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『女林冲伝』桝田珪赤  作者: 桝田珪赤
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第一話・荒野


林冲(りんちゅう)は、武人の父と病弱な母との間に生まれた。

産褥の床で母は鬼籍の人となり、男児を望んだ父は、娘を男として育てた。林家の冲。その男名が彼女の名前と人生だった。幼い頃から馬に乗り荒野を駆け、体が腐るほど修行をした。父の指導は凄まじく、死ねばそれまで、とでも言うようだった。

十三の年に、組み合いで父を倒した。槍では適う者はなく、愛槍を携えて日々を送った。愛も恋も知らぬ。そう考えていた。父は、地方軍の将校だったが、生真面目な性格が災いして汚職蔓延る軍内で出世はしなかった。また、本人もそれを望まなかった。

そんな或る日、父は無実の罪を着せられ処刑された。

役人に連行される直前、父は林冲に女物の着物を着せ、槍を取り上げて逃がした。簡潔な手紙一枚を持たせて、親戚の商家に行けと言った。ほとんど殺傷能力のない短剣だけを護身用に持たせて、馬に乗せた。乗り潰せという意味だ、と林冲は父の無言の意味を理解した。父は最後に言った。

「冲、今後一切の修行と、男装を禁ずる。行け」

生まれてから、女物の着物に袖を通した事などない。林冲は混乱した。

父が馬の尻を叩き、馬は走り出した。命令の意味を理解して、林冲は一昼夜、駆けた。夜を駆けて馴染んだ荒野に涙だけを捧げて故郷を捨てた。

父は、自分を守ろうとしたのだ。

誰も林冲が娘だと知らない。息子だと思っている。罪人の息子となるな、全く別の娘として生きよ、という意味なのだ。林冲は初めて、父の愛を知った。そして、彼が娘に授けられるのが武術だけであったと知った。男児を望みながら後添えを取らなかったのは、亡き妻と娘への愛情だったのだ。

馬が潰れると、頭を撫でてから捨てた。仔馬の頃から育てた、初めての自分の馬だった。馬を捨てて歩いた。喉は渇き腹は減った。夜盗が出れば、殺した。返り血が袖に付いた。林冲は、父に庇護されていた自分を捨ててゆくのだ、と感じた。生きてゆくのに必要な力は、全て備わっていた。

目的の商家は、繁盛していた。豪奢な建物だった。

林冲は無表情のまま、袖を血で汚した女のなりで戸を叩いた。遠い親戚だという家の主人は、林冲が汚れているのを見て顔をしかめた。彼らは平和な街で暮らすが故に、乾いた血がなんの汚れであるかわからなかったのだ。武術など、商家には不要なのだ。

遠い親戚の耳にも、林冲の父が処刑されたという噂は耳に入っていた。そして、それをひた隠しにした。商売に影響があっては困るからだ。林冲は、下女という事になった。お前は一切口を利くな、と言われたので一言も声を発せずに過ごした。どんな仕事でも黙ってやった。仕方のない事と感じたからだ。

日に何度も水汲みに行かされたが、体力があったので苦痛ではなかった。唯一、飯が少ないのだけは苦しかったが、耐えた。幾らでも食べられた事が幸福だったのだ、甘やかされていたのだ、と思った。生きてゆく事はそれ自体が修行のようだ、とも。

二年、そうして過ごした。林冲は十五になっていた。

襤褸を纏っていたが、林冲はうつくしい顔をしていた。母に似た精巧な面差しに、父に似た強い意志を宿した瞳が、容姿に加えて大きな魅力となっていた。野生の美があった。綻び始めた花の風情で、黙っているのが却って存在を際立たせた。誰も彼も唖であると思って遠巻きに見ていたが、美貌は噂になった。

口の利けぬ美しい娘が居ると聞いて、役人がやって来た。林冲の顎にでっぷりと太った手を掛けて、妾にして囲うと言った。商家の人間は、喜んで林冲を差し出した。

最初は仕方がない事と思っていたが、引き渡されるその前夜、壮絶な嫌悪がこみあげてきた。

役人が、父を殺したのだ。

別人ではあったが役人など、どれも同じだ。自分の私腹を肥やす事しか考えていない。そんな男の愛人になる?女として生きろというのは父の望みだった。しかし、あんな男の愛人になって生きる?冗談ではない。

