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第十二章 ふたたび、むぎふみ係長


  第十二章 ふたたび、むぎふみ係長


 一か月後の六月五日、南山沙希を名乗っていた麦山文江が、カプセルから出てきた。

 文江は、用意していた老眼鏡をかけて鏡の前に立った。そこには、見ようによっては古希にも見える、化粧を施さない六十歳の女の姿があった。

 頭は白髪でおおわれ、茶色に焼けた顔には点々と黒い粒が見え、ところどころにシミがあらわれている。額や眉間に何重ものしわが浮き出、ほおはくぼみほうれい線がくっくりと浮き出ている。あごの下はたるみ、首にも深い横縞が刻まれていた。

 胸は垂れ落ち、おなかには掌にあますほどの脂肪のかたまりがついていた。二の腕や太ももは、動かすたびにぶよぶよと揺れた。


 医師は無言で文江を見ている。文江にかける言葉を探しているが見つからない、医師の表情には、そんな思いが見て取れる。医師の横には、若さを保ち続けている女性社員の姿があった。

 文江は医師に「お世話になりました」と告げて、ラボを後にした。


 文江は自宅マンションに戻ってきた。年齢が元に戻るとマンションまで古く見える。

 文江は玄関ホールでエレベータを待った。ここ何か月も、三階の自分の部屋までエレベータなど使ったことがない。待つのがまどろっこしくて、いつも階段を駆け上がっていた。今の文江は、タクシーを降りマンションの玄関まで歩いてきただけで、ひざと腰が痛んで、座り込みたくなるほどだ。文江はエレベータを待つ間、手を腰に当て身体を反らし首を左右にひねった。首の骨がぐぎっと音を立てた。

 エレベータが到着すると、管理人が下りてきた。管理人は文江を見て声をかけた。

「おやっ、麦山さんちゃいますの。久しぶりやね」

「すみません。ここんとこ仕事、忙しくて……」

「いえ、よろしいねんけどね……」

 管理人は、麦山の姿をしげしげと見て言った。

「麦山さん、こんなこと言うてええかなあ――」

「なんです?」

「ひょっとして、ちょっと肥えはった? いえね。前にお見かけしたとき、えらいスマートになってはったでしょ。いやほんま、うらやましいぐらいに……。せやけど、今、ちょっとふっくらしてはるから……」

「ええ、ちょっと……」

「やっぱり、節制せなあかんね」

 エレベータの扉が閉まった。管理人は、文江が階の表示が上がっていくのを見ているのに気がついていないようだ。文江はもう一度「△」ボタンを押した。

「そうそう、この前、お孫さんと会いましたで。ほんまかわいらしいお孫さんで……。名前なんて言いますの?」

「沙希といいます」

「しっかりした子やね。おかあさんも留守や言うて、ひとりで留守番してやったんよ。もう帰りはったん」

「ええ、先月、娘の実家の方に……。あっ、すみません。エレベータ来ましたんで――、失礼します」

 文江はそう言って、エレベータに乗り込んだ。


 部屋に入って、パソコンを立ち上げメールチェックする。何百もの新着メールが読み込まれた。例によって、結婚情報サイトからのメールが大半だ。

 六十代、七十代男性からのメールに混じって、三十代、四十代男性からのものもある。こういうものがサクラだと気づくまでに、時間がかかったけど、今はだまされることはない。文江は、切れ長のちょっと憂いを含んだ顔の六十代男性に返信メールを出した。若いころはたぶん人気アイドルグループのあの子に似ていたに違いない。

(いまさら、結婚する気なんてないけど、老人同士のアバンチュールだってあっていいじゃない。わたし、男の扱い方って慣れてるもの)


 文江が、勤め先の株式会社「ニッポン紡績」に電話したのは翌日のことである。電話に出た課長に、四日後の六月十日から出社したい、と告げた。課長は「みんな待ってますよ」と言った。

