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第一章 むぎふみ係長


   第一章 むぎふみ係長


 レースのカーテン越しに、まぶしい日差しがリビングルームに差し込む。十月になって日は短くなってきたというが、午後の日差しはまだ強い。うっとうしい雨は嫌いだけれど、強い日差しはもっと耐えられない。四年前、眺望が気に入って現金で買った3LDKマンション――。なのに、窓を開ければ夏の鋭い太陽光が肌にじわじわとシミを残していく。

 麦山文江は、どっこいしょとかけ声をかけてソファから立ち上がり、遮光カーテンをピシャっと閉めて部屋の電気をつけた。


 分厚い封筒がテーブルの上にある。昨日訪れた会社からもらってきた資料だ。

   〈〜永遠の若さを〜 リジュブネイト・ラボラトリー〉

 いかにも怪しげ。

 実際、怪しくない――、と言いきれる会社ではなかった。封筒の中には細かい文字で書かれたパンフレットがぎっしり詰まっている。老眼の文江には、とても読み切れないだろうし読む気にもならない。現にこの会社の女性社員も言っていたではないか。

「表向きのパンフレットはお渡ししますが、お客様がお知りになりたいことは書かれていません。本当に大事な事柄は文書ではお渡しできませんので……」と。

 それにしても、昨日の話、信じて良いものか――。


「そもそも『老化』というのは、細胞の新陳代謝のスピードより死滅のスピードが速くなるために起こるとされてるんですね」

 若い社員は、ときおり文江の反応を確認しながら説明を続けた。張りのある整った胸の下で社員証が揺れていた。

「じゃ、新陳代謝のスピードがどうして遅くなるかというとですね――。染色体の端っこにある『テロメア』っていうものが短くなるためなんです。つまりテロメアを伸ばせば老化を防止できるってことなんです」

 文江は社員の説明を聞きながら思った。

(この娘、若いくせに知ったようなことを……。わたしが今までどれだけアンチ・エージングを試したかわかってるのかしら。テロメアのことぐらい、あなたに教えてもらわなくとも知ってるわ。この娘、きっとこのあと、テロメラーゼっていうのを摂れっていうのよね)

「おそらく麦山様もご存じだと思うのですが、世間ではテロメラーゼを増やせばいいとされています。テロメアを伸ばす酵素のことですね」

 文江はテーブルの上のパンフレットを手に取った。

「ほかにも、カタラーゼやペルオキシダーゼを多めに摂取するとか、サーチュイン遺伝子を活性化するとか――。老化防止のサプリメントや健康食品は、たいていこのような効果を宣伝しています。麦山様もいろいろ試しておられることと思います」

 文江は、パンフレットに目を落としたまま、わかってるわという表情でうなずいた。

「ですが――」

 社員は声のトーンを変えて言った。

「失礼ながら、効果はあったでしょうか」

 今度は文江はうなずかない。社員は、そのことを確認して続けた。

「そうなんです。世の中に出回ってるものは、ほとんどの場合、気休め程度の効果しかないんです」

 社員は身を乗り出して、急に小声になって言った。

「実は、麦山様をこちらにお通ししたのは、ここから先のお話をさせていただきたかったからなんです。当社は表面上、『健康食品販売業』ということになっています。ですので一般のお客様がお見えになるロビーには、老化防止をうたう健康食品を置いています。――ですが、わたしどもで厳選させていただいた、言わば『本当のお客様』には、こうして別室で、わが社のもうひとつの事業を説明させていただいてるんです」

 文江が顔を上げて問う。

「表向きの仕事じゃない……。つまり――、違法――、ということですか」

「法律にかなっているかと言われれば、そうではないとしか……。今はまだ、厚労省で認可してもらえるような内容ではありませんので……」

 詐欺――、文江の頭の中に、そんな言葉が浮かんだ。

「あの……、もし、不審にお感じになるようでしたら、ご縁がなかったとあきらめさせていただきますが……」

「……」

「どうなさいます」

 社員の目を見たあと、文江は「じゃ、どんなものかだけでも……」と返事した。

「そうです、そうですよね。これは、麦山様にとって決して悪い話ではありません。結婚相談所から、還暦を過ぎて孫までいるような男性を紹介されることもなくなります」

 文江はどきっとした。

「どっ、どうして、そんなことを……」

「失礼かと思いましたが、お客様を厳選させていただく必要から、麦山様の身辺についても調査させていただきました。ニッポン紡績に去年入社した若い男性が気になっている、ということも、存じ上げております」

