第四章 リジュブネイト・ラボラトリー
第四章 リジュブネイト・ラボラトリー
テーブルの上に、昨日訪れた会社からもらってきた分厚い封筒がある。
〈~永遠の若さを~ リジュブネイト・ラボラトリー〉
文江は、昨日訪問したこの会社で、若返りの説明を受けたことを思い起こしていた。
ラボの若い社員、どう見ても二十五、六にしか見えないこの社員の実年齢は、なんと五十一歳だという――。
社員は、文江がサインした誓約書をクリアファイルに入れると「では、担当の医師を呼んでまいりますので……」と言って席を立った。
少し経って、社員は白衣を着た中年の男性医師を連れて戻ってきた。医師は文江の向かいの椅子に座って説明をはじめた。女性社員は医師の隣に座っている。
「当社は、一応、美肌エステ、ビタミン療法、美容整形といった事業も行っています。ですが、こういった方法は、見た目、若返ったように見えるだけで、身体そのものが決して若返るわけではないんです」
先ほど社員からも説明を受けた話だ。文江は医師の言葉にうなずきながら、女性社員の首筋を見た。きれいな肌――、透き通ってて、シミ一つない――。どれだけ美肌エステに通っても、五十一の肌がこんなになることはない――。
「当社はさらに進んだ方法で、若返りを実現することに成功したのです。当社の若返りオペは、グレードによってA、Bの二つの段階に分かれています。ほとんどのお客様はグレードAだけでご満足いただいているんですが、たまにBまで希望されるお客様もおられます」
文江は女性社員の方ばかり見ている。医師が「麦山様、おわかりですか」と問いかけると、文江はあわてたような様子で「えっ、ええ、ちゃんと聞いてます」と答えた。医師は一呼吸おいて続けた。
「老化の原因については諸説あるんですが、染色体のテロメアが短くなって細胞分裂のスピードが鈍ってしまうためという説と、DNAの突然変異が修復スピードを上回ってしまう、つまり不良DNAがたくさんできてしまう、という説が有力とされています。実は、当社の研究チームでは、こういった学説がとなえられる前からこのふたつの原因を根本的に解消する方法を開発していたんです」
医師は机の上に、細胞のイメージ図を示しながら説明を続けた。
「で、グレードAというのがテロメアの短縮を完全に防ぐ方法のことで、グレードBの方はDNAの突然変異を完全修復するオペのことです。二か月ほど前になりますが――、アメリカの大学でマウスを使った若返り実験が成功した、というニュースがテレビで放送されましたよね。ご覧になられたと思いますが、あの方法がグレードBなんです。実は、わが社では何年も前に実用化していた技術なんです。もちろん人間に対してですよ。……。信じられない――、というお顔、なさってますね」
「ええ……、だって……」
「もっともな疑問です。もし本当のことなら大発見じゃないかと――。どうして学会に発表しないのか――、ということですね」
「はい――」
「学会に発表しない――、ということじゃなく――、できないということなんです。ひとつには、このことが明らかになって、みんながみんな老化を止めてしまう――、そんなことになると、地球が人であふれる結果になりかねないからです。そして、もうひとつの理由は……」
医師は、文江の方を見て、ゆっくりと言った。
「わが社のヒトに対する実験は、極秘に行わざるを得なかったためです。つまり無許可の人体実験です。日本の法律で許されることではありません。ですが、もとより正規に手続きをとったところで、こんな実験、国が許可してくれるはずがありませんし、もし許可してもらえるとしても、何十年も先のことになってしまいます。つまり医学の進歩が著しく停滞してしまうのです。われわれは、医学の発展のためにこうせざるを得なかった……、ということなんです」
「それなら、どうしてわたしに……」
「率直に申し上げると、資金確保のためです。研究には膨大なお金がかかります。いま、当社で必要な研究費は、一部の資産家の方に頼っているのが現状です。そこで実用化の見通しが立った技術に関して、厳選させていただいたお客様だけにオペを受けていただいて、代わりに資金のご提供をお願いしたい……、とこういうことなんです」
「……おいくら……なんですか」
「お客様の身体状況にもよりますが、グレードAは約五千万円、Bの方は約三億円とさせていただいています。失礼かと思いましたが、麦山様の資産状況も調査させていただきました。お勤めして蓄えられたお金以外に、実のお父様のご遺産を十億円相続されたことも調査済みです。その一部をオペと引き替えにお支払いいただきたい――、と、こういうことです」
