第7話 国境の会談
国境の砦。
そこは、かつて私が泥まみれで放り出された場所だ。
「……随分と変わったな」
隣に座るジークフリート様が、窓の外を見て呟いた。
私たちは最高級の馬車の中にいる。
揺れは少なく、座席はふかふかだ。
以前、ここを通った夜は、冷たい風と砂埃に震えていたのに。
「ええ。あの時は、まさか皇帝陛下の馬車で戻ってくるなんて思いもしませんでした」
私は苦笑した。
今日の私は、帝国の特注ドレスを身にまとっている。
髪は侍女たちによって艶やかに磨き上げられ、肌も健康的な血色を取り戻している。
今の私は、誰がどう見ても「捨てられた令嬢」ではない。
帝国の皇帝補佐官、イリス・ランチェスターだ。
「準備はいいか?」
「はい。言いたいことは山ほどありますから」
馬車が止まる。
扉が開くと、そこには両国の兵士が緊張した面持ちで整列していた。
◇
会談室の扉が開く。
長テーブルの向こうに、その人物は座っていた。
「……遅いぞ、イリス!」
ジェラルド王子。
かつての婚約者。
しかし、その姿は私の記憶にある彼とは随分と違っていた。
目の下には濃い隈があり、頬はこけ、金髪は手入れ不足でパサついている。
着ている服こそ豪華だが、どこか着古されたようなヨレがあった。
王国の経済状況が、そのまま彼の身なりに表れているようだ。
私は『神眼』を発動し、彼を視た。
【名前:ジェラルド・ヴァン・アルカディア】
【状態:慢性的な疲労/ヒステリー/栄養不足】
【現在の能力:政治(G)/虚勢(SS)】
【資産価値:暴落中】
能力値が下がっている。
以前見た時は政治が(E)だったはずだが、さらに悪化していた。
「お久しぶりです、ジェラルド殿下」
私は優雅にカーテシー(お辞儀)をした。
礼儀作法は完璧に。
それが、彼との「格差」を際立たせる一番の方法だから。
「ふん、少しは見られる格好になったじゃないか。帝国の水が合ったようだな」
彼は値踏みするように私をジロジロと見た。
その視線には、隠しきれない欲望と、所有物を見るような傲慢さが混じっている。
「単刀直入に言う。戻ってこい、イリス」
彼はテーブルに身を乗り出した。
「僕が寛大な心で許してやる。あの生意気な手紙も、家出も、すべて水に流そう」
「……許す、ですか?」
「そうだ。それに、特別な温情も用意した。お前を『側室』にしてやる」
彼は勝ち誇った顔で言った。
正妻ではない。側室だ。
まるで、それが最高のご褒美であるかのように。
「正妃は無理だが、側室なら置いてやってもいい。僕の寵愛を受けられるんだ、光栄だろう?」
頭痛がした。
この人は、本当に何も変わっていない。
世界が自分中心に回っていると信じて疑わない子供のままだ。
私は深くため息をつき、冷静に口を開いた。
「謹んで辞退いたします」
「……は?」
「現在の雇用主である皇帝陛下からは、正当な給与、完全週休二日制、そして手厚い福利厚生が提供されています。加えて、私の提案が国政に反映される裁量権もあります」
私は指を折って数え上げた。
「対して、殿下の提案は『側室』という法的権利の曖昧な地位のみ。給与の提示もなく、業務内容は不明確。どう考えても、転職するメリットがありません」
「な、なんだと……? 金の話か? 卑しいぞ!」
「生活の話です。それに、私はもう『物』ではありません。自分の価値を正しく評価してくれる場所を選ぶ権利があります」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
以前の私なら、彼の大声に怯えていただろう。
でも今は、彼の頭上の【虚勢(SS)】が空虚に見えるだけだ。
「おのれ……! 口答えするな!」
ジェラルドが激昂し、立ち上がった。
その手が、私の腕を掴もうと伸びてくる。
「戻れと言ったら戻れ! お前は僕の……!」
ガシィッ。
乾いた音が響いた。
私の腕に触れる寸前、王子の手首が、横から伸びてきた大きな手に掴まれたのだ。
「……触れるなと言ったはずだ」
空気が凍りついた。
いつの間にか、私の隣にジークフリート様が立っていた。
その青い瞳は、氷河のように冷たく、そして絶対的な捕食者の輝きを放っている。
「あ、ぐ……っ!?」
ジェラルドの顔が歪む。
握られた手首から、ミシミシと骨が軋む音が聞こえるようだ。
私は陛下の頭上を見た。
【名前:ジークフリート・フォン・ドラグノフ】
【状態:激怒(S)/加減中(理性による抑制:残り1%)】
【戦闘力:計測不能(ジェラルドの500倍)】
「離せ、野蛮人! 僕は王国の王子だぞ!」
「王子か。自分の国の資産管理もできず、他国の官僚に強要罪を働くのが王子の仕事か?」
ジークフリート様は、ゴミでも捨てるように彼の手を振り払った。
ジェラルドは無様に床へ尻餅をつく。
「ひっ……!」
「イリスは選んだのだ。お前ではなく、俺をな」
陛下は私の肩を抱き寄せ、見せつけるように引き寄せた。
その腕の力強さに、心臓が跳ねる。
「見ろ、この顔色を。お前の元にいた時より、今のほうが遥かに美しい。それが全ての答えだ」
事実だ。
あの頃の私は、いつも俯いて、顔色を悪くしていた。
今の私は、胸を張って立っている。
ジェラルドは床に這いつくばったまま、私たちを見上げた。
その目には、恐怖と、屈辱と、そして理解できない現実への混乱が渦巻いていた。
「……覚えていろ」
彼は震える声で呻いた。
「ただで済むと思うなよ……! こうなれば戦争だ! 軍を動かして、その女を力ずくで奪い返してやる!」
捨て台詞を残し、彼は逃げるように会談室を出て行った。
バタン、と扉が閉まる音が虚しく響く。
「……やれやれ。交渉決裂だな」
ジークフリート様が、肩をすくめた。
怒気は消え、いつもの穏やかな表情に戻っている。
「申し訳ありません、陛下。私のせいで」
「謝るな。最初からこうなることは分かっていた」
彼は私の髪を優しく撫でた。
「戦争か。望むところだ。人材の差が国力の差であることを、骨の髄まで教えてやろう」
その言葉には、絶対の自信があった。
私の『神眼』には見えていた。
彼の頭上に浮かぶ【勝率:100%】の文字が。
私たちは手を取り合い、部屋を出た。
以前、捨てられたこの場所で。
今度は私が、自分の意志で彼の手を握り返した。




