オカルトデバッガー 〜その怪異、バグ技で攻略します〜
(1) 遭遇
夜風が梢を揺らし、枝葉がざわめいた。
足元で小石が転がる音が、不気味に響く。
Y市郊外。街の光が届かない、薄暗い林道。
昼間なら普通の散策路かもしれないが、夜の帳が降りると、そこはまるで異界と地続きのように感じられた。
私は恐る恐る、前を行く玖珂燐華の背中を追う。
――そのとき。
燐華の歩みが、ふっと止まった。
私も反射的に足を止める。
耳を澄ますと、遠くで鳥の鳴く声がした。
……いや、違う。
それとは別の――もっと異質な気配が、この林の奥から滲み出ている。
「……霧宮さん」
燐華が私の名を呼んだ。
「はい」
「ねぇ、夢じゃないよね」
「……恐らくは」
燐華は拳を握りしめ、かすかに唇を震わせる。
視線の先。月明かりも届かぬ薄闇の中に、それは立っていた。
――"赤"。
それは、女のカタチをしていた。
しかしその姿は、明らかにヒトのそれではない。
血のような深紅のワンピースが、闇の中でゆらりと揺れている。
噂話は本当だった。
思わず喉がごくりと鳴る。
隣を見ると、燐華の肩が震えていた。
しかし、それは恐怖によるものではない。
「本当に……会えるなんて! もう泣きそう!」
歓喜に満ちた声が夜に響く。
瞳を潤ませながら、燐華は両手で口を覆った。
その恍惚とした横顔は、明らかに常軌を逸している。
……私の知らない、玖珂燐華。
それが、きっと彼女の素顔なのだろう。
――その刹那。
ひたり。
赤い女は、こちらへ一歩を踏み出した。
(2) 逢魔への誘い
ことの始まりは、数日前にさかのぼる。
和央大学キャンパスの一角。
窓の外には茜色の光が差し込み、机の上のノートパソコンに淡い影を落としている。午後の講義が終わった頃合いで、周囲は静かだった。
私、霧宮涼音はキーボードを叩きながら、画面に並ぶエラーメッセージと睨めっこをしていた。
どうやらプラグインを更新した影響で、参照エラーが出てしまったらしい。これは修正に骨が折れそうだ。
なぜ他人の組んだプログラムのバグ探しを、私がやらなくちゃいけないのか……と虚無感に襲われる。
サークル活動の開始時刻まで、まだ余裕がある。
それまでに修正の目処を立てられれば――。
私は大きく伸びをすると、再び画面に向き直った。
和央大学のデジタル創作サークル、通称WDEC。
絵や曲、ゲームを作るのが好きな学生たちが集まって、様々な創作活動に取り組んでいる。私はプログラマー仲間と交流すべく、この春から参加していた。
キーボードを叩いていると、不意に影が差す。
「霧宮さん」
透き通るような声がした。
顔を上げると、そこには玖珂燐華が立っていた。
同じサークルの1年生だが、1対1で声をかけられたのは初めてだ。
「今、お話してもいいかしら?」
「……えぇ、まあ。何の用ですか?」
彼女の存在は、嫌でも目を引いた。
肩にかかるほどの髪は、淡い茶色。光を受けると、わずかに金色がかった艶を帯びる。
目はやや吊り気味で、強い意志を感じさせた。
そして、唇。淡いローズの色が差されたそこは、笑うと人懐っこさが増す。
服装は、白のブラウスにタイトめなロングスカート。品のあるシルエットだが、袖口のフリルやリボンのアクセントが、彼女の雰囲気によく馴染んでいた。
文化なんとか学部の1年生。美人で、人当たりがよく、誰とでも分け隔てなく話せる。そういう意味で、THE 理系女子の私とは対極の人間だ。
そんな彼女が何故か、まっすぐ私を見つめていた。
「霊感があるって噂を聞いたのだけれど、本当?」
唐突な言葉に、私は思わず顔をしかめる。
「……どこからそんな話を?」
「先輩が言っていたの。基幹理工の1年生に、すごいのがいる――って」
「すごいの……」
「怪異に愛されてるんだってね?」
燐華は興味津々といった様子だ。
私は短く息を吐く。
「違います。嫌われてるんですよ」
「嫌われてる?」
「向こうから、明確な敵意を向けられるんです」
物心ついた頃からずっとだ。
珍しい家系のせいで、この世ならざるものに遭遇しやすい。
そしてそれらは、決まって私に牙を剥いた。
何度も、何度も。
「だから、いいことなんて何もありません」
その言葉に、燐華は目を瞬かせた。
――普通なら、ここで話は終わる。
大抵の人間は、はっきり線を引けば踏み込まないものだから。
しかし。
「きっと、それも才能よ。神様からの贈り物ね」
燐華は優しく微笑んだ。
――才能? 何を言っているんだ、この人は。
私は眉を寄せたが、それに構わず燐華は続ける。
「ねえ、霧宮さん。私、プログラマーを探してるの」
「はあ」
「ホラーゲームを作るのだけど、リアリティのある怪異の挙動を再現したくて」
「リアリティ……?」
「ホラゲーを通じて、もっと多くの人にオカルトの魅力を広めたいの。怪異、幽霊、都市伝説……。世界には、こんなに素晴らしいものが存在するってこと、知ってもらいたいんだ! だから、霧宮さんに協力してほしいなって」
唐突な勧誘に、私は言葉を失った。
プログラムの技術的な話かと思いきや、何やら方向性がおかしい。
私が返答に詰まっていると、燐華は別の質問をたたみかけた。
「今週末の夜、予定は空いてるかしら?」
「え、えぇ、空いていますけど……」
友好関係の乏しい私にとって、週末の予定があることの方が珍しい。
「よかった!」
燐華はぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、デートに付き合ってくれない?」
「で、でーと……ですか?」
デート。意味なら私でも知っている。
2人でお出かけをするのだから、それは広義のデートに違いない。
しかし、ほとんど関わりのない人と――それも女子と、夜に、デート?
