序
前日の雨のせいで、足元はぬかるんでいた。
抜けるような青空と濡れた新緑が、生き生きと輝いている。
湿気を含んだ冷たい風が丘を渡り、クイは、その丘の見慣れた墓石を見下ろして、
「母さん、来たよ。」
と呟いた。
早朝の墓地には、誰もいない。
真っ先に母に報告しようと勇んで来たのに、いざ、母の墓を目の前にすると、なぜか、思うように言葉が出てこなかった。たぶん、何もかもが突然だったからだろう。母に心配かけまいとすればするほど、言いたかった言葉が遠ざかっていく。
「あのね、母さん。」
少し考えてから、クイは言った。
「実はね、……明日、ここを発つことになったんだ。」
それを命じられたのは、つい昨日の事。
父は有無を言わせなかった。
今日一日で荷物をまとめ、出発は明日の朝。これがすでに決定事項で、クイの意見は通らなかった。
「それに、……私、結婚するんだってさ。」
それも昨日初めて聞いた。
「結婚相手は、オレリアスって名前の人でね。その人は、ウテリア領の領主なんだってさ。」
それは、全く知らない土地の、全く知らない人だった。
せめて、ウテリア領がどこにあるのかぐらい教えてほしかったが、それを問うことすら許されなかった。父が言うには、「従者が連れて行くのだから、お前が知る必要はない。」のだそうだ。
まったくもって、ひどい話だ。
しかも、この縁談には、さらにひどいオマケがついていて、ウテリア領に到着して一週間で、その領主と挙式をする事になっているらしい。
クイは、それを他人事のように、
「父さんが考えそうな事だよね~。」
と笑った。
つまり、この縁談は、「もう帰ってくるな。」という意味だ。
だいたい、こんな縁談を決めてこなくても、出て行かなければならない事は分かっていた。クイは、他の兄弟と違って出来損ないで、たった一人でルルト家の評判を落としかねない。くしくも、今年は姉や妹の結婚話が本格化する時期で、その前にクイを片付けねば、姉妹まで出来損ないだと思われてしまう。
よくよく考えてみれば、これは、よくできた縁談だった。
この縁談なら、自然な形でクイを追い出すことができるし、はるか遠方の地に追いやれるため、クイの悪評がアムイリア領に届かなくなる。
クイはおおむね、この縁談を了承していた。
父は嫌いだが、姉妹たちに迷惑がかかると思えば、それほど苦になる縁談でもない。
「あのね、母さん。私、いいことを考えたんだ。」
そう言って、クイは、腰の剣に手を伸ばした。
「ウテリア領主と結婚したら……。」
柄の感触を確かめてから、クイは、自信満々に微笑んだ。
「私、ウテリア領主を追い出してやろうと思うんだ!」
クイは至って大真面目だ。
もし、母が生きていたら「何て物騒な。」と狼狽えるような話だが、他に妙案が思いつかなかったんだから、仕方がない。それに、クイの実力なら、実現不可能とも思えなかった。
「私、負けないよ。」
クイは、ニッと笑う。
実際、クイは、アムイリア領最強の剣士だった。
あえて短く切った髪と、日に焼けた肌。引き締まった体のところどころに、白く浮かんだ傷跡が見える。クイがアムイリア軍将を任されなかったのは、その生まれのせいだった。剣の師匠である先代軍将は、最期までクイの生まれを惜しんでいた。
「私、ウテリア領を自分のものにするんだ!」
想像すると、ワクワクしてきた。
自由、権力。見知らぬ土地への冒険心。
期待も不安も混在したが、クイは、それすら楽しもうと割り切っていた。
「だから、心配しないで。」
クイは、さよならの代わりに、
「母さん、今までありがとう。」
と、頭を下げた。
気づけば、徐々に日差しが温かくなっている。地面のぬかるみも乾き始め、木々は一層枝を伸ばす。動物たちの気配も増え、季節は一気に夏に向かって走り始めている。クイは、そのエネルギーに背中を押されたような気がして、振り返った。不思議と、立ち止まっていてはいけないような、そんな逸る気持ちに揺さぶられている。
「じゃ、行ってきます。」
未練を断ち切ると、覚悟が決まった。
できるところまでやってみよう。
この先の未来をイメージすると、ずっとずっと奥に、まだ見ぬ敵の姿が見えてきた。
「よぉし! 待ってろよ、オレリアス!! 今から、貴様をぶっ潰しに行く!!」
★
