第6話 愚かなる返還要求
「……燃やすか」
ジークフリート様が、低い声で唸った。
その手にあるのは、王国から届いた外交文書だ。
青白い炎の魔力が、彼の手のひらでチリチリと音を立てている。
「待ってください。燃やしたら国際問題になります」
「もうなっている。なんだこのふざけた文面は」
彼は不快そうに羊皮紙を机に叩きつけた。
『元伯爵令嬢イリスは、王国の教育予算によって育成された国家資産である。帝国の不当な引き抜きは財産権の侵害にあたるため、即時の返還を要求する』
国家資産。
その単語を見るたび、胸の奥が冷える。
かつて、あの大広間で「魔力がゴミだ」と切り捨てられた記憶が蘇る。
都合が良すぎる。
ゴミとして捨てたくせに、価値があると知った途端に「資産」と呼ぶなんて。
「イリス。お前は物ではない。俺が契約した、誇り高き補佐官だ」
ジークフリート様が、私の肩を抱き寄せる。
その頭上には【激怒(S)】の文字が燃え続けているが、私に向ける視線だけは穏やかだ。
「俺の軍を動かすか? 王国の城ごと更地にしてやってもいい」
「いえ、武力は最終手段です」
私は首を横に振った。
ここで戦争になれば、多くの血が流れる。
それに、感情論で動けば、帝国の品位に関わる。
「言葉で戦いましょう。彼らの理屈がいかに破綻しているか、法的に証明してみせます」
私は『神眼』を発動し、執務室のドアを開けた。
廊下には、緊急招集された法務官たちが待機している。
「これから反論文書を作成します。私が指示する条文を、一字一句間違えずに記述してください」
私は列の中から、一人の小柄な文官を指名した。
【名前:トマス】
【適性:論理構築(A)/屁理屈(S)】
「トマス法務官。あなたの出番です。相手の矛盾を突くのが得意でしょう?」
「は、はいっ! 任せてください、あのような身勝手な主張、穴だらけです!」
トマスが目を輝かせてペンを取る。
私は王国での記憶と、帝国の法知識をフル回転させた。
「まず第一点。『教育予算による育成』について」
私は冷静に告げる。
「私が王立学園に通っていた際の学費は、亡き母の遺産、つまり『個人資産』から全額支払われています。国庫からの支出記録は存在しません」
トマスが猛スピードで羊皮紙に走らせる。
「第二点。『国家資産』という定義について」
ここが一番の矛盾だ。
「王国法において、資産の廃棄処分は所有権の放棄と見なされます。ジェラルド王子は公衆の面前で私に『国外追放』を宣告しました。これは法的に『所有権の放棄』および『国籍の剥奪』に該当します」
あの日、床に投げつけられた鑑定書。
あれは、私を「無価値なゴミ」として処分した証明書だ。
「捨てられたゴミを誰が拾おうと、元の所有者に権利を主張する資格はありません。拾得者、つまり帝国皇帝陛下との新たな契約が優先されます」
「ぐうの音も出ませんな……」
トマスがニヤリと笑いながら清書していく。
さらに私は、ハンスから提供された王国の財務データを提示した。
「第三点。『返還要求』の根拠となる価値について。追放時の王国の査定額は『ゼロ』でした。現在の私の価値は、帝国の環境と投資によって生み出されたものです」
ミルクも、温かいベッドも、仕事のやりがいも。
すべてジークフリート様が与えてくれたものだ。
王国は何もしていない。
「以上により、王国の請求は法的根拠を欠く無効なものであると結論づけます。……これに、陛下の署名を」
完成した文書は、鋭利な刃物のような論理の塊だった。
感情を一切排し、事実と法のみで構成された冷徹な拒絶状。
ジークフリート様は内容を一読し、満足げに口角を上げた。
「完璧だ。軍を動かすより痛烈だな」
彼はサラサラとサインをし、公印を力強く押した。
「直ちに発送しろ。最速の早馬を使え」
「はっ!」
法務官たちが駆け出していく。
執務室に静寂が戻った。
「……すっきりしたか?」
ジークフリート様が、私の顔を覗き込む。
「はい。とても」
私は深く息を吐いた。
胸のつかえが取れたようだ。
これで完全に、過去と決別できた気がする。
「もう、私は王国の人間ではありません。あなたの補佐官です」
「ああ。誰にも渡さん」
彼は私の手を引き、その甲に口づけを落とした。
公務中だが、もう誰も見ていない。
頭上の【溺愛(SS)】という文字が、少し恥ずかしくて、でも嬉しかった。
◇
数日後。
王国、王城の執務室。
「な、なんだこれはぁぁぁッ!!」
ジェラルド王子の絶叫が響き渡った。
帝国から届いた返信を読み終えた彼は、顔を真っ赤にして震えている。
「学費は自己負担!? 追放は所有権の放棄!? 屁理屈を並べおって!」
彼は羊皮紙をビリビリに引き裂いた。
しかし、書かれた事実は消えない。
周囲の側近たちも、下を向いて沈黙している。
誰も反論できないのだ。正論すぎて。
「おのれ、イリス……! 僕をコケにしやがって!」
ジェラルドは腰の剣を抜き、机に突き立てた。
彼のプライドはズタズタだ。
魔力量しか見ない彼には、論理的な正しさなど理解できない。
あるのは、自分の思い通りにならない現実への癇癪だけ。
「こうなったら、力ずくでも連れ戻す! 軍を招集しろ!」
「で、殿下!? 帝国と戦うのですか!? 勝てるわけが……」
「うるさい! あいつは僕のものだ! 僕が捨てたときだけゴミになるんだ! 勝手に輝くことは許さない!」
歪んだ独占欲。
それはもう、愛でも執着でもなく、ただの幼児性だった。
「国境へ向かうぞ! 余自らが出陣し、あの生意気な女と泥棒皇帝をひざまずかせてやる!」
王子の暴走は、もはや誰にも止められなかった。
崩壊寸前の王国軍が、重い腰を上げて動き出す。
それが、自らの首を絞める最後の一手になるとも知らずに。




