付いてきた。
野良仕事の合間に、部下と共に棒を振って己を鍛えた。
最初は元山賊だの元農民だの、てんで武道と縁のない素人集団だったが、近頃では下手な軍隊よりも強い、と感じている。
「もう終わりか」
だが、それは思い違いであったようだ。
喉元には、粗末な木の棒の先が突き付けられ、そばには失神した部下が何人も転がっている。弾き飛ばされた自慢の剣は、遠くで地面に突き刺さり、ぎらぎらと日の光を浴びて輝いていた。刀身の反射が、目に痛い。
林冲は踵を返した。
一瞬だった。
三十人の部下と宋万は一斉に林冲へと躍り掛かり、息吐く間もなく敗れた。
「お前らなど、全員が真剣でかかってきても、俺は棒一本で打ち倒せるぞ」
調錬の様子を見てそう言い出したのは林冲だった。馬鹿にされているのだ、と思った。恥を掻かせてやりたい気持ちもあった。
ならば本当にやって貰おうじゃないか、とむきになったのは宋万の方だった。終始、林冲は涼しい顔をしていた。
遠ざかる林冲の足音を聞きながら、宋万は呆れていた。途方もない強さだ、と心の底から感服した。同時に、自分自身の不甲斐なさに呆れた。自分は強くなどなかったのだと思い知った。
「連携が取れていない。到底、軍とは呼べん。姿勢も、基礎から直す必要がある。だが、筋は悪くない。鍛えろ」
独り言のように呟いた。そこには悪意も侮蔑もなかった。漸く、宋万は林冲という女の人となりを理解した。嘘がないのだ。それか、嘘を吐けないのかも知れない。酷く口下手で、純粋だ。
宋万は忽ち、この不愛想で、妙な風体の女が好きになってしまった。
惚れた。
瞬時にそう思った。唐突に、猛烈に激しい感情が襲ってきて、何が何でもその無粋な付け髭を剥ぎ取って、素顔を拝みたいと思った。同時に、自分の実力ではそれを実行に移せないという事も、わかっていた。
「待ってくれ」
縋るように叫んだ。林冲が足を止める。振り返る。横顔が見えた。真っ直ぐに立っている。素晴らしく安定した姿勢だった。
「俺たちに、稽古を付けてくれないか。武術を習おうにも師が居ない。今まで、見よう見まねでやってきた。まともに心得のあるのは俺だけで、しかもこのざまだ」
ふ、と微かに林冲が笑った。口元はわからない。目が優し気に細められる。
「いいだろう。全員、殺す気でやる」
付いて来れるものなら、付いて来い。そう言っているようだった。噂は聞いている。精鋭揃いの禁軍の中にあった時でさえ、林冲は度々、調錬で部下を殺したらしい。
無自覚な天才なのだろう、恐らくは。自分がずば抜けて優れているとは思っていない。無垢で、残酷だ。背筋が冷えた。とんでもない烈女だ。悍婦だ。けれど、恐ろしいほど魅力的だ。
他の奴らが男だと信じて疑わないのが、どうしてなのかわからない。どこをどう見ても、極上の女ではないか。
誰も気付かないのを良い事に、林冲は花の風情を隠す事なく、撒き散らす。威圧感でかき消されてしまうそれを、宋万だけが嗅ぎ取った。
とんでもない女だ。面白そうな女だ。だから、林冲の入山を渋る王倫を、杜遷や朱貴と共に説得した。
初めて見た時から、惚れていたのかも知れない。
すぐさま立ち上がった。飛び起きた。林冲の体を頭の天辺から爪先まで眺めると、芯から欲が湧き上がってきた。抱きたい、と思った。折れそうな細い腰を、薄い身体を組み敷いて、解いた黒髪を指に絡ませて、絹の肌を味わいたい。不格好な付け髭に隠された唇を吸ってみたい。鎧を剥ぎ取って、無骨な男の衣服を奪って、あの英傑を女にするのだ。それは酷く甘美な想像だった。そしてもしも、もしもだ。林冲が自分を愛するようになったなら、どんな心地がするだろう。
宋万は、生まれて初めて、ここまで強く女に執着した。今までに何人かの女は、抱いた。何れの女も、どんな顔をしていたのかまるで思い出せない。林冲だけが、鮮烈だ。あれを手に入れなくては、生きている甲斐がない。そう思った。
考えるよりも先に、体は前に進んでいた。立ち上がらねばならない。何度打ちのめされても血を吐こうと、立ち上がって強くならねばならない。
林冲よりも強い男は数える程しか居ないだろうが、林冲よりも弱い男など、砂漠の砂の一粒のようにしか思われないだろう。自分は、弱いのだ。だから、強くならねば話にならない。
天稟はないのかも知れない。だが、手を伸ばさなくてはならないのだ。
「来い、宋万」
徒手のみで充分だ、と林冲は言った。
初日は、遊ばれただけだった。赤子の手を捻るように、林冲は宋万を翻弄した。全ての動きに無駄がなく、素早い。目で捉える事すらできなかった。負けて負けて、負けた。惨敗だった。歯が立たなかった。
