第五章 念願の四十
第五章 念願の四十
ついこの間まで、強い夏の日差しに悩まされていた気がするのに、もう師走。時間が早く過ぎていく感覚は、前と変わらない。高層ビルの間を冷たい風が吹き抜ける。ビジネスマンがコートの襟を立てて駆けていく姿が、街のあちこちで見られる季節になった。
グレードBのオペを受けるため、麦山文江は会社に二週間の休暇を申請した。場合によってはもう少し伸びるかも知れない、とも伝えている。課長から特に理由を聞かれることもなかった。
今回の入院は長い。医師によると、カプセルの中で一時的に仮死状態になって、十日間にわたって薬液に浸されるという。麻酔ではなく仮死……。呼吸も心臓の鼓動も脳の活動も、生命活動という生命活動はいったんすべて停止する。「必ず回復します」と医師は断言するが「死」という言葉に恐ろしさを感じずにはいられない。
文江は、明日からの入院に備えて、リビングルームを片付け、たまっていたゴミを出した。万一のことがあって、だれかがこの部屋に入ってきたとき、みっともない状態にしておきたくない、文江はそう思って、一か月ぶりに大掃除したのだった。
マンションのゴミ捨て場で、久しぶりに管理人のおばさんと話をした。マンションに出入りするときは、いつもは管理人室の前を通っておばさんに会釈する。文江から見るとそれだけの関係だが、おばさんの方はちがった。文江の名前はもちろん、年齢も、勤め先も、実家の住所も電話番号も空で覚えている。そして、同居人がいない、ということも。
「麦山さん、最近、化粧品替えはったん?」
「いっ、いえ……」
「そうなん、なんや前より、きれなりはったから……。失礼やけど、麦山さんとうち、あんまり歳変われへんやろ。せやのに、えらい若こ見えるなあ、思いましてね」
「そんなことないですよ……。管理人さんもお若いじゃないですか」
「よう言わはるわ、還暦迎えたもんに。まあ元気なことだけは取り柄ですけど」
「わたし、明日から、ちょっと留守にします。家にはおりませんけど、よろしくお願いします」
「旅行ですか、よろしいですな」
「ええ、まあ……。二週間ほどしたら、帰ってきますんで……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
入院初日、まず飲食を一切禁止された。口に入れてよいものは、ゼリー状の半透明の液体のみ。消化・吸収されない成分で、食道、胃、腸の不要物を洗い流すのだという。味のない奇妙な液体は、まるで意志を持っているかのように、自らぶるぶると振動しながら食道を通過していった。胃袋に入ってからも振動しているように感じる。
翌日、いよいよオペ当日だ。文江は全身を隅々まで徹底的に洗浄されたあと、裸のままストレッチャーに乗せられて処置室に運ばれた。毛布もかけないのは、完璧なまで清潔にする必要があるためらしい。処置室では医師が待っていた。文江のぶよぶよの肉体が医師の目の前にさらけ出されている。
医師は文江に言った。
「これから、いよいよカプセルに入っていただきます。カプセルの中におられる間は、脳波や心電図で二十四時間、麦山様の身体の状態を監視していますので、ご安心ください。まず首筋から点滴液を注入します。この点滴液には全身の機能を徐々に停止させる機能があります。普通のオペで使用する麻酔薬はこの装置では大敵ですので一切使用しません」
文江は医師の話をうわの空で聞いている。
(どうせ、仮死状態になるんだから、説明しても無駄じゃない。説明はいいから、はやくこの恥ずかしさから解放して)
「麦山様が完全に眠りにつくまでは、わたしが進捗状況をお話しします。わたしの声が、カプセルの中のスピーカーから聞こえてきますので、安心して眠りについてください」
文江はうなずいた。
「では、始めます……」