 たぶん今ごろ、総務課の中は、むぎふみが帰ってくるって、大騒ぎしていることだろう。そのことを文江はわかっていた。


 歩くのがつらい。身体が重い。膝が痛い。すぐに息が切れる。血圧も高いみたい。飛蚊症も戻ったようだ。明るいところを見ると蚊がひゅっと目の前を横切る。四十過ぎて、はじめにこの症状が出たときは、本当に蚊が横切っているような気がして、うっとうしかったものだ。今一年ぶりに、目の前を蚊が飛ぶと、やはりうっとうしく感じる。


 九か月ぶりの出社で、社内から「元気でした?」と声をかけられたのは最初だけだった。社員たちは声をかけたあとは、いつもの仕事に戻っていった。一時期イメージチェンジしていた文江から、またもとの六十女に戻ったことについては、だれも触れてこなかった。

 文江の机は残されていた。引き出しには文江の個人のもの以外、なにも残っていなかった。部屋の隅に段ボールが三箱ほど積み上げられている。おそらく文江がいない間、共用机として作業台にでも利用されていたのだろう。

 出社したところで、仕事があるわけではない。職場の面々はなんとなくよそよそしい。六月十九日の定年退職までのわずかな期間だけの仕事、九日後には、またこの職場から去ることになるのだ。退職前日の十八日には部で送別会を開いてくれるという。


「北里くん、元気にしてた?」

「係長もお元気そうじゃないっすか。心配してたんすよ。確か――、九か月ぶりですよね」

「ええ、そうね」

 本当は三か月ぶりの再会――。北里と最後に会ったのは、文江が推定年齢十五歳のとき、警察官の職務質問から逃げたときのことだ。

「ねえ、井村さんは、どうしたの」

 文江がたずねると、北里は斜め向かいの新藤を見た。新藤は頭を掻いて照れくさそうにしている。

 新藤によると、井村は去年十二月、相当、落ち込んでいる様子だったらしい。そのとき勇気を振り絞って声をかけたというのだ。その後、新藤と井村の交際が始まり、とんとん拍子に話が進んで、つい先月、結婚したという。井村は結婚を機に退社したらしい。


 定年退職を翌日に控えた日、文江の送別会が行われた。

 総務部長が、お決まりの言葉で文江の経歴と業績を紹介した。

「わが社のアイドルだった、麦山さんが去ってしまうのは、寂しいものがあります。ですが麦山さんが退職されたあとも、総務部は残った者がしっかり盛り上げていきます。麦山さん、あとはどうぞ、われわれに任せてください」

 送別会は、静かに進行していく。文江のまわりには、総務部の面々が入れ替わり訪れ、在職中の話を盛り上げようとしてくれているが、どことなくよそよそよしい空気が漂っていた。

 文江とは離れた場所では、別の話題で盛り上がっていた。中年の男性社員の大きな声が会場に響いている。

「可能だって言うんだったら、俺、その手術、受けたいね」

「理論的には可能らしいですよ。好きなところまで若返って、そこから歳をとり始めることができるんですって」

 昨日夜のニュースで、アメリカの○○大学のスミス教授が、また若返り実験に成功したということが報道された。スミス教授は、二年前に破損したDNAを完全修復する方法で若返りの動物実験が成功したと発表した人物だ。リジュブネイト・ラボラトリーでグレードBとして、すでに実用化していた方法である。

 今回は、体内時計を制御する方法が成功した、という。グレードCのことである。ニュースでは、若返りに成功したという毛虫が画面に映し出されていた。「この毛虫はつい先日までアゲハ蝶だったんです」とスミス教授は得意げに語っていた。

「そんなに簡単にできるもんだったら、俺、二十歳ぐらいに戻ってさ。それからまた歳取って、四十ぐらいになったらまた二十歳に逆戻りするっての、繰り返すよ」

「だよね。やってみたいよね」

「むぎふみさんなんて、いっぺんに飛びつくぜ」

 中年男性は、言ってからあわてて文江の方を見た。文江は知らん顔して、ほかの人からの酌を受けている。


 文江の横に、北里が挨拶にきた。

「係長、お世話になりましたっす」

「北里くんも、これからがんばってね」

 文江がそう言ったとき、文江のカバンから音楽が聞こえてきた。携帯が電話着信を知らせている。文江は「ちょっと、ごめん」と言って、携帯を取り出して留守モードにして、またカバンに戻した。

