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第二章 かわいいきみ


   第二章 かわいいきみ


 北里達也は、入社二年目になる社員である。切れ長の目をした上品な顔立ちで、背が高く、人気アイドルグループのひとりと似ている。総務課に配属してすぐのころは、「つよぼんツー」とか「地デジ男」と呼ばれることもあったが、呼びにくいのか、今では「北里くん」で定着している。きさくで社交的で、職場でも人気者である。

 去年新人で総務課に配属されたときは、麦山文江のもとで、出退勤の手続きだの、社内便の出し方だの、書類決済の受け方だの、関西支社での仕事のルールをひととおり教わった。

 今も文江とともに、社屋管理、社用車管理担当としての仕事をしている。

(きみだけよ。だれからも煙たがられてるわたしに、屈託なく話かけてくれる子は……)

 文江は、隣の席でパソコンに向かい、文江に指示された配車スケジュール表を作っている北里の様子を、横目でちらっと見た。

 長い脚を窮屈そうに机の下に押し込んで、画面を一心に眺め仕事に集中している姿は、いつもながら――、愛らしい――。


 文江は、去年、北里を初めて社員食堂に連れて行ったときの楽しかったひとときを思い出した。

「さすが北里くん、若いわね。それ大盛りよね」

「はい、ラーメンもご飯も大盛りっす。いっぱい食べとかないと、すぐおなかすきますから――。係長、それだけっすか」

「ええ、いつも、おうどんだけ。――でね、支払いは、お盆ここにおいてね、社員カードこうやって通せばいいの。やってみて」

「東京の研修でもこんなんでした。給料から自動的に引き落としてくれるんすよね」

 文江と北里は二人席に向かい合って座った。文江は周りを見渡した。若い男性とふたりきりでいることに、妙に緊張している自分を感じていた。

「北里くん、九州出身だって?」

「ええ、熊本っす。毛深いっしょ。係長はどこっすか」

 北里はしゃべりながら、勢いよくラーメンをかき込み、口にご飯を押し込んでいる。

「わたし――? 四国の高松」

「へえ、だから、うどんなんすね」

「いや、そういうわけでもないのよ」

「ぼくの母も、うどん好きなんすよ。お昼、いつもうどん食べてました」

「おかあさん、おいくつ?」

「ええと――。四十九か五十か……。そのへんす」

「そうっ――、お若いのね――」

「ふう、おしいかったっす。ここの食堂、うまいっすね。係長、運動とか、なさらないんですか」

「あんまりしないけど……、どうして?」

「同期のやつが、リフレッシュルームに卓球台、あるって、言ってましたんで……。係長、どうかなって」

「うーん――、身体がついてかないかも……。でも、北里くんと一緒なら、行こっかな」

 文江はそう言ってから、あわてて周りを見渡した。

(なんて、ブリっ子な言葉――。北里くんにつられちゃって――。ああ、恥ずかしい)


 リフレッシュルームは、碁盤に向かい合っているふたりがいただけで、卓球台はだれも使っていなかった。文江は北里に言われるままラケットを持って卓球台に立った。北里は上着を脱ぎ、卓球台の向こうに行って「係長、いきますよ」と言った。

「ちょ、ちょっと待って。ゆっくりね。わたし、若くないんだから……」

「そんなこと言って油断させようと思ってるんでしょ。係長、若い、若いっすよ。ぼく手加減しませんからね。じゃ、いきますよ」

 北里は、手加減しないと言いつつも、文江が返しやすいようにボールを打ってくる。文江はきゃーきゃー言いながらボールを返した。十分ほどもプレーしただろうか。文江は「ダメ。はあ、はあ、もう動けないわ――」と言って、卓球台の横にしゃがみ込んだ。北里は文江の横に来て「大丈夫っすかあ」と言って文江の顔をのぞき込んだ。目の前に北里の顔がある。文江は「ありがとう。大丈夫よ」と言って立ち上がった。


「係長、これでいいっすか」

 北里が文江の方を見て言った。横目で北里を見ていた文江は、あわてて視線を自分のパソコンに戻し、それからもう一度北里の方を見て「どれどれ」と言った。北里のパソコンには、一見して使い勝手の良さそうな配車スケジュール表ができあがっていた。

「いいじゃない――。とってもいいわよ。じゃそれ十枚ほどプリントアウトして、ファイルに閉じといて」

「わかりました」

(北里くんのこの気さくさは、どこから来るのかしら……。ほんとかわいい――。というか――、好、き――)

