第5話 溺愛は業務に含まれますか?
ペンを走らせる手が震えた。
視界の端が白く霞む。
「……イリス様、顔色が優れませんが」
法務官の声が遠くに聞こえた。
机の上には、王国への反論資料が山積みになっている。
先日届いた抗議文に対し、国際法に基づいた反論を作成しなければならない。
加えて、ハンスが持ち込んだ財務データの分析、ルカ君の研究室の手配。
やることは山積みだ。
休んでいる暇なんてない。
「大丈夫です。あと少しで、この条文の解釈が……」
立ち上がろうとした瞬間、足から力が抜けた。
床が急接近する。
「っ……!」
受け身を取れない。
そう思った時、私の体は硬い腕の中にあった。
「……おい、何をしている」
頭上から降ってくる低い声。
ジークフリート陛下だ。
彼の『眼』には、今まで見たことのない赤文字が点滅している。
【状態:激怒(対象:イリスを酷使した環境/自分自身)】
「へ、陛下。すみません、少し立ちくらみが」
「少しだと? 顔面蒼白だぞ。呼吸も浅い」
彼は私を抱きかかえたまま、周囲の文官たちを睨みつけた。
「全員、下がれ。以後の業務は俺が引き継ぐ」
「ですが陛下、この書類は今日中に……」
「皇帝命令だ。失せろ」
氷のような声に、法務官たちが慌てて部屋を出て行く。
執務室には二人きりの静寂が残された。
「陛下、降ろしてください。仕事に戻らないと」
「却下する」
私の抗議は一瞬で握りつぶされた。
ふわわりと体が浮く。
いわゆる「お姫様抱っこ」だ。
「え、あ、あの!」
「暴れるな。落ちたら危ない」
彼はスタスタと歩き出し、執務室を出て隣接する私室へと向かった。
廊下ですれ違う兵士たちが、ギョッとして壁に張り付く。
恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「陛下、これは公務ですか……?」
「緊急の人命救助だ。公務に決まっている」
真顔で即答された。
けれど、彼の心臓の音がトクトクと速くなっているのが、私の背中に伝わってくる。
◇
私室のベッドに、壊れ物を扱うようにそっと降ろされた。
最高級の羽毛布団が、疲れた体を包み込む。
「少し眠れ。回復魔法を呼ぶほどではないが、ただの過労だ」
陛下が枕元に椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
その手には、いつの間にか温かいミルクが入ったカップが握られていた。
「飲めるか?」
「……はい」
カップを受け取ろうと手を伸ばすと、彼はそれを遮った。
「手が震えている。こぼすぞ」
彼はカップを自分の口元へ運び、ふーふーと息を吹きかけて冷ますと、私の口元へ差し出した。
「飲ませてやる」
「い、いえ! それは流石に!」
「業務命令だ」
またその言葉だ。
雇用契約書に「皇帝による食事介助」なんて項目は絶対になかったはずだ。
でも、逆らえない。
私は観念して、彼の手から一口啜った。
蜂蜜入りのミルクが、冷えた胃に染み渡る。
「……美味しいです」
「そうか」
彼は満足げに目を細めた。
その表情が、あの国境の森で見せた冷徹な皇帝とは別人のようで、胸が締め付けられる。
「陛下はどうして……私にここまでしてくれるのですか?」
ずっと聞きたかったことを、口にしてしまった。
「私はただの補佐官です。能力を買われただけの、契約関係のはずです」
「……能力、か」
彼はカップをサイドテーブルに置き、私の前髪を指先で優しく払った。
「確かに最初はそうだった。お前の『神眼』は、喉から手が出るほど欲しい才能だ」
青い瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。
「だが、今は違う。お前が無理をして倒れそうになると、胸がざわつく。国益の損失などどうでもいいと思うほどに」
「え……」
「イリス。俺は合理主義者だが、お前に関しては計算が狂うようだ」
彼の指が、私の頬を包み込む。
その頭上に浮かぶ文字が、ゆっくりと変化していく。
【思考:愛おしい】
【感情:誰にも渡したくない】
【結論:これは恋だ(確定)】
文字で見えてしまった。
彼の本心が。
合理的な彼が導き出した、非合理な結論。
「陛下……」
「名前で呼べ。二人きりの時だけでいい」
「……ジークフリート様」
呼ぶと、彼は嬉しそうに目を細め、私の額にそっと唇を落とした。
「よくできました」
熱が全身を駆け巡る。
王国の元婚約者からは、こんな風に大切にされたことなんて一度もなかった。
ゴミ扱いされ、道具として利用されようとした私。
でも、この人は違う。
「少し休め。目が覚めるまで、ここにいてやる」
「仕事が……」
「俺がやる。お前の仕事は、俺の隣で笑っていることだ。……あと、健康管理もな」
彼は私の手を握り、布団の中に滑り込ませた。
大きな手の温もり。
それが何よりの睡眠薬だった。
私は抗えない睡魔に身を任せた。
自分が、この国で一番幸せな「契約社員」であることを噛み締めながら。
◇
目が覚めたのは、夕暮れ時だった。
体調は驚くほど回復していた。
隣を見ると、ジークフリート様はいなかったが、サイドテーブルに置かれた書き置きがあった。
『執務室にいる。起きたら顔を見せろ』
端的な文字に、ふふっと笑みがこぼれる。
身支度を整え、私は執務室へ向かった。
扉を開けると、そこには書類と格闘する彼の姿と、青ざめた法務官の姿があった。
「起きたか」
ジークフリート様が顔を上げ、安心したように微笑む。
しかし、その直後、法務官が震える手で一枚の羊皮紙を差し出した。
「イリス様……。タイミングが悪くて申し訳ありません」
「これは?」
「先ほど、王国から正式な外交文書が届きました」
私はそれを受け取った。
王家の紋章が入った、分厚い封書。
先日の抗議文とは違う、法的効力を持った「最後通告」だ。
『帝国の不当な略取に対し、即時の資産返還を要求する』
文面には、私のことを「国家予算を投じて育成した重要資産」と定義し、違約金として莫大な金額か、あるいは身柄の引き渡しを求めていた。
「……ふざけている」
ジークフリート様が、私の手から羊皮紙を取り上げ、握りつぶした。
その頭上には、再び【激怒(S)】の文字が燃え上がっている。
「イリスは物ではない。俺の大切な……補佐官だ」
一瞬言い淀んだところに、先ほどの甘い時間の余韻を感じてしまう。
けれど、今は公務の時間だ。
「法務官。返答を用意します」
私は背筋を伸ばした。
ミルクと睡眠で、頭は冴え渡っている。
そして何より、心はもう満たされていた。
「私の言葉で、彼らの矛盾を一つずつ論破します。手伝っていただけますか、ジークフリート様」
「ああ。徹底的にやるぞ」
私たちは並んで机に向かった。
甘い空気は一変し、戦場の空気が満ちる。
けれど、繋がれた心の距離だけは、もう二度と離れない気がした。