文江の身体のいたるところにセンサが取り付けられ、首筋に点滴用注射が刺された。ストレッチャーのベッドが切り離され、文江の身体はベッドごとつり上げられてカプセルの中に入っていった。センサー用ケーブルがカプセルのふたの穴を通され、測定機器につながれる。点滴用パイプも同様にして点滴液の瓶につなげられた。その後、カプセルのふたがゆっくりと閉められ、カチッとロックされた。
文江から、透明のふたを通して天井が見える。カプセルの横では医師や看護師がなにかしら作業している。
「麦山様、聞こえますか」
耳の横のスピーカーから医師の声が聞こえてきた。
「聞こえるようでしたら、瞬きを二回パチパチっとしてください――。はい、結構です。大丈夫ですね」
「では、これから点滴を始めます」
首筋の点滴パイプに液体が流れてくるのが見える。医師の説明は続いている。
「まず体温が徐々に低下していきます。それにあわせて、すべての臓器が機能を停止していきます」
文江は、心臓の鼓動が弱く遅くなっていくのを感じた。呼吸も弱くなっていく。
「脳は最後まで活動を続けます。耳も聞こえるはずです。瞬きもできます」
息苦しさをまったく感じない。人が死んでいく前って、こんな感じなのかしら……。
「体温が二十五度まで低下しました。もう身体は動かないはずです。右手の親指を立ててみてください――。やってみて、わたしの言うように立てることができなければ、瞬きしてください――。はい、結構です」
視界がぼやけてきた。天井の蛍光灯の明かりだけが見える。今まで感じていた体中が冷える感覚もなくなってきた……。
「今、心臓が完全に止まりました。呼吸も停止しています。気分は悪くないですね。大丈夫なら、また瞬きしてください――。はい、大丈夫ですね」
心臓が止まった――? そんなこともわからない。いったいなに? この感覚は……。
「では、点滴を止めます。注射針をこちらから遠隔操作で抜きます。ピンとはねますが、もう身体の感覚がないと思いますので、なにも感じないはずです――。いきますよ。はい、抜きました」
まぶたは開けていると思うけど、目の前のものが全く見えない。光すらも感じなくなった。
「では、これからカプセルの中をリジュブ液で満たします。マイナス十度の液体ですが、身体には感覚がなくなっていますので、液体が入ってきたとも、冷たいとも感じないはずです」
もはや、自分がどうなっているのか、まったくわからない。液体はもう身体をおおったんだろうか。
「リジュブ液は、顔にもおおってきました。呼吸も止まっているのでわからないと思いますが……」
全身が浸されたらしい。文江の方から医師に何かを伝える手段はなくなった。医師の声だけは依然として聞こえる。
「今、麦山様の身体の中で活動しているのは、脳と耳だけです。そのほかの器官はすべて停止しました。脳を除いた各部の体温はすべてマイナスになっています」
確かに、頭だけは働いている。グレードB、四十歳の身体……。これでわたしもアラフォーの仲間入り。アラフォーっていうと、行き遅れの女を指すんだろうけど、わたしには、ずっとあこがれの言葉だった。だって、まともな婚活ができる歳じゃない。
なに? わたし、この大事なときに、なに考えてるのかしら……。
「このあと、脳も次第に機能を低下していき、最後には停止します。完全に仮死状態になるわけです。われわれは、そうなったことを確認してから、特殊な周波数の電磁波をカプセルに照射し続けます」
次第に意識が遠のいていく……。眠い、眠たい……。
「リジュブ液は電磁波の助けを借りて細胞の――、奥深くまで――、浸透――し――、不良DNA――があれば――、修復して――、いきます」
遠くの方で――、医師の声が――聞こえる……。
