第九章 きみの恋人
第九章 きみの恋人
十一月に入ると、急に寒くなってきた。早いうちに冬物のコートを買っておいて良かった。ラボへは欠かさず通院している。自分でも、毎朝、三十分の苦悶に良く耐えている、と文江は思っていた。
今日も、朝七時にオペが始まり、ついさっき、電気ショックを受けて心臓の鼓動が回復したばかりだ。ベッドで安静にしている文江に、医師が言った。
「麦山様、毎日三十日の巻き戻しペースになってから、そろそろ五か月ですよ。一日も休まずに、よくがんばりましたね」
「はあ、はあ……。先生、こそ――、ありがとう――、ございます――」
「いえ、わたしは仕事ですから……。ところで、そろそろ身体年齢は二十六歳になりますが、まだ続けますか。確か六月頃、麦山様が目標としておられた年齢には達しましたが……」
「はあ、はあ、……。わっ、わたし、もうちょっとだけ……」
「もう少し、続けたい――、と」
「はあ、はい……」
「いつごろまで?」
「はたちごろまで……。できればですが――」
「はたちですか……。ええと――、今のペースでいきますと――、年が明けて、一月の二十二日になりますね。耐えられますか。まだ二ヶ月以上ありますよ……」
「ええ、ここまで、きたんですもの――」
「わかりました。じゃ、そこを目標にがんばっていきましょう。何度も言いますが、毎朝のこのオペは欠かさずに来てくださいね」
ここのところ毎日、文江は、ニッポン紡績関西支社の終業時刻になると、会社玄関から少し離れたところで様子をうかがっている。北里が退社したあとどういう行動を取っているのか観察するためだ。
南山沙希こと文江が偶然を装って北里に接近する。おおよその筋書きは立てているが、ことは慎重に運ばなければならない。もし失敗すると、同じ人間がまた偶然を装って接近していくのは、それこそ不可能なことだからだ。
文江は毎日、北里の様子を観察して慎重に作戦を立てていった。
―― 十一月十一日、二十六歳。
その日がやってきた。
南山沙希は、デパートの紙袋を持って会社の正面にあるファストフード店ジャストコーヒーの近くで、待機した。退社時間が過ぎてしばらくすると、社員が続々と玄関から出てくる。その中に井村愛がいた。
井村はジャストコーヒーに入っていった。沙希も井村のあとについて入った。井村は店員から飲み物を受け取ってカウンター席に向かった。沙希はレモンティーを持って、井村の後を追う。井村がカウンター席に座り、右隣の椅子にハンカチを置いた。沙希はハンカチを置いた席のとなりに腰かけた。紙袋をカウンターの上に置いた。井村が椅子ひとつ隔てた椅子に座ってストローを口にしている。井村は横目でちらっと沙希を見たあと、正面のガラス窓の外に視線を移した。ガラス窓の向こうにはニッポン紡績関西支社のビルが見える。
五分ほどすると支社ビルの玄関から北里が出てくるのが見えた。井村がガラス窓越しに北里に軽く手を振った。北里も手を振り返す。ジャストコーヒーに入ってきて、「待った?」と言いながらカウンターまでやってきた。井村は「ううん? 今来たとこ」と返事し椅子の上のハンカチを取る。北里は椅子の上に書類カバンを置いて「ちょっとコーヒー買ってくる」と言って席を離れた。井村と沙希の目が一瞬合った。北里がコーヒーを持ってやってくる。書類カバンをカウンターの上に置いて、井村の隣に座った。
隣に北里が座っている――。沙希は緊張した。
(三か月には会社で隣に座っていたきみ――、きみはまったく変わっていない。わたしは――、別人になってきみの前に姿をあらわしているのよ)
北里と井村の会話が聞こえる。
「アイちゃん、今日、どこ行きたい」
「うーん、夜景、見に行かない。空中庭園」
「ええっ、あそこ、もう二回も行ったじゃない」
「いいじゃん、なんべん行ったって。ねっ、タツヤ、行こうよ」
沙希は、北里と井村に気づかれないようにして、デパートの紙袋の底から糸を引き出して、あらかじめ作っていた輪を北里の書類カバンのフックに引っかけた。
「ところでさあ、アイちゃん」
「なに? あのこと?」
「まだ、決心つかないんだよ――。ぼくら、まだ早いと思うんだよね」
「なに優柔不断なこと、言ってんの。あたしたち、つき合ってもう一年になるんだよ」
「そりゃ、そうだけど――、ぼく、まだアイちゃんのこと、良くわかっていないし……」
「なによ。それって、あたしのこと、まだ信頼できないってこと?」
「そうじゃないけど……」