文江は、もう一度、女子社員を見た。美しい髪、つやのある肌、若い匂いが漂ってくるうなじ、張りのある胸のふくらみ……。文江は女子社員を手のひらで指し示しながら医師に聞いた。
「そちらの社員の方のように、なれるんですか……。わたしでも」
医師は社員に向かって「本当の年齢をお話したんですか」と聞いた。社員は「当社のこと、ご理解いただくためだったんですが……」と弁解した。医師は文江に向き直って言った。
「実は――、ここにいる大沼は、当社の実験台なんです。まだ、実験段階の若返り法――、グレードBのさらに上のランクなんですが――、その実験のオペを受けさせた結果、このように若返らせることができた、ということなんです。ですが――、この方法は、まだお客様にご提供できる段階にはありません。リスクも大きいですし、なによりもお客様の日常生活にも大変なご負担をおかけすることになるからです――」
「その方のようには、なれないと……」
「はい――。ですが、先ほど申し上げたとおり、グレードAかグレードBだけでも、かなり若返ったことを実感していただけるはずです。いかがでしょうか」
医師の話、信用できる気がする。五千万とか三億とか、要求されている金額は大きいが、話に乗ってみる価値はある。でももし、詐欺だったら――、ええい、そのときはそのときよ。高い授業料払ったと思えばいいだけのこと。
結局、文江はグレードAのオペを受けることにした。二日間入院したあと、二週間薬を飲み続け、そのあともう一度二日間入院して処置は終わるという。入院日は、翌週に決まった。
文江は、テーブルの上の封筒を見た。
〈~永遠の若さを~ ……〉
結婚相談所のアドバイザーが、「もう少し、お若ければ……」と言っていたのを思い出す。
もう少し若く――、が、本当に実現する。文江の胸は期待に膨らんでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「本当に、お世話になりました」
受付スタッフのひとりが総務部に挨拶に訪れた。会社の合理化で、受付が外部業者に委託されるようになって二十年、文江が座っていたころの華やかさはないが、外部業者のスタッフは、ニッポン紡績に指示された受付業務を着実にこなしている。
本山久美子、三十三歳――、文江とは二周り以上離れている色黒で長身の独身女性は、結婚して故郷に帰るという。総務部の面々から「おめでとう」と声をかけられるたび「三十路を越えて、ちょっと焦ってたんですよ」と答える。その声は文江の耳にも届いていた。
本山が文江のところに挨拶に来ると、部屋の空気が少し緊張した。
「あの……」
「いいのよ、気を遣わなくて……。結婚するんでしょ。おめでとう」
文江はそう言って、机の引き出しからのし袋を取り出して本山に手渡した。
数日前のことだ。総務部の若手社員の間で、有志がまとまって本山に何かお祝いの品を贈ろうという話になっていた。幹事役の女子社員が部のひとり一人にたずねて回っている。
「課長、本山さんへのお祝い、どうされますか」
「おっ、じゃ、一緒に頼むよ。これでいいか」
「いよっ、さすが高給取り。ありがとうございます」
社員はあずかった五千円札を頭の上に掲げ、深々と頭を下げた。その様子を見ていた総務部長は「おいおい岩上くん、張り込むじゃないか。じゃわたしも――これか」と言って五千円札を出した。社員は課長のときと同じように「さすが部長、ありがとうございます」と言って深く頭を下げた。課長は「すみません。出しゃばったまねして……」と部長に謝っていた。
社員は、文江のところにもやってきた。
「麦山さんは、どうされますか」
文江が「そうねえ……」と考える素振りをすると、社員は、「あっ、そうですね。じゃ、やめときますね」と言って、すぐに、つぎの社員のところに回った行ったのだ。
文江は、社員のあまりの素早い行動になにも言い返せなかった。
(なによ、それ……。まだ、お祝いするともやめるとも言ってないじゃない……)
さすがに、文江だけお祝いしないということもできない。さりとて、みんなの輪に入れなければ、自分でお祝いするしかない……。文江は、面倒なことを……、と思いつつ、祝い金を準備して保管しておいたのだった。結婚式用の結び切りではなく、蝶結びののし袋に古いお札を入れたものを。