「もう――、まもなく――、脳波――が――停止――します――。では――、十日後――に――、#、お会い――γ、しま――、β&、しょ、$φ、――、@?、う、=δ¥ψ」
十日後の朝、カプセルから出てきた文江は、鏡で自分の身体を見て、目を見張った。
腹から腰、太ももに、しつこくこびりついていた、ぶよぶよの脂肪がほとんどなくなってる。ヒップは上がり、胸は昔わずらわしいと思っていたDカップに戻っていた。おへそ回りにくびれもある。顔のほうれい線や目尻のしわは完全になくなっていた。
「すごい! すごいわ!」
文江は自分が今、素っ裸なことも忘れて、鏡に見入った。
医師は言った。
「お気に召していただけましたか」
「ええっ、ええ、大感激です」
「見かけだけではありません。身体の奥の奥、全身のあらゆる細胞が四十歳ほどに若返っています。体力も若い人並みになっていることでしょう。食べ物もおいしく感じられるはずです。そのほかにも、説明しきれないほど若返り効果があるはずです」
文江は、医師に何度も礼を言って、ラボをあとにした。
ついこの間まで、文江の心にずっと引っかかっていた言葉があった。
「更年期障害ですねえ」
去年の健康診断で、会社の嘱託医が言った言葉だ。うすうす自分でもわかっていたが、嘱託医にずばり言われたときは、ショックだった。
けれど、今のこの爽快な気分はいったいなんなんだろう。いつもいらいらして、だれかに当たり散らしたいと思っていたあの気分は、なにをするにもおっくうだったあの気分は、あのうっ積した気分は、どこに行ったんだろう……。
これが若さというもの。なにものにも代えがたいすばらしい世界……。
(家に帰ったら、まずデパートに行こうかしら。すぐ行けば十時には着くわ。服を買って、靴を買って、帽子もアクセサリーも買い換えよう――。そうそう化粧品も買わなきゃ。それから美容院に行って、ネイルサロンに行って……。ああ、やらなきゃいけないことが多すぎて……、全部できるかしら)
文江はタクシーの中で、ひとりほくそ笑んでいる自分に気がついた。バックミラーの運転手と目があった。文江はすました顔で外の景色に目を移した。
「お客さん、あのビルから出てきはりましたけど、お姉さんかだれか、あそこにいはります?」
「いえ、いませんけど」
「そうですか――。いえね。十日ぐらい前なんですけど、あのビルに女の人お連れしたんですよ――。お客さんによう似てはる人でしてね……。歳は全然ちゃうんですけど……。それで、ご親戚の方かと……」
「いくつぐらいの方?」
「たぶん……、五十過ぎか――、もうちょっといってはったかも知れませんけど……」
「そう、五十過ぎね……」
「服装もよう似た服、来てはったんですよ。今、お客さんが着てはるように、縞のセーターに、ピンクのコート」
「ほっ、ほんとう? 偶然よね……。ねっ、運転手さん、わたしいくつぐらいに見えます?」
「女のひとに、いくつに見えるって聞かれたん、初めてですわ。たいていのお客さんには、思とっても言わんようにしとるんですけど……。お客さんですか……、うーん、三十七、八いうとこですか」
「あらっ、そう」
「ほんまは、いくつですのん」
「な・い・しょ」
「まあ、そら、そうでっしゃろな。秘密にしときはった方が魅力的かも知れまへんしね。ええと……、この辺ですか」
「ええ、そこのマンション、その前で止めてください」
「あれーっ、この前のお客さんも、ここから乗せていったんですよ。さっきのビルまで言わはって……、お客さん、ほんまに、親戚の方いはりません?」
「ええ」
「妙なことあるもんでんなあ。なんや、狐につままれてるみたいですわ。ええと――、運賃、千と六十円です」
文江は千円札二枚出して「おつりは結構よ」と言ってタクシーを降りた。運転手は笑みを浮かべて「ありがとうございます」と言った。
