1-3
街は、警鐘が鳴り響いていた。
人々は、取るものとりあえず、北へ北へと避難していく。
その流れに逆らって、クイたちは、南へ南へと走った。
街を抜け、麦畑の農道を走り、ひたすら軍将の背中を追いかけるうちに、どこにも人影が見られなくなった。代わりに、南からの風に、ねっとりとした感触の瘴気がまざりはじめ、クイは走りながら、だんだん膨らんでいく不安をぎゅっと内に押し込めた。
(もう、領地内の濃度じゃない。)
瘴気は、色も匂いもない。
けれど、瘴気の濃度が上がれば上がるほど影響がハッキリ現れる。
例えば、農作物なら、濃度に反比例して、収穫量が落ちていく。
ウテリア領は、その悪循環の中にいた。
収穫量が落ちれば、領民は貧しくなり、ウテリア領の財政は傾く。財政が傾けば、結界や障壁にお金をかけられなくなる。すると、また瘴気の濃度が上がって、収穫量が落ちる。そして、最後には、魔獣によって障壁が破られるのだ。魔獣に蹂躙されたウテリア領土は、一瞬で外界に沈むだろう。
(ウテリア領の結界を直さなきゃ。)
クイは足を速めた。
(障壁を破られる前に結界を直さなければ、ウテリア領がなくなってしまう!)
★
結界を強めるには、まずは領礎結界石に術力を込めればいい。
領礎結界石とは、領の基礎となる大きな結界石の事で、たいてい障壁の近く、ウテリア領では最南部にある社の中に収められている。その社は、民家と造りが違うため、すぐに見つけるとこができた。一メートルほど床を上げた、小さな小さな建物だ。
「私は、あちらに。」
「わかった、頼む。」
クイは、軍将と別れると、一人で社の五段ある階段を一気に駆け上がった。
社の入り口は、両開きの扉ひとつきりだ。
それを勢いよく、
ばん!
と押し開ける。と、薄暗いその中に、男性のシルエットが見えた。
(え? 結界士?)
まさか結界士がいるとは思わなかった。
結界士のローブを着た若い男性もまた、クイの登場に驚いて、
「わっ。」
と振り返る。クイは慌てて、
「クイ・ルルトです!」
と名を名乗った。
「おおっ。」
振り返った男性は、それだけですべてを察したようだった。
「待ってたぜ! 俺はヒューっていうんだ。一応、結界士長だけど、そういうの別にいいからさ~。」
「そういうの?」
理解しきれない間にも、結界士長ヒューは、クイの横を通り抜けていく。
「じゃ、あとは任せたぜ!」
「……は?」
何を任されたのか、問い直そうとしたときには、もうヒューはとび出していた。
クイを残して、扉が閉まる。
その扉の向こうから、
「俺は、瘴気にあてられた人がいないか、見回ってくるよ~。」
と、遠ざかる声が聞こえてきた。
「……ええ? ……非常時に結界士長が、ここを離れる?」
クイの感覚が正しければ、ヒューはかなり非常識だ。
(もしかして、アイツさえ、ちゃんとしてたら、ここまでひどい有様にならなかったんじゃない?)
