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「いいわよ~。」
「は~い、引っこ抜きます~。」
結界柱の差し替え作業は、簡単だが、いくらか危険が伴う。
結界柱は、地面から引き抜いてしまうと領礎結界石と共鳴できなくなってしまうため、結界に穴が開いてしまうのだ。もちろん、それはわずかな時間だけのことだ。が、このことを魔獣に気づかれると厄介なので、女兵長スフィアは作業中、障壁の外にいて、魔獣が近くにいないかを双眼鏡で警戒し続けてくれていた。
「終わりました~。次に移動しまぁ~す。」
「はいは~い。」
のどかな昼下がり。
結界柱の差し替え作業は、予定通り順調に進んでいた。十本以上差し直したあたりから、次第に空気が澄んできたのが分かる。クイは時折、風になびく麦の穂を眺めながら、
(あ~あ、もう少し早く来られたらよかったのにな~。)
と思った。
今実っている穂は、瘴気にあたっているため、安く買い叩かれてしまう。もし、クイが種まき前にウテリア領にやって来ていたなら、そんなことはなかったはずだ。農作物の商品価値も下がらなかったし、収穫量も何割か上がっていた。それを考えると、領民の暮らしが、いかに結界に左右されているかが分かった。故郷アムイリア領では当たり前だった結界が、領民の暮らしを安定させ、立派な障壁を築く事に繋がっている。
すると、スフィアが障壁を乗り越えながら、
「少し休まない?」
と言ってきた。
「ああ、ごめんなさい。疲れましたよね。」
「違うわ。私じゃなくて、あなたの心配をしているのよ。昨日来たばかりだというのに、あなたは、ちょっと頑張りすぎよ。」
「いえ、平気です。私、体だけは丈夫にできていますから。」
すると、スフィアは、ムッとして、農道の脇に腰を下した。
「そうじゃないわ。」
「?」
とにかく座れという事らしい。スフィアに促されて、クイも腰を下す。
「ねえ、クイ。私、前からあなたに言おうと思っていたんだけど。」
「なんですか?」
スフィアは、鋭い目をクイに向けると、
「その髪、見るに耐えないわ。」
と言った。
(んが!)
ここにきて髪の話?!
そういえば、年頃の娘がこんなに短い髪をしているというのに、ウテリア領に入ってから、一度も問われていなかった。今まで問われなかったから、気にもしていなかったが、よくよく考えてみれば、それは不思議なことだった。
年頃の、しかも嫁入り前の娘が、まるで未亡人のように髪を短く切り落としているなんて、普通なら二度見してしまうような珍しい事だ。
(ど、どどど、どうする?)
クイは、癖の強い髪を引っ張りながら、
「え、え~っと、こ、これは、気分転換って言うか、その、あの。」
と誤魔化そうとした。しかし、スフィアは、
「気分転換ね……。まあ、そういう言い方もあるんでしょうけど、その反応じゃ、私たちが知らないとでも思っているのね。」
と意味深な発言をした。
(え? ええ?)
「私たちはね、あなたのお父様から手紙で事前に知らされていたのよ。だから、ウテリア領の民は皆、あなたの髪の事を知っているわ。」
(あわわわ。)
クイがうろたえていると、スフィアは、大きくため息をついた。
「あなたの髪は、お母様が寂しい思いをしないように、お母様の墓前に捧げてきたんでしょう?」
(え? そうなの?)と声に出しそうになって、クイは口を押さえた。
「そして、もうアムイリア領に帰らない誓いを立てたって、聞いているわ。」
そうか、知らなかった。
どうやら、伸ばした事のないクイの髪は、今、母の墓前にあるらしい。もちろん、もう二度と帰らないつもりだと母には別れを告げてきたが、それを誓いと言ってしまえば、この髪も不自然に感じなくなる。
(うまいな~。)
父の事は何もかも嫌いだったが、こういう所は、自分より数段優れていることはよく知っていた。
一方で、スフィアは、我が事のように辛い顔で、
「私たちウテリアの民はね、この話を聞いて胸がつぶれる思いをしたのよ。」
と言った。そんな事を言われても、今更、父の嘘でしたとは、とても言えない。
「私たちはね、あなたに、使命とかそういった重圧を一度忘れてもらいたかったの。せっかくこんな遠方まで来たんだから、異領地の雰囲気を楽しめばいいのよ。……それなのに、あなたったら、初日から、可哀想なぐらい気負ってしまって。今日だって、あちこち歩き回って、無理ばかりしているわ。」