「そっ、そんな……」

「いえ、否定なさる必要はありません。当社が、お客様の秘密を他言することは一切ありませんから――」

 文江は黙って下を向いている。

「ただ、当社が秘密を厳守する代わりに、お客様にも、わたくしがこれからお話することを、ほかで漏らさないようお約束していただく必要がございます」

 社員は目の前に誓約書と書かれた書類を置いて「お約束いただけますよね」と署名を求めた。

 文江は尋ねた。

「話を聞くだけでも、いいんでしょ」

「もちろんですとも。お話をお聞きいただいた上で、気に入らなければいつでもお止めいただいて結構です。ただ、この誓約書には署名していただきます。なんと言ってもこれから、わたしどもにとって生命線とも言える内容をお話しするのですから――」

 話を聞くだけ聞いてみよう、文江はそう思って誓約書にサインした。

「ありがとうございます」

 社員は誓約書を受け取ると、胸を反らし、文江を正面に見てたずねた。

「ところで、わたくし、この会社に勤めてかなり経つんですが――、何歳ぐらいに見えるでしょうか?」

 薄く化粧しているが、素肌は十分弾力があるように見える。胸にも張りがあるしウエストにくびれもある。

「さあ……、二十――、五、六、といったところですか?」

「みなさん、そうおっしゃいます――。実はわたくし、今年、五十一になるんです」

「ええっ! ごっ、ごじゅう……」

「驚かれるのも無理はありません。実はわたくし自身、ここで若返りのオペを受けてこのような姿になったんですから」

「オペ――、ですか」

「あっ、オペって言いましても、いわゆる美容整形ではありません――。ですから、メスを使うようなことはしません。一応、医学的治療ですので、オペと呼んでいるだけです……。いかがでしょうか。当社『リジュブネイト・ラボラトリー』――、『ラボ』と呼んでいただいて結構ですが――、技術力の高さをご納得いただけたんではないでしょうか」


   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 話は、三か月前にさかのぼる――。

 麦山文江は、自宅マンションのリビングで、シャンパンを手に「アン・ハッピー・バースデー」とつぶやきながら、ショートケーキにぐさっとフォークを突き刺した。丸いケーキなど、かれこれ二十年も買ったことがない。ケーキ屋に「どなたのお誕生日ですか」と聞かれていちいち説明するのもいやだし、まして「ロウソク五十九本ください」などと言えるはずがない。ケーキ屋でショートケーキをひとつ買って、自分ひとり、ささやかに、お祝い――か、どうかわからないけど――、ひとつの節目だと自分に言い聞かせてパーティーを開いた。

 定年まであと二年を切った。六十歳が満了する日、六十一の誕生日の前日に、文江は四十一年間勤めた会社を辞めることになる。

 窓の外、雨がしとしと降っていた。ベランダのアジサイはきれいに咲いているが、文江の心はこの雨のようだった。

 携帯がメール着信を知らせた。

[お誕生日、おめでとう。嬉しくないかも知れないけど、一応ね]

 京都支社の馬場洋子からだ。文江と同い年の馬場、やはり、文江と同じように婚期を逃してしまった社員である。三年前、馬場が京都支店に転勤してからは行き来が少なくなったが、以前はふたりでよく海外旅行に出かけたことがある。

 文江は[ありがとう。今、シャンパンで乾杯してたところよ]とメールを返した。


 確かこの日だった。「リジュブネイト・ラボラトリー」なる怪しげな会社から初めてメールが届いたのは。

 ひとりだけの空しい誕生パーティーを終えたあと、いつものように、パソコンでメールチェックすると、登録している結婚情報サイトを通じて男性から送られてきたメールに混じって、この会社からのメールが届いていたのだ。