感情が渋滞する中、反射的にこう答えていた。
「いい、ですけど……?」
私としては、誘いを承諾する理由も、断る理由もない。
であれば、彼女にとってメリットのある選択をした方が、総合的に考えて有意義だと判断したのだ。
それに、大学生らしいイベントに、興味がないといえば嘘になる。
……いや、それすらも言い訳なのかもしれない。
玖珂燐華という人間からの誘いを、きっと私には断ることなどできない。そんな予感があった。
「夜にって……どういうお出かけプランなんですか」
「それは、まだ秘密。その時のお楽しみってことで」
燐華は悪戯っぽく笑った。
「じゃあ約束ね。これ、私の連絡先」
そう言って、燐華はスマホの画面をこちらに向けた。そこに表示されているQRコードを、私は慣れない手つきで読み取った。
友だちの欄に追加された「玖珂 燐華」の4文字。
そのアイコンには、可愛らしくデフォルメされたネコが描かれている。
よく見ると、その尻尾は2つに分かれていた。
そして私は、後になって知ることになる。
それが、命懸けの「怪異取材」への誘い文句だったのだと。
(3) マソホ様
燐華が指定した待ち合わせ場所は、私の家の最寄り駅だった。
夜の駅前ロータリーは、朝の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
タクシーが数台停まっているほかは、人の姿もまばらで、バス停の明かりが無機質に地面を照らしている。
そんな中、一台のシルバーの車が停車していた。
シンプルで無駄のないフォルム。派手さはなく、コンパクトながら安定感のあるデザインだ。
メッセージに記されていた特徴と一致している。
おそるおそる近づくと、ガチャリとドアが開かれた。
「霧宮さん! 来てくれてありがとう」
玖珂燐華の笑顔がまぶしくて、私は目を細めた。
「あの……わざわざ、迎えに来てもらってすみません」
「いいの、気にしないで。私のワガママに付き合ってもらうんだから」
車を降りた彼女は、ライトグレーのパーカーに細身のデニム、動きやすそうなスニーカーというラフな格好だった。
私の服装をひと通り見て、燐華は口元を綻ばせる。
「その服、もしかしてお出かけ用?」
「……別に、適当に選んだだけです」
「へぇ? サークルの時とは雰囲気が違うから、そうなのかなーって思ったんだけど」
私は誤魔化すように目を逸らした。
確かに、多少は考えた。シンプルな黒のパンツに、白のシャツとジャケット。動きやすさも意識しつつ、カジュアルになりすぎないように調整した。
でも、そういうのを言い当てられるのは、なんだか恥ずかしい。
「一応、言われた通り赤い服は避けましたけど……。あれ、どういう意図で?」
「詳しい話は移動中に。私物も、赤色のは持ってないよね?」
「はい、もちろん」
「ならよし! ほら、乗って乗って」
燐華は満足げに頷くと、運転席に戻った。
私は助手席のドアを開け、シートに腰を下ろす。
「免許、もう持ってるんですね」
「18歳になって、すぐに取ったわ。取材には必須だもの。バスじゃ行けない場所も多いし、機材も運べるしね」
相変わらず、行動力の塊みたいな人だ。
インドア派の私とは、まるで住む世界が違う。
「あ、でも私の車じゃないわよ。親から借りてるだけだから、私のセンスだって勘違いしないでね」
なるほど、と車内を見回す。きれいに整頓されていて、余計なものは置かれていない。
けれど、微かに燐華らしい香りがした。主張しすぎない、でも心地よい清潔感のある香り。
柑橘系の爽やかさに、ほんのり甘さが混じるような――何の香りかは分からないけれど、不思議と落ち着く感じがした。
車は静かに発進し、駅前の街灯を後にする。
「それで、これからどこに向かうんですか?」
「S市の郊外。最近、とある怪異が目撃された場所よ」
「それは……何という?」
「『赤い女』よ。通称――マソホ様」
その名前には聞き覚えがなかった。
「赤い女なら、なんとなく知ってますけど……マソホ様?」
「最近出てきた特殊な事例でね。でも、この手の怪異には共通の系譜があるのよ」
燐華は口元をわずかに上げ、スピードを緩めながら言った。
