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一日目
クイは、木登りをしていた。
街道から少し離れた、小高い丘の上。
そこには、ちょうどいい枝振りの大木があって、クイは、この木を上へ上へと登っていった。下では、中年の侍女二人と初老の従者が、怒ったり宥めたりしながら、クイを下ろそうとしている。が、 クイは、そんなことお構いなしに枝を渡った。
(うわ~、綺麗~。)
青葉の隙間から、ウテリア領の全景が見える。
それは、北の森を源流とするウテリア川と、そのウテリア川が作り出した扇状地だった。蛇行して流れるウテリア川は、穏やかにウテリア平野を潤していたし、収穫前の麦畑は、風になびいて金色の海のように波打っている。北西の傾斜地は、低く手入れされた広葉樹が並び、あの濃い緑は多分、柑橘系の果樹園だ。蜜柑か、檸檬か。まだ実りの時期ではなかったが、それらの収穫を想像すると、興奮で胸が高鳴ってくる。
(私の領地、最高~!)
ただ、じっと目を凝らしてみると、そのすべてが理想的という訳でもないことに気が付いた。
たぶん、ウテリア領は、アムイリア領よりも数段貧しい。
大きな建物がある中心街は一つしかなく、領民たちは、粗末な民家で暮らしている。行き交う人の数も少なく、活気づいた場所もない。それに、南側に築かれている障壁がどう見ても低かった。横を歩く人と障壁とを比べても、高さも厚みもどちらも足りない。
いや、それだけじゃない。
クイは、大きく息を吸い込んで唸った。
(ここの空気。瘴気が混じっている。)
これほど瘴気が混じっていれば、魔獣は充分息ができる。つまり、瘴気を払うはずの結界があまり機能していないということだ。領地の守りは、障壁と結界が両方揃って、はじめて意味を成す。しかし、ウテリア領は、そのどちらも貧弱で危うかった。これでは、いつ魔獣の襲撃があるか分からない。
(……ま、だから、名家の令嬢が必要だったんだろうけど。)
そうやって考えると、ウテリア領が少し、気の毒になってきた。
貧しさのせいで、ろくな障壁も築けず、しかも、まともな結界も張られていない。そんな危機的状況で、領民の希望を背負ってやってきた名家の令嬢が、出来損ないのクイだったなんて。
(……う~ん。……ウテリア領って運が悪いな。)
クイは、慣れたように枝を降り、ある程度まで来ると、ザッと地面に舞い降りた。
「はい、お待たせっ。」
周りを見渡すと、侍女たちが、ぎっとクイをにらんでいる。
「もう! 誰かに見つかったらどうするおつもりですか?!」
「大丈夫だよ~。上からも見たけど、誰もいなかったもん。」
すると、侍女の一人が、荷物から結界士のローブを取り出した。
「なら、今しかありませんね!」
「わわっ。」
思わず身構えると、侍女の怒りに火が付いた。
「いい加減、結界士の格好をなさい!! あなたはルルト家の人間でしょう?!」
そう、そうなんだけど。
「あわわ。」
ルルト家は結界士の名家だ。
結界士は血の濃さがそのまま能力に現れるので、クイ以外は皆、優秀な上級結界士だ。彼らは、瘴気を浄化する能力と引き換えに、体質的に瘴気に弱いので、浄化作用のある銀の糸が縫い込まれたローブを、日常的に羽織っていなければならない。
けれど、ルルト家に生まれながら、クイはなぜか、瘴気に耐性があった。
出来損ないでも、一応結界士の端くれなのに、普通の人間としてみても瘴気の害に鈍感だった。不思議と、多少の瘴気なら、何の不調もきたさない。
そのため、クイは、早々にローブを着ることをやめてしまっていた。クイにとってローブは、「長い・重い・動きにくい」の三拍子そろった、ただの防寒具でしかない。
「……お、重い。」
せめて、銀の糸を縫い込まない、クイ専用のローブを作ってくれたらよかったのに。
渋るクイに、侍女が目を吊り上げた。
「これで、あなたの体格は隠せるでしょ?!」
「……はい。」
体格が隠せる上に、下に男物の服を着ていても分からないなんて。
現状、こんな便利なアイテムはない。
「ううう。」
「それから、その剣は寄こしなさい。」
「はうう。」
剣先がローブに当たるため、ローブを着ても剣はバレる。
「……あうぁ。」
未練がましい声を上げると、侍女は見かねて、その剣をクイの嫁入り道具の中に突っ込んだ。
「いいですか? もし荷物を見られたら、先代のアムイリア軍将の形見とでも答えるんですよ。」
「……はぁい。」
嫁入り道具の中から剣が出てくるのを想像して、クイは、よくできたいい訳だなぁと思った。
しかし、これで、クイは、丸腰で敵陣に向かうことになる。
正直、心細すぎて泣いてしまいそうだ。
(あ~あ、どうして私は、こんな風に生まれたんだろう。)
ローブの懐かしい重量感に、クイは改めて、自分の生まれを嘆きたくなった。
同じ家に生まれ、同じ両親の血を受け継いだのに、クイは、他の兄弟たちと同じではない。才能もなければ、体質も違う。本当は、クイも、兄弟たちと同じ苦労がしたかった。一緒に勉強して、励ましあって、立派な結界士に成長して、どこかの領地を守れたら……。
(……何をいまさら。)
ウテリア領に目を向けると、すっと心が落ち着いてくる。
(私は私。)
すでに選べる道はない。
(私はもう、上級結界士としては生きられないんだ。だから、剣士として生きるしかない。もう、とっくに分かってる!)