君が夏を連れて来る
ぴんぽん。インターホンの音が一度だけ鳴って、静かになった。私は手探りでスマートフォンを探し、時間を確かめる。午後三時を過ぎたところだった。暑い七月の午後、冷房を点けてがんばろうと思ったのだが、いつの間にか寝てしまっていたらしい。フローリングの床に雑に敷いた、ひんやりする敷きパッドと、私の上に申し訳程度に掛かっているタオルケットが崩れていた。寝相が良くなかったのかもしれない。そんなことをぼんやりした頭で考えて私は身を起こし、座り込んでいたのだが、そういえばぴんぽんが鳴ったのだったと思い出す。スマートフォンに特にメッセージは来ていないことを確かめて、ぺたぺたと短い廊下を歩く。玄関扉に付いた小さな丸から片目で外を見る。そこには私の友人、トオキが立っていた。
がちゃっと扉を開けると、
「よう」
と片手を上げて見せながら、まるで夏の太陽を連れて来たようにトオキは笑った。
その上げた片手には向日葵柄のエコバッグがぶら下がっている。私が昔、トオキにささやかながらプレゼントしたものだった。
「どうしたの、急に。メッセージもなしに」
「いやあ、暑くてさ」
トオキは私の言葉にまるで合っていない返事をしながら、両手を上げて大きく一つ、伸びをした。
確かに、暑いのは分かる。お昼頃からぐんぐんと太陽は上に昇って行き、かんかんとは言わないまでもその輝きを強くして日光を私達のいる東京に届けていた。玄関扉の内側からトオキの頭上越しに空を見上げると、白い雲が少しだけ浮かんでいる夏特有の濃い青の空が見えた。
「とりあえず、入る?」
私がそう言うと、うんうんと頷き、トオキは玄関扉の内側に入って来た。私が扉を閉めてかちゃっと鍵を掛ける間に、トオキは夏空のようなくっきりした青色のスニーカーを脱いで几帳面に揃えていた。
「これを切ってくれー」
そう言ってトオキは向日葵柄のエコバッグを開ける。取り出されたのは、やや小さめのスイカだった。丸のまんまの。
「スイカだ!」
私は思わず声が大きくなった。
「夏は、やっぱスイカでしょ。リイと一緒に食べたくて、そこのスーパーで買って来た。冷えてないけどさ、ちょっと食べない?」
「食べる」
「俺、手を洗って来るわ」
勝手知ったるという感じでトオキは洗面所に歩いて行ったので、私はキッチンに置いているハンドソープで手を洗って、早速、包丁を取り出す。スイカを軽く叩いてみると、ぽんぽんという良い音がした。詰まっています、という感じの音だ。私は、にこにこしてしまう。
「気を付けて切ってねー」
洗面所の方からトオキが言った。
「うん」
慎重に、かつ、丁寧に。私はスイカに包丁を入れた。さくさく、ざくざく。私はスイカをまず半分に切った。小さめのスイカなので、トオキと私でこれで半分ずつ食べても余裕で食べられそうだが、まるまる一個のスイカを一気に食べるのも勿体無いし、せっかくだから半分は冷やしておこうと思い、ラップを掛ける。それを冷蔵庫に仕舞ってキッチンに戻ると、トオキがスイカをじーっと見ていた。
「どうしたの、そんなにじーっと見て」
「いやあ、真っ赤だなーと思って」
「真っ黒だったら怖いじゃん」
「そういうんじゃなくて」
「ん?」
「夏の色だなーって」
そう言われて改めて半分になったスイカの断面を見ると、真っ赤な果肉に黒い種が点々とある様子を私はきっちりと認識した。
「確かに、夏って感じ」
「ね」
私は半分になったスイカを更に半分にし、その後、いびつながらも二等辺三角形にして行く。全部で六切れになったスイカを白い大皿に並べて、私は部屋の中央にある小さな木製のテーブルに置いた。
「飲み物、水出しアイスティーが出来てるけど、飲む? アールグレイ」
「飲む」
昔、祖母が喫茶店を開く時に多めに買ったという脚付きのグラスに私は氷をぎっしり入れて、一気にサーバーからアイスティーを注いだ。からからからと、良い音がする。
「運ぶよ」
「ありがと」
グラス二つをトオキが持ち、私は白いプラスチック製のコースターを二枚、持って行く。
私達はようやくという感じで座布団に座り、いただきますと言ってアイスティーを飲んだ。良く冷えていて、とてもおいしい。トオキはどうだろうかと私が見ると「うまい」と言って笑ってくれた。私は少しの照れを誤魔化すように、もう一口、アイスティーを飲んだ。
「スイカ、ありがとうね」