「赤いコートを着た女が出るとか、赤い服を着ていると狙われるとか。基本的に、色と呪いの概念が絡んでくる」
「色と呪い……?」
「そう。文化人類学的に見れば、赤は生命力と死の象徴なのよ。古くから鎮魂や魔除けの目的で用いられてきた一方で、血の色ゆえに呪詛として使われることも多い。最近では赤にまつわる怪談も多く、『赤い部屋』や『赤い靴』などが有名ね。目立つ色なこともあって、伝承や噂話に組み込まれやすいの」
流石は文化なんとか学部。学術的な解説だ。
けれど、それだけではない。燐華の声には、単なる興味関心では済まされない熱量があった。
「でも、マソホ様は他の赤い女とはちょっと違う。赤いワンピースに、長い黒髪という点は似ているのだけど……マソホ様はね、赤い物の『所有者』を呪うの」
「所有者、ですか」
「そう。遭遇すると、こう聞かれるのよ。『お前は赤い物を持っているか?』 って」
燐華の声のトーンが、ほんの少し低くなる。
「もし赤い物を持っていて、『はい』と答えたら――その瞬間に呪いが発動する。それから数時間後、呪いが全身に回って死に至るの」
――だから燐華は、赤い物を持ってこないよう念を押していたのか。
「遅効性の呪殺ですか……。悪趣味な怪異ですね」
被害者が絶望に呑まれ、徐々に衰弱してゆく姿が脳裏に浮かぶ。
「即死級の呪いだと、そもそも噂話になりにくいから。怪異が知れ渡るには目撃者が必要なのよ」
「なるほど。確かに一理ありますね」
強すぎる怪異が存在するとしたら、それは完全犯罪を行う凄腕の殺し屋と同じ。
わざと証拠を残さない限り、都市伝説という形で指名手配されるようなヘマはしないだろう。
そう考えると、怪異の目撃談は生存者バイアスの一種と言えるかもしれない。
「それでね、呪いを受けて亡くなった方の遺体には、ある共通した特徴が現れていたらしいの」
私は黙って、燐華の話に耳を傾けた。
「とある大学生は、赤いバックパックを背負ってた。『夜の散歩中に、奇妙な赤い女に話しかけられた』と言い残して、次の日に亡くなったの。そして、発見されたその遺体は……」
――赤く染まっていたんだって、と燐華は語る。
「血まみれとかじゃなくて、まるで身体そのものが真っ赤に変色した状態だったみたい。魂を奪われて、身も心もマソホ様の所有物にされた末路……巷では、そう考えられているわ」
「…………」
「別の人は、遭遇時に赤い傘を持っていた。数日後、自宅で遺体が発見されたんだけど、衣服やスマホ、卓上のコップまで赤く染まっていたらしいわ」
なんともまあ、想像したくもない話だった。
「その噂、ソースの信憑性はあるんですか?」
「えぇ、裏は取れているわ。赤い変死体が複数見つかっているのは事実よ」
「ただの偶然ということは……?」
「そうかもしれない。でも偶然が続けば、それは検証の余地あり――でしょう?」
ゾゾゾと背筋が冷たくなる。
平静を装ってはいるが、この手のオカルト話はあまり得意ではないのだ。
ただ、恐怖を表情に出しても仕方がないので、強気な私を演じているにすぎない。
「じゃあ、赤い物を持っている状態で、『いいえ』っ答えたら逃げられるんですか……?」
「その逆よ。嘘をついたら、マソホ様は呪いをかけた上で、さらに対象から血を奪うわ」
嘘つきには失血死――さすがは怪異、情け容赦ない。
「なら、赤い物を持ってなかったら?」
「その場では見逃される。でも、完全に無事ってわけじゃない。マソホ様は赤の徴を刻むの。その人の肌か、服か、持ち物のどこかに目印をつけるのよ。それを祓わない限り、次に遭遇した時に狙われる。今度こそ確実に、ね」
「…………」
どのルートを選んでも、最後には呪いが待ち受ける。
まさに死のフローチャートだ。
車のエンジン音が、やけに鮮明に感じられた。
「……で、そんな危険な怪異の目撃場所に行って、何をするつもりなんですか?」
「色々よ、色々。景色の撮影とか、環境音の録音とかね」
燐華は軽く笑う。
けれどもその笑みの奥に、何かを企んでいる気配があった。
……やっぱり、ただの取材じゃない。
私は知らず知らずのうちに、指先に力を込めていた。
私には、生まれつきの体質がある。