文江からのし袋を受け取った本山は、腰を深く曲げて「ありがとうございました」と礼を言った。
蝶結び――、結婚の回数も重ねればいいわ。文江は、そう心の中でつぶやきながら「お幸せにね」と言った。社員たちの視線は文江に注がれていた。
リジュブネイト・ラボラトリーの入院の日がやってきた。
二日間だけの入院だが、会社には五日間の休暇を申請している。医師から「全身の細胞が一気に活発になりますので、二、三日は発熱やめまいの症状が出ることがあります」と説明されたからだ。
ラボに入ると、カウンターの前で中高年の女性客が店員に話しかけていた。
「この前、買った化粧水ね。コラーゲンとヒラ……なんとかゆうのん入ったやつ……」
「ヒアルロン酸ですか」
「そう、それそれ。なんや効いてきた気がするんやね。このへんのしわ、薄なってきた気ぃしますねん。せやけど、毎日使てると、すぐなくなってしまいますやろ。今日は、三本まとめて買うときますわ」
「ありがとうございます」と店員は言って、化粧水を三本とって客に手渡した。
「おおきに、ほな、また足らんようになったら来ます」
客はそう言って去っていった。
文江は店員に「麦山ですが……」と告げた。店員は「お待ちしておりました」と言ってすぐに文江を別室に案内した。
文江は、医師の指示どおり、病院着に着替えたあとベッドに横になった。医師はベッドの脇に立って文江に告げた。
「では、点滴を始めます。さっきも言いましたが、今から三十時間、ずっと横になったまま我慢していてください。寝返り程度は結構ですが、決して立ち上がらないようお願いします」
文江は、先ほど医師が説明してくれていたことを思い返した。
「テロメアを伸ばすには、テロメラーゼという酵素が有効だと言われてるんですが、テロメラーゼは幹細胞という細胞にしか効かないんですね。幹細胞というのはおおもとになる細胞のことですので、そのテロメアが長くなればそれはそれでいいんですが、すべての細胞が活性化するというわけではないんです」
難しい話はどうでもいいのに……、と文江は思っていたが、表情には出さなかった。
「当社が発明した薬は、テロメラーゼとは違って、全身のすべての細胞に直接働きかけるんです。どんな細胞でも、染色体のテロメアをひとつ一つ伸ばしていくという効力があるんです」
医師は身体の血管図、リンパ腺図、細胞の模式図を順番に示しながら説明していく。
「この薬を血管に点滴して、全身をめぐらせることになるですが、全身に行き渡らせるためには、かなりの時間がかかるんです。最低三十時間は必要となります」
難しい話が続く。文江は、医師の言うことにいちいちうなずいているが理解しているようには見えない。
「その後、二週間ほどは普通に生活していただきますが、その間に血管も通っていない組織にもこの薬が行き渡ってテロメアを伸ばしていきます。この二週間は全身の細胞が猛烈に働き出しますので、体温が四十度近くにまで上昇します。動悸は激しくなります。早足で歩いている感じがずっと続きます。ですが、しんどくはないと思います。風邪のような感染症による発熱とは違いますので……。この発熱こそ全身の細胞が活性化している証拠ですので、そのままにしておいてください」
医師は文江の表情を見て言った。文江はまぶたが重くなるのを必死に我慢している。
「麦山様、大丈夫ですか」
「え、ええ、ちゃんと聞いてますので……」
「二週間経ったらもう一度、ここに来ていただきます。今度は用済みになった薬を取り出すためです。この薬は尿から排出されません。というのは全身に行き渡る前に尿となって出てしまうことがないように、腎臓でも濾過されないような分子構造になっているからです。二週間後、今度は血液から薬を抜き出していきます。一般の血液透析装置のようなものなんですが、薬をすべて抜き出すためにはやはり三十時間は透析を続けていただく必要があります」
医師は続けて言った。
「すべての施術が終わった後、麦山様の全身の細胞は老いという状態から完全に抜け出ます。ご自分でそのことを身体で感じていただけると思います」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
十月の終わり、郷里に帰る瀬戸大橋線の車中に麦山文江はいた。
(お盆に帰らなかったけど、おかあちゃんどうしてるかな……)
今年の夏は、いろんなことがあった。出会い系サイトに登録してしまったり、酒樽のような五十前男にふられたり、還暦を過ぎた男からも断られたり……。何よりも大きな出来事は、リジュブネイト・ラボラトリーでのオペ――。