「ねえ、あたしのことも考えてよ。あたし、もう二十七なんだよ」
「まだ二十七じゃない」
「もう二十七よ。男と女は違うの。あれよあれよという間に、アラサーになって、気がつくと三十越えて……。女って、一度、結婚逃しちゃうと、あと厳しいんだから――。あたし、むぎふみみたいになってから、後悔したくないの。わかるでしょ」
井村は北里の顔をのぞき込んだ。北里は下を向いて考えている。井村は小声になって北里にささやくように言った。
「あたしのこと、好きなんでしょ。愛してくれてんでしょ」
北里はうなずいた。
「だったら……」
井村は、北里の肩を揺すった。北里は顔をあげて言った。
「とにかく、もうちょっとだけ、待ってよ」
「んもう、いつもそうなんだから……。あたしだって、何年も待たないよ。タツヤがいつまでも煮え切らないんなら、さっさといい男見つけて、結婚しちゃうからね」
井村はふてくされた表情で、ストローで飲み物を飲んだ。北里は無言で空のコーヒーカップをもてあそんでいる。
井村は「まあ、今日はいいや。夜景見に行こうよ」と言ってカウンターから離れた。北里も後をついて行こうと、書類カバンをとった。
そのときだった。沙希が置いていた紙袋が書類カバンに引きずられて、カウンターから床に落ちた。ガシャンと音がした。
「きゃっ!」
沙希が叫んだ。あわてて紙袋を拾い上げ、中身を確かめる素振りを見せる。まわりの客が振り返った。
沙希は、「ああ……」と言って、両手を顔にあててその場にしゃがみ込んだ。
「どうしよう……」
「ごっ、ごめんなさい」
北里は沙希の前にしゃがみ込んで言った。沙希は肩をひくひくさせている。
「いいんです。わたしがあんなとこに置いてたのが、悪いんです……」
「そんなことない。ぼくのせいですよ。ぼくがカバンとるとき引っかけちゃって……」
井村は立ってふたりの様子を見ていた。北里は沙希に聞いた。
「中身、なんだったんですか?」
沙希は顔をあげて北里を見た。沙希の目には涙が浮かんでいる。愛らしい瞳に北里のほおが一瞬ゆるんだのを、沙希は見逃さなかった。
「ワイングラスです、ボヘミヤの……。結婚する友だちに贈るつもりで……」
沙希はそう言って、また顔に手をやってうつむいた。
「とっ、とにかく、ぼく弁償しますんで……」
北里はそう言って名刺を取り出し、そこに個人携帯の電話番号を走り書きして、沙希に手渡した。沙希も携帯の電話番号を北里に教えた。
作戦は大成功。たぶん今夜にも北里から電話がある、沙希はそう確信した。
「へえ、まだ大学生なんですね。じゃ友だちって――、学生結婚?」
「はい――。それで同じサークルの子みんなで、なにか贈り物しようって」
北里と沙希は、デパートのエスカレータで最上階に向かっている。上の段に立つ沙希の顔と下の段の北里の顔は、ほぼ同じ高さにあった。沙希の手には紙袋が下げられている。昨日買ったものと同じボヘミアングラスだ。
「それをぼく、壊しちゃったんですね」
「いえ、わたしがちゃんと持ってなかったから……」
「違うって、沙希さんのせいじゃないっすよ。あっ、ごめんなさい。南山さんって言いにくかったんで……」
「いえ、友だちもみんな沙希ちゃんって呼んでくれてますから。それより、北里さんに全額出してもらうなんて、悪いです。せめて半分はわたしが……」
「いいですって。ぼく働いてんですから……。大学生に出してもらったってことになったら、ぼくのプライドに関わりますよ」
北里から携帯に電話があったのは、昨日の夜十一時ごろのことだった。
「あっ、あの……。ぼく、今日、大事なグラス割っちゃった者です――、北里といいますが……」
「えっ、ええ、ほんとにわたしの方こそ、ごめんなさい」
「夜遅く電話して、すみません。友だちと別れるの遅くなっちゃって……。でも、どうしても今日中に、ちゃんと謝っとかなきゃ、って思って電話しちゃいました。もうお休みでした?」
「いえ、まだ大丈夫です」
「今日、割っちゃったグラスのことなんですけど……。早速、明日にでも弁償させてくれませんか。もし良かったら、それ買ったっていうデパート、一緒に行ってくれませんか……。明日、ご都合はいかがですか」
「いえ、大丈夫です。じゃ何時ごろ?」
「夕方、ぼく、仕事終わってからでいいですか。六時ごろになっちゃうんですが……」
「わかりました。じゃ、デパートの入り口で」
電話を切ったあと、沙希は部屋中を飛び跳ねた。
(やったわ。こんなにうまくいくなんて!)
