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君を迎えに来ない死神

作者: 青狐
掲載日:2026/04/30

朝の空気は薄く、財布はもっと薄かった。青年は自販機の前で小銭を数え、指先で弾いた最後の十円を見つめてから、結局なにも買わずに歩き出した。空腹は慣れている、失敗も慣れている、ただ今日も死ななかったという事実だけが、彼の一日をかろうじて成立させていた。

 これまでに彼は幾度も職を失い、幾度も怪我をし、幾度も「あと一歩」で終わりかけた。工事現場で落ちた鉄材は肩をかすめ、夜道で突っ込んできた車は靴先を削り、安宿の古い暖房は火を吹きかけた。運が悪い、そう言われればそれまでだが、彼は運という言葉に頼らなかった。運に嫌われているなら、嫌われたまま前に出るしかないと、頑固に思っていた。

 その日も、雨に濡れたアスファルトが鈍く光る路地で、彼は転びかけた。視界が一瞬だけ歪み、誰かに腕を引かれた気がした。振り向くと、そこに少女が立っていた。

 黒い服、黒い髪、黒い目、どれも妙に輪郭が曖昧で、まるで影が人の形を取ったようだった。年の頃は十代半ばに見えるが、目の奥に年齢という概念が存在しない。

「……あなた、し、死ににくい」

 たどたどしい声だった。舌足らずというより、言葉を覚えたばかりのような間の取り方。

「は?」

「ずっと、そばにいる。わたし」

 少女はそう言って、少し誇らしげに胸を張った。胸と言っても、存在を主張するほどのものはない。ただ、言葉の重さだけが異様に重かった。

「……誰だよ」

「しにがみ」

 彼は笑った。あまりにも即答で、あまりにも平板だったからだ。だが笑いはすぐに引っ込んだ。少女の周囲だけ、雨が落ちていないことに気づいたからだ。滴は確かに降っているのに、彼女に触れる直前で消えている。

「冗談だろ」

「じょうだん、ちがう」

 少女は首を横に振る。

「あなた、しぬはずだった。いっぱい。でも、しななかった。わたしが、ずっと、見てた」

 その瞬間、過去のいくつもの「偶然」が彼の中で静かに形を変えた。鉄材、車、火、すべてが寸前で逸れた理由が、説明を得てしまった。

「じゃあ、お前が……助けてたのか」

「ううん」

 少女はまた首を振る。

「ちがう。しぬとき、連れていくのが、しごと。だから、そばにいる。でも、あなた、しなない。わたし、ずっと、まつ」

 淡々とした説明だった。助けたわけではない、ただ待っていただけ。だが、その待ちが、結果として彼を生かし続けていた。

 それから、奇妙な同居が始まった。

 少女は食事をしない、眠らない、老いない。ただ、彼のそばにいる。狭い部屋の隅に座り、彼の生活を見ている。時折、思い出したように言葉を紡ぐ。

「それ、からい?」

「辛いな」

「からい、すき?」

「好きじゃないけど、安いからな」

 会話はいつも短く、どこかぎこちない。それでも彼は、誰かと話すという行為自体が久しぶりで、気づけば言葉を選ぶようになっていた。

 相変わらず生活は苦しかった。仕事は長く続かず、財布は軽く、危険は日常の隙間に潜んでいた。だが不思議と、決定的な一線だけは越えなかった。崩れかけた足場も、滑り落ちた階段も、彼の命を奪う直前で止まる。