ここのところ、身体が軽くなった気がする。右膝の痛みもなくなった。化粧ののりも良くなった。左手の甲にあった大きなシミもなくなった。もっと驚いたことは、髪の毛をかきあげたときに生え際一面に目立っていた白髪がほとんどなくなっていたことだ。気のせいか、物忘れも少なくなってきたような気もする。
五千万円の価値はあった――と、言えるかも――、言えなくもないかも。
大好きだった実の父親が残してくれた遺産の一部を使ってしまったことに、文江は心を痛めていた。
(帰ったら、おとうちゃんのお墓、参らなきゃ……)
文江にとって三つ目の実家は、弟が継いでいる。弟といっても血のつながりはなく、生年月日は五か月しか違わない。学年は同級生で中学では同じクラスになったこともある。
というのはこういう事情からだ。
文江の母ハルと実の父は文江が小学三年のときに離婚した。離婚後、文江はハルに連れられてハルの実家に帰った。そこが二つ目の実家。離婚から二年経ち、ハルは、当時勤めていた麦山洋裁店の主人に見初められて再婚することになった。そこが三つ目の実家ということだ。ハルが再婚したとき、洋裁店の主人が連れていた子供が弟の道雄というわけである。
母のハルは弟と同居しているが、義理の父はいまは、実家近くの養護老人ホームに入居している。
弟と血のつながりがなくとも、母がいる限り実家は実家。文江は盆と正月には帰ることにしている。――が、それも様子をうかがう程度で、いつも一泊だけ泊めてもらうとすぐに大阪に戻ってくる。弟の妻とは同世代だが話も弾まないし、同居している弟の息子夫婦に、必要以上に気を遣われることが、窮屈なためだ。
「由紀ちゃん、大きくなったわね」
文江は弟の初孫を見て言った。由紀は由紀の母の陰に隠れて、文江の方をじっと観察している。弟が言った
「もう、ふたつじゃけん――。よう人見知りしてのう、抱きに行かんほうがええ、わしでも泣かれることあるけん」
「洋服、売れとる?」
「全然あかん――。不景気なんもあるけど、なんちゅうても既製品が安すぎるけんのう。ほら、洋服の青空とか……、いま全部、そういうとこに客取られとる。ねえちゃんとこの繊維は、どうや?」
「うちの会社は、早々と衣料用の糸から手引いたからね。今はね、スマホの表面パネルなんか、作っとるんよ」
「ねえちゃん、正月帰ってきたときより、若う見えよる。ええ化粧品でも見つけたんかいの」
「そうかしら、まあいろいろ、使ってるけどね。独りだし……」
「ええの、あるんなら、恵子にも教えてやっていたあ。最近恵子も、しわ増えたいうて悩んどるけん」
由紀がタタッと走ってきて、文江の前に、菓子の小袋をぽんと置いた。文江が「あら、由紀ちゃん、ありがとう」と言うと、由紀はまたタタッと走って母の陰に戻っていった。
「おかあちゃん、最近、どう?」
「あんまり、下りてこん。いつも上でテレビばっかり見とる」
「そう……、ちょっと、様子見てくる」
文江はそう言って、二階に上がっていった。
二階にあがるとテレビの大きな音が聞こえてきた。ハルの部屋から外にまで漏れている。ふすまを開けると、ハルはテレビのすぐ前にちょこんと座っていた。
「おかあちゃん、元気」と文江が呼びかけると、ハルはテレビを消して嬉しそうな顔で文江を見た。
「お盆、どうしよったん。待っとんたんに」
「ごめん、いろいろあったんよ。帰れない事情が……」
「まあ、ええわ。いつまでおるん」
「明日、帰る」
「また一泊だけかいね。忙しいん?」
「うん、ちょっと……。おかあちゃん、道雄、ちゃんと面倒見てくれてる?」
「道雄も恵子さんもようしてくれるんよ」
ハルは、急に声を落として文江に言った。
「せやけどね、うちが、おなか痛めて産んだ子やないいうんが、ずっと心のなかにあってね……。なんか、よそよそしいように、思うんよ」
「おとうちゃんとこ、行くことあるん? ほらあの老人ホーム」
「九月ごろ、道雄に連れてってもうた。お父さん、もうなんもわからんけんね……。うちが行ったいうんもわかっとらん。じゃけん、文江はいかんでもええ」
「前のおとうちゃんのお墓は?」
「うちは行かん、もう関係ないけん」
ハルは、そう言ってから、文江の顔を見た。
「文江は、前のおとうちゃんにかわいがってもうとったけんね。遺産、まだ持っとる?」
「う、うん……」
「大事にしとくんよ。なんせ文江は、ひとりやけん、最後はお金しか頼るもんないけんね」