デパート最上階の展望レストランで、北里と沙希はグラスを合わした。窓一面に大阪の高層ビル群や繁華街のきらびやかな灯りが広がっている。
「こんな、ゴージャスなとこ入ったの。わたし、はじめてです」
「今日は、特別ですから……。それと、ぼくらの偶然の出会いもお祝いしなくちゃ……」
(タツヤくんが、こんなキザな口説き方してくるなんて……。いつもの、――っす、てのでもいいのに)
「いいんですか、北里さん、昨日の女の人とデートの約束してたんじゃないんですか。アイちゃん――、って言ってましたっけ」
「沙希さん、地獄耳ですね。昨日のぼくらの会話、聞いてたんですか」
「そりゃ、カップルの会話って、どうしても耳に入ってきますよ」
「アイちゃんはアイちゃん。今日は沙希さんとこうして出会えたんですから……」
「北里さんって、なんかプレイボーイ……」
「違うっす。ぼく、まじめな人間っすよ」
「ぷふっ」
「どしたんすか。なんか、おかしいっすか」
「いえ、なんでもないの。その、っすっていう言い方が知り合いに似ていたものですから」
「とにかく、ぼく、沙希さんにお詫びしたくって、お食事誘っただけですから……」
「もし、わたしが六十のおばあちゃんでも、誘ってくれた?」
「そっ、それは……」
「ほらっ、やっぱり――。北里さんの顔、言ってますよ。こんな若い子と知りあえてラッキーって」
「そっ、そうっすか……」
北里はそう言って、下をうつむいた。
「でも、いいです。北里さん、正直そうだし……。今日は、本当にありがとうございました。こっちこそ、ご迷惑かけちゃって……」
「いえ、ぼくこそ……。あの、沙希さん……。せっかく知り合いになれたんだし――、また電話していいっすか」
「えっ、ええ」
(もう、サイコー。タツヤくん、完全にわたしの魅力にはまっちゃったみたい。むふっ)
沙希は、北里からの電話を待った。
一日目はかかってこなかった。二日目も――。沙希はときおり携帯を開いてみた。気がつかないうちに電話があったのかも……。着信履歴を確かめるけど、やっぱりなかったみたい。三日目……、夕方まで待ってもかかってこない。
(わたしから、かけようかしら――。いや、やっぱりだめ。待つの、待つのよ。タツヤくんたぶん、電話できない事情があるの。井村をごまかさなきゃいけないだろうし……)
北里からかかってきたのは四日目の夕方だった。携帯が「大切なあなた」を奏でた。北里からの着信を知らせる曲だ。沙希の心臓が高鳴った。
(すぐに出ちゃだめ。ちょっとじらさなきゃ……)
沙希は、携帯が「広い世界でひとりだけ……」と歌ったところで、電話を取った。
「沙希さん? ぼくです。北里です」
電話を待っていたことを悟られてはいけない。沙希は、素っ気ない口調で答えた。
「なんですか?」
「今度の日曜、空いてませんか?」
「日曜ですか……、今んとこ、予定はありませんが」
「じゃ、USJ行きませんか」
「USJ……ですか」
「きらいですか……」
「いえ、そうではないんですけど――、あそこ、高いなあって思って……」
「お金ですか。それなら任せてくださいよ。ぼく、もちろんおごりますから……」
「でも……」
「いいじゃないですか。行きましょうよ」
「じゃまあ……、はい」
沙希は電話を切った後、ベッドに身体からジャンプした。
(順調、順調。もうタツヤくん、完全にわたしのものよ)
日曜日、沙希はキャーキャーとはしゃぎ回る姿を北里に見せた。ターミネーターを見たあと「もう、いや。こんなこわいの」とうるうる目で北里を見上げたり、ジュラシック・パーク・ザ・ライドでキャッと抱きついてやったり、ハローキティのストリートダンス見て、かっわいい、とお茶目に言ってみたり……。
その日の夜、北里と沙希はレストランで夕食をともにした。
「へえ、バイオリン、やってたんですか。いいとこのお嬢さんなんですね。沙希さんって」
「やってたって言っても、小さいとき、母にやらされていただけですから……。習いたてのころって、キーコキーコって、耳障りな音しか出せないんですよね。そんなもんですから、わたし練習し出すと、家の者みんな出て行くんです。母まで買い物に出ちゃうんですよ。ひどいと思いません?」
「はははっ。でも、ほんとはとってもうまいんじゃないですか。一度、聞かせて欲しいですね……」
「北里さん、今日はありがとう。ほんとに楽しかったわ」
「いえ、ぼくこそ、つき合ってくれて――、楽しかった」
「北里さん、あの――っ」
「なに?」