妾になるという事は、男を主人と定めるという事だ。笑わせてくれる。あんな男、瞬きの間に殺せる。

湧き上がるのは憤怒だった。激情に任せて、林冲は自身の衣服を脱ぎ捨てると、仕舞ってあった下男の服を着た。長い髪を結い上げて、帯に父から貰った小刀を差した。厩から一頭、一番良い馬を盗んだ。そして夜の内に出奔した。

二年間住んだ街を離れて、荒野に出ると林冲は叫んだ。咆哮だった。

歓喜だった。全てから解放された気分だった。同時に、自分は女として生きられないと悟った。唯一幸福だったのは、故郷の荒野で槍を手に、馬で駆け回る事だったのだから。

長く、あてもなく旅をした。時々は腕の立つ盗賊や武芸者とも会った。闘った。

時々は体に傷を刻んだ。悲しみはなかった。

透けるような絹の肌に傷跡が残っても、単に自分の弱さの為だとしか思わなかった。街での二年間の間に幾何か女らしい丸みは付いていたが、放浪する内に削げた。身長は伸びた。痩身の青年としか見えない姿だった。林冲は、これが本来の姿だという気がしていた。

三年、彷徨った。

ある街で、少女に会った。華奢で小柄な、牡丹の花のような少女だった。林冲よりも一歳年下だった。

張蘭(ちょうらん)といって、はっと息を呑むほど美しかったが、彼女は誰とも結婚したくないのだと語った。

「林冲さまは私を口説かないのね」

「ああ」

「だから言うのだけれどね、私、男が怖いのよ。女の方がずっといい」

張蘭は、豊かな商家の一人娘だった。林冲が世話になっていた店とは比べ物にならないほどの家で、張蘭には縁談が山とあった。出会ったのは、林冲が路銀を稼ぐ為に、日雇いの下男兼用心棒として張蘭の居る店に雇われたからだ。その内、退屈した張蘭の方から勝手に話し掛けてきた。

「そうか、それは大変だな…」

こんなに美しければ、結婚しないままではいられないだろうな、と林冲は同情した。

「どうしてかしら、林冲様は嫌じゃないわ。もしかしたら、旅立つ時に私も連れて行って、と言ってしまうかもしれない」

「いいとも。ただし、苦労するぞ」

「恋してるからかしら?」

張蘭が言った。

「わたし、あなたに夢中なの。不思議ね。男など、大嫌いなのに」

「張蘭、私は女だ」

どうして告白する気になったのかはわからない。だた、まるで在りようは違うが、張蘭と自分は似ている、と林冲は思った。

「嘘を吐いていて、済まない。恋が無駄になってしまったな」

「いいえ、無駄な恋など、一つもありませんわ。けれど、林冲様は誤解されてますわ。私、相変わらずあなたに恋してますもの」

自分も、恋をした、と林冲は思った。張蘭の微笑みが、とても尊いものだと思ったからだ。勇敢だと感じた。もっと張蘭と一緒に居たいと思った。

「張蘭、結婚しよう」

何も考えずに口に出した。

「私は読み書きができる。腕に覚えもある。武挙を受ければ、きっと受かるだろう。そうすれば、この結婚も許される筈だ」

とんでもない提案だった。今までは放浪していたから、女と知れずに済んだのだ。それが軍になど入ったら、大勢の人間と行動を共にする事になる。

もしかしたら、張蘭だけでなく、自分を救いたいのかもしれないと林冲は思った。たとえ女として異端であっても、望むように生きられるという事を、証明したかったのかも知れない。

仲間に選んだのが張蘭だった。それだけだ。

「私には、恋が何かもわからない。けれど、求婚する事を許して欲しい」

張蘭は林冲の手を握って、頷いた。

「私は、あなたの傍に居られるというだけで幸福です。林冲様」

一年の後、林冲は武挙に通った。性別を隠す為、顔には付け髭を付けて隠した。白皙の青年で通せる歳ではなくなっていたので、丁度良かった。その槍の腕が買われて、禁軍の武術師範となった。

