第72話 名前のない存在
境界膜の縁に立つ存在は、安定していなかった。
輪郭は人型に近い。
だが肩の形が崩れ、
腕の長さが瞬間ごとに変わる。
存在確率が揺れている。
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「閉じる」
それが、二つ目の単語だった。
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カイナ・ロスフェルドが一歩前に出る。
「排除を提案する」
その声は冷静だった。
「接触体の安定性は低い」
「意味干渉が始まっている」
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「待て」
レオニスが低く言う。
「まだ侵害はない」
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「侵害の定義が曖昧だ」
カイナは答える。
「未知接触体が境界膜を突破している」
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レインは手を上げた。
議論を止める。
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「侵入ではない」
彼は静かに言う。
「我々が余白を作った」
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存在は揺れている。
だが、視線のようなものがある。
こちらを見ている。
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リオナが小さく言う。
「怖くない」
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存在の輪郭が一瞬だけ安定する。
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「境界」
また同じ単語。
だが今回は違う。
疑問の響きがある。
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Λが言う。
「言語構造が学習されている」
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「翻訳を試みる」
アリエスが即座に言う。
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「やめろ」
レオニスが鋭く制止する。
「観測強度が上がる」
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アリエスは一瞬迷う。
だが好奇心が勝つ。
演算を開始する。
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Λが補助演算に入る。
波形の意味構造を解析。
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その瞬間。
境界膜が強く震える。
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「揺らぎ増加」
Σが警告する。
「観測干渉」
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存在の輪郭が大きく揺れる。
崩れる。
だが消えない。
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リオナが叫ぶ。
「やめて!」
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翻訳演算が停止される。
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揺れが収まる。
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存在はしばらく沈黙する。
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そしてゆっくり言う。
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「……見る」
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誰も動かない。
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「こちらを?」
レインが問う。
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存在は少し揺れる。
理解を探すように。
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「境界」
「見る」
「閉じない」
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言葉が少しずつ増える。
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カイナが低く言う。
「自己学習」
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「違う」
リオナが首を振る。
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「向こうも怖い」
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沈黙。
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存在は、境界膜に触れる。
膜は裂けない。
ただ波紋が広がる。
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「名前」
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その言葉に、全員が反応する。
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「……名前?」
レオニスが呟く。
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存在は、少し安定する。
だが完全ではない。
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「名前」
「必要」
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リオナが小さく言う。
「まだ、ないんだ」
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レインは、存在を見つめる。
これは外縁そのものではない。
接触面。
交差点。
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「エイド」
彼は言った。
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存在が揺れる。
波形が少し整う。
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「……エイド」
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それが、この存在の最初の名前になった。
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境界膜の向こう。
外縁の揺らぎが、静かに広がる。
まるで、こちらを観測する目が増えたかのように。
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戦えない参謀は理解する。
余白を作った瞬間から。
余白は、こちらを見返していた。
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