(もーっ、とーっても、いい気分、世界がバラ色に見える。これからのわたしの人生みたい)
二時間後には、紙袋を四つ下げて、エスカレータで、婦人服のフロアから下の階のブティックのフロアに向かう文江の姿があった。三人の店員がクリスマスツリーの横に立って、頭を下げて文江を見送っている。
婦人服売り場では、ブラウスに、スカートに、セーター、ジャケット、コート、はいたこともないレギンスなんてのも買った。
店員は「お客様でしたら、もっとお若い感じのこちらの方が……」などと、勧めてくれる。こんなことってはじめて。「あら、そうお」なんて答えたけど、嬉しくて嬉しくて――。服選びがこんなに楽しいことだったなんて……。
もう両手にいっぱいだけど……、まだまだ持てる。どれだけ歩いても、膝も痛まないし、疲れてもこない。このあと、ハンドバッグも、傘も買わなきゃいけないし、ベルトだって、財布だって、ハンカチやスカーフも若いのを買わなきゃ……。
開店と同時にデパートに入って、文江は、昼食を食べる時間も惜しんで買い物を続けた。レストランで軽く昼食をとったのは、入店してから四時間も経ったころだった。
さあ、つぎは、靴売り場とアクセサリー売り場。
文江は、六つの紙袋をコインロッカーに分けて入れて、化粧室の鏡の前で化粧を整えた。もろびとこぞりての曲が静かに流れていた。
(ファンデーション塗りすぎかも知れないわ……。しわ、なくなったんだから、地肌に薄くはたいて頬紅塗るぐらいでもいいのよね。アイラインもこんなに引かなくてもいいわ。化粧品売り場、今度と思ったけど、やっぱり、今日行っとこうかしら……)
文江はそんなことを思いながら、四十代に使ってそのままにしていたピンクの口紅を引きなおしていた。そのときだ。文江は下腹部が生暖かくなったのを感じ、あわててトイレに駆け込んだ。
(あら、たいへん。こんなこともあったのね……。ずっと昔のことだったから……)
文江は、トイレットペーパーを丸めて一時的に始末したあと、あわてて日用品売り場に走り、ここ十年ほど買ったことのない品物を買って、またトイレに戻って処置しなおした。
(下着売り場にも行かなくちゃ。そうよ。Dカップのブラも、買わなきゃなんないんだったわ)
デパートから出たときは外は暗くなっていた。文江は山ほどの荷物をタクシーのトランクと後部座席に積んで、自宅に戻っていった。
化粧室ではちょっとあわてたこともあったけど、それも若返った証拠。デパートでははしゃぎすぎたかも知れない。だって、楽しくて嬉しくて仕方がなかったから。文江はジングルベルの曲を口ずさみそうになって、あわてて口を閉じた。
デパートの化粧室横の授乳室で、若い母親が赤ん坊におっぱいをあげていた。乳の匂いが部屋の外まで漂ってきていた。今まで、気にしたこともなかったけど、若い女の甘い匂い。カーテン越しに中をのぞいていると、授乳室を管理しているおばさんから「おかあさんですか、どうぞこっちに」と話しかけられた。文江は「いえ、違います……」と答えたが、どぎまぎしていた。今まで、祖母に見られることはあっても、母親に見られる、なんてことは、なかったことだから。
文江はそのことを思い出して、にやりと笑った。そのあと、あわててバックミラーの運転手を見たが、運転手は気づいていないようだった。文江はほっと息をついた。
(ふう、もうおなかぺこぺこ。夕飯、なに食べようかしら。いつもの冷凍食品はもういや。食べ飽きたし……。そうよ、今日は外で……。久しぶりにスカイパーラーに行ってみようかしら。退院祝い、若返り祝いしなくっちゃ。今日買った服着て、今日買ったハイヒールはいて。カウンターに座って、ワインとお肉を注文するの。カウンターの向こうから、若いシェフが語りかけてくれる。星のきれいな夜ですね、なにかいいことあったんですか、とかなんとか……。わたしは、ええ、って言って、例のポーズをとるのよ。小首をかしげて上目遣いで、にこってね。ああもう、わくわくするわ――)