「うん、わかってる――。ちょっと、前のお父さんのお墓、参ってくるわ」
実の父の墓前で文江は手をあわし、ラボのオペを受けたことを報告した。俗名、景浦泰蔵。この地では名士で通っていた人物だ。
四年前、景浦泰蔵は、文江に十億円もの遺産を相続させるとの遺書を残して亡くなった。
文江は、景浦の代理人から思わぬ話を聞かされたときの驚きを、今でも覚えている。遺書には、この十億円は麦山ハルや麦山家の実家に一切譲渡してはならないことも記されていた。このとき文江は、景浦泰蔵には、麦山の父と母ハルに対する、修復しがたい遺恨があったことを知った。
文江は、母を差し置いて十億円もの遺産を受け取ることを素直には喜べなかった。しかし、代理人はあくまで文江ひとりが受け取るか、すべて放棄するかの、どちらかだと迫った。結局、文江は金を受け取ったのだ。
文江は、景浦泰蔵との楽しかった日々を思い出した。
ハルが景浦と離婚し、麦山と再婚した後も、景浦はハルに内緒でたびたび文江を呼び出して、映画館へ動物園へデパートへと連れて行ってくれた。そのたびに家では食べられないような料理を食べさせてくれ、小遣いも持たせてくれたのだ。
文江は「おかあちゃんには、内緒にしとくんよ」と口止めされていた。しかし、小学生の少女の隠し事が母にばれることは必然だった。ハルは、文江が景浦に連れだされるたびに、文江を叱り、景浦にも抗議の電話をかけた。それでも景浦は文江を呼び出し続け、文江もそれに従った。その関係は文江が中学二年になったころに途絶えた。文江の方からクラブや高校受験を理由に断るようになったためだ。景浦からの呼び出しを文江が断るたびに、景浦は残念そうな口調で引きさがった。
墓前で手を合わしながら、文江はそのことを思い出した。
ハルが離婚する少し前のこと、小学三年の文江をどっちが引き取るかで、景浦とハルが大喧嘩していたのを文江は記憶している。景浦は文江の意見を聞くべきだと主張したが、ハルは子供になにがわかる、と言い返す。結局文江の意見は聞かれないまま、文江はハルのもとで育てられることになった。
離婚する前は「景浦」、離婚してからはハルの旧姓の「志光」、再婚してからは「麦山」と、小三から小五の間に三つの姓を名乗った。「かげふみ」、「しこふみ」、「むぎふみ」とあだ名も変わった。当時、クラスで人気者だった文江は、そんなあだ名で呼ばれても嫌みは感じていなかった。むしろ愛称で呼ばれることを楽しんでいた。今、会社で呼ばれている「むぎふみ」とは、まったく違う意味合いを持っていた。
実家で一泊した次の日の昼すぎ、文江は「じゃ、もう帰るね」と弟に言った。いつものことなので、弟や弟の嫁も引き留めることはない。由紀は昨日と同じように由紀の母を盾にして文江を見送っている。文江がバイバイというと手を振って返してきた。
ハルの見送りはない。最近、足が弱っていて階段の上り下りが大変なためだ、という。五千万円のことは、結局、ハルに話せなかった……。
「また正月に帰ってくるから」
文江はそう言い残して、実家を後にした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
斜め前の席の井村愛が、今日もまた北里達也に声をかけている。
「んもう、この字だけフォント変えようとしてんのに、どうやったって、全部変わっちゃうの。はあん、もう、わたしわかんない。タツヤ、こっちきて教えて」
(なにが、はあんよ。この色気オンリー女……)
北里は「もう――、さっき、教えたじゃないっすか」と言いながらも、机を回り井村の席に行く。井村は、肩の後ろからマウスを操作する北里の言葉にうなずいている。北里の口元は井村の顔のすぐ横にあった。
(ちょっとなに、接近しすぎ、ダメダメ――。ちょっと、井村、下心見え見えじゃない。今日だってシャネルなんかつけてきて……。いつだったか、北里くんが東京研修で一週間いなかったとき、香水なんかつけてなかったじゃないの――)
「すっごーい、さすがタツヤ。ちゃっちゃっとやっちゃうんだもんね」
「愛さんだって、覚えればすぐにできるはずっすよ」
(あっ、愛さん――、だなんて……。北里くん、なっ、なんなの。この前まで確か、井村さんって呼んでたじゃないの)
「昨日だって、わかんないとこあるってメール、ぼく、返事してあげたっしょ」
「あっ、あらっ、そうだった?」
井村は、そう言うと顔を上げてまわりの様子をうかがった。
(なっ、なに――? このふたり、メールのやりとりもやってんの?)