「今日、ほんとは――、アイちゃんとデートの予定じゃなかったんですか」
「あっ、アイちゃんね。いいのいいの今日は。なんか用事、あるんだって」
「そう……。北里さん、今日、アイちゃんが空いてたから、わたし、誘ってくれたんですね」
「ちっ、違うよ。もともと沙希ちゃん、あっいやいや、沙希さんを誘うつもりだったんですから」
「ぷふっ、北里さんっておもしろい人ですね。冗談、冗談ですよ。わたし、そんなことでひがんだりしないから……。それに、今日、ほんとに楽しかったし……」
「ねっ、沙希さん」
「はい?」
「また、誘っていいですよね。電話していいですよね」
沙希はうつむいて「……はい」と答えた。
(タツヤくんには恥じらう乙女に見えているはず……。むふっ、もうサイコー)
―― 十一月二十三日、二十五歳。
北里から誘われることが多くなった。四日前はミュージカル、一昨日はコンサート、今日は天保山。
沙希は感づいていた。北里が好意を寄せる女性は、井村愛から南山沙希に、急速に傾いてきていることを。北里は井村の誘いを断って沙希にデートを申し込んできている。おそらく井村は、北里の行動を不審に思い始めているだろう。
(わたしの計画、おもしろいように進んでいくわ。もうタツヤくん、完全にわたしのものよ)
天保山の大観覧車の中で北里が言った。
「ほら、向こう。明石海峡大橋、見えますよ」
沙希は「えっ、どこどこですか」と北里の方に移動する。観覧車がぐらっと傾いた。沙希は「きゃっ」と言って北里の服をつかんだ。北里は「大丈夫ですか」と言って沙希の手を取って椅子に座らせた。ふたりは並んで座って大阪湾の先を見た。煌々と輝く大阪の明かり、その先に神戸の夜景、その左に明石海峡大橋のメインロープが美しい曲線を描いて光っていた。
「ねっ、きれいでしょ」
沙希の顔のすぐそばに北里の顔があった。
観覧車を降りて、海が見える突堤に行った。向かい側には先日行ったばかりのUSJの明かりが見える。少し離れたところで別のカップルがふたりと同じように海を眺めていた。冷たい潮風がふたりのほおをなでた。
北里は沙希の肩に右腕をかけた。
「沙希ちゃん――、って呼んでいい?」
沙希はこくりとうなずいたあと「わたしもタツヤくん――、って……」と言った。
「タツヤって呼び捨てでいい……」
「タツヤ……」
「沙希ちゃん……」
肩を抱いていた北里の腕に力が入る。北里の掌が沙希の頭の後ろに回る。北里はその手を引き寄せ、左手を沙希のあごの下に持っていった。沙希は顔を上げた。すぐ目の前に北里の顔がある。沙希は瞳を閉じた。北里は沙希の唇に自分の唇を重ねた。
北里と沙希は毎日会うようになった。待ち合わせ場所はその都度決めていたが、沙希はある日、ニッポン紡績関西支社の前でこっそり北里を待った。北里の後ろから北里の目を蓋して「だーれだー」と驚かしてみようと思ったのだ。
退社時間になるとすぐ北里が玄関から出てきた。沙希がそおっと近づこうとしたときだった。井村が玄関から飛び出してきて北里を捕まえて大声で叫んだ。
「タツヤ! 今日はどこ行くのよ!」
通行人が一斉にふたりを見た。北里はまわりを見て、井村にシッと言ってからビルの陰に連れていった。沙希は歩道の木立の陰からふたりの様子を観察している。
「アイちゃんには、関係ないだろ」
「なんで、なんで。タツヤ、どうしちゃったの。最近、全然会ってくれないし、メールだって返事くれないし……」
「……」
「ひょっとして、ほかに女でもできたの?」
「……」
「わかった。あのときの子ね。ほら、あそこで会った……」
井村は、会社の前のジャストコーヒーを指さして言った。
「次の日、デパートに一緒に行ったって言ってたけど……。あれからじゃん。タツヤ、急に冷たくなってさ」
「……ごめん」
「わたし、タツヤになんか嫌われることした? もし、悪いとこあるんだったら直す。だから、ねっ、ねっ」
「アイちゃんとデートするとさ。いつもアイちゃんの方が仕切るでしょ。それにいつも結婚の話になっちゃうしさ……。たまにならいいけど、会うたびに言われ続けるとね――。ぼくも、なんか……って感じに、なっちゃって……」
「わかった。わたし、タツヤにプレッシャー与えてたんだね。あらためるよ。反省する。だから、ねっ、ねっ」
「……。ぼく、もう、アイちゃんとは終わったと思う――。ごめん……」
北里は、自分をつかんでいた井村の手をほどき、駅の方に早足で向かっていった。井村は北里の後ろ姿を目で追っていた。
(つづく)