怪異に「遭遇しやすい」体質。
そんな私を、わざわざ同行させる理由なんて、ひとつしかない。
考えればすぐ分かることだ。
しかし、それでも私はついてきてしまった。ホイホイと調子良く。
玖珂燐華の底知れない瞳に見詰められて、断ることができなかったのだ。
もし最悪の事態になったら、私は――。
それでも、今はまだ、その可能性を言葉にしたくはなかった。
(4) 赤き誤算
車を停めたのは、目撃現場から少し離れた小さな駐車場だった。ここからは歩きとなる。
春の夜の空気が、ひんやりと肌を撫でる。
目的地までの道は、ぽつぽつと間隔の開いた街灯に照らされていたが、その光は心許なく、まるで何かが潜んでいるかのような陰影をつくっていた。
「じゃあ、行きましょうか」
軽快な足取りで歩き出した燐華を追って、私は夜の道へと足を踏み出した。
駐車場を出てしばらく歩くと、燐華が不意に立ち止まった。
「……何してるんですか?」
ふと問いかけると、彼女はスマートフォンを横向きに構えていた。
「道中の景色を撮っておこうと思って」
「ホラゲーに使うんですか?」
「うん。怪異の目撃場所に向かう道のりも、背景素材として役に立ちそうだし。アイラインを意識した構図で……こんな感じかしら」
彼女はスマホの画面を確認しながら、角度を変えては何度もシャッターを切る。
撮った写真をイラスト調に加工編集するのは、特にアドベンチャーゲーム制作では一般的な手法だ。
しばらく歩くと、景色は人工物から自然へと、徐々に移り変わっていった。
木々が黒い影を落とし、風が吹くたびに葉擦れの音が囁くように響く。遠くの方からは、沢の水音がかすかに聞こえる。
林道は湿り気を帯びていて、足元には広葉樹の葉がまばらに落ちていた。道の先には街灯がなく、木々の隙間からもれる月明かりだけが道しるべだ。
背後を振り返ると、さっきまでいた駐車場の灯りが、遥か遠く、ぼんやりと揺れていた。
「こっちに霧宮さんを立たせて……後でシルエットに置き換えるのもアリね」
「私を被写体にしないでください」
「えー、せっかくだし、霧宮さんの背後から怪異を映すカットとか欲しいじゃない?」
こっちは警戒しながら進んでいるというのに、燐華の方はまるでピクニック気分だ。
「……なんでそんなに楽しそうなんですか?」
ふと疑問に思い問いかけると、燐華は少し考えてから、ぽつりと答える。
「怪異の話ができる友達って、初めてだから」
「……意外ですね。玖珂さんは友達多そうなのに」
私と違って、という自虐は飲み込む。
「多くの人は怪異なんて信じてないでしょ。だから、今までそういう話はリアルでしないようにしてたの。でも霧宮さんは違う……怪異を信じてる。それがすごく嬉しくて」
無邪気に笑う彼女を見て、私は複雑な気分になった。
私は怪異を信じているからこそ、その怖さも理解している。けれど燐華は、まるで怪異を恐れていないように見える。
その無防備さが、不安だった。
「この先が目撃地点よ」
燐華がスマホの画面を確認しながら言う。彼女の声は普段と変わらないが、歩幅が慎重になっているのが分かる。
「ふたりきりで来るには、ちょっと雰囲気が良すぎますね」
「やだ、霧宮さんがそういうこと言うなんて」
ノリで言ってみたはいいものの、普通に恥ずかしい。
「……やっぱり今のは忘れてください」
「えー? どうしようかなぁ?」
――次の瞬間。
カサリ、と森の奥で音がした。
思わず心臓が跳ねる。
足音だ。何かいる。
私は反射的に身構えた。
闇の奥で、何かがゆっくりと蠢く。
ぼんやりとした影が、ゆらりと揺れた。
そして――。
視界の隅に、赤が差し込んだ。
ひたり。
ひたり。
暗闇の中から、それは静かに歩み寄る。
黒から這い出るように、輪郭がゆっくりと滲み出す。
私は息を飲んだ。
それは、噂に聞いた通りの姿だった。
赤いワンピースを纏い、長い黒髪を垂らした女。
影のようにゆらめく体躯。
顔ははっきりと見えない。
だが――間違いない。
あれが、マソホ様だ。
「……霧宮さん」
「はい」
「ねぇ、夢じゃないよね」
「……恐らくは」
その瞬間、燐華が息を弾ませた。
――震えている?