文江の向かいの席、新藤のキーボードをたたく音が大きくなった。新藤は、さっきから何か文字を打っては、デリートキーで削除するということを繰り返している。
(新藤くん、あなた、もっと、しっかりしなくっちゃ――。三十になったんでしょ。井村狙ってんでしょ)
文江は先日新藤が、こっそり社員の人事ファイルから井村愛のページを開いて、内容を手帳に書き写していたことを知っている。
(新藤くん、井村の誕生日や電話番号知りたきゃ、直接聞けばいいじゃない。席、隣なんだから――。それにだいたいあなた、ホワイトデーになにをしたの。義理チョコしかもらってないからって、なんにもしないでいるから、井村の心、ゲットできないんじゃないの。ほかの男ごらんよ。いい歳した部長まで女の子にプレゼント返してたでしょ。ホワイトデーにかこつけて、食事に誘うとか、ケータイの番号聞くとか、とにかくなんかしなくっちゃ――。なんでもいいから井村の気、引いてよ――。でなきゃ北里くん、わたしの方、振り向いてくれなくなるじゃない)
「麦山さん、集会室の準備、お願いしてましたよね。やってくれました?」
課長が文江にたずねた。今日は、本社から社長が訪れている。支社長の案内で先ほどまで、社内を視察して回っていたところだ。午後には集会室に社員を集めて、訓示することになっている。事前に、集会室に椅子を並べマイクの設営をするようにと、課長は文江に指示していたのだ。
「訓示って一時からでしょ。まだ十一時じゃない。もうちょっとしたら、やるわ」
「いや――、麦山さん。椅子並べるの、時間かかりますよ。それに、マイクのチェックだって必要だし……。いま、やっときましょうよ」
「あら、そおお、じゃあ、やりますか。北里くん、ちょっと手伝って」
北里は、「はい」と言って、急いで机を回って戻ってきた。井村が「あたしも手伝ったげる」と言って一緒に回ってくる。
文江は「あっそ、ありがとう」と言ったあと、新藤の方を見た。新藤はパソコンに向かったままだ。
「新藤くん、きみも手伝ってよ」
新藤は「あっ、はい」と返事して、いそいそとやってきた。
文江は、新藤と井村をペアにして椅子やテーブルを並べさせようとする。だが、井村の方は「タツヤ、タツヤ」と北里の方にばかり寄っていく。新藤は折りたたみテーブルをひとりで担ぎ、黙々と文江が指定する場所に並べていくのだった。
文江が少し若返ったことは、課のだれも気がついていない様子だった。文江は肩すかしをくった感じがしていた。北里に「係長、最近なんか若いっすね」などと、言われることを期待していたのだ。
(ほおのたるみだって小さくなったし、目尻のしわだって少なくなってるでしょ。胸も少し張りが出てきたのよ。なのに、なのにどうして――、どうしてみんな、気づいてくれないの……)
午後、集会室には、訓示を述べる社長より輝いた存在があった。
秘書課長――徳村理恵。社長が演説している間、彼女は、部屋の隅の椅子に足をそろえて座っていた。一部の隙もない美しさ、表情にも知性の高さがにじみ出ているその女性は、胸をそらし少し斜めを向いて社長の訓示を聞いていた。去年の人事異動で、同期の男性社員を差し置いて、三十七歳の若さで管理職に昇進した社員である。
きれい。切れる。清楚――。このような女の人っているものだ。男連中は、みんな美人秘書課長に気を取られている。この会の責任者総務部長も例外ではない。目尻をたらしだらしない表情で秘書を眺めていた。
社長の訓示は続いている。
「中国、バングラデシュ、ミャンマー、……。安い労働力が、世界のあらゆる業界を席巻しているのです。では今、ニッポン紡績は何をなすべきでしょうか、旧態依然と衣料用の製糸だけに頼っていては生き残れません。今こそ、他国にはまねのできない高い製糸技術を応用した、PETフィルムや分子フィルターの分野にシフトしていくべきなんです」
