第八章 もっともっと若く
第八章 もっともっと若く
グレードCのオペを受けはじめて四か月。いつものとおり、スレーブ時計の校正が終わった後、医師は、ベッドに横たわる文江に言った。
「麦山さん、順調ですよ。今日の測定でも、ぴったし二十か月、若返ってます。一年八か月ですね」
「あんまり、実感がないんですが……」
「そうかも知れませんね。でも、一年も経つと、実感できると思いますよ」
文江は、突然、ベッドからがばっと起き上がって、医師に言った。
「先生! わたし、待てないんです!」
医師は驚いた表情になった。が、すぐに落ち着いた表情で文江の目を見た。
「あこがれの――、あこがれのあの人――、結婚しちゃうかも……」
文江は両手で顔をおおった。
「同じ職場にいるという、若い社員のことですか」
文江は、こくっとうなずいたあと、続けた。
「せめて――、せめて――。秋ごろまでに、二十五、六に若返れないでしょうか……」
「……」
「先生! 先生ならなんとかできるんじゃないですか」
「……」
「先生! 先生!」
「麦山さん――、ものすごい、覚悟が必要ですよ――」
「がまんします! 耐えます! わたし絶対――、ですので……」
「スレーブ時計の巻き戻しのスピードをあげれば、理論的には可能です。おそらく限界は一日あたり三十日、一か月で約三年のペースです。もし限界まで速くしたとすると、十一月のはじめごろには二十五、六の肉体になる計算です――」
「十一月に二十五……」
「はい、ただ、あくまでこれは、理論的にそうなるというだけで、今まで、ここまで速くしたことはありません。それに――」
「それに……?」
「それに、ここまでスピードアップすると、スレーブ時計の校正は一日一回必要になりますよ。今は、週一回でよかったものがです。麦山様は毎日毎日、必ずここに来て、悶絶の苦しみを味わわなければならないんです。しかも今度は時間までほぼ正確にです。朝受けられなかったから夕方に、というわけにはいかないんです」
「……」
「平日も休日も欠かさずに、毎日毎日、必ず一度、死の体験を受けなければならない――。こういうのに耐えられますか。とごにも行けません。旅行なんてもってのほかです。麦山様は、ただただ、死の苦しみを味わうために、ここに来なきゃならないんですよ」
「……はい……」
「しつこいようですが、もし校正を一回でもパスしてしまうと、つぎは二分間心肺停止しなければなりません。そうなると身体に麻痺が残るかも知れません。二回欠けると三分、三回で四分。これ以上は生命の危険もあるんですよ」
「……はい……」
「もっと大事なことは、ずっと校正をさぼり続けるとスレーブ時計が暴走してしまうってことです。止まらなくなってしまうんです。そうなると最後の手段で、マスター時計と完全同期とらなければなりません――。このこともわかってますね」
「……はい……」
「わかりました。そこまで決心が固いのでしたら、ご希望どおりにやってみましょう」
最高速の若返りが始まった。文江には大きな目標ができた。
(タツヤくん、井村と婚約なんかしちゃダメ。待っててね。十一月になったら、わたし、とっておきの笑顔、きみに見せてあげるから。きみは井村を捨てて、わたしの元に来るのよ。そしていつか、きみは言うわ。「ぼくと結婚してください」と。わたしは、少し恥じらいながら、こくりとうなずくのよ)
文江は毎朝七時、出勤前にリジュブネイト・カッパニーを訪れて、スレーブ時計を校正することにした。昏倒の苦しみが和らぐことはなかったが、文江は目標のために、ひたすら耐えた。
―― 六月二十日、三十八歳。
「ハッピー・バースデー・ツー・ミー」
文江は、三十八本のローソクを立てた丸いケーキの前で、シャンパングラスを高々と上げて、大きな声で叫んだ。
「本当の歳――、還暦――、六十歳なんてくそくらえ。わたしのすばらしい未来に、かんぱーい」