[あなたの願いを叶えます]とタイトルに書かれていた。

 若返りを意味するリジュブネイション――。今まで文江は、どれだけこの言葉につられて無駄な金を払ってきたことか――。

[お誕生日、おめでとうございます。本日は麦山文江様にとっておきの情報をお教えします]

 迷惑メールよね――、削除キーを押そうとしたとき、ふと目に入った言葉があった。

[かつて、吉×様と恋に落ちたときのように、熱い出会いを求めてみませんか]

 ×印でぼやかしているが、「吉×」という名前に覚えがあった。まさか……。


 十八年前、文江が四十のとき、吉岡という一つ上の男性と知り合い恋に落ちた。およそ十年ぶりに心が高揚するのを感じたことを覚えている。四か月ほど交際を続け、そろそろ結婚を申し込んでくれる時期か……、と思っていたころ、吉岡の方から「話はなかったことにして欲しい」と言われた。吉岡はただ謝るのみで、理由は教えてくれなかった。性格的にも彼とならうまくやっていけると思っていた。この人を逃してはあとがないという気持ちもあっただけに、ショックは大きかった。


 文江は、涙がかれるまで泣き続けたあのときのことを思い出した。

(まさか吉岡さんのことまで知って……? そんなわけないわ。偶然よね。吉×って書いてあるだけだもの)

 一見、新手の結婚相談サイトのように見えるメールだった。文江はこのメールを受信フォルダに残したままにしておいたのだ。


 麦山文江は、株式会社「ニッポン紡績」関西支社に勤めている。短大卒業後、新卒で入社して以来、三十九年間総務畑を歩いてきた。人事、経理、研修、厚生、事業……、総務が管轄する仕事は一応経験してきたが、仕事ぶりはどれも中途半端だった。

 どんな分野の仕事であっても、担当している間にひとつやふたつ、ややこしい問題に出くわすことはあるものだ。しかし、文江はそれらを解決しようとする素振りも見せないまま放置し、いよいよ関係者が騒ぎ出してどうしようもなくなってから、「はい、聞いてましたけど……」と平然と言い放つのだった。

 問題に正面から立ち向かうのは男の仕事と決めつけていた。もともと腰掛けで入った会社という意識もあった。二、三年、長くても四、五年の間にはいい人を見つけて、寿退社する、文江はかつて、そう思い描いていたのだ。

 今は、総務部総務課係長という肩書きはあるものの重要な仕事を任されることはない。

 普段の仕事はほとんど派遣のスタッフに任せ、文江の日常業務は、一週間にせいぜい二、三通、[休業中の警備員配置のお知らせ]、[二階男子トイレの改装について]といった短いメールを支社内に一斉送信する程度のことだ。十行程度のメール文を、丸一日かけて書くのだが、そうして作ったメールにも間違いがあったり、意味不明で社員たちに正確に伝わらないことが少なくなかった。


 今日も、文江が支社内に送信した一斉メールをめぐって、朝から、関西支社中が混乱するという出来事があった。

 今日は七月二日月曜日、いかにもわかりにくいメールは今日の朝、送信されたものだった。


   タイトル 来客用駐車場の舗装工事について

   本文   来月三週目の火曜より三日間、駐車場の舗装工事を行います。

        この間は駐車場が使えませんので、

        来客は控えていただくようお願いします。

                   六月二十九日 総務部 麦山文江


 このメールをめぐって、朝から総務課長が問い合わせに追われることになった。文江が出したメールだから、直接文江に問い合わせれば良いのだが、ほとんどの社員は総務課のほかの社員に電話してくる。文江に聞いてもらちがあかないと思っているのと、なにより文江が煙たがられているからだ。

「悪いね、ややこしいメールで……。そう、そうなんだよ。今月のこと。十、十一、十二、十三の四日間――。うんうん、わかったわかった。ちゃんと言っとくから……」

 課長はため息をついて受話器を置いた。とたん、また電話が鳴る。うんざりした表情で電話を取った。

「はい、岩上です――。あっ、営業部長――。駐車場の件ですね」

「そうなんだよ。わかんないとこだらけでね」

「……申し訳ありません」

「タイトルには来客用駐車場って書いてあるよね。けど、本文は駐車場としか書いてないし……」

「駐車禁止は来客用だけです。わかりにくくてすみません」

「それとさあ、来月って何月のこと? メールの送信日付は今日になってるけどさ――、本文には六月って書いてあるだろ――」

「今月です。送信した本人が言うには、先週これ書いて下書きに保存してたらしいんですね。で、それをそのまま、今日送ってしまったと……。ええ、工事は今月です。来週十日から始まります」