社長の話はすでに社内報などで表明されているもので、目新しい内容はない。中年男性――、その多くは管理職だが――、みんな社長の言葉を手帳に書き写しながら、ちらちらと秘書を盗み見していた。
(彼女――、結婚してるのかしら――。未婚かも知れないわ。そうよ、案外ああいう人って未婚が多いのよ――。それにしても四十前であの若さはなに――。肌もつやつやだし、シミひとつないじゃない。どうすれば、ああやって維持できるのかしら)
「新しい事業にシフトしていくからと言っても、わが社の創業の理念、絹糸、綿糸からスタートした理念を捨てるわけではありません。わが社の伝統を大切に守っていく――、その上で新しい技術にどんどんチャレンジしていって欲しいんです」
社長の演説は終わった。満場の拍手が鳴る。秘書も手をたたいている。その楚々とした仕草にも男たちは目を奪われていた。
グレードAのオペを受けたことで、文江は、若返ったつもりだった。若くなった実感もある。なのに、なのに……、あの秘書の若さに比べれば、まだ……。会社では、若返ったことにだれも気づいてくれなかった。文江は、医師が話していたことを思い出した。
「グレードAで、老化を食い止めることはできます。ですが、著しく若返るというものではありません。それに対して、グレードBの方は、細胞そのものを若返らせますので、人生でもっとも円熟した時期、だいたい四十前後の細胞にまで戻すことができるのです」
(医師は、Aだけで終わる客も多いって言っていた。けれど、やっぱりわたし――、もっと若くなりたい。四十前後に戻ることができるオペ――、グレードB。受けようかしら――、受ければ、あの秘書のように男社員から注目されるようになるかしら――)
文江の心の中は揺れていた。
「えーっ、本日は、わたしごときのために、こういう会を開いていただいて本当にありがとうございます」
社長の視察から一週間経った日のこと。関西支社近くの宴会場で、事業部長の北本誠が花束を持ちながら会場に向かって話していた。
北本は来月、ニッポン紡績を定年退職して、関連会社「ニチボウフィルム」に転籍する。人当たりのよい北本は部を越えて慕われていたこともあって、送別会には関西支社のほとんどの社員が参加していた。文江も出席している。北本は文江と同期入社だが、年齢は大卒の北本の方がふたつ上だ。
送別会では、支社長が北本の今までの業績を紹介し、親しい人たちが北本のエピソードを披露する。はじめは緊張した面持ちで会に臨んでいた参加者だったが、二時間も経つとほとんどできあがってきていた。
北本の挨拶に、事業部の部下らしい若手社員が割り込んだ。
「ブチョー、固い! 固いっすよ。もっと、みんな笑わさな」
北本は「せっ、せやな。似合わんわな」と言って周りを見渡した。みんなの視線は北本に注がれている。
「ほなまあ、いつもの調子で――。ついこの間のことですけど――、孫が言いよりましてん。『いーちゃん』、わたし、孫にはいーちゃん呼ばれてますねんけどね。『いーちゃん、還暦なったら、服買うたげる』ゆうて……」
「ブチョー、あかん。固い、固いって。ほら、もっと、やらこうに――」
さっきの社員が立ち上がって、北本の後ろに回って肩をもむ仕草をした。
「わかった、わかった。ほな――、今しかでけへん、とっておきの話するがな」
会場から「おい、山本。黙って座っとれ」と声がした。社員は頭を掻きながらもとの場所に戻った。
「山本くんのリクエストですんで。ほなまあ、今日はここで――、わたしの、とっておきの秘密を暴露することにしますわ」
北本はそう言って、会場の後ろの方を見た。みんな北本の視線を追う。視線の先には文江がいた。文江は何食わぬ顔でビールをグラスに注いでいる。
「えっ、なに、なに?」