文江はまた、ほくそ笑んだ。
文江がマンションについたとき、ちょうど管理人が玄関から出てきたところだった。
「あっ、あら……。む――、麦山さんやね――」
「はっ、はい。麦山です。ながく留守して、すみません」
「いっ、いや――、そんなん、かめへんねんけど……。なんや、見違えてしもて……。十日もどこ行ってはったん」
「ええ、ちょっと、エステに……」
「エステ――? 十日も? ほんまですか? どんな、エステ行きはったら、そんなん、なりますのん」
「えっ、ええ、ちょっと特別なものなんですけど……」
「いやーっ、ほんますごいわ。エステでねえ――。せやけど麦山さん、ほんまにエステだけですか――。ねっ、だれにも言いまへんから、ほんまのこと教えてくださいよ。ほんまは、整形ちゃいますのん。ねっ、整形でっしゃろ」
「いや……、えっ、ええ」
「そら、言いにくいでっしゃろな――。すんまへん。しょうもないこと聞きまして……」
文江は、管理人に「それじゃ、また」と言って、玄関に入っていった。
いくらなんでも、この姿で会社に行くわけにはいかない。急に四十になっただなんて、うらやましがられるより怪しまれるに決まってるもの。そうよね。残念だけど……。
文江は出勤するときだけ、美しく見せるより、むしろ年寄り臭く見えるように化粧するようにした。普通の化粧品店では売られていない、舞台役者用の老けメイク化粧品をインターネットで取り寄せ、それでわざわざしわを作ってから、本当の化粧を施して出勤するのだった。
それでも、文江が若返ったらしいという評判は立った。
「ねえ、むぎふみさん、なんか最近、色っぽくなってませんか?」
「うん、わたしも不思議に思ってんの……。歩き方もなんか胸張って大股で……、はつらつとしてんのよね。前はほら、いつも背中丸めてとぼとぼって感じで歩いてたのにね。胸も大きくなった感じしない?」
「整形したんじゃないんですか。ほら、むぎふみさん、今月はじめに、二週間休みとってたでしょ」
「ははーん、そのときに……」
こういう会話を文江自身も耳にしていた。若い社員がうわさすることに、いちいち反応することはないが、さすがに給湯室から漏れてきた会話には驚いた。アルバイトの女の子ふたりがひそひそ声で話していたのだ。
「ねっ、ねっ、わたし、すっごいもの見たのよ」
「なに、なに?」
「むぎふみさんのカバンの中、なに入ってたと思う?」
「もったいぶらないで、早く言いなよ」
「ソフトで吸収力抜群、ってやつ」
「ええっ、ほんと? むぎふみさんって、もうすぐ六十だよ」
「ねっ、すっごいでしょ。あの年でまだあるってのが……」
「ひょっとして、あれがまだあるんなら、ほら、あれも、持ってんじゃない」
「なに?」
「あれじゃない。あれよ。ひ・に・ん・ぐ」
「まっさかあ……。でも、もし、もしほんとに、それ持ってたら、ギネスもんよね」
「ははっははっ、だよねえ」
ひそひそ声だったのが、次第に大きな声になっていく。最後は大声できゃっきゃっと笑う声が、給湯室の外に響いてきていた。
今日は総務部主催の「コンプライアンス勉強会」が開催された。ここで、文江の仕草が中年男性社員の目を釘付けにすることになる。司会の文江は講師を紹介したあと、講師席の脇の方の椅子に座った。椅子に軽く腰をかけ、両足は揃えて少し斜めに傾けた。紺のタイトスカートからひざ頭が飛び出している。肘を引き両手をおなかの前において背筋を伸ばす。文江はこの姿勢を維持したまま講師の話を聞いていた。一か月前、社長訓示のときの美人秘書課長のように。
文江は社員の視線を感じた。講師まで文江を意識しているように見える。
(どう、みんな見てる?)