翌日からは、部下も加わった。
一人一人順番に稽古を付けて貰ってから、共通の課題とそれぞれの調練を言い渡された。部下の内半分は途中で倒れた。倒れた者は、放置された。倒れそうになると、林冲に蹴り飛ばされた。宋万も、腹に一発貰って、胃液を吐いた。
殺してやりたいと思ったが、すぐに立ち上がってみせた。
林冲の調錬が余りにも激しく苦しいので、宋万は林冲を憎んだ。愛しているというのに、憎んだ。そんな事は知りもせず、林冲はひたすらに厳格な師範であり続けた。体を壊す者も出た。林冲は、途中で付いて行けなくなる者が出ようとお構いなしだった。ただ、逃げ出す者は一人も居なかった。例え今日倒れたとしても、次の日には必ず戻ってきた。林冲は、昨日の事など何もなかったかのように、弱った兵にも他の者と同じだけのものを求めた。
知らない筈がない。証拠に、完全に手足の腱や骨が壊れないよう、立ち合いの時に故障した場所を狙ったりはしなかった。やがて、宋万は慣れた。
慣れると、驚くほど体が軽くなった。幾ら駆けても、もう苦しくはなかった。疲労して手足が動かなくなっても、頭の芯は冴えていた。いや、違う。判断力は落ちていたから、きっと心が強くなったのだろう。そうなると、林冲を憎む気持ちは消えた。ふと、無口な女が何を考えているのかと思った。答えは出ていた。宋万にはもう、わかっていた。
信じているのか、俺たちを。
確信した瞬間、涙が頬を濡らした。褒められた事など一度もない人生だった。両親からも、褒められた記憶はない。王倫には褒められもしたが、口先だけだ。生まれて初めて、他人から認められたのだと思った。
林冲は、信じていた。宋万と、その部下五十名。誰一人として、苦しいからという理由で逃げ出すような男ではないと、信じていた。言葉などいらない。林冲の背中はそう語っていた。細い体の何処にそんな強さがあるのか。
格が違う。そう思った。自分に釣り合う女ではないとも。
だが、諦め切れるものではなかった。
調錬をしている間も、王倫は林冲を排除しようと、躍起になっていた。幾度か、暗殺などを仕掛けられたりもしていた。
一度、夜に部屋を訪ねると、生首をぶら下げた林冲が居た。軍袍の袖が紅く染まっていた。ぞっとするほど、美しかった。
「大丈夫か」
聞くと、林冲は皮肉るような笑みを漏らした。
「これで俺が殺せると思うか?」
挑むような口ぶりだった。幾らでも切って捨てる、という意味だろう。この事は黙っていろ、と言われたので、宋万は何も知らないふりをした。
表立って王倫が林冲を邪魔なものとして扱う事はなかった。
恐らく、杜遷が王倫を諫めていたのだろう。宋万と杜遷はどうしてなのか、性格は似ていない癖に、お互いをそれなりに気に入っていた。なので、杜遷が林冲を気に入ったのは何の言葉を交わさずとも分かっていた。
杜遷は、王倫ではなく林冲に仕えたいと思っている。
最早、首を挿げ替えるしかなかった。
軍袍の女王として、林冲が梁山泊に君臨する。宋万は夢想する。だが、どうにもしっくり来ない。なんだか気持ちが悪いのだ。
ふとそんな事を考えていると、王倫の遣いから、兵を全て貸すように、という命令が届いた。梁山泊の一員として、林冲が働く。その働きとは軍の荷を襲うというものだ。
軍、というのが問題だった。物資は、青面獣の字を持つ楊志が運んでいるという。殿司制使の位にあって、恐ろしく強い。腐った国の腐った軍の中では珍しく、まともな軍人だった。危険過ぎる。
王倫は、林冲を楊志と闘わせて殺す気なのだ。数千の兵に囲まれた正規軍に、梁山泊の兵で勝てる訳がない。おまけに、宋万は林冲の指揮する兵の中には数えられてはいなかった。林冲を殺した後は、今まで通り宋万を使うつもりなのだろう。腹の内が燃えて、火でも付きそうなほどだった。
迅速な行動を好む林冲は、既に自分の選んだ数名の兵を連れて出発していた。
まず、馬に乗れる二十人を選んで馬で先に行き、その後を三十人の歩兵が追っていた。まだ、馬の調錬はしていない。宋万の隊以外に至っては、まともな調錬すらまだだった。だからだろう。林冲の判断は正しいと思えた。実力も性格も把握している兵を選んだのだ。
周囲の制止も無視して、向かった。
馬に乗るのは余り得意ではなかった。残っていたのは良い馬ではなかったし、宋万は大柄だ。疾走すると、馬は疲れてしまう。それでも、追い付きたい一心で全速力を出した。