 少女はそれを見て、首をかしげる。

「なんで、しなない」

「さあな」

 彼は肩をすくめる。

「運が悪いから、逆に死なないのかもな」

 少女は考えるように黙り込む。その表情に、ほんのわずかな変化が生まれていた。最初に出会ったときにはなかった、迷いのようなもの。

 季節が一巡した頃、少女は彼の隣に座ることが増えた。距離が少しだけ近くなり、視線もよく合うようになった。

「あなた、いたい?」

 ある夜、彼が古い傷をさすっていると、少女がそう聞いた。

「痛いよ。でも慣れてる」

「……なれる?」

「慣れるしかないだろ」

 彼が笑うと、少女はじっとその顔を見つめた。

「わたし、いや」

「何が」

「あなた、いたいの、いや」

 言葉は拙いが、意味ははっきりしていた。彼は一瞬、返す言葉を失った。

「……そりゃありがたいけどさ」

 照れ隠しのように笑うと、少女は少しだけ口元を緩めた。それは笑顔と呼ぶには不完全で、けれど確かに感情の形をしていた。

 やがて少女は、彼の生活に手を出し始める。料理を覚え、洗濯を覚え、言葉を覚える。失敗も多く、塩を入れすぎた味噌汁に彼は顔をしかめ、少女は真剣な顔で匙を握り直した。

「むずかしい」

「慣れるしかないさ」

 彼がかつて自分に言い聞かせていた言葉を、そのまま返す。少女はその言葉を大事そうに繰り返した。

「なれる、しかない」

 その頃には、彼の中で少女はもう「死神」ではなかった。名前もないまま、ただ隣にいる存在として、日常の一部になっていた。

 変化は、静かに訪れた。

 ある日、少女は言った。

「わたし、しごと、やめる」

「は?」

「あなた、つれていく、できない」

 言葉は以前よりも滑らかになっている。それでも、その内容はあまりに重かった。

「やめるって、そんな簡単に」

「かんたん、じゃない。でも、やめる」

 少女はまっすぐ彼を見る。

「あなた、いなくなるの、いや」

 その一言で、すべてが決まった。

 彼は長く息を吐き、頭をかいた。

「……なら、どうするんだよ」

「にんげん、なる」

 少女は静かに言った。

「かたち、かえる。じゅみょう、もらう。ふつう、になる」

「そんなことができるのか」

「できる。でも、もどれない」

 戻れない。その言葉の意味を、彼は深く考えなかった。考えれば止める理由になってしまうからだ。

「……いいのか」

「いい」

 少女はうなずく。

「あなたと、いる」

 その決意に、彼は何も言えなかった。ただ、ゆっくりとうなずいた。

 それからの時間は、驚くほど穏やかだった。

 彼女は人間として生き、年を重ね、笑うことを覚えた。失敗は相変わらず多かったが、それすらも二人にとっては日常の一部だった。仕事は相変わらず不安定で、貧しさは消えなかったが、死の気配だけは遠ざかっていた。

 やがて二人は結ばれ、小さな部屋で、ささやかな生活を続けた。大きな幸福ではないが、確かな温もりがそこにあった。

 時は流れ、彼の髪に白いものが混じり始めた頃、終わりは静かに近づいてきた。

 病床に伏した彼の手を、彼女が握る。その手はかつてのように冷たくはなく、しっかりとした温度を持っていた。

「……なあ」

 彼はかすれた声で言う。

「ん?」

 彼女の返事は、もうたどたどしくない。

「人間って、死んだらどうなるんだ」

 彼女は少しだけ目を伏せた。

「また、人間になれる。記憶は消えるけど、また生まれる」

「そっか」

 彼はゆっくりとうなずく。

「じゃあさ……」

 言葉が途切れる。呼吸が浅くなり、視界がぼやける。

「また、お前に会えるかな」

 彼女は答えなかった。代わりに、彼の手を強く握った。

「……ねえ」

 彼女は静かに言う。

「わたしは、もう、なにもになれない」

 その声は、かつてのたどたどしさをほんの少しだけ取り戻していた。

「しごと、すてた、しにがみは、どこにもいけない。ひとにも、どうぶつにも、なれない。……きえる」

 彼はその意味を理解するのに、少し時間がかかった。理解した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

「……なんだよ、それ」

「きまり、だから」

 彼女は笑おうとするが、うまくいかない。

「あなたは、また、生きる。でも、わたしは、ここまで」

 彼の目から涙がこぼれた。これまでどれだけ不運に見舞われても流れなかった涙が、止まらなかった。

「じゃあ……俺がまた生まれても」

「うん」

「お前には、会えないのか」

 彼女はうなずく。

 沈黙が落ちる。時計の音だけが、やけに大きく響く。

「……いやだな」

 彼は弱々しく笑う。

「やっと、まともな人生になったのにさ」

 彼女は何も言わず、ただその手を握り続ける。

「なあ」

「ん?」

「俺さ、運が悪かったんじゃないな」

 彼は目を細める。

「お前に会うために、死ななかったんだ」

 彼女の目から、初めて涙が落ちた。

「ありがとう」

 彼はそう言って、ゆっくりと息を吐く。

 そのまま、二度と吸うことはなかった。

 部屋は静かだった。

 彼女はしばらくの間、動かなかった。握っていた手の温度が失われていくのを、ただ受け止めていた。

 やがて彼女は、そっとその手を置く。

「……いってらっしゃい」

 小さく呟く。

 誰に届くわけでもない言葉だった。

 窓の外では、朝の光が街を照らし始めている。新しい一日が、誰にとっても同じように始まる。

 彼女の輪郭が、わずかに揺らぐ。

 それは消失の前触れであり、終わりの合図だった。

 それでも彼女は最後まで、彼のいた場所から目を離さなかった。

 そこに確かにあった時間を、手放さないように。

 世界は何も知らずに回り続ける。

 だが確かに、ひとつの命が終わり、ひとつの存在が消えた。

 そしてどこかで、何も知らない新しい命が、静かに息を吸い込む。

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