張蘭に求婚すると、張蘭の父はあっさりと許した。張蘭も大喜びで嫁いできた。両手を広げて胸に飛び込んできた、花嫁衣裳の張蘭が涙を流して喜んでいた顔を、林冲は一生忘れないだろう。

穏やかに日々は過ぎていった。

林冲は自宅でだけ素顔を晒した。張蘭は帰宅する林冲を労り、その素顔に接吻した。

一緒の寝台で寝る日もあった。女同士で手を繋いで眠る夜は酷く甘美で、張蘭の気持ちに恋心で応えられない事が苦痛と感じるほどだった。

そうして、一年が過ぎた。林冲は二十歳になっていた。その武術の腕と調錬の激しさから、豹子頭(ひょうしとう)と呼ばれるようになっていた。幾つか賊を討伐する戦にも出た。

こうして老いてゆくのだ、と思うと、心が安らいだ。唯一、父の望みであった女として生きるという事だけは到底出来そうになかったが、仕方がないとも考えた。不思議と、林冲は自分が男だったら、と考えた事がなかった。そして、それは張蘭の為にも良い事だったのだと考えた。

だが、或る日その日常は終わった。唐突だった。家に帰ると、張蘭が死んでいた。自ら、喉を裂いて死んでいたのだ。手には、林冲が父の形見として仕舞っていた小刀が握られていた。血だまりの中に、青ざめた顔が沈んでいる。訳がわからなかった。

すぐに、誰の仕業かはわかった。高俅だ。

太尉・高俅(こうきゅう)。悪名高い男だ。宮中で権力を欲しい儘にしている。その男が、張蘭を見初めて、無理に迫ったのだという。以前から言い寄られていたのだと、噂に聞いた。それをぴしゃりと跳ね除けたのだとも。林冲はそんなことは一つも知らなかった。恐らく張蘭は、林冲が高俅の逆鱗に触れて反逆者とされる事がないよう、守ったのだろう。林冲は愕然とした。

張蘭の体には、辱められた跡があった。破瓜の血と男の精が衣服に滲んでいた。

張蘭は、男が恐ろしかったのに。

辱めを受けた自分を林冲に見られる事を恥じて、自ら命を絶ったのだ。いつも父の形見なのだと林冲が大切にしていた小刀を握った時に、張蘭はどんな気持ちでいただろう。

葬儀を終えて、一人になった部屋で、林冲は泣き叫んだ。女の泣き声だった。大声を上げて叫んだせいで、喉が潰れた。

三日、泣き暮らした。

四日目には、林冲は槍を握っていた。何人もの人間が制止し、立ち塞がる中を突き進み、高俅へと切っ先を向けた。数十人が林冲の手足にぶら下がっていた。

それでも尚槍を翳す事の出来る林冲に、誰もが絶句した。投げれば、高俅に槍の届く距離にまで林冲は迫っていた。

「高俅!お前は許さん!その首、俺が取ってやる!覚えていろ!俺がお前の首を取る!覚えていろ!」

もしも、腕にぶら下がっている衛兵の数がもう一人少なかったのなら、高俅の首を獲っていたかも知れない。

その一人分の力が、運命を分けた。

投獄された先は、地下牢だった。食事もろくに与えられず、口にするのは天井から滴る水滴だけだった。辛うじて命を繋いでいたが、誰もが恐れて近寄ろうとさえしなかった。それが幸いして、体に触れられる事もなかった。数日間放置されている内に、汚物を垂れ流しにしていたので猶更だった。

牢から出される時に、やっと粥を貰った。

わけがわからぬまま、ふらつく足で歩かされた。兵士は馬だったが、林冲は歩きだった。遅れそうになると、首枷の鎖を引っ張って転ばせてくる。裸足の脚は皮膚がすぐに破れた。秋口だったので、枯れ枝が沢山落ちていた。幾つかは刺さったので、夜眠る前に抜いた。