「タツヤ、もうできたの。めちゃ速いじゃん」

 北里の向かいの席の井村愛が、北里に話しかけた。井村愛は北里の二年先輩。いつも、北里になんやかやと声をかける。

「いえ、簡単な表ですから……。井村さん、支社長の予定表でしょ。ぼくのよりもっと複雑じゃないっすか――」

「タツヤ、終わったんなら、こっち来て、ちょっと教えて」

 北里はぐるっと回って井村の机まで行った。

 井村は「ここ、どうしたらいいか、わかんなくて……」とパソコン画面を指さした。北里は「このセルの書式設定、変えたらいいんすよ。ここで右クリックするでしょ……」と言いながら井村のマウスを操作した。

 文江は、斜め前のふたりの動きを盗み見している。マウスを動かす北里の右手と井村の右手が触れた。井村は手を引っ込めもしない。

(そっ、そんなに北里くんの顔に近づいて……。だいたい書式設定ぐらい北里くんに聞かなくったってわかるでしょ。それになに? タツヤって呼び捨てにして……)

 文江は北里に言った。

「北里くん、次、給湯室に貼る注意書き作って。『種火をつけっぱなしにしないでください』っての」

「はっ、はい――。じゃ、井村さん、ほかも同じ要領で……」

 北里は、あわてて自席に戻ってきた。井村はブスッとした表情で文江を見ている。


 資材部で重要書類が紛失したという事件があったのは翌日のことである。

「俺ね。書類、ここに置いて帰ったんだよ。ここにね! ところが朝、出勤してきたら、なくなってる」

 資材部の豊川主任は雑然とした机の上を手のひらで何度もたたき、つばを飛ばしながら、北里にかみついた。文江は北里の後ろで黙って腕を組んでその様子を見ていた。

「掃除のおばちゃんが捨てたとしか思えないだろ。そう思わないか!」

 北里は「……はい、そのとおりです」と何度も頭を下げた。

 豊川は「んとに……、総務の連中がしっかりしていないから……」と言って「ねえ、部長もそう思うでしょ」と資材部長に同意を求めた。豊川も部長も、さっきから文江の方は一切見ようとしていない。部長は言った。

「豊川くんの言うとおりですわ。総務の方からいっぺん、清掃業者に聞いてくれますやろか」

 豊川が「何が何でも探し出せ、ってな」と付け加えた。

 北里は「はい、すぐに」と返事して資材部を出ていった。文江は、何か言いたそうな素振りを見せたが、なにも言わずに出ていった。

 紛失した書類は、競泳用水着布の編み技術をまとめたA4十枚ほどの資料だという。クリップでとめて机の上に置いていたらしい。中には機密事項も含まれている。

 北里は、総務部に戻ると、早速、資材部を清掃したという金田洋子に問い合わせた。すると、金田は問い合わせがあることを予想していたかのように「これですか」とその書類を持ってきたのである。先日、古希を迎えたという金田だが身体はかくしゃくとしている。

 金田は北里にこう言った。

「豊川さんの机ですやろ。こう言うちゃなんですけど、いつも山積みでっさかい、机の上のもん、よう床に落ちてますねん。床やったら、あっ落ちたんやな、ってわかりますねんけど……」

「そうなんですか……。で、落ちてたときは、どうしてんすか」

「豊川さんの机の上に戻しときますねん。いっぺんゴミ箱の中にも書類、落ちてたことありましてね。うち、仕事のことようわかりませんけど、どう見ても大事なもんや思いましたから――、そのときも、机に戻しときましてん」

「豊川主任は、なんて?」

「なんも言わはりません。たぶん、落ちてたこと、気い、ついてはれへんのやと思いますわ。せやけど、何回かそんなんあったあと、うち、豊川さんにえらい怒られたことありましてん。そのときはどうやら、豊川さんがほんまにほかしてはった書類、机に戻してしもたみたいなんやね。豊川さん、『お前んとこの会社、掃除せんと、ゴミ、机の上に戻すんか』ってえらい剣幕で怒りはって……」

「金田さん、とばっちりっすよね」

「ええ、いきなり怒鳴りはるんですから――、びっくりしましたで。それから、うち、床に落ちてんのは戻しますけど、ゴミ箱のんは戻さんようにしたんです」

「ゴミ箱の中はすぐ捨てる、と……」

「いえいえ、豊川さんの横のゴミ箱のもんだけは、すぐにほかしません。もし、ほんまに大事なもんやったら、それこそ一大事でしょ。せやから、うち、あのゴミ箱のゴミだけは、一日だけ、取っとくようにしとるんです。清掃員の休憩室においといて、次の日にほかしますねん」