軍と闘う為なのか、それとも林冲の元に行こうとしているのか、わからなかった。兎に角行かなくてはならないという思いがあった。
到着すると、林冲の率いた騎馬が、物資を運ぶ車の列を分断していた。切り離された後方を残った歩兵が攪乱し、林冲と騎馬数騎は前方に向かう。先頭に居る立派な具足を付けた男が、楊志だった。精悍な顔の半分を、青痣が覆っている。青面獣という字に得心がいった。
「豹子頭、林冲殿と見受ける」
「いかにも、俺が林冲だ。そちらは、青面獣楊志殿で間違いはないか」
楊志は、驚くほど冷静だった。軍人というには、意外なほど穏やかな目をしている。言葉遣いも丁寧だった。ただ、目の奥には冷たく光る刃のようなものがある。
「積み荷を、置いて行って貰おう」
「断る」
楊志が宝剣を抜いた。
林冲が槍を構えた。
ほんのひと呼吸置いてから、二人は馬上で刃を交わした。林冲の槍を、楊志の剣が払う。楊志の斬撃を縫って、林冲が突きを繰り出す。どちらも、真っ直ぐに相手の首を狙っていた。
見ていて、呼吸を忘れるような名勝負だった。
林冲は、笑っていた。楽しくて仕方がないのだろう。
宋万は思わず、楊志と結婚した林冲を想像してみた。美男美女の夫婦で、似合いだろうと思えた。自分では、駄目だ。あんな楽しみを提供してやれない。きっと楊志ほどの男なら、毎日でも林冲と互角に立ち会ってやれるだろう。いつかは、林冲が楊志の子を産むかも知れない。必ず、武人になるだろう。
敵同士だというのに、不思議と宋万には林冲と楊志が肩を並べ、背中を預け合う未来が見えた。伺っていると、林冲だけでなく、楊志もどこか浮かれているようだ。優れた軍人であっても、腐った軍では埋もれるしかないのだろう。
全力を出すべき相手に出会って、歓喜している。そのように見えた。
一刻も打ち合って、林冲が楊志を押し始めた。楊志の息が上がっている。原因は、馬だった。武術の腕は互角だが、馬術は林冲の方が上だ。人馬一体というのか、林冲が馬を自分の体のように使っているのに対して、楊志は馬を馬としてしか使っていないように見えた。
そこが、勝負の明暗を分けた。
楊志の手から宝剣が飛んで、地に落ちた。槍の穂先が喉元に突き付けられる。皮一枚を侵して、一筋血が流れる。 林冲と楊志は、睨み合っている。
「宋万!」
不意に、名を呼ばれた。我に返って、宋万は林冲の傍へと駆けた。
「歩兵に荷を持たせて引き揚げろ。お前が指揮を取れ。俺は後から追い付く」
命令通り、宋万は兵を率いて梁山泊へと引き上げた。宋万自身が殿を務め、林冲と楊志の様子を窺った。言葉を交わしている。時間稼ぎなのだろうが、楊志が大人しくしている。槍の前に、楊志は首を差し出した。だが、林冲は素早く馬を反転させ、走ってきた。
「逃げるぞ、宋万」
「いいのか?」
仕留められたというのに。首を落とせと望まれたというのに。
「俺は、あいつが気に入った。またやり合いたい」
呵々大笑。林冲はご機嫌だが、その顔に色気はない。豪気な奴だ。あんな美丈夫を、袖にしたのだ、この女は。
何故だか、敵を見つけた時にだけ陽気になる性格らしい。普段が堅いだけに、変化が目覚ましい。死も、命も、遊びに過ぎない。魂魄とはこうして燃やすのだ、と語るように。
贅沢な趣味だ。
林冲は、決して満足する事はないだろう。より強くより速くなりたい。自分を殺せるような敵が欲しい。
欲望に際限などはない。
凱旋する林冲の持つ願いは高潔だったが、王倫の欲望は暗かった。浅ましい、と宋万は思った。
王倫は手紙をしたためていた。宋万にはその内容はわからない。だが、林冲には読めた。
報告の為に入室した林冲は、書状の端を見て、言った。
「無駄だ」
王倫が咄嗟に紙を握り潰した。反応から、宋万にも内容は見当が付いた。
「そんなものを書いても、楊志はここには来ない」
断言した。絶句し、顔面蒼白となった王倫に、さもつまらなそうに報告をする。
「荷は奪った。怪我人は五名。死者はなし」
それだけを言い残して、林冲は出て行った。
興覚めだった。高揚した気分が消え去って、それを埋めるように、林冲は一人での鍛錬を始めた。槍を遣う代わりに、太い丸太を振るう。二刻ほど、目にも止まらぬ速さで、激しく。自身を苛め抜くように。透明な汗が、少し長い前髪に染み込んでは滴っていた。
見ていて、切なかった。
並んで、同じ目方の棒を振った。一刻もしない内に、腕が千切れそうになった。林冲は、黙って隣に居る事を許した。
殆ど師弟のような形になっていたが、宋万は林冲の耳の形に見とれていた。