「いやいや、そんな改まらなくても。もうスイカの時期なんだなーって、スーパーに並んでるの見て思ってさ。一口サイズにカットされているのもあるけど、やっぱスイカは丸のままって感じがするし、買うならこれだ! って。リイも好きだったはずだし、とね」
「大好き」
「うん」
どちらからともなくスイカに手を伸ばし、しゃくっと食べる。二等辺三角形の頂点の、一番甘いところを私達は味わう。
「あまっ」
「うん!」
これは大当たり、とトオキが言った。私も同意し、しゃくしゃくとスイカを食べる。
「涼しいなー、リイの部屋」
トオキがスイカを片手に、エアコンを見上げて言った。
「部屋が狭いからすぐ冷えるんだよね。冷房してがんばろうと思ったんだけど、寝ちゃってて」
しゃくしゃく。私達はスイカを食べながら、レースのカーテン越しに外を見る。
「七月って、こんなに暑かったっけ」
「どうだっけ」
「俺達が子供の時ってさ、蝉捕りとかをしに夏休みになると公園へ走ってたよな」
「懐かしー」
私の声を拾うように、トオキは窓の外から私に視線を戻す。
「夏と言えば、スイカ、蝉捕り、ラムネ。スイカの皮をベランダに置いておくと、小さいクワガタが来たりしてさ」
「私もやったなあ」
「夏休みの間のごはん、そうめんと天ぷらばっかでさ」
「うちも」
「でも、なんかうまくて夢中で食べてさ。氷水、飲んで。すぐに虫捕り網を持って友達と外に飛び出して行く。これの繰り返し」
「エンドレスだよね、夏休み」
トオキは一切れ目のスイカを綺麗に食べ終えて、二切れ目に手を伸ばす。それをしゃくっと食べて、トオキは窺うように私を見た。
「最近、どう?」
「お父さんが書いていた小説を読んだり、集めてあった音楽を聴いたりしてる」
「そっか」
「うん」
からん、とグラスに入っている氷が溶ける音が響く。
トオキは少しだけ無言のまま、ただしゃくしゃくと二切れ目のスイカを食べ、アイスティーを飲んだ。私も二切れ目のスイカを手にして、同じように食べる。そして、同じようにアイスティーを飲んだ。
「俺さ、就職が決まったんだ」
「えっ、おめでとう!」
思い切ったように切り出したトオキの声は、先程までとは少し違っていた。
しゃくっと二切れ目のスイカを食べ終えたトオキは、残っていたアイスティーをごくごくと一気に飲み干した。
「あ、お代わり……」
いる? と言い掛けた私を手で遮り、トオキは言った。
「今度の仕事さ、営業なんだけど。絶対、向いているって思って面接を受けたんだ。どんなのだと思う?」
「……全く分からない」
私は真面目にそう返したのだが、だよな! とトオキは笑って続けた。
「リイの好きなお茶屋さんの茶葉の買い付けと卸しの仕事」
「えっ、すごい!」
「テイスティングも仕事だし、俺もこれからはお茶に詳しくなるよ」
「すごいね! おめでとう!」
「お礼を言うのはこっちだよ。リイってお茶好きだよなって思って、それをきっかけに求人を探したからさ」
「行動力、すごいね」
「すごいばっかり言う」
「あっ、つい」
トオキは笑い、私も笑った。
私は一口、アイスティーを飲み、グラスをコースターに戻す。かたん、と私が思ったよりも大きな音がピリオドのように響いた気がして、私は思わず心の中で驚く。
「リイ」
知らず、グラスの中の氷に視線が吸い寄せられていた私を導くように、トオキが静かに私を呼んだ。私が反射的に顔を上げると、トオキが真剣な顔で私を見ていた。
「俺の仕事が安定したら。一緒に暮らそう」
私が黙っていると、更にトオキは言った。
「ずっと一緒にいたい。リイの傍で支えたい。リイは?」
私がまた俯きがちになると、それを押し留めるようにトオキが私の名前を呼んだ。私は落ち掛けていた視線を元に戻し、うん、と言った。
「私も。トオキと暮らしたい。でも、私はあまり沢山の仕事は出来ないから。うまく言えないけど……難しくて。今の事務だって、週四日だから続けられているようなもので。それでも私には少し、つらくて」
「そんな落ち込んだ声で言わなくても良いんだよ」
「え?」
私が聞き返すと、トオキは明るく言った。
「俺はリイの良いところ、知ってるからさ。いつも一生懸命で、優しくて、俺においしい紅茶を淹れてくれてさ。俺はリイが好きなんだ。リイが俺と暮らしたいって言ってくれた。それがもう、俺にはすごく嬉しくてさ。だから」
トオキは言葉を切り、まるで夏空のように笑った。そのまま、トオキは私に手を伸ばす。
「これからも、ずっとよろしく」
「――うん!」
私達は手を重ねた。冷房のおかげで、お互いの手のひらは少しだけ冷えていた。けれど、確かに温かかった。