一方、花嫁が侵略しに来るとは知らない花婿オレリアスは、一人、薄暗い書斎で執務に励んでいた。領主職は雑務であふれていて、明日までに目を通さなければならない書類が山のようにある。けれど、気を抜くと、知らぬ間に花嫁のことを考えてしまっていて、オレリアスは、
「はぁ~。」
と、何度目かのため息をついた。
(今頃、クイ姫はアムイリア領を出た頃だろうか。)
彼女を想うと、自分まで辛くなる。
彼女は、大切な家族や友人たちと、最後の別れを交わして、見知らぬ場所に嫁がなければならない。そして、ここに到着後、たった一週間で、会ったこともない自分と結婚しなくてはならないのだ。
(……可哀想に。)
オレリアスは、彼女が哀れでならなかった。
オレリアス自身は、領主の仕事と割り切っているが、彼女は、まだ十六だ。そんな少女が、こんな残酷な運命を受け入れることができるだろうか。
オレリアスが想像する彼女は、いつも一人で泣き伏していた。家族を悲しませないようにと、声を殺して、そして、涙の合間にこう呟くのだ。「大丈夫、大丈夫。」、「私は、もっと強いのだから。」と。
オレリアスは、そんな想像に苦しんでいた。
(ああ、あまり泣かないでくれ。)
耳を澄ますと、彼女の泣き声まで聞こえてくるようだ。もちろん、罪悪感から派生した幻聴だったが、オレリアスは、
(どうしたら、彼女の涙を拭ってやれるだろう。)
と、毎日のように思い悩んだ。
できることなら、もっとゆっくり縁談を進めてやりたい。一年でも二年でも、こちらはいくらでも待ってやれる。なのに、その提案を、彼女の父は頑なに受け入れなかった。「そんな悠長に構えていたら、里心がつく。」 彼女の父親はそう言って、一週間後の挙式を変更させてくれなかった。
(むごい話だ。)
彼女の育った世界は、どうしてこんなに厳しいのだろう。もしかしたら彼女は、ずっと、自分の心を殺して生きてきたのではなかろうか。
ふいに、ロウソクが、じぃっと音を立てて、オレリアスは我に返った。
机の上の燭台を見ると、知らぬ間に、ロウソクが短くなってしまっている。
オレリアスは、新しいロウソクを出すつもりで、引き出しを引いた。引き出しには、ロウソク箱と、花嫁の父からもらった手紙が入っていて、オレリアスは少し迷って末、彼女の事が書かれた手紙の方を手に取った。
繰り返し読んだ手紙。
字を目で追わなくても、空で思い出せる。
------早くに母親を亡くしたせいか、クイは、少々おてんばな性格です。
私のしつけが行き届かず、どうぞお許しください。------
その手紙には、いつも、なぜか謝罪ばかりが書かれていた。
けれど、オレリアスは、それをむしろ有難いとさえ思っていた。周りから「おてんば」と言われるような少女なら、きっと明るくて元気な少女に違いない。厳しい世界で育った彼女が、その明るさを潰さずに頑張っているのだ。ウテリア領にとって、これほど心強いことはない。
------オレリアス卿。
大変申し訳ない話なのですが、先日、クイは、何を思ったのか、
長かった髪をばっさりと切ってしまったのです。
花嫁がみっともない髪でどうするのだと、叱ったのですが、
クイはもう、その髪を母親の墓に捧げてきたと言うのです。
そして、「もうアムイリア領に戻らない」という誓いを立てた、と。------
オレリアスは、それを読み返して、ふうと熱い息を吐いた。
(ああ、なんという覚悟だろう。)
そのエピソードだけでも、彼女が母想いであることが伝わってくる。
十六歳といえば、オシャレをしたい年頃のはずだ。なのに、彼女は、そんな少女らしい気持ちと共に、大切な髪を切ってしまったのだ。それは、亡き母のため。亡き母が寂しがらないように、と。もう二度と墓を訪れることができない自分の代わりに、その髪を墓に残しておくことに決めたのだ。
その話を聞いた女官たちは皆、涙ぐんでいた。
男が髪を切るのとはわけが違う。たぶん、男のオレリアスが想像する以上に、辛いことであったに違いない。
(ああ、なんて強い女性なんだ。)
オレリアスは、その手紙を丁寧にしまうと、ロウソクの火を吹き消した。
彼女の事を想うと、仕事に身が入らない。
暗闇の落ちた書斎の中で、オレリアスの心は、まっすぐ彼女の元に走っていった。
(ああ、クイ姫。……私は、今すぐにでも、あなたに会いに行きたい。)