講師の話が終わると、文江は立ち上がって講師の横に進んだ。社員たちの目が文江に注がれる。
後ろの方の席でだれかがささやいた。
「むぎふみって、あんなスタイル良かったか?」
「整形か?」
「かもね」
「いくらなんでも、整形はやだね」
(なんとでも言いなさい。わたしは、これから花開くのよ。この身体でね)
文江は、社員に向かって言った。
「講師のお話にもありましたが、ちょっとした犯罪でも、新聞や週刊誌の格好のネタになってしまいます。年末も押し迫ってきました。お酒を飲む機会も多いと思いますが、羽目を外してつい……、ということのないよう心がけてください。ではあらためて、講師を務めてくださいましたコンプライアンス推進室の草柳課長に、拍手をお願いします」
社員たちは一斉に拍手する。だが、視線の先は講師ではなく、文江の方を向いていた。
(ああ、なんていい気持ち、みんなの羨望のまなざし。わたしこれでもまだ、老け顔化粧してんのよ。本当はもっと若い、あの秘書課長と同じくらい若いのよ)
勉強会が終わって総務課の部屋に戻ってくると、北里達也が言った。
「係長、コンプラ勉強会の司会、お疲れさんっす。なんか係長……、なんちゅうか――、魅力的っすよ」
「えっ、あらっ、そうかしら。前と変わんないわよ」
文江は言ってから、しまった、と思った。前と……などと言うこと自体、なんかあったことを、自分からしゃべってる……。
「でも、タツヤくんに、そう言ってくれると、うれしいなあ」
タツヤ……、一度呼んでみたかった言葉……。北里はすぐに反応した。
「ええ! 係長もぼくのこと、タツヤって呼んでくれるんすか――。うれしいなあ」
井村愛が文江を厳しい目で見ている。タツヤと呼んでいいのはわたしだけよ、と追及している目だ。文江は、知らん顔して席に座った。
クリスマスイブになった。文江は、いつもの年のように、リビングルームのソファに座り、ショートケーキを前に、ひとりで「メリー・クリスマス」と唱えてシャンパングラスを掲げた。
(今年のイブはひとりきり。でも来年はたぶん……、タツヤか、タツヤに似た日本のどこかにいるあなた――、まだ、だれかわからないけど、わたしのこと愛してくれて、わたしも愛してるあなた――、そのあなたと、きれいな夜景が見えるレストランで、きっと、きっと、ワイングラスをかたむけて乾杯してる。ああ、待ち遠しいわ)
文江は、年末に帰省するかどうか悩んでいた。母のハルや弟が、今の文江の姿を見て不審に思わないはずがない。いくら老け顔メイクしても、スタイルが大きく変わったことは隠しきれない。ラボのオペのことは、たとえ親兄弟であっても話してはならないと厳重に誓わされている。実家で、いろんなことをたずねられてごまかしで答えて、またたずねられてまたごまかして……、ごまかしきれなくなって最後にオペのことをばらしてしまう――。こんなことは絶対にあってはならないのだ。
暮れの三十日になって、文江は実家に電話をかけた。
「はい、麦山洋装店です」と弟の声が返ってきた。
「わたし……、文江」
「ああ、ねえちゃん。いつ帰ってくるん」
「今年は、帰るんやめとこう思て……」
「なんで? 正月も帰れんほど忙しいんか」
「十月に帰ったばっかりでしょ」
「帰れんなら、しゃあないけんど……。ほな、おかあちゃんに挨拶だけしまい」
「うん、代わって」
ダダダッと走る音がする。道雄がコードレス電話を持って階段を駆け上がる音だ。
「おかあちゃん?」
「文江? どして、帰れんの」
「うーん、ちょっといろいろあってね……」
「なんか、困ったことかの」
「ううん、違う。良いことなんだけど今は話せないの。いつか――、おかあちゃんには、いつか必ず話すから、今は聞かんとって」
「そうか、そんなら待っとるけん……。お金だけは大事にするんよ」
「うん――、わかった」
文江は正月、故郷に帰らないわけじゃない。実の父、景浦泰蔵の墓前で、三億円という金で二十年の若さを買ったことだけは、報告しておかねばならない。年が明ければ、実父の墓だけ参って、麦山の実家には寄らずに帰ろう。文江はそう決めていたのだ。
母にも弟にも何も話せなかったことを、文江はちょっと後悔した。来年はきっと、いい縁談に恵まれる。そのときにきちんと話をしよう、文江はそう思っていた。
(つづく)