「そうなんですか……。すみませんね。余計な気つかってもらって……」

「これも仕事や思てやってますから……。今回のも、ゴミ箱に落ちてましてんけど、ほかさんと置いとったもんですわ」

 なんのことはない。すべて豊川の粗雑さから発生した出来事だったのだ。豊川は清掃員に怒るどころか、機転をきかせて保管してくれていた金田に感謝すべきだったのだ。

 話を聞いた北里は「ありがとうございました。でもまっ、これで一件落着っすね」と笑って書類を持って資材部に行こうとした。しかし、文江がそれを止めた。

「だめよ、こんなのほっといたら。わたしが、豊川主任にガツンと言ったげる。一緒に行きましょ。書類は、ここ置いといて」

 その後、文江が資材部に猛抗議したことは言うにおよばない。

 資材部長と豊川主任は、文江の前に並んで立たされて一時間にわたってたっぷり絞られた。資材部長にいたっては酒にまつわる過去の失態や女性遍歴まで暴露されたのだ。資材部の面々はずっとその様子を見ていたが、だれも止めに入ることができなかった。

 文江と北里が総務部に帰ってきてから十分ほど経ったころ、今度は資材部長と豊川がおずおずと総務部を訪れ、まず文江に、そのあと、総務部長、総務課長、北里の順に詫びて、書類を返して欲しいと申し出た。

 北里が書類を返そうとしたとき、文江が「金田さんに謝ってきたの」と聞いた。資材部長と豊川は顔を見合わせて首を横に振った。文江は「総務部長なんか関係ないでしょ。あんなどうでもいいのに謝る前に、金田さんとこ行くのが先でしょ。行っといで」と言った。総務部長はそれを聞いて首をすくめた。資材部長と豊川は、言われたとおり金田に謝りに行き、ようやく書類を受け取ることができたのだ。


 一連の騒ぎが終わって、文江がパソコンを開けると、新しいメールが届いていた。タイトルは[係長、かっこよかったです]、差出人は北里達也。文江の心臓がパクッと音を立てた。文江は背後に視線がないことを確かめてメールを開いた。

[総務部長がおられる前で直接言いにくいので、メールで失礼します。今日はありがとうございました。資材部長や豊川主任にあれだけ言えるって、さすが麦山係長です。総務部長でも、係長が怖くって口出しできないんですね。係長は、関西支社の陰のドンなんですね。かっこよかったです。今後もご指導お願いします。北里達也]

 文江の心臓の鼓動は治まらなかった。文江は隣の北里をそっと見た。文江の視線を感じてか感じてないか、パソコンに集中している様子だった。

 文江は返信文書を書いた。

[わたし、恐れられてるんじゃなく相手にされていないだけ。陰ではみんな「むぎふみには叶わない」なんて言ってるのを、北里くんも知ってるでしょ。でも嬉しいわ。かっこいいって言ってくれて。文江]

 と、ここまで書いたところで文章を見直した。

(こんなメール返して、変に思われないかしら……)

 文江は悩んだ末[でも嬉しいわ……文江]のところを削除して、[でもありがとう。麦山]と書き直して送信した。

 北里からのメールは、自宅に転送した。何度でもあとから眺めたい――からだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 発泡スチロールのゴミが相当たまってきた。冷蔵庫の冷凍室を開けて、今日のメニューは……と画策する。山盛りになっている冷凍食品ストックの中から、麦山文江は冷凍チャーハンを取り出し、大皿の上にザザッと流して電子レンジに入れた。自分ひとりが食べるだけなのに料理なんかしない――。文江は、今度は冷蔵室の方を開けて五百ccの缶ビールを取り出した。

 この季節、日差しが強く、昼間でもカーテンを閉めている時間が長い。薄暗いリビングルームのソファに座って、缶ビールを開けそのまま口に運ぶ。コップなんていらない。だれにも見られちゃいないんだから。缶ビールをテーブルに置き、ソファに横になってテレビをつける。休日ってスポーツかバラエティーばっかり。文江はリモコンでチャンネルを次々と変えた。これといって見たい番組があるわけでもない、けど、なんとなくテレビはつけたまま、静かすぎる部屋ってかえって落ち着かない。ソファの背もたれには、昨日会社から帰って脱いだままのストッキングがかかっている。そろそろ掃除しなきゃ――、と思うけど、なかなか気が乗らない。

 電子レンジが音を立てた。文江はどっこいしょと言って立ち上がり、チャーハンをテーブルに持ってきた。新喜劇を見ながら、チャーハンを食べビールを飲む。一応婚活中の女、でも、女ってこんなものよ、男が見てないとこではね、と文江は自分を納得させた。