違う。
彼女は、まるで歓喜に打ち震えているかのようだった。
「本当に……会えるなんて! もう泣きそう!」
呆然と呟き、燐華はスマホを構えたまま、一歩踏み出した。
「えっ……玖珂、さん?」
信じられないほど恍惚とした表情。
恐怖を塗り替えてしまうほどに、彼女の瞳は興奮に揺れていた。
――ヤバい。
これは、完全に「見惚れている」顔だ。
「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいって!」
私は思わず燐華の腕を引いた。
しかし、彼女は手を振りほどく。
「……おマエハ」
ひび割れたような声が、夜の静寂を切り裂く。
「アカイモノヲ……モッテイルカ?」
燐華がそっと、口を開く。
「私は……赤い物を――」
「ダメです!!」
私はとっさに彼女の肩を掴んで振り向かせた。
「ルールに乗るのはまずいですって!」
「でも、答えないわけには――」
「その前に、一度作戦を考えましょう! いいですか!」
「わ、分かったわ……」
怪異の問いに対して、何かしらの答えを返すこと自体が、一線を越える行為だ。
――はいか、いいえか。
いずれの返答も、「マソホ様のルール」の中に足を踏み入れたことになる。
であれば、何も答えずにこのまま立ち去れば、どうなるか?
今ならまだ、引き返せるかもしれない――。
しかし、そんな目論見は儚く消え去った。
「オマえハ」
ひたり。
マソホ様は、また一歩近づいた。
「アカイモノヲ……モッテイるワネ」
「え?」
噂話にはなかった会話パターン。
無視を決め込んだとしても、必ず会話に巻き込まれるということか。
こうなったら、もはや逃げることはできない。
私は覚悟を決め、マソホ様と向かい合った。
……しかし、今、なんて言った?
赤い物を、持っている――!?
「おマエよ……オマエ」
マソホ様が、異様に長い人差し指を突き出した。
――私ではない、燐華の方に。
「どう、して…………?」
燐華は、戸惑いながら自分の体を確認した。
赤い物を持たないようにと、あれほど私に念を押していた燐華に限って、まさかそんなミスをするとは思えないが……。
だが――見落としは、確かに存在していた。
気づいた瞬間、全身の血が凍る。
私でさえこれほどの戦慄を覚えるのなら、燐華自身の衝撃は、きっとその比ではないだろう。
「…………あ」
燐華がマソホ様を撮影するために、起動していたカメラアプリ。
その画面には、赤色の録画ボタンが表示されていた。
録画中を意味する、赤いRECマークと共に。
「ウソ……でしょ……?」
怪異を隠し撮りしようとした欲深さが、彼女の命運を決めたのだ。
まさか、デジタルな赤色光までも呪いの条件に含まれるだなんて。
新種の怪異の適応能力を、甘く見てはいけなかった――!
次の瞬間、燐華の手が、燃えるように赤く染まった。
「っ……あ、ああっ……!」
苦痛に顔を歪め、スマホを落とす燐華。
呪いは、すでに動き始めていた。
マソホ様は、赤い唇を歪ませ、静かに囁いた。
「オマエノ……モノハ……ワタシノ……モノ」
燐華の指先が、血のように赤く浸食されていく。
まるで、身体そのものが怪異の所有物に塗り替えられていくかのように――。
「……っ、まずい……!」
このままでは、燐華が――!
