君を迎えに来ない死神
朝の空気は薄く、財布はもっと薄かった。青年は自販機の前で小銭を数え、指先で弾いた最後の十円を見つめてから、結局なにも買わずに歩き出した。空腹は慣れている、失敗も慣れている、ただ今日も死ななかったという事実だけが、彼の一日をかろうじて成立させていた。
これまでに彼は幾度も職を失い、幾度も怪我をし、幾度も「あと一歩」で終わりかけた。工事現場で落ちた鉄材は肩をかすめ、夜道で突っ込んできた車は靴先を削り、安宿の古い暖房は火を吹きかけた。運が悪い、そう言われればそれまでだが、彼は運という言葉に頼らなかった。運に嫌われているなら、嫌われたまま前に出るしかないと、頑固に思っていた。
その日も、雨に濡れたアスファルトが鈍く光る路地で、彼は転びかけた。視界が一瞬だけ歪み、誰かに腕を引かれた気がした。振り向くと、そこに少女が立っていた。
黒い服、黒い髪、黒い目、どれも妙に輪郭が曖昧で、まるで影が人の形を取ったようだった。年の頃は十代半ばに見えるが、目の奥に年齢という概念が存在しない。
「……あなた、し、死ににくい」
たどたどしい声だった。舌足らずというより、言葉を覚えたばかりのような間の取り方。
「は?」
「ずっと、そばにいる。わたし」
少女はそう言って、少し誇らしげに胸を張った。胸と言っても、存在を主張するほどのものはない。ただ、言葉の重さだけが異様に重かった。
「……誰だよ」
「しにがみ」
彼は笑った。あまりにも即答で、あまりにも平板だったからだ。だが笑いはすぐに引っ込んだ。少女の周囲だけ、雨が落ちていないことに気づいたからだ。滴は確かに降っているのに、彼女に触れる直前で消えている。
「冗談だろ」
「じょうだん、ちがう」
少女は首を横に振る。
「あなた、しぬはずだった。いっぱい。でも、しななかった。わたしが、ずっと、見てた」
その瞬間、過去のいくつもの「偶然」が彼の中で静かに形を変えた。鉄材、車、火、すべてが寸前で逸れた理由が、説明を得てしまった。
「じゃあ、お前が……助けてたのか」
「ううん」
少女はまた首を振る。
「ちがう。しぬとき、連れていくのが、しごと。だから、そばにいる。でも、あなた、しなない。わたし、ずっと、まつ」
淡々とした説明だった。助けたわけではない、ただ待っていただけ。だが、その待ちが、結果として彼を生かし続けていた。
それから、奇妙な同居が始まった。
少女は食事をしない、眠らない、老いない。ただ、彼のそばにいる。狭い部屋の隅に座り、彼の生活を見ている。時折、思い出したように言葉を紡ぐ。
「それ、からい?」
「辛いな」
「からい、すき?」
「好きじゃないけど、安いからな」
会話はいつも短く、どこかぎこちない。それでも彼は、誰かと話すという行為自体が久しぶりで、気づけば言葉を選ぶようになっていた。
相変わらず生活は苦しかった。仕事は長く続かず、財布は軽く、危険は日常の隙間に潜んでいた。だが不思議と、決定的な一線だけは越えなかった。崩れかけた足場も、滑り落ちた階段も、彼の命を奪う直前で止まる。
少女はそれを見て、首をかしげる。
「なんで、しなない」
「さあな」
彼は肩をすくめる。
「運が悪いから、逆に死なないのかもな」
少女は考えるように黙り込む。その表情に、ほんのわずかな変化が生まれていた。最初に出会ったときにはなかった、迷いのようなもの。
季節が一巡した頃、少女は彼の隣に座ることが増えた。距離が少しだけ近くなり、視線もよく合うようになった。
「あなた、いたい?」
ある夜、彼が古い傷をさすっていると、少女がそう聞いた。
「痛いよ。でも慣れてる」
「……なれる?」
「慣れるしかないだろ」
彼が笑うと、少女はじっとその顔を見つめた。
「わたし、いや」
「何が」
「あなた、いたいの、いや」
言葉は拙いが、意味ははっきりしていた。彼は一瞬、返す言葉を失った。
「……そりゃありがたいけどさ」
照れ隠しのように笑うと、少女は少しだけ口元を緩めた。それは笑顔と呼ぶには不完全で、けれど確かに感情の形をしていた。
やがて少女は、彼の生活に手を出し始める。料理を覚え、洗濯を覚え、言葉を覚える。失敗も多く、塩を入れすぎた味噌汁に彼は顔をしかめ、少女は真剣な顔で匙を握り直した。
「むずかしい」
「慣れるしかないさ」
彼がかつて自分に言い聞かせていた言葉を、そのまま返す。少女はその言葉を大事そうに繰り返した。
「なれる、しかない」