グレードCをはじめたときの身体年齢が四十歳ちょうど、毎日五日ずつの若返りで一年八か月若返って三十八歳四か月、その後は毎日三十日の若返りにスピードアップして四日、今日、この誕生日に三十八歳ちょうどの身体年齢に若返った。
(こんなすてきな誕生日ってないわ。わたし、これからもっともっと若くなるのよ)
文江はカレンダーをテーブルの上に広げて、今日、六月二十日のところに「38」と書いた。一日で一か月若返る、ということは十二日で一歳……。文江は六月二十日から、一、二、三、四……と数えて、十二番目の七月二日のところに「37」と書いた。
(この日に三十七歳……。なんて速いペースかしら)
文江は同じように十二日分数えて、七月十四日のところに「36」、七月二十六日に「35」といった要領で書いていった。……。十一月十一日に「26」……。
(このころね。タツヤくんにアタックするのは……)
文江は、カレンダーを見ながら計画を立てた。あまり若返りしすぎると会社ではごまかしきれなくなってくる。八月三十一日には三十二歳になる。このあたりまでは無理をしてでもごまかそう。通勤の時、いやらしめの化粧をして、おばさんっぽい服装にすればなんとかなるだろう。九月からは長期の休暇を申請するしかないか……。
今年のお盆も田舎には帰らないつもりだ。こんな姿で帰って怪しまれないわけがないし、もっと大きな理由は、四国までの旅行は仮に日帰りでも危険すぎるからだ。万一帰れなくなって、スレーブ時計の校正ができなくなってしまうおそれもある。
九月になってやることはもう決めている。麦山文江という人物はいったんこの世から消え、あらたに若い女性がこの世にあらわれる。名前も決めた。
「南山沙希」
麦山文江という野暮ったい名前とはお別れだ。その方法だって考えている。インターネットで裏社会のことを検索すればいやというほど、見つかった「戸籍偽造」。存在していなかった人物を新たに戸籍に乗せる。金さえ渡せば、こっちの正体を明かすことなく、きれいな戸籍を作ってくれる闇組織だってこの世の中にはある。
携帯がメール着信を知らせた。京都事業所の馬場洋子からだ。
「お誕生日おめでとう。エステであのボディになったって言ってたけど、わたし信用してないからね。今度絶対教えてよ」
言い訳の返事を打とうとして文江は迷った。迷ったあげく結局「メールありがとう。ひとりでお祝いしてたところよ」とだけ書いて返信した。
文江はパソコンを立ち上げた。メールチェックするのは何日ぶりだろう。去年までは、朝に夕にメールチェックして、結婚情報サイトから送られてくる男性のデータを丹念に研究していたというのに……。
未読メールが百件以上届いていた。ほとんどが男性のプロフィールだ。
六十一歳、大卒、某有名企業で現在部長、離婚歴二回……。
今となっては、こんなデータ、見る気にもならない。いずれ登録しているサイトは全部解約するつもり。
そうだ。結婚相談所も解約しておかなくては……。この姿で直接出向くわけには行かないし……。電話で、いい人見つかったから、って言っておこう。
ラボからのメールも届いている。グレードCを受けるようになってから、毎日送られてくるようになった。身体年齢を月単位で報告してくれているのだ。今日のメールには、[麦山様の本日の身体年齢は三十八歳〇か月です。明日も忘れずに来てください]と書かれていた。
文江はリビングからベランダに出た。ベランダに出るなんて久しぶり。灰色の雲が空一面をおおい、雨が音も立てずに降っている。ベランダのアジサイは今年もきれいに咲いた。去年の誕生日、わたしの心はこの雨のよう、とつぶやいたことを思い出す。でも、今年は違う。天気は悪くても心は晴れ晴れ。このアジサイのように花開くのよ。わたしの、すばらしい未来――、待っててね、と文江は心の中で言った。
「麦山さん、昨日でちょうど六十になられたんですよね」