(5) 攻略の糸口
ひたり、ひたり。
湿った土を踏みしめる音。
マソホ様が、ゆっくりと近づいてくる。
呪いをかけた獲物を、追い詰める狩人の如く。
「……霧宮さん、ごめんなさい」
弱々しい声を漏らす燐華。
私の知らない彼女が、そこに居た。
「私、怪異のことを、ちゃんと理解してるつもりだった。でも……本当は、これっぽっちも分かってなかったみたい」
燐華は赤く染まった手のひらを眺めて、悔しそうに微笑む。
その横顔から、私は目が逸らせなかった。
「あなたまで巻き込んで……こんなことになるなんて……」
息を詰まらせながら、燐華は夜空を仰いだ。
「でも……私、そんなに後悔はしてないの。ふふっ、おかしいよね?」
燐華は、自嘲するような口調で話し続ける。
「怪異に会うっていう夢が、人生の目標が、やっと叶ったから。これが最初で最後なのは、残念だけど……。それでも、呪いをこの身で体験できるなら……本望よ」
――正直、もっと普通の人だと思っていた。
初めてサークルで見かけた玖珂燐華は、明るくて、人懐っこくて、誰とでも楽しそうに話をしていて。
でも、それは彼女の一側面でしかなかったのだと、今なら分かる。
本当の彼女は、オカルトマニアで、無鉄砲で、命知らずで。だけど、それでも――。
怪異に呪い殺されていい道理なんて、どこにもない。
「だから……お願い。霧宮さんは逃げて」
「…………はぁ」
わざと聞こえるように、私は大きく息を吐く。
「玖珂さん、そういうの、やめてください」
「え……?」
「ホラゲー、作るんでしょう?」
燐華が目をパチクリさせた。
溜まっていた涙が、頬を流れ落ちる。
――彗星のような、とても綺麗な涙だった。
「それに私は、あなたに巻き込まれたなんて思ってない。自分で選んで、ここにいるんです」
そう――誘いを受けた時点で、怪異に襲われる可能性は覚悟していた。
そして何より、怪異との遭遇率を高めた責任は、私の方にある。
「やりますよ、プログラム。私に手伝わせてください」
燐華は困ったような顔をして、それから唇を噛んだ。
「でも……もう、助かる方法なんて……」
「決めつけるには、まだ早いです。たとえ前例がなくても、助かる可能性がゼロじゃないなら、諦めるつもりはありません!」
私は、一度息を整えた。
このことを伝えるべきか迷った。
でも、この状況で隠しても仕方がない。
「……実は、私の家、陰陽師の家系なんです」
「お、おんみょうじ!?」
燐華が面食らうのも無理はない。
「平安の時代から、妖怪と関わる術を代々受け継いできました。私が怪異に遭いやすい体質なのも、それが理由で」
言葉にすると、あまりにも非現実的で、自分でも妙な気分になる。でも、これは紛れもない事実だ。
幼い頃から幾度も怪異に襲われては、そのたびに家族に救われてきた。
「ですから、怪異退治の心得なら、持ち合わせているつもりです」
「心得……それって……?」
「怪異の本質を、正しく理解することですよ」
怪異の倒し方は、流派によって様々だ。
術を唱える者もいれば、物理的な手段で排除する者もいる。
しかし私の場合、陰陽師としての適性が生まれつき低かったために、そのどちらも習得することは叶わなかった。
そこで試行錯誤の末に編み出したのが、「怪異の性質を逆手に取る」方法だ。
「怪異は、何らかのルールに基づいて存在しています。それが崩れた時、存在もまた維持できなくなる」
マソホ様を見据えながら、私は静かに言った。
「この怪異にも、きっと『脆弱性』がある。そこを突ければ、呪いごと葬り去ることができるはずです……!」
歴史が浅い怪異ほど、多くの弱点を抱えているものだ。
その隠された不具合を検証し、崩壊を引き起こす。
――それこそが私、霧宮涼音の戦い方だ!
怪異を攻略するための手がかりは、恐らくすでに揃っている。
赤い女。所有。感染する呪い。足音。赤く染まった遺体――。
これまでに得た情報が、パズルのピースのように組み上がっていく。
そして、その瞬間は不意に訪れた。
脳内でひらめきが弾けて、ふっと思考がつながる感覚。
「そうか…………!」
すぐさま私は、マソホ様の足元を確認した。
白くて細い、骨張った両脚。靴は履いていない。
ぬかるんだ土には、うっすらと赤い足跡が刻まれていた。
最後のピースが揃い、ひとつの仮説が浮かび上がってくる。
あまりに荒唐無稽で前代未聞。
普通の人であれば、思いもよらない攻略法だ。
だが――これなら、いけるかもしれない。
「……何か思いついた?」
燐華が、不安げに私の顔を覗き込む。
私は口許を手で覆うと、かすかに口角を上げた。
「――見つけましたよ、マソホ様の脆弱性を」
私は、燐華に触れないように注意して近付くと、耳元でそっと作戦を囁いた。
「――っ! そんな方法で……!?」
目を丸くする燐華。
だが困惑の中に、興奮が見え隠れしている。
「試してみる価値は、あると思います」
「確かに……理にはかなっていると思うけど……」
「この作戦は、呪いにかかった本人にしか実行できません。玖珂さん、お願いできますか」
燐華は小さく身震いをすると、覚悟を決めた表情で頷いた。
「……分かった。あなたのこと、信じるわ」
そう言って、マソホ様の方へと向き直る燐華。
私は数歩後ずさり、彼女の背中を見守った。
燐華の調べ上げた噂話の情報がなければ、この結論には辿り着けなかった。
私と燐華、初めての共同作業。
その結末を最後まで見届けなくては――!