流刑にされたのだとその夜に気付いた。

幾日も歩いた。岩山もあった。船にも乗った。足跡は血の跡になり、目は霞んできた。

幾度目かの夜に、男が来た。知らない男だった。

「俺は、豹子頭林冲が護送されていると聞いてきたのだが、違ったのか?」

「…何者だ」

魯智深(ろちしん)花和尚(かおしょう)とも呼ばれている。女、お前、林冲という男を知らないか」

「俺が林冲だ」

林冲は、魯智深という坊主を信じられない思いで見上げた。体を丸めて横たわる林冲を、大男が見降ろしている。澄んだ目をしていた。女と見破られたのが信じられなかった。

「ほう、そうか。豹子頭とは女だったのか。それでだ、林冲、お前、困っているのではないか?」

「何がだ」

「気付いていないのか。股に血が滲んでいるぞ。このままでは、護送の奴らに知れるぞ。お前はそれでは困るのではないか?」

「何が狙いだ」

「高俅を殺したいか?林冲」

高俅、という名に、一気に意識が浮上した。烈火のような怒りが、腹の中で渦巻いている。

「役人が憎いか?」

更に畳みかけるように、魯智深は続ける。

「国が憎いか?張蘭を殺した高俅が憎いか?腐敗しきった官僚が憎いか?ならば、打ち砕け。俺に従え。正確には、俺の信ずる人に従え。女だろうが何だろうが構わん。その力を我らの為に使え。それで、お前も仲間になる」

「俺に何をさせる気だ」

「一旦、流刑を受けろ。滄州の牢に入ってからこれを破り、梁山泊(りょうざんぱく)に行け」

梁山泊の名は聞いた事があった。大きな泉に浮かぶ島に築かれた、賊徒の城だ。反徒を名乗ってはいるが、軍に手出しをした事がないというので、放置されていた筈だ。

「義理はない」

「いいのか?布ぐらいなら貸してやるぞ」

股から血を垂れ流して歩くつもりか?と魯智深が聞いてくる。わざと癇に障る言い方をしているのだとわかった。

「それに、俺はお前の奥方が喉を裂いたという獲物も持って来ている。丸腰だろう?ああ、そうだ。恐らく、明日辺りに高俅の刺客が来る。俺の仲間になるなら、布とこいつを渡してやる」

「わかった。従おう。お前が誰だかはどうでもいい。さっさと張蘭の形見を寄越せ」

「なんだ、意外と素直じゃないか。豹子頭林冲。奥方の形見を苦労した甲斐があった」

言うと、魯智深は林冲に一反の布と、父の形見であり張蘭の死因となった小刀を差し出してきた。間違いなく、本物だった。

血の処理をしてから、余った布をぐるぐると腹に巻き付けた。小刀も、それで体に巻き付けた。布の量を見ると、たまたま持っていたというのではないだろうから、恐らく魯智深は最初から林冲が女だと知っていたのだろう。 戻ってみると、既に魯智深は居なかった。今夜はもう来ないだろう。

翌日になって、日が暮れてから本当に刺客がやって来た。手練れではなかった。林冲が丸腰だと油断していたようだ。体術だけでも倒せる相手であったので、小刀は抜かなかった。そうしておいた方が良いと判断した。

数日後、役人である柴進(さいしん)という男の遣いを名乗る男が現れて、兵に賄賂を渡した。

遣いと名乗る男は、自分は紫進様と魯智深様に頼まれて来たと耳打ちをした。賄賂は支払うので、牢での扱いは酷くはならないだろう。定期的に銀を届けさせるので役立てて欲しい、と告げた。

柴進というのは、どうやらほかの役人とはまるで違うようだ。

銀を渡すと、待遇は見違えるほど良くなった。

それまで家畜のように扱われていたのが、少なくとも人間として扱われるようになったし、食事も、粥だけではなくなった。時には、残り物ではあるが肉や野菜なども与えられるようになった。馬に水をやる時にも、同じように水を飲む事が許された。

牢に入ってからも、快適に過ごした。身体検査なども銀を渡せば避けられたので、小刀の持ち込みも容易だった。林冲には独房が与えられ、自由な時間は静かに過ごせた。食事も、質素ではあったが不味くはなかった。

半年、牢の中で過ごした。

刺客は、看守としてやって来た。手練れだった。陸謙(りくけん)と名乗る男とその部下数名。林冲が野外で刑務をしている時を狙ってきた。その全てを、林冲は殺した。腕と脚に傷を負ったが、命に関わるようなものではなかった。

張蘭の死からも立ち直り、体も十分に体力が戻っていた。魯智深との約束通り、林冲は牢を破り梁山泊へと向かった。



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