翌日、課長が文江を打ち合わせ室に呼び出して言った。課長は先日、四十歳になったという。童顔は昔から変わらず、今日も赤いほおをしていた。ひょっとして、文江の前だからと、緊張しているのかも知れない。今の文江の身体年齢は、岩上が入社した当時の文江の年齢より若いからだ。
(わたしも女よ。ずばっと六十ですね、は失礼じゃないの)
文江は、岩上が入社当時、毎日冷やかしていたように、「岩上さーん、今日も真っ赤なほっぺ――、とってもかわいいわよ」と色っぽく言ってやった。岩上の顔はますます赤く染まった。
(男ってカンタン。こうやって色目使えば、もうわたしの手の中よ)
課長は、麦山の顔を見ずに用件だけを話し始めた。
「麦山さん、総務ですから当然ご存じだと思いますが、社の規定では、六十歳を満了する日、つまり六十一歳の誕生日の前日が定年日とされています。麦山さんは、あと一年で定年ということです」
「ええ、わかってるわ」
「定年後は、どうされますか。契約社員という道もありますが……」
「そうね……、ちょっと考えさせて」
「はい、ではまあ、ゆっくり検討してみてください。それにしても麦山さん、こんなに若いのに、再来年定年なんて、信じられませんね」
「むふっ、色気、感じる?」
「いっ、いえ。そういう意味じゃなくてですね――。あの……、返事は急ぎませんので」
課長はそういうと、急いで打ち合わせ室を出て行った。
文江が自席に戻って、パソコンを立ち上げるとメールが一通届いていた。ホワイトデーに下品な下着を大仰な箱に包んで持ってきた例の男性社員からだ。
[たんおめ。ロッカー開けてごらん。プレゼント入れといたから。ねえ、今度、食事行こうよ]
(この馬鹿、ストーカーか。男の中には、一度笑顔見せただけで、こんな風に言い寄ってくるやついるんだよね。こいつ、わたしが振ったの、まだわかっちゃいない。一度、ガツンとわからせてやるか)
[わたし、あなたなんかに興味はありません]
(いや、こんな文章では、こいつにはまだ優しすぎる)
[あんた、根っからの馬鹿だね。これ以上、しつこくつきまとってくるようだと、あんたの奥さんと娘にしゃべるよ。あんたからスケスケのパンティーもらったって]
文江は、このように書いて、ためらわずに送信アイコンをクリックした。
文江がロッカーを見に行くと、その男性社員が文江のロッカーからプレゼントを回収していたところだった。男性社員は文江と目が合うとあわてて逃げていった。
(どうせ、プレゼントったって、また似たようなもの贈ってきたんだよ。あいつの頭の中って、あのことしか考えてないのかね)
文江は気がついていた。自分に、人生を知り尽くした六十歳の貫禄と、若い女性の愛嬌の二面性を、持ち合わせていることを。さっきのストーカーまがいのメールにしても、若い女なら、なにも手を下せないで、しつこい男に悩まされ続けるだけかも知れないが、還暦の貫禄でびしっと男を叱り飛ばすことができる。ただ、このことは、若い男性を引かせてしまうことになりかねない。文江は、北里に迫るときは、世の中のことをなにも知らない無垢な女の子でいなければ、と思っていた。
身体年齢はどんどん巻き戻されていく。
―― 七月二十六日、三十五歳。
文江は思った。今のうちに実の父の墓前に報告しておかねばならない。文江に残してくれた十億円もの遺産を使い切ってしまったことを。日帰りであっても四国まで出かけるのは危険、とは思う。しかし、このことだけはなんとしても報告しておかねば。
文江は、スレーブ時計の校正を終えると、すぐに電車に乗って四国の町に向かい、墓前で父に詫びたあととんぼ返りで大阪に戻ってきた。自宅には夜遅く着いた。無事、戻ってくることができたが、移動中は気が気じゃなかった。もし何かの事故で列車が大幅に遅れてしまったら、もし翌日のスレーブ時計校正に間に合わなければ……。そんな恐怖におののきながらの日帰り旅行だった。
