幸福の上限値
『相談室』に、男が居た。
市民の健全な生活を支援するために、市が設置したものだった。
――私は、不幸な男なんです、全く幸せではないのです――。
男は言った。すると、チェアに腰かけたカウンセラーの女が微笑んだ。
――では確かめてみましょう。ここに数々の質問が書かれた紙があります。YESかNOでお答え下さい。きっと、貴方は不幸でないことが分かりますよ――。
そう言って、彼女は一枚の質問用紙を男の前に置いた。A4サイズの紙に数々の質問が印字されている。男はペンを取り、質問を見た。
『1:貴方の身体は健康である。 YES or NO』
彼は生まれてから一度も病気に罹った事は無かった。男はYESに丸を付けた。
『2:貴方の親は健在である。 YES or NO」
彼の両親は今も田舎で元気に鍬を握っている。男はYESに丸を付けた。
男は次々と質問に答えて行く。
『13:貴方は定職についている』……YES。
『20:貴方は婚姻している』……YES。
全ての質問に答え終えると、男はペンを置いた。見れば、用紙の全てのYESに丸が付けられている。
――違う、こんなものは幸福の範疇に入らない。この程度で、私の心は満たされない――。
唾を飛ばしながら、彼は言った。
――では、追加の用紙をお渡ししましょう。きっと、貴方が幸福である事が分かります――。
そう言って、彼女は五枚の用紙を渡した。男は勢いよくペンを取り、回答する。
『30:貴方の年収は一千万を超えている YES or NO』
彼は十年前からその何倍もの給料を得ている。男はYESに丸を付けた。
『45:貴方は権威ある賞を受賞した事がある』 YES or NO』
彼が獲得した賞の数は枚挙に暇が無い。男はYESに丸を付けた。
男はテーブルに突っ伏し、紙が破けんばかりの勢いで回答していく。腕に付けた金色のブレスレットが揺れる。途中、また紙が尽きたので女性に告げると、もう用意していないと言われた。なので、男は思いつく限りの質問を彼女に投げかけさせた。
『64:貴方は他の誰もが成し遂げたことの無い偉業を達成した事がある』……YES。
『97:貴方には大切な友人が存在し、その友人は命を賭しても自分を助けてくれる』……YES。
男は憑りつかれたように答え続ける。それは、カウンセラーの女性が疲れ果てた様子で部屋から出て行くまで続いた。
彼は紙に書いた自分の回答を確認する。
YES。YES。YES。YES。YES――。
全450問中、449問に彼はYESと答えた。
唯一NOと答えたのは、450番。
『貴方は他の誰よりも幸福な人生を送っている』という質問だった。
――あぁ、あああぁ――。
男は狂乱し、部屋をめちゃくちゃに荒らしていく。
彼は今日まで、自分が不幸な人生を送っていると思って疑わなかった。
身体に熱は無く、心など毛程も震えない、感動の無い人生。
だからこそこの『相談室』に来て、相談したのだ。自分の不幸を拭う活路を見出すために。だが、それが彼の心を破壊する決定打となった。
……彼は、幸福だったのだ。少なくとも、世間一般で言えば。
『明けない夜は無い』という言葉がある。今は不幸でも、いつかは幸せが訪れるという意味。ならば夜が明け、太陽が最高点に達しても、その温かみを感じる事の出来ない人間はどうすればいいのか。
彼は知ってしまったのだ。そう、『幸せには上限がある』ということに。そして、自分がその幸せを、幸せと思えない、狂った人間だということに。
翌朝、市内の某所で死体が発見された。死因は、自殺だったという。