ひたり、ひたり。
マソホ様が、燐華の目の前まで迫っている。
それでも燐華は一歩も引かなかった。
「ワタシノ……カわいイコ……」
長い前髪の隙間から覗く、大きな目。
2つ並んだ眼孔は、木の洞のように暗く窪んで見える。
その時――燐華が、ふっと笑った。
熱に浮かされたような、異様な微笑み。
死の淵に立たされてなお、玖珂燐華は美しかった。
――そして。
「…………捕まえた」
燐華の手が、マソホ様の腕をぐいと掴んだ。
(6) 私のもの
最初に気付いたのは、足音だった。
――ひたり、ひたりと、林道のぬかるみを踏み締める音。
足音が聞こえるということは、当然、マソホ様は地面の上を歩いている。
すなわち、地面との衝突判定が存在するということだ。
赤く濡れた足跡からも、その事実は視覚的に裏付けられた。
ゆえにマソホ様は、霊体ではなく、物理的な実体を持つ怪異に分類される。
そう――マソホ様には、触れることができる。
これが、マソホ様退治を可能とする前提条件だ。
「ワ……タ……シヲ……?」
マソホ様が怪訝そうに、燐華を見下ろす。
燐華は指の力を緩めることなく、マソホ様の腕を捕らえていた。
――なぜ、マソホ様に接触することが、赤の呪いの攻略法となるのか?
その理由を説明するには、まず「呪いのメカニズム」を正しく分析する必要がある。
まず、ルールその1。
マソホ様の呪いは、所有者を通じて広がる性質がある。
すなわち「赤い所有物」から「所有者」に感染し、さらにその「所有者」から「接触した他の所有物」に感染するのだ。
その根拠となる情報が、噂話の中にあった。
赤い傘から呪われた被害者は、衣服や自宅のコップまで赤く染まっていたという。
特にコップは、被害者が持ち歩いていた物ではなく、帰宅後に手にした物だ。
つまり、マソホ様の呪いを受けた瞬間に所持していなくても、後から手で触れた際に呪いが広がることが分かる。
触れたもの全てに感染するとは限らないが、一定時間「所有した」と見なされれば、その対象にも呪いが拡大するワケだ。
だからこそ、今。
燐華がマソホ様を掴んだことで、マソホ様自身も呪いの対象となり得る――。
「キカ……な……イわ……ヨ」
バッサリと、否定の言葉が投げかけられる。
見ると、マソホ様は大きな口を歪めて、嗤っていた。
こちらの思惑など、お見通しだと言わんばかりに。
――マソホ様は呪いに感染しても、死亡することはない。
なにしろ彼女は感染を広げる側だ。
呪いへの耐性があっても、不思議ではない。
その上、呪いは遅効性である。
もしマソホ様が呪いに感染したとしても、先に呪いで死に至るのは燐華の方だ。
だから、呪いを返すだけでは、燐華の命は助からない。
……そんなことは、重々承知している。
だから私は、燐華に伝えたんだ。
赤の呪いを――マソホ様の本質を、崩壊へと導く攻略法を!
「よ〜〜〜っこいしょおぉぉぉ〜!」
大きな掛け声を叫んだのは、燐華だった。
なりふり構わない必死の形相。
そして腰を屈めるや否や――。
マソホ様の身体を、渾身の力で抱き上げた。
お姫様抱っこである。
「…………エ………………?」
足跡の深さから、マソホ様の体重は、女性の平均体重と大差ないと推測された。
長身の怪異ではあるが、かなりの痩せ型だ。
燐華の腕力でなら持ち上げられると、私は確信していた。
抱き上げることができたなら、主導権はこちらが奪ったも同然だ。
見ると燐華の顔には、陶酔にも似た暗黒微笑が浮かんでいた。
呪いへの恐れよりも、マソホ様に触れられる喜びの方が勝っている――そんなふうにすら見える。
――この人は、やっぱりおかしい。
「あなたは、私のものだよ」
燐華は吐息混じりに囁くと、マソホ様を愛おしそうに抱きしめた。
「ワ……タシ……ガ……?」
マソホ様の身体が、かすかに震える。
それは、本能的な反射か。
あるいは残された人間性が放つ、危険信号か。
怪異とあろう存在が、あまりに突然の出来事に付いていけず固まっている。
――これで条件が整った。
この瞬間、マソホ様は燐華の「所有物」となった。
燐華の手によって、文字通り所有される側に回ったのだ。
所有者と所有物。その関係が逆転する。
怪異の輪郭が、ぐらりと揺らいだ。
赤の呪いのルール、その2。
呪いにかかった対象は全て、マソホ様の所有物と見なされる。
「赤く染まるのは所有の証」という推測も、マソホ様の発言からして間違いないだろう。
そのため、呪いに感染した燐華は、マソホ様の所有物となりつつある状態だ。
――ならば、その燐華がマソホ様を「所有」すると、どうなるか?