「えっ、十日から? 三週目って書いてあるじゃないか。十七日からじゃないの?」

「いえ、これも本人が言うには――、週の初めは月曜だと……」

「はあ、やれやれ――、むぎふみの考えそうなことだねえ……。まあ、いいや、じゃ、来週の火水木ってことだね」

「いえ、そこも違うんです――。火曜より三日間って書いてありますよね。どうやら本人は、火曜を含まないつもりで三日間って書いたらしいんです。駐車禁止は、火水木金の四日間の予定です」

「あのねえ、岩上くんに言うのも酷だと思うけど……、こんなこと続くと仕事になんないんだよね。なんとかしてくれよ」

「本当に申し訳ありません。あと、来客を控えていただくよう、とか書いてますが、お客様にそのようなことをお願いする必要は、決してありませんので――」

「あったり前だよ! お客様に、来ないでくれなんて言えるわけないだろ」

「お車で来られたお客様には、ちゃんと駐車場は確保させていただきますので……。別の場所にはなりますが……」

「わかったわかった。とにかく、むぎふみ、ちゃんと指導しといてくれよ。頼むよ」

 課長は疲れた様子で電話を切った。新藤が「ぼく、訂正のメールしときましょうか」と言った。課長は「ああ、頼むよ」と言って背もたれに身体をあずけた。


 去年の社員名簿では、課長の岩上は文江の下に書かれていた。今年、課長に昇進して文江を追い越すことになったのだが、岩上にとって一番頭の痛いことは文江の扱いだった。岩上が入社したころ、文江はすでに四十の大台に乗っていた。当時も係長という立場で、岩上の面倒を見てくれていた。「岩上くん、いつもほっぺが真っ赤っか。とってもかわいいわよ」などと冷やかされていたのだ。

 メール騒ぎをよそに、文江は、素知らぬ顔でパソコンに向かっていた。岩上はまた、「はあ」とため息をついた。


 ニッポン紡績は、近年、液晶パネルの表面フィルムでシェアを伸ばしている中堅の繊維メーカーである。もともと本業だった衣料用繊維は新興国の低価格品に押されているが、分子レベルの極細製糸技術を使った繊維の開発を進め、今では、電子機器、医療機器、空調機器、自動車といった分野に手を広げている。


 関西支社では、本体に加え、関連会社、協力業者など約六百人が働いている。文江のことは、文江が思っている以上に、支社の中では有名である。月に一度程度しか訪れない業者でも、「むぎふみ」と聞けば、あっ、あの人、とわかるというのだ。

 麦山文江を略した愛称、むきふみ。かげでこう呼ばれていることは文江も知っている。小学五年生のとき、母が再婚して麦山という姓になってから呼ばれ続けてきたあだ名。入社したてのころは、この愛称で呼ばれても特別いやな気はしなかった。ほかの人にも愛称はあったし、なによりも呼び方に親しみがあった。今は違う。婚期を逃した六十前の女に向けた蔑みが込められている。その証拠に文江に面と向かってこの愛称を呼ぶ人はいないのだ。


 いつだったか、こんなことがあった。

 営業部の居室で若手社員の言葉に、部屋中が盛り上がっていた。

「なあ、関西の二大行き遅れって知ってるか? 支社のむぎふみと京都支店のミスばばあのことやねんで」

 そのときだ。突然、文江が部屋に入ってきたのだ。部室は急に静まりかえった。若手社員は話し声をパタッと止めて、バツの悪そうな顔でうつむいている。

 文江は素知らぬ顔で手短に用件を済ませて部室を出た。その直後、急に全身の血が引き、体中が震えるのを覚えた。文江はトイレに駆け込んだ。腹立たしさと悔しさが一気に吹き出した。トイレットペーパーを勢いよく引き出し束ねて両手で思い切り引きちぎる、そんなことを何度も繰り返した。だが、体の震えは止まらなかった。京都支店の馬場洋子に電話してやろうかとも思った。「馬場ちゃん、ミスばばあって呼ばれてんのよ」と。でもやめた。言ってやったからって悔しさが分散されるわけじゃなく、かえって増幅すると思ったからだ。