「実家からの電話。またこっちからかけるから……」

 北里が怪訝そうな表情をしている。

「どうしたの」

「係長、その着メロ……」

「そう、エルガーの愛のあいさつ、オルゴールの音から取ったの。綺麗でしょ」

 文江は、北里の顔を見て言った。北里は驚いた表情で文江を見ている。北里がなにを悟ったのか、文江にはわかった。

「大好きな人からもらったオルゴールの音なの。いつも聞いていたいから……。その人ね。右の脇腹にほくろあったわ。このくらいの大きさの、とってもかわいいほくろ……」

「……」

 文江は続けた。

「北里くん、いい人見つけて結婚してね」

 北里は、なにも言わなかった――、言えなかった。

 別の男性社員がやってきて、文江と北里の間に割り込んで座った。社員は「麦山さん、お疲れ様でした」と言って、麦山のグラスにビールをついだ。


 翌日、文江は支社長室で退職辞令を受け、各部に挨拶回りしたあと、総務部に戻ってきた。花束を受け取り、部のみんなと記念写真を撮ったあと、総務部の部屋をあとにした。北里には声をかけなかった。かけたら泣いてしまいそうだから――。


 部屋を出、廊下を歩いて玄関に向かっていたときだった。後ろから声がした。

「沙希ちゃん」

 文江は、その場に立ち止まった。立ち止まったまま動かなかった。だれが呼んだかわかっている。胸が熱くなる。体中から何かがこみ上げてきた。

(後ろを見ちゃだめ。このまま行くの、玄関に……)

 歩き出そうとしたとき、また声がした。声は近づいていた。

「沙希ちゃん、待って」

 文江は、たまらず振り返った。目の前に、あこがれのきみ、北里達也がいた。


「これ――。ずっと沙希ちゃんに渡したくて……」

 北里はそう言って、文江の左手を取った。そして、文江の左薬指に――、プラチナのリングを――、はめた。血管が浮き出た文江の指がきらっと光った。

 北里は、文江にもうひとつ指輪を手渡して、「ぼくにも」と言った。

 文江は北里の手を取った。涙があふれてきた。北里の指がぼやけて見えない。文江は手探りで北里の左薬指を取り、その指に指輪をはめた。北里の左手に涙のしずくが落ちた。文江は大声で泣きそうになるのをこらえて、声を振り絞って言った。

「ありがとう……」


 北里は文江の手を握りしめて離さない。時間が止まった――。

 文江は北里の手を振り払って「さよなら……」と言って玄関に歩いて行った。


   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 瀬戸大橋の鉄骨が後ろに流れていく。多くの漁船やタンカーがその先に見える。窓を雨粒が筋を引いて流れる。瀬戸大橋に入る前についたものだ。文江の心を読むように電車も泣いてくれている。

 昨日、文江は、六十一の誕生日を迎え、ケーキを前にグラスを高々と上げて、「ハッピー・バースデー」と叫んだ。また止めどなく流れてくる涙を止められなかった。けれど、そう叫びたかった。

 それから、実家の母に電話した。「明日、帰ってもいい?」という文江に、「ええに決まっとる。帰って来まい。帰って来まい」と母は応えてくれた。

 郷里に帰って、母の前で、涙をこぼさずにいられるか自信がない。たぶん泣きじゃくって母に抱きつくだろう。そして、母は文江の背中をポンポンとたたいて「気の済むまで、泣きまい」と言ってくれる――だろう。

(そうだ。もう一度、実家に電話しとこう)


 文江は、携帯電話を開いた。

 待ち受け画面が目に映る。神戸ルミナリエでタツヤと一緒に撮った写真――、タツヤに肩を抱かれ、幸せの絶頂にいる南山沙希の姿が、そこにあった。


(終わり)


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