そう思ったが、クイはそれ以上考えるのをやめた。
今は、ヒューの事より、魔獣の襲撃を阻止する方が先決だった。
★
社は、どの領地もほとんど同じ造りになっている。
出入り口はひとつ。三方に窓はなく、上部に明り取り用の窓が二つ取り付けられているだけで薄暗い。中は狭く、四・五人も入ったら息苦しくなるような広さしかない。
その正面に、領礎結界石が祭られている。
領礎結界石は、直径一メートル弱の美しい球体の石だ。石といっても、中は液体のようなもので満たされていて、ほのかに発光している。また、外からの術力に反応して色合いが変わるため、まるで生きているかのようだった。実際、結界士は、この領礎結界石と会話をしながら、結界を守っている。会話に用いるのは言語でなく術力だが、それ以外、領礎結界石は、領地の歴史を一番よく知っている老齢な結界士に等しかった。
クイは、ウテリア領の領礎結界石に、そっと手を伸ばした。
わずかに触れただけで分かる。
(……若い。)
ウテリア領の結領礎結界石は、かなり若いものだった。もしかしたら年を重ねて崩壊寸前かもしれないと危惧していたが、どこか傷ついている様子もないし、力を失っているようでもない。
クイは、ほっとした。
領礎結界石の修繕は、上級結界士以上の能力が必要になる。
クイは、下級結界士でしかないので、修繕の必要がないのは助かった。
では、なぜ、あんなに結界が弱ってしまっているのか。
クイは、とりあえず結界の力を強めようと、領礎結界石に術力を込めた。
集中力を高めて術力を注ぎ込むと、吸い込まれるような不安定な感覚に襲われる。
(ああ、そうか。)
このとき、クイは、領礎結界石を通して、ウテリア領の結界の実情を理解した。
結界は、領礎結界石と、領内に張り巡らされた結界柱とが共鳴することで形成している。領礎結界石に問題がないのに、結界が弱っている理由は、どうやら、その結界柱に問題があるようだった。たぶん、結界柱が地脈の位置と合っていないんだ。地脈は、ときどき地殻変動で流れを変えてしまうから、そのたびに結界柱はその位置を刺し直さなければならない。
(なんだ、結界柱を直すだけでいいんじゃないか。)
それぐらいなら、クイにもできる。
(よし!)
クイは、さらに術力を込めた。
領礎結界石が、クイの術力に反応してオレンジ色に発光し、薄暗かった部屋が一時的に真昼の明るさになる。これで、この辺り一帯の瘴気は浄化できた。結界柱と共鳴できなくても、領礎結界石の力があれば、この辺りの瘴気を浄化することはできる。瘴気がなくなれば、すぐそこまで来ている魔獣の群れも、清浄さに気付いて帰っていくことだろう。
「ふぅ~。」
明るさの戻った室内で、クイは、安堵の息を吐いた。
(あとで、あの軍将に頼んで、結界柱の位置を直してまわらせてもらわなきゃ。)
そして、同時進行で、領主を引きずり出してふん捕まえる。
クイは、自分の計画が着々と進んでいることに嬉しくなった。
その時だった。
突然、パン!という衝撃があって、クイは驚いた。
領礎結界石に触れていた右手が、衝撃に痺れている。
(何?)
この衝撃は領礎結界石から伝わってきたものだ。
たぶん結界に何かあったのだろう。
クイは、右手をかばいながら、再び領礎結界石に触れてみた。領礎結界石の中に意識を流し込み、結界の力の流れに沿って、結界全体を見渡してみる。すると、地を這って西に伸びている結界が、途中でぷつりと途切れていることに気がついた。
(あ! 結界が破れてる!)
クイは慌てて、周りを見渡した。けれど、結界士長ヒューがいる訳でなく。
(まずい!)
クイは、社から飛び出した。
一秒でも早く、このことを誰かに知らせなければ。
そうしなければ、結界の破れ目から魔風が流れ込み、それに乗って魔獣が攻め込んでくる。この領内では魔獣が窒息死することはない。ウテリア領軍の主戦力が魔獣の群れと対峙している今、別の場所から魔獣が侵入すれば、領民たちは成すすべなく殺されてしまう!
