第10話 最高の契約
「……イリス様、鏡をご覧ください」
侍女の声で、私は顔を上げた。
鏡の中にいたのは、自分でも見知らぬ美女だった。
帝国の夜空を織り込んだような、深い青色のドレス。
髪には、ルカ君が開発した光る髪飾りが、星屑のように散りばめられている。
かつて王国のパーティで「地味で華がない」と笑われた娘の面影は、どこにもない。
「準備は整いましたね」
部屋に入ってきたのは、すっかり顔色の良くなったベルンハルト宰相だ。
今日の彼は、いつもの疲れ切った顔ではなく、父のような温かい笑みを浮かべている。
「行きましょう、補佐官。いや、今日の主役」
「主役だなんて。ただの戦勝記念の舞踏会でしょう?」
「ふふ、さあどうでしょうな」
宰相は意味ありげにウィンクをした。
その頭上に【作戦:サプライズ(進捗100%)】という文字が見えているけれど、私は気づかないふりをして彼のエスコートを受けた。
◇
大広間は、光と音の洪水だった。
シャンデリアの輝きが、磨き上げられた床に反射している。
集まった貴族や官僚たちの顔は、どれも明るい。
国が豊かになり、誰もが適性のある仕事で成果を出している証拠だ。
「あ、イリスお姉ちゃん!」
正装に身を包んだルカ君が駆け寄ってきた。
胸元には、帝国勲章が輝いている。
「見て、僕が作った自動演奏装置! 楽団がいなくても音楽が流れるんだ!」
「すごいわ、ルカ君。完璧な音色ね」
「へへっ、特許料も入るし、これでお腹いっぱいお肉が食べられるよ!」
彼の笑顔に、かつて路地裏で震えていた姿が重なる。
今の彼は、帝国最年少の魔導工学博士だ。
「イリス様、こっちの料理もすごいですよ!」
皿を山盛りにしたハンスも現れた。
財務部のエースとして多忙なはずだが、今はただの食いしん坊に戻っている。
彼らが幸せそうに笑っている。
それだけで、私がこの国に来た意味があったと思えた。
その時。
会場の照明が落ち、スポットライトが階段の上を照らした。
「皇帝陛下のお成り!」
静寂の中、ジークフリート様が現れた。
純白の礼装。
腰には儀礼用の剣。
その圧倒的な美貌とカリスマ性に、会場中の空気が震える。
彼は階段を降りると、真っ直ぐに私の元へ歩いてきた。
迷いなく。
他の誰にも目もくれず。
「……待たせたな」
目の前で止まった彼が、私に手を差し出す。
あの国境の森で、泥まみれだった私に差し出された手。
今は洗練された白い手袋に包まれているけれど、その奥にある熱は変わらない。
「踊ってくれるか、イリス」
「はい、喜んで」
私が手を重ねると、彼は力強く引き寄せた。
音楽が流れ出す。
私たちは光の渦の中へ滑り出した。
「綺麗だ」
踊りながら、彼が耳元で囁く。
「ドレスも、髪も。だが、一番美しいのは、その自信に満ちた瞳だ」
「あなたのおかげです。私に価値を与えてくれたのは、あなたですから」
「違うな。俺はただ、埃を払っただけだ。輝いたのは、お前自身の力だ」
ターンに合わせて、世界が回る。
彼の青い瞳に、私が映っている。
そこには、かつて見たような冷徹な計算も、国益を天秤にかける思考もない。
曲が終わると同時に、彼はその場に片膝をついた。
会場中が息を呑む。
皇帝が、臣下の前で跪くなど、前代未聞だ。
「イリス・ランチェスター」
彼は懐から、小さな箱を取り出した。
パカリと開くと、中には大粒のダイヤモンドが輝く指輪があった。
その石には、複雑な魔導回路が刻まれているのが『眼』で見えた。
【アイテム:誓いの指輪】
【効果:永続的な愛/精神の安定/全属性耐性】
【所有権:ジークフリート個人の私財より支出】
「新たな契約を提案したい」
彼は真剣な眼差しで、私を見上げた。
「期間は、俺の命が尽きるまで。業務内容は、俺の隣で共に生き、共に笑い、時に俺を叱ること」
それは、プロポーズだった。
この人らしい、不器用で、誠実な契約の申し込み。
「報酬は、俺の全てだ。帝国も、権力も、この心臓も。すべてお前に捧げる」
会場が静まり返る。
私の答えを待っている。
断る理由なんて、どこにもなかった。
私の『神眼』には見えている。
彼の頭上に浮かぶ、たった一つのシンプルな真実が。
【名前:ジークフリート】
【状態:世界で一番イリスを愛している】
視界が滲んだ。
かつて「ゴミ」と捨てられた私が、今、世界で一番価値のある宝物として求められている。
私は涙を拭い、彼の手を取った。
そして、最高の笑顔で答えた。
「……謹んで、お受けいたします」
その瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
ルカ君が飛び跳ね、ハンスがハンカチで目を拭い、宰相が満足げに頷いている。
ジークフリート様は立ち上がると、私を抱きしめ、そして熱い口づけを落とした。
公衆の面前だろうと関係ない。
これは契約成立の証。
そして、二人の愛の誓いだから。
「愛している、イリス」
「私もです、ジークフリート様」
私の新しい人生。
それは、有能な補佐官として、そして愛される妻として。
彼と共に、この国でずっと続いていく。
最高の契約は、ここから始まるのだ。
(完)
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