その頃には、彼の中で少女はもう「死神」ではなかった。名前もないまま、ただ隣にいる存在として、日常の一部になっていた。
変化は、静かに訪れた。
ある日、少女は言った。
「わたし、しごと、やめる」
「は?」
「あなた、つれていく、できない」
言葉は以前よりも滑らかになっている。それでも、その内容はあまりに重かった。
「やめるって、そんな簡単に」
「かんたん、じゃない。でも、やめる」
少女はまっすぐ彼を見る。
「あなた、いなくなるの、いや」
その一言で、すべてが決まった。
彼は長く息を吐き、頭をかいた。
「……なら、どうするんだよ」
「にんげん、なる」
少女は静かに言った。
「かたち、かえる。じゅみょう、もらう。ふつう、になる」
「そんなことができるのか」
「できる。でも、もどれない」
戻れない。その言葉の意味を、彼は深く考えなかった。考えれば止める理由になってしまうからだ。
「……いいのか」
「いい」
少女はうなずく。
「あなたと、いる」
その決意に、彼は何も言えなかった。ただ、ゆっくりとうなずいた。
それからの時間は、驚くほど穏やかだった。
彼女は人間として生き、年を重ね、笑うことを覚えた。失敗は相変わらず多かったが、それすらも二人にとっては日常の一部だった。仕事は相変わらず不安定で、貧しさは消えなかったが、死の気配だけは遠ざかっていた。
やがて二人は結ばれ、小さな部屋で、ささやかな生活を続けた。大きな幸福ではないが、確かな温もりがそこにあった。
時は流れ、彼の髪に白いものが混じり始めた頃、終わりは静かに近づいてきた。
病床に伏した彼の手を、彼女が握る。その手はかつてのように冷たくはなく、しっかりとした温度を持っていた。
「……なあ」
彼はかすれた声で言う。
「ん?」
彼女の返事は、もうたどたどしくない。
「人間って、死んだらどうなるんだ」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「また、人間になれる。記憶は消えるけど、また生まれる」
「そっか」
彼はゆっくりとうなずく。
「じゃあさ……」
言葉が途切れる。呼吸が浅くなり、視界がぼやける。
「また、お前に会えるかな」
彼女は答えなかった。代わりに、彼の手を強く握った。
「……ねえ」
彼女は静かに言う。
「わたしは、もう、なにもになれない」
その声は、かつてのたどたどしさをほんの少しだけ取り戻していた。
「しごと、すてた、しにがみは、どこにもいけない。ひとにも、どうぶつにも、なれない。……きえる」
彼はその意味を理解するのに、少し時間がかかった。理解した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
「……なんだよ、それ」
「きまり、だから」
彼女は笑おうとするが、うまくいかない。
「あなたは、また、生きる。でも、わたしは、ここまで」
彼の目から涙がこぼれた。これまでどれだけ不運に見舞われても流れなかった涙が、止まらなかった。
「じゃあ……俺がまた生まれても」
「うん」
「お前には、会えないのか」
彼女はうなずく。
沈黙が落ちる。時計の音だけが、やけに大きく響く。
「……いやだな」
彼は弱々しく笑う。
「やっと、まともな人生になったのにさ」
彼女は何も言わず、ただその手を握り続ける。
「なあ」
「ん?」
「俺さ、運が悪かったんじゃないな」
彼は目を細める。
「お前に会うために、死ななかったんだ」
彼女の目から、初めて涙が落ちた。
「ありがとう」
彼はそう言って、ゆっくりと息を吐く。
そのまま、二度と吸うことはなかった。
部屋は静かだった。
彼女はしばらくの間、動かなかった。握っていた手の温度が失われていくのを、ただ受け止めていた。
やがて彼女は、そっとその手を置く。
「……いってらっしゃい」
小さく呟く。
誰に届くわけでもない言葉だった。
窓の外では、朝の光が街を照らし始めている。新しい一日が、誰にとっても同じように始まる。
彼女の輪郭が、わずかに揺らぐ。
それは消失の前触れであり、終わりの合図だった。
それでも彼女は最後まで、彼のいた場所から目を離さなかった。
そこに確かにあった時間を、手放さないように。
世界は何も知らずに回り続ける。
だが確かに、ひとつの命が終わり、ひとつの存在が消えた。
そしてどこかで、何も知らない新しい命が、静かに息を吸い込む。




