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外に出てみると、とうとう雨が降り始めていた。
ここ数日、乾燥した日が続いていたからか、辺りは一気に湿気の匂いがたちこめている。オレリアスは、誰が使ってもいい傘を二本手に取って詰め所を出た。一本は自分用、もう一本はクイのための傘だ。
社の外には、クイの警備にあたっている兵が、皆、雨に濡れながら立っている。
オレリアスは、彼らに詰め所に戻るように指示してから、社の階段を登った。屋根があるところはごくわずかなので、扉に身を寄せて傘を立てる。すると、扉の奥から、
「ヒュー?」
とクイの声がした。
「……。」
これだけのことに、心がひやりとする。
普段なら気に留めないことなのに、まだ腹の中で怒りがくすぶっていたからなのか、自分のことより、ヒューを先に思い浮かべたことが、やけに腹立たしい。
「……。」
オレリアスは、何も答えないまま、社の扉を押し開けた。
「!?」
すると、床に腰を下していたクイが、オレリアスの姿に驚いて、とび上がるように壁際に逃げ出したではないか。何も、そこまで驚かなくてもいいのに。クイは、それほどまで、自分から離れたかったのか。
オレリアスは、そんなクイの行動に、
(嫌われたものだな。)
と、激しく落胆した。
どうしてこうなってしまったのか。
今も、何も分からない。
オレリアスがいくら心を尽くしても、クイは、オレリアスを嫌ったままだった。せめて、その理由を明らかにしてくれたらいいのに、クイは、オレリアスを避けるばかりで、ろくに話もしてくれない。
それに、彼女は、この四日間で著しい変化を見せていた。
初めて会った時に感じた幼さは、今はもう見つからない。代わりに、ときどきハッとするほど女らしい顔をする時があって、オレリアスは、その変化を理解できずにいた。
一体、初日の彼女は、どこに行ってしまったのだろう。
「……軍将様……?」
クイに問われても、オレリアスは、何も返事をしなかった。
クイの目は、あの男と同じ灰色をしていて、それを頭では理解しているつもりだったのに、それだけのことが、どうしても許せなかった。
(……あの男。)
外界を荒らし、今もウテリア領軍を翻弄し続ける、あの男。
オレリアスは、ずんずんとクイに近づくと、衝動的にクイの頭を鷲づかみにした。逃さないように両手でつかんで、クイの灰色の目を覗き込む。すると、ますます、あの目と同じ色に見えてくる。
あの目。
魔獣の上から、オレリアスをじっと見下ろしていた、あの目。
オレリアスは、その目を鮮明に思い出して、クイを掴む手に力を込めた。
一度沈めたはずの怒りが再燃する。
「……離して。」
クイが、嫌がってオレリアスの手を剥がそうとする。
その行動にも、オレリアスは腹が立った。
(逃げるな!)
罠を蹴散らして去って行った男。
怒りの炎に正気を焼かれて、オレリアスは、力ずくでクイの体を壁に押し付けた。そして、クイの頭を首から引き上げると、その唇に乱暴にキスをした。唇から伝わる彼女の震えさえ、強い力で押さえつけた。
オレリアスは、抵抗する気を失わせるつもりでいた。
彼女が少しでも、抵抗する力を弱めれば、解放してやるつもりだった。勝手な言い訳かもしれないが、それで気が晴れると思っていた。
だが、彼女は抵抗をやめなかった。
オレリアスを押し返そうとしたり、体をねじって逃れようとしたり、オレリアスの指を一本一本剥がそうとした。
そのうち、指先に生暖かい涙を感じて、オレリアスは、ハッとした。
(してはいけないことをした。)
オレリアスは慌てて、力を緩めた。
離れ際、彼女の視線とぶつかって、オレリアスは、息をのんだ。
彼女の瞳からは、涙があふれているのに、はっきりと拒絶の意思がある。
「出て行ってください。」
彼女は、かすれた声でそう言った。
こみ上げる感情に声がかすれていたのに、その言葉にもはっきりとした拒絶の意思が込められていた。
「……。」
オレリアスは、何も言えなかった。
何を言っても言い訳にしかならなかったし、自分が何に苛立っていたのか、それを説明するわけにもいかなかった。オレリアスは、混乱する頭で、どうすればいいのか、必死に考えた。しかし、何も浮かばないうちに、
「出て行ってください!」
と、重ねてクイに言われた。
他に、彼女の怒りを静める方法がない。
「出て行って!!」
悲鳴のような声に、オレリアスは社を出た。
外は、雨が激しく大地を叩いていて、その雨の当たらないぎりぎりのところで、オレリアスは、先にも後にも進めず、かといって、冷静にもなりきれずに立ち尽くした。
(今のは俺が悪いんだ。)
それは分かっていたが、それにしても分からない事が多すぎる。
(クイ姫は、どうしてあそこまで、抵抗するのだろう。)
戻らないという誓いを立てて、こんなに遠くまでやってきたはずなのに、彼女には、夫婦になるという覚悟がない。何事にも相性はあるだろうが、それにしても、見ず知らずの男性と結婚する覚悟をしてきたのなら、もう少し観念していていいのではないか。
(……分からない。)
雨音が激しくて、オレリアスの考えは進まない。
結局、とことんまで話し合うしか、分かり合えないのかもしれない。
(……謝ろう。)
ひたすら頭を下げれば、どうにかなるかもしれない。それに、謝るなら早い方がいい。
オレリアスは、社に戻ろうとした。
しかし、社の扉に手を触れようとして、オレリアスは、その手を止めた。
雨音に混じって、すすり泣く声が聞こえてくる。
(……。)
その声は、彼女の声だった。
彼女は、社の中で、声を潜めてすすり泣いている。押し殺した声は、痛々しいほど弱々しくて、オレリアスの胸を後悔が突き上げた。
(これが、俺のしたことか。)
オレリアスは、閉ざされた社の扉を見つめたまま動けなくなった。
さっきまで、彼女の覚悟が足りないと思っていた自分が情けなかった。
オレリアスは、扉を開けようとした手をきつく握り締めて、天を仰いだ。
(……優しくするつもりだった。……優しくするつもりだったのに、俺は、彼女を傷つけた。)
今さら、社には戻れない。
(……。)
オレリアスは、腹を決めると、扉を背に傘を広げた。
クイのための傘は、そのままにしておいた。
社から一歩踏み出ると、激しい雨が傘を叩き、オレリアスは、その圧力に押されて足を速めた。
頭上に響く、雨の音。
それは、言葉のない非難のように、オレリアスの罪を責め続けていた。