マソホ様が燐華を介して、マソホ様自身を所有しているという、矛盾した状況が発生するのだ。
「わタシガ……ワタしノ……モの?」
いわゆる自己参照、循環参照エラー。
所有者と所有物の関係が、無限ループを形成する。
プログラム経験がない人でも、表計算ソフトで自セルを参照してしまい、エラーを体験したことのある人は多いだろう。
文系の燐華が、作戦を聞いてすぐ理解してくれたのは幸運だった。
プログラム上であれば、この手のエラーは様々な工夫で回避できる。
念入りにデバッグをして修正すれば、それで済む問題だ。
しかし怪異の場合は、そんな小さな綻びさえも、死活問題となり得る。
噂や伝承によって存在を確立する怪異は、自然とシンプルなルールに縛られやすい。
マソホ様にとっては、その核たるアイデンティティが「赤の呪い」であり、所有にまつわるルールだった。
そこに潜む「仕様の穴」は、怪異の存在を定義から覆す、致命的な脆弱性へと変貌を遂げるのだ。
「……ウ……グ、ガガ…………!」
マソホ様は身を捩り、燐華の腕から抜け出そうと手足をバタつかせる。
しかしその試みは、燐華の異常な執念の前では、まるで意味をなさなかった。
「霧宮さん!」
振り向いた燐華と、視線が合う。
怪異との触れ合いタイムに、ご満悦の表情だ。
「私……生きてて、本当に良かった……!」
しかし、そんな至福のひとときも、そう長くは続かない。
マソホ様の禍々しい気配が、次第に弱まってきているのは明らかだった。
この世ならざる存在を無へと還すべく。
私は静かに、こう唱えた。
「禍つものよ、偽りの理にて紡がれし影よ。己が呪を以て魄を裂け。いざ還り給え、虚無の彼方へ」
その瞬間。
マソホ様の姿が歪んだかと思うと、急速に色褪せてゆく。自壊が始まったのだ。
赤の呪いが実行されることは、もう二度とない。
燐華の腕の中で、灰色の影が塵のように霧散していった。
夜の闇が、少しだけ薄くなっている。
静寂が戻った林道を、ふたり並んで歩いていた。
「……消えましたね、マソホ様」
「うん。呪いも、ちゃんと……ほら」
燐華が掲げた手は、もう赤く染まっていない。肌の色は元に戻り、何事もなかったかのようだ。
「この手、一生洗いたくないかも……」
「アイドルの握手会みたいなこと言わないでください」
「でも……愛する怪異を、この手にかけてしまうことになるなんて……。運命って、残酷よね」
あなたが縄張りに踏み入らなければ、駆除せずに済んだのでは――と、正論を返しそうになる。
「まあ正当防衛と考えれば、情状酌量の余地はありますよ」
とはいえ、これ以上被害者が増える前に、マソホ様を退治できたのは良かった。
結果オーライ、ということにしておこう。
少し歩いて、燐華がふと思い出したように言った。
「そうだ、近くの神社で、お祓いの予約をしてあるの。赤の徴対策だったのだけれど……念のため、帰りに寄ってもいいかしら?」
準備が良いのか悪いのか、よく分からない人だ。
「……分かりました。この際ですから、最後まで付き合いますよ」
「ありがとう、涼音さん……!」
燐華が無邪気に抱きつこうとしたので、私は即座に回避した。
人混みをすり抜ける身のこなしは、オタクの必須スキルである。
「もう! なんで避けるの」
「怪異との間接タッチは遠慮しておきます!」
……彼女にくっつかれるのは、心臓によろしくない。
しかもこのタイミングで、名前を呼んで距離を詰めてくるとは、陽キャ恐るべしだ。
「……燐華さん」
勇気を出して名前で呼び返すと、燐華は嬉しそうに首をかしげた。
「なぁに?」
「怪異取材は、今回ので懲りましたよね?」
「うーん……」
燐華はしばし考えるふりをしてから、こう言った。
「マソホ様の呪いが発動した時、私、スマホを落としてしまったでしょう? あのせいで、上手く録画が保存できなかったみたいなの」
「…………」
「本当に残念よね……。でも、気持ちを切り替えていかなくちゃ。ホラゲー開発の道のりは、まだ始まったばかりなんだから!」
夢見る乙女のような、甘ったるい眼差し。
「次の取材、どこにしようか迷っちゃうな」
このヒトからは、きっともう、逃げられない――。
私は観念して、長い溜め息を吐くのだった。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
本作はオカルト×ミステリをテーマとして書いた、短編読み切り小説です。
書き上げてから、「ふたりの活躍をもっと書きたい……!」と思い、現在シリーズの続編を構想中です。
続編公開の際は、短編ではなく連載形式で改めて投稿するかと思います。よろしければ是非、お楽しみに!