 チャーハンを食べ終わりビールを飲みほすと、文江はゲポッと大きなげっぷをして、またソファに寝転んだ。テレビのチャンネルを変える。ニュースの時間だ。「カプセル若返り法が成功」という文字が、アナウンサーの下に表示されている。文江はボリュームを上げた。


「アメリカの○○大学の研究チームが、マウスを使った若返り実験に成功した、と発表しました。スミス教授によると、麻酔で眠らせたマウスを特殊な溶液で満たしたカプセルに沈め、およそ十日間にわたって特定の周波数の電磁波を照射し続けたところ、処置を施したマウスの寿命は、施していないマウスに比べ一年延びたとのことです。寿命が延びるのは溶液と電磁波の相互作用によって、全身の細胞が一気に活性化するためだと説明しています」

 画面では、教授がインタビューに答えている。その内容が日本語で表示された。

「注目すべきことは、細胞は活性化したのではなく若返ったということです。マウスの寿命はだいたい三年で、実験に使用したマウスも三歳だったんですが、この処置によって細胞は一歳半の時点まで若返りました。糖尿病や高血圧も改善したんですが、何より生殖機能が回復して子供も産んだ、ということが、この実験の成功を証明しています」

 テレビはアナウンサーのコメントに戻った。

「スミス教授は、五年後には人での臨床実験までこぎ着けたい、と話しています」


 そんないい方法なら、早く人間にも応用してよ、と思いつつ文江は、「メールでもチェックするか」とつぶやいて、ソファから起き上がった。


 今日も、結婚情報サイトを通した男性からのメールが四通届いていた。すべて六十代の男性。一応ひとり一人チェックするけど……、やっぱり気が乗らない。五十九にもなって、なにを贅沢なことを――、と思う心と、そうでない心――。ああ、北里くん――、文江の心は、長身で若く「係長、係長」と親しげに寄ってくる男性社員に支配されていた。

 文江は、保存フォルダをクリックして、北里からのメールを開けた。

[係長、かっこよかったです]

 あの日以来、何度この文章を読んだことか。

(三周り近く若い北里くん、いくら想っても自分には叶わない人だとわかっている、それでも――、わたしの心から消すことができないきみ……)

 文江は北里のことを忘れようと首を振った。受信フォルダに戻ってほかのメールをチェックする。


 今日も「リジュブネイト・ラボラトリー」からのメールが届いていた。

[テレビニュースをご覧になったことと存じます。カプセル若返り法がアメリカではマウスを使った実験が成功しました。ですが、麦山様、わが社の方がもっと早くにそれを実現していたとしたら。さらにわが社では、もう一段階進んだ若返り法も取り入れているとしたら。もしそうだとしたら、すごいことだと思われませんか。だまされたと思って、一度お越しになりませんか。お待ち申し上げております]

 いつもながらこの会社のメールは、文江の行動を見透かしているようで不気味な感じがする。文江は削除せず、また受信フォルダに残したままにしておいた。


 今日も一日が終わった。一日一日がどんどん速くなっていく、文江はそんなことを思いながらベッドにもぐり込んだ。

 目をつむると北里くん、きみの笑顔がうかぶ。「係長、これでいいっすか」、屈託のないきみの話し方――、思い出すたび胸が高鳴る。恋――、これが恋――、この歳になってこんな恋するなんて……。切ない――、つらい――。長身のきみがわたしの前に立つ。顔のすぐ前にあなたのたくましい胸……。その胸に飛び込みたい。そして抱きしめて欲しい。力強く――、息ができなくなるほど……。

 仕事中、何度、そんな妄想にふけったことか――。となりの席のきみ、きみが手を高く上げて伸びをしたとき、ふと、半袖シャツの袖の間から見えた陽に焼けた胸、ほのかに漂う男の汗のにおい……。わたしをうずめさせて、きみのその胸に――。もう一度――、もう一度そのにおい、わたしにかがせて――。そして抱いて、抱いて、その腕でわたしを抱いて――。

 文江は手で胸をなでた。張りがあったのは遠い、忘れるほど遠い――、むかしのこと。ぺたんこでたれきった乳房……。こんなおっぱいだけど、触って、こんな風に……。

 文江は手をおへそから下腹部に持っていく。そう、ここも――。月のものがなくなってかれこれ十年。わずらわしいことはなくなったが、潤いもなくなったここも……。

 文江は「ふーっ」とため息をついて、頭から掛け布団をかぶった。


(つづく)



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