(早くしないと。)
社の外にも人影は見つからない。
ちょうど詰め所の前に櫓が見えて、クイは、急いで櫓のはしごを登った。上からなら、誰か見えるかもしれない。ローブが邪魔だったが、脱ぎ捨てるわけにもいかなかったので、クイは腕の力で無理やり這い上がり、櫓の上に転がりこんだ。
ばっと顔を上げると、空気を介して戦闘の振動が伝わってくる。
(うわぁ。)
この櫓からは、ウテリア領軍と魔獣の戦いが見えた。
砂煙を上げ近づいてくる魔獣の群れと、それを迎え撃つウテリア領軍。
クイは息をのんだ。
兵は、十頭と言っていたが、それ以上の数の魔獣がいる。それも、三メートルを超える大型の魔獣ばかり。あれだけの数の魔獣に、ウテリア領軍の数は少なすぎる。
しかし、ウテリア領軍は一歩も退いていなかった。
一番足の速いダチョウ型のビンデラが突っ込んでくると、タイミングを見計らって、鉄の糸で編んだワイヤーが張る。すると、ビンデラは、次々に足を絡み取られた。すかさず本隊が止めを刺しに入り、次に突っ込んできたイノシシ型のムンガリには、十人ほどの隊を作って、集団で一匹ずつ倒す。一方で、後方からやってきたイモムシ型のハバリナには、弓隊が遠距離攻撃を仕掛けていた。ハバリナは、その背にいくつもの毒袋を持つから、これらを弓矢で破裂させておけば、接近戦も可能になる。
(すごい。魔獣の特性を知り尽くしているんだ。)
クイは唸った。
(何て見事な戦い方なんだろう。)
だから、この数で戦える。
これがもし、アムイリア領軍だったら、こうはいかなかっただろう。アムイリア領軍は、頭数だけは揃っていたが、ほとんど魔獣と戦った経験がない。現アムイリア軍将は外界での演習を増やして戦闘経験を増やそうと頑張っていたが、結界士の名家ルルト家が結界を守っているために、それもうまくいっていなかった。実際、アムイリア領の結界は、障壁の近くの外界ですら、魔獣を窒息させるだけの清浄さを保っている。こんな強固な結界があるのに、領軍の意識が変わるわけがない。
対して、ウテリア領は、結界は壊滅的だが、その分、ウテリア領軍が強かった。それぞれが集団の中での役割を理解していて、その役割を見事に果たしている。さらには個々の力も相当なもので、その最たるものが、あの軍将だった。彼がその大きな剣を振るうと、彼の何倍もあるムンガリが足を取られ、いや、その衝撃にはじかれ、ふっ飛ばされていくのだ。
並外れた力。鍛え上げた筋肉。戦闘センスに至るまで、彼は、クイの目を釘付けにした。
クイは今まで、これほどの剣士を見たことがない!
(まるで一騎当千じゃないか。)
クイに剣を教えてくれた先代のアムイリア軍将だって、これほどの強さはなかった。もしかしたら、今クイは、王国一の剣士の戦いを、目の当たりにしているのかもしれない。
(何て強いんだろう。)
嫉妬心すら生まれないほどの、桁違いの強さ。
(かっこいい……。)
彼の戦いぶりに、クイは心を奪われた。
が、クイは、緊急事態を思い出して、ハッと我に返った。
(いけない、結界が破れたんだった。)
今は、その結界をどうにかしなくてはいけない。
クイはもう一度、冷静に戦況を見た。
本隊はムンガリと交戦中で、じきにハバリナも合流する。もし、ここでクイが飛び出していったら、領軍の陣形が大きく崩れてしまうだろう。それに、あの軍将に頼んだところで、この領軍に、これ以上戦力を割く余力があるとは思えない。もちろん、破れた結界の修復も大事だったが、ウテリア領軍はここで負けるわけにもいかなかった。障壁の内側には兵の姿は見られなかったし、たぶん、あの本隊が最終防衛ラインなのだろう。あそこを突破されたら、魔獣は、一直線に避難所まで攻め入ってしまう。
(……なら、私が行こう。)
クイは、そう決断すると、辺りを確認して、ひょいと地面に飛び降りた。
幸いな事に、ローブの下には、男の物の服を着込んでいる。
あとは、適当に顔を隠すだけだ。
クイは、一旦、社に戻って、結界士のローブを脱ぎ捨てた。そして、祭事用の白い布を一枚失敬してそれを裂き、それをくるくると頭に巻きつけた。
視野は狭くなったが、これで正体がバレる心配はない。
(あとは、武器だ。)
愛用の剣は取り上げられてしまったから、どこかで武器を調達しなければ。
社の外にでると、詰め所は、やはり無人だった。
一階のホールの奥の武器庫が開け放されていて、そこに量産型の剣が何本か見える。
(お借りしまぁ~す。)
クイは、それを一本、無断で拝借すると、そのまま西へと駆け出した。
ドキドキとウズウズが止まらない。
たぶん、先ほど、領軍の素晴らしい戦いっぷりを見てしまったからだ。
クイは、そのウズウズをなだめるように足を速めた。
(急げ急げ!)
結界を直すだけでいい。
……それだけ。……それだけでいい、はずなのに。
(いやっほ~いっ!)
クイはもう、本末転倒な気持ちに飲み込まれていた。
(大型の魔獣よ! 出~てこいやっ!!)