高潔な楽しみ
確かにダメージは蓄積していた。
四肢は鉛のように重く立っているだけでやっとだし、血はかなり抜けてしまい常に頭がふらふらした。
それはとてもおかしなことだ。
なぜなら僕なんて、ロードウルフにとってみれば最初から虫ケラにも満たない戦闘力のはず。
野生の慎重さだったとしても、すでに能力が丸裸のはずの相手にこれほど時間を使うのは非効率の極みである。
蚊のような一撃であるとしても、僕は何度もロードウルフに立ち向かっている。
逆に言えば、ロードウルフは僕に攻撃されることを許容しているということだ。
それは、光明だった。
僕はまたしてもロードウルフの前足に弾かれる。
それでも立ち上がり、再びロードウルフの正面に仁王立ちした。
怪訝な表情を向ける魔物に対し、僕は両手をあげて無害を示した。
「…………どういうつもりだ?」
ロードウルフの地響きのような声が僕の臓腑を揺らす。
「それはこっちのセリフだね。はっきり言おう。僕たちはおまえに比べればはるかに弱い。それなのに、どうして僕はまだ生きている?」
「なんだ、ついに死にたくなったか?」
「ほらまただ! 僕はこうやって丸腰で急所が狙い放題にも関わらず、おまえは僕を殺さないじゃないか!」
それはロードウルフの気まぐれかもしれない。
しかし、もし気まぐれであったとすれば、僕たちはきっと生きていける。
「殺されたいらしいな」
「いいのか? 僕を殺したら、おまえの楽しみは終わりだぞ」
ロードウルフの表情が変わる。
ほら、やっぱり!
「おまえは人語を解すほど賢い魔物だ。それにもかかわらず、ダンジョンの奥深くで力を蓄えるばかり。おまえは僕たちにあえて嬉しくてしょうがない! せっかくきた人間を、いじめるのが楽しくてしょうがないんだろ?」
「……ふふふ……ははは、はっはっはっ!」
ロードウルフは大仰に笑い出した。
「だからどうした、人間の小僧が! いかにも、我がおまえたちを娯楽にしているのはその通り! おまえがそれを高らかに指摘しようとも、あまりにも無駄な行為に違いない。なぜならおまえは遅かれ早かれ死ぬのだからな」
よく喋る魔物でありがたい。
ロードウルフが長々と語っている間に、僕は手近なダンジョンの実が落ちていないか視線を走らせた。そしてロードウルフの足元に、それは確かに落ちていた。
「そうだ! おまえはいま殺すとしよう。その後、じっくりとその女を嬲るのだ。仲間を失った失意の中で、自分の死期が近けば一体どんな言葉を紡ごうか!」
「もう十分ですシロさん、お逃げを! ——魔力吸収!」
彼女によって振りかけられる塩はしかし、魔力の光が魔物に届くことはない。
塩は辺りにばら撒かれ、見事なほど均等にダンジョンの実にまぶされた。
僕はそれを見届けて地面を蹴った。
もちろん、逃げるためではない。
「ふん、感情に駆られたか、つまらん」
「可哀想な魔物に教えてやるよ」
走りながら、ダンジョンの実を掴む。
「弱いものいじめなんて、娯楽の中では最低の部類だ。人間はもっと、高潔な楽しみを知っている」
「死ね」
「その楽しみの名はな——」
ロードウルフはついに爪で僕を切り裂くのではなく、大顎を開き赤い口内と牙がむき出しになった。僕は手に持ったダンジョンの実にスキルを発動。
指先から出た白い粉は今、その風味の薄い実を別物に変える。
開かれる口を恐れることはない。
その赤い死地へ、僕からのプレゼントを、右腕ごと突っ込んでやった。
「——グルメだ」
腕に牙が突き刺さり、骨が割られた感触がある。
その痛みを無視し、次に顎が開いたタイミングでダンジョンの実を奥歯の辺りに配置し一気に腕を引き抜く。
ロードウルフはそれを……咀嚼。
咀嚼。
咀嚼。
「ふん、何かと思えばダンジョンの実ではないか……それがなんだと——」
わからないはずがない。
それだけの知性があればこの違いに気がつくはずだ。
咀嚼。
咀嚼。
咀嚼咀嚼。
咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼。
咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼咀嚼。
ロードウルフがそれのトリコにされたのは一目瞭然だ。
驚愕に口元を歪め、魔物は弱々しく声を漏らした。
「…………………………なにが、起きた?」
「塩化ナトリウムの塩気とグルタミン酸ナトリウムは互いに補完関係にあり、それぞれの味を増幅させる。それらはダンジョンの実の微弱だが複雑な風味と融合し、複数刺激が味に奥行きを与えた」
喉を鳴らす。
もはや僕の口上を聞いてはいないだろう。
「——味が、爆発したのさ」
「うめえぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!」
再び咀嚼を始めるロードウルフと僕は急いで距離を取った。
なんて賢い魔物だろう。
やつは飲み込むことをもったいぶり、咀嚼によって味を楽しんでいる!
「サラサ、ダンジョンの実を根こそぎ収穫するんだ!」
「え? ……は、はい!」
僕たちは目につくダンジョンの実を根こそぎ収穫し、地面に並べた。
「ここで魔除けを頼む!」
「え? ……は、はい!」
サラサの塩がダンジョンの実に薄化粧を施したのを見届け、今度は僕のスキルを使い指先から召喚したそれを振り掛けていく。
「…………あの、それはなんなのですか?」
「アジノ乇卜」
さて、これで大量の旨塩ダンジョンの実が完成した。
「ほら、ロードウルフ。こっちにたくさん作っておいたから」
魔物はギョロリと血走った目をこちらに向ける。
「たーんとお食べ」
ロードウルフは旨塩ダンジョンの実に突っ込んできて、再びその一つの咀嚼を開始し恍惚とした表情を浮かべる。
「いまのうちに逃げよう」
僕はサラサの手を引いてその場から離れた。
ロードウルフによって噛み砕かれた右腕が、今更ながら強烈に痛み始めていた。