   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 若いころ、文江はよくもてた。くりっとした目でにこっとほほえむ姿が、人気アイドルに似ていた。「むぎふみちゃん」のほかに、「フーミン」というニックネームもつけられた。美人で愛嬌があって……。小首をかしげて下から見上げるようなポーズに、ぐらっときた男性社員は少なくなかった。

 二十歳で入社してすぐ、受付に座ることになった。ひとつ上の先輩とともに八時三十分に出勤し、九時前に続々と出勤してくる社員ひとり一人に「おはようございます」と元気よく挨拶するのが、朝の仕事だった。

 いろんな社員がいた。「よっ、おはよ」と手を上げて挨拶を返してくる人や、気むずかしい顔で「ども」と言うだけの人や、軽く会釈して目を合わさないで恥ずかしそうに足早にエレベータに向かう人や……。その中に、いつも受付カウンターまでやって来て、たわいもない話をしていく社員がいた。先輩が「もうすぐ九時ですよ」と言うと、社員は「ほな、また明日」と言ってタイムレコーダーまで走って行くのだった。


 朝の挨拶が終わったあとは、特に決まった仕事はなかった。先輩と交代で受付カウンターに座り、ときおり訪れる客を担当者に取り次いだり応接室や会議室に案内する。客がいないときは、たいてい後ろに控えている親ほどの年齢の警備員と世間話をしていた。

 当時の係長からは、「各部の部屋の場所や内線は早く覚えてね。お客様に『わかりません』なんて答えちゃだめよ」と言われていたが、配席表を見て勉強したのは三日ほどだった。先輩も覚えていなかったし、わからなくても、警備員に聞けばすぐに教えてくれたからだ。ただ、若い男性社員の所属と名前だけは、覚えるつもりがなくてもすぐに頭に入った。

 来客者も文江には優しかった。案内するのに多少時間がかかっても、間違えた案内をしても、文句を言われることはなかった。逆に、「さっきのお客様、クレーム言いに来たんやけど『受付の人見て、怒り治まってしもたわ』やて。フーミンが応対してくれるから助かったわあ」などと感謝されることもあった。


 文江が受付に配属されて半年後、先輩は結婚を理由に退社した。相手は毎朝カウンターまで来てだべっていた例の社員。先輩の社歴はなんと一年半。若い女子社員の間で「超スピード寿」と評判になった。

 文江も、男性から誘いを受けることでは負けてはいなかった。例の社員のように積極的な行動をとる人だけでなく、文江ひとりになったときを見計らって、映画や食事に誘ってきたり、受付カウンターでそれとなくデートを申し込むメモを渡してきたり、内線電話をかけてきたり……。何度か誘いに乗ったこともあるが断ることの方が多かった。ちょっと首をかしげにこっと微笑んで「ごめんなさい。ちょっと用事が……」と言うと、たいていの男性社員は「ぼくの方こそごめん。急に誘ったりして」とあやまるのだった。


 ある日のこと、警備員から、「考えてみて欲しい」と言われて、茶封筒を差し出された。封筒の中にはさらに、毛筆で「釣書」と書かれた白封筒、その中に二つ折りにした和紙と写真が入っていた。写真は警備員の息子だという。和紙には息子の履歴書、生活状況、資格といったことが、これも仰々しく筆で書かれていた。

「親が言うんもなんやけど、おとなしいて、優しい子ですねん。一応R大出とるし、市役所やからつぶれることあれへんし――。歳は三十三になるんやけど……、どやろか」

 警備員は文江に一生懸命語りかけてきた。

「ほら、覚えてはれへんかなあ。先々週の金曜日、あたし訪ねて来よった客おりましたやろ。あれですねん。家帰って、どやったって聞いたらね。えらい麦山さんのこと気に入った、言うて……」