―― 八月七日、三十四歳。
実家に「お盆も帰れない」と電話した。弟は「そうか。かあちゃん待っとんのに……」と言ったあと、「そうそう」と思い出したように続けた。
「二週間ほど前やけどのう、若い女の人が景浦さんの墓参っとるのん見たいう人おるんや。それが誰やわからん言うんやけん気色悪いこっちゃろ。景浦家では誰やろ誰やろ言うてえらい噂になっとんやと。こっちにもたんねに来よってのう。かあさんも知らん言うとるし、わしにもわかるわけないわのう。なんや、ねえちゃんの若いときによう似とる言うんやけど、ねえちゃんも知らんわのう」
「さあ、誰やろ。わたしもわからんわ」と文江は答えた。
―― 八月十九日、三十三歳。
また少し、二の腕や太もものぶよぶよがとれて、筋肉がついてきた気がする。走って階段を駆け上がっても息切れしなくなった。胸も腰もさらに豊かになって上にあがってきた。驚くべきことは、三十三歳のときに抜いた歯がまた生え始めてきたことだ。文江の肉体だけ時間が逆行している。
化粧は少し前から派手めにして、わざと若作りしているように見せかけている。それでも「あれ? 麦山さん、またちょっと若返ってません」と言われることもあった。
ばれないように、化粧もっと派手にしなければ……。
―― 八月三十一日、三十二歳。
課長に長期の休暇を申し出た。理由や期間を聞かれたが、もちろん詳しくは答えられない。
「ちょっと身体が不調で……」、「お元気そうですけどね」といったやりとりがあったあと、課長は「じゃまあ、お大事に」と言った。「退職後のこと、考えといてくださいね」とつけ加えることも忘れなかった。
―― 九月十二日、三十一歳。
二十代の服が全然ないことに気がついた。前に行ったヤングミセス専用の衣料店に行って、二十代フロアで服や靴、アクセサリーを買いあさった。とりあえず、秋物、冬物は絶対に必要だ。ジャケット、ワンピース、ブラウス、パンツ、スカート、パンプス、ブーツ、スカーフ、ベルト、傘……。
花柄の超ミニスカも買った。いずれ行くことになるきみの実家訪問に備えて少しだけあらたまったワンピースも買った。
見た目の歳はまだ三十。二十代前半のキャピキャピ衣装を買う文江を見て、レジの店員がちょっと笑ったような気がした。
―― 九月二十四日、三十歳。
ついに三十歳、北里にアタックする予定の十一月には二十六歳になっているはず。
今日から「南山沙希」になりきる練習をしよう。麦山文江は今日限りいなくなるのだ。
北里と再開した後も若くなっていくことを見越して、「南山沙希」は、平成四年生まれの二十歳、現役の大学三年生ということにした。
鏡の前で表情を作って「ぅん、もーっ」とか「きゃーっ、ぃやっだー」とか「だよね。わかってるじゃん」とか……。頭の上から抜けるような黄色い声を出して、身体をくねらせる。ワイドショーで若い女がはしゃぐ姿を見て参考にしたり、大学のキャンパスにもぐり込んで女子学生の振る舞いを研究したり……。
しゃべり方や身のくねらせ方に流行はあるが、文江が昔、男の前でとった行動と基本は変わらない。結局、男も女も成長していないってことね、と思った。
髪の色も染め直した。オレンジブラウンの明るめの色に。今年初めのイメチェン以来、地毛を生かす黒髪にこだわってきていたけど、その発想自体、若い女の子らしくない。
ヘアスタイルはふわっと自然な感じで耳の横に下ろして、前髪をくりっと少しカールさせた。AKB48のなんとかという子と同じような感じ。美容院の男の子が「お歳より、ずいぶん若く見えますよ」などと言った。
二十歳の女の子、南山沙希ができあがった。
(これが麦山文江だって、もうだれにもわからないわ。もちろんタツヤくんにも)
―― 十月六日、二十九歳。
課長から電話があった。
「麦山さんですか――。休暇に入られてから一か月になりますが、お身体の具合、どうかと思いまして……」