営業部の女子社員が北本と文江を交互に見て言った。
「わたしと――、そこにいる、麦山さんは、同期入社なんですが……」
会場が急に静かになった。みんな北本の言葉に耳を傾けている。
「麦山さん、入社したてのころ、むちゃくちゃ美人でしてね……。当時人気やったアイドルに、そっくりや言うんで、フーミン、言うあだ名もあったぐらいですわ」
どこかで「ええっ?」とささやくような声が聞こえた。文江はにこりともせず、グラスを口に運んでいる。
「ほら、入社当時、受付に座ってはりましたやろ」
北本が奥の文江に声をかけた。文江は首を縦に振った。
「朝、出勤するとね。麦山さん、大きな声で『おはようございます』言うて、声かけてくれるんですわ。男子社員なんか、みんなでれーっとしてね……」
「へえっ」という声が聞こえる。みんなの視線が文江に注がれた。
「わたしもおんなじ。麦山さんが、こう小首かしげてにこって笑うでしょ。ほな、もうへなへな……ってなりましてね」
みんな、興味津々の顔つきで、北本の言葉に耳を傾けている。
「入社して次の年でしたかな――、バレンタインデーの日にね。麦山さん、出勤してくる男の社員に、チョコレート配ってはるんですわ。このくらいの――、ちっちゃいやつやったと思います。当時は、まだねえ、バレンタインデーでチョコ配るいうん、そんなに広まってませんでしたわな。本命の人だけに、こそっと渡してた時代やさかいね。今やったら、義理チョコや言うてみんな割り切ってるけど、そらあのときはびっくりしましたで。わたしだけやのうて、男の社員みんな、どきっとしたと思います」
「へえ……」、「そうなんだ……」というささやき声がする。文江は、自分にちらちらと視線が向けられているのを感じていた。
「そんなんやから、中には誤解するやつも、おりますわな。『フーミン、ぼくに好意持ってくれてるんちゃうやろか』っちゅうふうにね」
北本は一呼吸おいて、会場を見渡してから続けた。
「で、わたしも、その中のひとりやったっちゅうこって……」
みんな北本の次の言葉を待っている。
「何日か経って、わたしね。受付で麦山さんひとりになったとき見計らって、お手紙を差し上げた――、とまあ、こういうこってすわ」
「ええーっ」、「ほんまーっ」、「やったーっ」。あちこちから歓声があがる。北本が話を続けるとまた急に静かになった。
「麦山さん、次の日、わたし聞きに行きましたよね。『読んでくれはった?』って」
文江は、ちょっと考えるような素振りを見せて首をかしげた。
「そうですか、覚えてはりませんか。あのとき麦山さん、いつも見せるようにこう、小首かしげて、ちょっと上目遣いになって『ごめんなさい』って言わはりましてん」
会場がまた沸いた。「うわーっ、かわいそう」、遠くの席で「むぎふみに、振られよった」という声も聞こえた。
「また、その仕草がねえ。かわいいっちゅうか、色っぽいっちゅうか……。ねえ、あのときたぶん、わたしとおんなじようなやつ、何人もおったんでしょうな」
北本が文江に同意を求めると、文江は軽くうなずいた。
「ヒュー、ヒュー」、「ロマンスやーっ」、「愛をめぐるたたかいやーっ」
盛り上がりはピークに達した。ほとんどの人が文江を見ている。意外そうで、見直したようで、興味深げで……。しかし、これだけ盛り上がったのに、文江に話しかけてくる者はいなかった。
送別会は、最高の盛り上がりを見せてお開きとなった。
北本が過去を暴露したことで、社員たちの文江を見る目が少し変わったかも知れない。けれど、文江が少しでも若返ったと気づいた人はひとりもいなかった。膝痛が治っても、身体が軽くなっても、五十九は五十九、これではだめ。先週支社を訪れた秘書課長にはかなわない……。
グレードBのオペを受けよう。文江はそう決心した。
(つづく)