 ああ、あのときの客か、と文江は思い出した。落ち着かない様子で「あっ、あの……、警備の楠田に会いたいのですが……」とカウンターにやってきた客だ。小太りで見た目四十前に見えたように思うが、三十三だったとは……。三十三だろうが、文江と同じ二十一だろうが、ああいう男はタイプではなかった。何よりも、文江が知らないうちに、麦山文江という人物を観察に来たということが男らしくない。

「結婚は、まだ考えていませんので……」と言って文江は断った。警備員は「持って帰って、もいっぺん考えてみてえな」と言って、封筒を無理矢理文江に持たせた。文江は家に帰るなり、封筒をゴミ箱に捨てた。

 三十三にもなって親離れできないなよなよ男。ああ、思い出しただけでも虫ずが走る、と文江は思った。


 二年間、受付に座ったあとは、人事課、経理課、厚生課、と四、五年おきに異動していった。

 人事にいるころは、まだちやほやされた。社内便ですむことをわざわざ課を訪れて書類を手渡してきたり、電話で済むことを直接伝えに来たり、毎日、文江目当てでやってくる男性社員が何人かいた。忘年会や社員旅行では支社長や部長の横に座って、酒の相手をさせられた。集合写真を撮るときも前列中央付近が定位置だった。

 経理課に移ってからも、男性社員からの誘いはあった。うち何人かとデートを重ね、さらにその中の何人かと深い関係にもなった。文江の方から気に留めていた男性も何人かいた。目当ての男性にそれとなくアプローチをかければ、簡単に、相手の方がほいほいとついてくる――、そういう立場だった。

 しかし、恋愛は続いても結婚にまで結実することはなかった。その理由の多くは文江側にあった。文江には、男性の方が文江にぞっこんで、文江の要望はたいてい聞いてもらえるものだ、との意識があったからだ。無教養で世間知らずで無責任で、ろくに家事もできない自意識過剰な女から、次第に男が去っていくのは自然の成り行きだった。それでも文江は、まだ文江の側に選択権がある、と思っていた。


 三十を過ぎ厚生課に移ってからは、男性社員から言いよられることがぱたっとなくなった。宴会の席で部長へのお酌役も集合写真での前列中央の定位置も、二十そこそこの女子社員にとって代わられた。

 同期の女性社員は、いつのまにか、ほとんど退社してしまっていた。毎日毎日、保養所の予約手配だの、契約旅館の家族割引手続きだのを、家族持ちの社員から依頼されるというだけの仕事。このころから「むぎふみ」が愛称から蔑称に変わっていった。


「おはようございます」

 厚く化粧を施した文江が八時五十分に出勤すると、薄化粧の受付社員から元気のよい挨拶が聞こえてくる。今年入ったばかりの女子社員だ。見るからに若い。はつらつとしてる。文江も十何年か前、同じように大きな声で社員たちに呼びかけたことを思い出した。

(若いだけでちやほやされて……。ちょっと試してやるわ)

文江の中に意地悪心が浮かんだのも必然だった。

「おはよう。もう慣れた」と文江が話しかける。

「はい、皆さん優しい方ばかりで、いろいろ教えていただけます」

「そう、良かったわね。じゃ、ちょっと、テストしてあげるわ」

 女子社員は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻って「はい、お願いします」と答えた。

「わたしは、どこの部署のだれでしょうか? 部屋はどこで、内線電話番号は何番ですか?」

 女子社員はびっくりした表情で文江を見たあと、少し考えて言った。

「ええと……、総務部……厚生課の……、むぎふ、あっ、いえ、麦山さんです」

 女子社員はしまったという表情を浮かべた。文江は素知らぬ顔で女子社員を見ている。社員は続けた。

「ええと、部屋は……、六階の奥、診療所の隣です」

 女子社員の目が泳いでいる。朝からなんで……、という表情だ。

「ええと、内線番号は……」

 必死になって思い出そうとしている様子だ。女子社員の後ろでは警備員が手を後ろに組んで立っている。かつて文江に釣書を手渡した警備員。昨日、「四つになる孫がねえ――、じいじ、じいじ言うて寄ってきよるんですわ。ほんま、かわいいてねえ――」と話していたのを文江は聞いた。文江が通りかかるとすぐに話をやめたこともわかっている。その警備員が女子社員の耳元で「六二三」とささやいた。