「ちょっとかんばしくなくて……。ごほっごほっ、もう少し休ませてもらえないかしら」
「麦山さん、先月で勤労休暇を使い切ってましてね……。今、永年勤続の慰労休暇で処理するように手続きしてるんですが――、いいですよね」
「うん、いいわ。それで」
「慰労休暇も残りがあまりありませんので――、まだ休まれるようでしたら、診断書出してもらえませんか。傷病欠勤で処理しておきますが……」
「そうね――。じゃ、お医者さんに書いてもらって、明日にでも送るわ」
「お願いします。では、どうぞお大事に……」
違法若返り専門のリジュブネイト・ラボラトリーの医師でも、医師は医師。文江は翌日のスレーブ時計校正のあと、医師に書いてもらった診断書を会社に送った。
「病名、慢性心不全、自律神経失調症(出社拒否)」
診断書の病名を見て。文江は思わず吹き出した。
闇業者に、架空の人物「南山沙希」の戸籍偽造を依頼した。平成四年生まれということ以外、出生地とか両親がだれかということは業者任せ。たぶん闇には闇の都合があるのだろう。
学生証の偽造も頼んだ。K大経済学部。業者から学生証用の写真が必要――、と告げられたとき、ちょっとためらった。闇の業者に顔写真を送ってあとで痛い目にあわないだろうか。しかし、もう後にはひけない。「証明書を作ったあとは確実に処分します」という業者の言葉を信じて、写真を送った。
戸籍さえできれば、こっちのもの。健康保険証、運転免許、パスポートなどなど、なんでも作れる。
―― 十月十八日、二十八歳。
ひとりカラオケに行って若い子の歌を勉強した。バイオリンをかじったことのある文江だが、どれもアップテンポで、単調で、歌詞の意味もつかめない。全部、同じような曲に聞こえる。キャンディーズ、山口百恵、郷ひろみ、西城秀樹、そんなのを歌いたくなるのをぐっと我慢して、ヒットチャートを一曲一曲練習していった。
Jポップ、Kポップ……。流行歌とか歌謡曲と言う言葉自体もう死語らしい。歌手はアーティストと呼ばなければならない。ZARDとかいきものがかりとか、これはアーティストの名前で、YOUとかJOYとか、これは曲名のこと。文江はひとつ一つ頭にたたき込んだ。
南山沙希のプロフィールにも矛盾がないようにしなければ……。父母は――、海外にいることにするか……。じゃどこの国、ってことになるとややこしい。亡くなったことにするか……。いやいやこれも、大学の学費とかどうしてんのって聞かれそうな気がする。離婚――、ということにしよう。母に引き取られたあと、母は病気で死んだ。父が送ってくれる生活費で授業料もまかなってる――、ということにしよう。
―― 十月三十日、二十七歳。
家に帰ってきたとき、マンションの管理人が玄関から出てくるのを見た。文江の方をじっと見ている。
(やばい、どうしよう……)
まさか、逃げるわけにはいかない。文江は管理人に会釈した。管理人も会釈を返したが、怪訝そうな目で文江を見ている。文江は意を決して管理人に言った。
「いつも、母がお世話になっています」
「えっ、いえ……。麦山さん――の、娘さんですか」
「ええ、そうです。初めまして」
「こちらこそ。いやーっ、わたし、知りませんでしたわ。こんな大きい娘さんいはるやて……。麦山さん、ずっと独身や、思てましたさかいに……」
「ええ、母も、人には独身だと言ってるようです。母は、ずっと昔、離婚したものですから……」
「今日は、おかあさんは?」
「ええ、ちょっと仕事で遅くなるって、言ってました。わたし、しばらくお世話になりますけど、よろしくお願いします」
「ええ、ええ、こちらこそ、よろしゅうに」
偽造戸籍ができたと、連絡があった。後は市役所で確認すればOK。どうやって作ったか知らないが、さすが闇社会――、と文江は思った。
準備万端。あとは、北里との出会いを作るだけ。いよいよ、待ち焦がれたときがやってきた。
(つづく)