無理をしているつもりはなかったが、スフィアは眉を吊り上げて、
「もう自分を追い詰めるのは、お止めなさい!」
と、クイを叱った。
「クイ! あなたはね、誰と結婚したっていいし、どこに住んだっていいのよ。もし、あなたがこの結婚を嫌がっているのなら、私がすぐにやめさせてあげるし、あなたがアムイリア領に帰りたいって言うのなら、私が責任持ってアムイリア領まで送り届けてあげるわ。」
「……え?」
「そりゃあ、ウテリア領に定住してくれる方が、ウテリア領民としてありがたいけれど、それを決めるのは私たちじゃないわ。あなたよ。これは、他の誰でもない、あなたの人生でしょう?」
名家の常識を叩きこまれたクイには、何を言われているのか、すぐに理解はできなかった。でも、スフィアが心からクイの心配をしてくれている事だけは分かった。
「……わ、私、領主様と結婚します。……故郷に戻りたいとは思っていません。」
クイが小さな声でそう答えると、まるで、言わされているような響きになった。それを哀れに思ったのか、スフィアは、優しく微笑んで頷いた。
「大丈夫よ、ウテリアの民は、誰もあなたを責めたりしないわ。結界士だって、それぐらいの自由があってもいいはずよ。」
「……自由。」
それは、思いのほか新鮮な言葉だった。
能力の高い結界士は、自領地から出ることもままならず、定められた結婚を強いられる。それはクイの常識だった。なぜなら、結界士の能力が、血の濃さによって決まるからだ。親から子へ、結界士の能力は、遺伝によって受け継がれていく。そこに、結界士の能力を持たない血が混じってしまったら、結界士の血は薄まってしまい、やがて高い能力の結界士が生まれてこなくなってしまうだろう。そうしたら、この世に人の住める土地はなくなってしまう。この世界は、結界士の犠牲の上で成り立っていた。だからこそ、それを否定するスフィアの言葉は、クイにとって大きな衝撃だった。
(この人は、信頼してもいい人だ。)
スフィアの言葉なら信じられる。
クイは思わず、今まで胸につかえていた質問をスフィアにぶつけていた。
「あ、あの! ひとつ訊いてもいいですか?」
「? なあに?」
「りょ、領主様って、どんな方ですか?」
しかし、返ってきた言葉は、あまり意味のない言葉だった。
「領主? ……ああ、見たままよ。」
見たままと言われても、見ていないのだから分からない。
「……あ、あの、……スフィアから見たら、どんな方ですか?」
クイが質問を変えてみると、
「え? 私? ……そうね。」
と、スフィアは、ほんの少しの間考えた後、
「あほで、がさつ。」
と、吐き捨てるように言った。
(あ、あほで、がさつ!?)
ある程度の覚悟はしていたはずなのに、こうも汚物のように罵られると、ショックを隠しきれない。
「い、いい所は、ないんですか?」
思わず長所を求めてしまったクイに、さすがのスフィアも、
「いや、ごめんなさい。今のは忘れてちょうだい。花嫁の前で、花婿の悪口など言うべきでなかったわ。」
と、発言を撤回した。
「そうよね、結婚相手なんだもの、いい所が知りたいわよね。いい所、いい所、……いい所。」
それから、スフィアはかなり長い事悩みつづけ、そして、なぜか、次第に顔色が悪くなった。
「……いやだわ、私ったら性格が悪いから、人をうがった見方しかできないのね。」
「いい所、ないんですか?」
「違う違う、そうじゃないのよ。いい所はいっぱいあるわ。いっぱい、いっぱいあるのよ。」
「……。」
具体的にお願いします、という顔で黙っていると、スフィアは視線を泳がせた。
「……あ、ああ、私がダメなのよ。あのね、昔、ウテリア領にはすごく悪い男がいてね。……ああ、今はいないのよ、安心して……。で、私、そんな男を見ちゃったせいで、ちょっと男性不信なところがあるのよ。それに、私、男運なくてね。未だに、しょうもない男しか寄ってこないし……。ああ、だから、男性を見ると、すぐ粗探ししてしまう悪い癖がついちゃったの。……ほんと、私ったらダメね……。」
つまり、自分が悪いことにして、この話題から逃げたいらしい。
スフィアは嘘がつけない人だ。
そして、領主に褒められる点はないらしい。
(……ああ、やっぱり。)
ダメ人間確定の証言を得て、クイは最後の質問をした。
「……あ、あの、……もし、スフィアが領主様と結婚することになったら、どうしますか?」
その質問に、スフィアは秒で答えた。
「死んでも嫌!」