「六二三です」

 女子社員はそう言うと、ほっとした表情を浮かべた。文江は警備員をちらっと見て、「まあ、いいわ」と言った。女子社員の視線が文江の後方に移った。文江が振り返ると、後ろに控えていた若い男性社員と目が合った。男性は緊張した表情で文江を見ていた。文江は何も言わずにその場を立ち去った。

 後ろから男性社員のささやき声が聞こえる。内容はわからないが、たぶんこんなところだろう。朝から災難だね、それにしてもむぎふみのやつ……、と。


 三十五を越えたころは、恋人がいなくても別にどうってことないわ、と文江は思っていた。歳を重ねるにつれ、結婚を焦るものかと思っていたら、案外そうでもない。独身の方が気楽だし、焦ったところで、結婚相手が見つかるわけでもない。開き直り――? そう言われればそのとおりだった。

 ここのところ、女の最後の手段は使っていない。思い起こせば去年の忘年会のときが最後だった――、ような気がする。――気がする、と言うのは、ほとんど記憶に残っていない出来事だったからだ。忘年会で、課長昇進を逃した妻子持ちの四十男と愚痴を言い合ったあと、同僚とはぐれて二次会に行きそびれてしまった。なんとなくふたりとも愚痴りあいを続けたくて、それから、別の店へ行って飲み直したのだ。そのあとのことは良く覚えていないが、たぶん、そう、たぶんだが、酔った勢いでホテルに行って肌を重ねた――、ような気がするのだ。

 女の最後の手段――、とは言うが、もはや一番大切なものだと胸を張って言えるものではない。二十歳前後のころは、これで男に言い逃れられない既成事実を作って、水戸黄門の印籠のごとく、これが目に入らぬかと結婚を迫ることができたかも知れない。しかし、今のこの歳では、身体の関係を理由にどうのこうの――、なんて言うのは馬鹿にされるだけだ。


 厚生課のあとは、神戸営業所に転勤になった。そのあと、ふたたび古巣の総務課に戻ったときは、四十になっていた。

 吉岡という男性と知り合ったのはこの頃だ。大型スーパーの駐車場で、文江がうっかり、駐車していた吉岡の車にぶつかってしまったことがきっかけだった。保険会社を通じて、初めは賠償だけの話をするつもりだったのが、吉岡が独身だとわかり、自分も独身だと知られたころから、吉岡のことが気になるようになっていった。

 長い間、味わったことがなかった恋心を感じた。そしてついに、文江の方から事故のこととは関係なしに会いませんか、と電話したのだ。中学のとき、密かに想っていた男子生徒に、はじめて電話したときのように胸が高鳴るのを覚えた。

 吉岡とのおつき合いが始まった。吉岡も文江との結婚を考えていたはずだ。事実、交際中にも結婚という言葉を何度も交わしたこともある。しかし結局、最後とも言える恋は実らず吉岡の方から去っていったのだ。

 四十を越えてから歳を重ねるスピードが速くなった気がする。男性社員からおつきあいという話は一切なくなった。それでも仕事ができれば、仕事一途の管理職にという生き方もあったろうが、もともと腰掛けのつもりで就職した会社、二十年勤めた今でも、社内の仕事の進め方もきちんと理解できていない。同僚からはどんどんばかにされ、ついに相手にされなくなった。係長という肩書きはもらったが、仕事は若い社員より単純な作業をつけられるようになった。

 このころ総務部に配属になった新入社員、岩上直樹が今の上司、総務課長である。岩上は係長の麦山文江のもとで総務課の仕事を覚えていった。といっても、重要なことを教えるのは総務課のほかの課員で、麦山はもっぱら、岩上の赤い頬をからかう程度のことしかしていなかった。


 四十五になって、文江は、会員数が最も多いという結婚相談所の会員になった。文江は、相手に求める条件をかなり緩めて書いた――、つもりだった。

   お相手の希望年齢 四十五歳以下

   お相手の希望学歴 大卒以上(国公立または有名私大)

   お相手の希望年収 五百万円以上

   お相手の婚姻歴  初婚

 しかし考えは甘かった。条件にかなう男性もいるにはいるが、そのひとりに対して何人もの女性が名乗りをあげる。名乗りを上げた女性はアピール合戦した上で男性に選んでもらうことになるのだ。文江は、一人目、二人目、三人目……、と敗北を重ねるにつれ、条件を徐々に緩めていった。


 五十になった。仕事ができないくせに何かと口出しする。大事なことを決めるときはいない方が良い。文江がいると場が沈むし、はっきり物が言えない――。けむたいだけのおじゃま虫――、という存在になっていた。

 今まで何人の若い社員やスタッフが結婚して退社していくのを見届けてきたことか。

 文江が会員登録した結婚相談所は四件になった。ほかにインターネットの結婚情報サイトにも登録している。毎月の支払額は、会費だけで六万円にのぼる。会員になっていさえすれば、男性からのメールも届く。写真を見て、その中からこれぞと思う男性と会ったこともある。しかし、実ることはなかった。


 結婚相談所主催のパーティーに参加したこともある。写真とはかけ離れた容貌の男性が向かいの席に座っている。もともと落胆しかかっていたところに、知らされていたプロフィールと違うことを明かされることもある。正直に書いていないのは文江も同じ。話が盛り上がらないまま、大事なことをたずねることもなく出会いは終わるのだ。

 関西支社の中で、文江と馬場洋子だけが取り残された。ふたりは、オールドミスコンビよろしく、行動をともにすることが多くなった。昼休みや休憩時間だけでなく、会社の外でも、食事に行ったり、ショッピングに行ったり、旅行に行ったり……。

 馬場が京都に転勤してからは、直接会う機会は少なくなっているが、今でも、電話やメールで連絡を取り合っている。

 そして先日、いつもの年と同じようにひとりで、五十九の誕生日を迎えたのである。


   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 文江は仕事から帰るとすぐ、洗面台の鏡の前に立った。思えばここ二十年ほど、ほほえみなど見せたことがない。

 文江は、むかし男たちに見せたように、小首をかしげてにこっと笑ってみた。鏡の中で、初老の女性がぎこちなく口角をあげている。何本もの目尻のしわ、いくらファンデーションを塗りたくっても消えない頬骨のシミ……。

 文江は右手で耳にかぶさる髪をかきあげた。これも昔よくやったセクシーポーズ。髪の生え際が、もうまっ白になっていた。染めたのはつい二週間前だというのに……。鏡の中の女の表情は、かわいいというより――、不気味に見えた。

 文江は、クレンジングクリームをたっぷり顔に塗り、ごしごしこすって化粧を落とし、蛇口を思い切りひねって洗い流した。


 パソコンを立ち上げる。今日もインターネットで登録した結婚情報サイトから何件かメールが届いている。[条件に叶うお相手の方がいらっしゃいます]という文章に、今までどれだけ期待を持たされたことか。四十五で結婚相談所に入会して以後、文江は相手に求める条件を徐々に緩めてきた。

   お相手の希望年齢 問わない

   お相手の希望学歴 問わない

   お相手の希望年収 問わない

   お相手の婚姻歴  できれば初婚

 今求めている条件は、ほとんど条件と言えるものではない。毎日のように[お相手がいらっしゃいます]とメールが届くのも当然のことだ。

[六十四歳、高卒、五十年近く電気工事業に携わってきました。当方再婚ですが、できれば五十代以下の初婚の方を希望します]

[七十二歳、国立大卒、現役時代は建設資材メーカー部長、資産はある程度あります。三十〜五十代、初婚の方希望]

 それでも文江はメールのひとつ一つに目を通す――、が、今日も結婚したいと思うような相手はいなかった。

 結婚情報サイトからのメールに混じって、今日も、リジュブネイト・ラボラトリーからのメールが届いていた。

[お相手の条件を緩めて、ご希望の方はいらっしゃいましたか]

 いつもこちらの心を見透かしたようなメールを送ってくる。削除するには躊躇する。文江は、前に届いたときと同じように、受信フォルダに残しておいた。


(つづく)



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