#2 渇きを癒す方法
……暑い。
目が覚める。
暗がりの部屋。
今、何時だろう。まだ夜中なのは間違いない。
うだるような暑さ。汗でべたべたする。パジャマも下着も、とくに背中側がぐっしょりだ。仰向けで寝てたせいかもしれない。
暑い。本当に暑い。タオルケットを跳ねのける。
ひどい不快感。
暑さだけじゃない。眠気で漠然としていた不快感の正体が、じんわり意識にのぼってくる。
喉、渇いた。
冷たい水が欲しい。いや、やっぱりお茶がいいかな。
「う……」
早く何か飲みたいけど、ベッドから起き上がれない。
だるさのせいだ。暑くて暑くて、台所まで飲みに行くのも億劫。
夏。
今年の夏はとくに暑い。このところの熱帯夜続きに、毎夜のごとく目が覚める。
部屋の冷房は古いせいかいまいち効きが悪い。掃除をしてもダメだから、きっと買い替え時なんだ。お父さんもそう言っていた。
……あ。
思い出す。
MIONのこと。
いくら欲しいと言っても、まだ早いからと、買ってもらえない。
冷房はあっさり買い替えを了承してくれたのに(じゃないと困るんだけど)、私としては、MIONのほうが欲しい。
小型携帯デバイス・MION。
友達はみんな持ってる。そりゃ持ってない子もいるけれど、でも少数派だ。
MIONがあれば、メッセージアプリでいつでも友達と話せる。手軽にネットが使えるし、みんながやってるゲームもできる。あと、写真をアップしたい。いつも友達のを見せてもらってるだけ。そんなのつまらない。
「あーあ」
喉、渇いたな……。
あれ……。
枕元で何かが震えた。
「……ん……」
はっとする。
そうだった。私、何言ってるんだろう?
これもきっと暑さのせい。意識が朦朧としてる証拠。
むくりと体を起こして、枕元のMIONを手に取った。
毎日のように頼み込んだ。そして昨日、ついに念願のMIONを買ってもらったんじゃないか!
忘れるなんてどうかしてる。
ただ、いまいち使い方がわからない。
今MIONが振動したのは、何かの通知を受け取ったから。だと思う。その通知を消すことすら難儀する状態だ。
明日みんなに詳しい使い方を聞こう。
ネットで調べようにもネットの操作がおぼつかないし、説明書は文字がいっぱいで読みたくないし。お父さんもお母さんも機械音痴だし……。
「ん? なんだこれ」
またMIONが震えた。
どうやら、今度は通知じゃない。知らない電話番号から電話がかかってきている。
こんな時間に? 夜中の2時だっていうのに。
どうしよう。出るべきか迷う。
絶対、迷惑電話とかだ。間違い電話かもしれないけど。そこはどっちでもいい。
数秒。
迷って、私は、電話に出てしまった。
好奇心が勝った。電話に出るだけなら直接の被害はないはず。殺されちゃったりするわけじゃない。
「もしもし」
……。
返事がない。
「あのー」
誰ですか、と言おうとしたところで、突然ドアをノックする音が響いた。
喉を、ひゅっと息が通る。
心臓がバクバクする。
もう一度、ノックが鳴る。
音は電話口からじゃない。私の部屋のドアを誰かが叩いているのだ。
「シャオ? 起きてるの?」
「おっ、お母さん?」
反射的に通話を切る。寝ないでMIONをいじってたと思われたら、没収されるかもしれない。
「なにっ? 寝てたんだけど」
「入ってもいい?」
そう言うと、こっちの返事も待たずにお母さんが部屋に入ってきた。
珍しい。夜中に部屋に来るなんて、覚えてる限り初めてじゃないか?
「シャオ、喉渇いたんじゃないの。お水持ってきてあげたわよ」
「はあ?」
言ってることはわかる。けど、わからない。
「なに、急に。どうかしたの?」
「だって、喉渇いてるでしょ。飲まないと熱中症になっちゃうわよ」
たしかにお母さんの手には、水の注がれたコップがあった。
喉は渇いている。間違いない。
私は、ベッドから下りてコップを受け取った。そして一口飲んだ瞬間、たまらない渇きを覚えて、ごくごくと喉に流し込んだ。
ただの水道水。生ぬるかったけど、おいしかった。
飲み終えた。
満たされた、そんな感覚になった。
「ありがと。でもなんか変なの。普段こんなことしないじゃん」
なんというか、脈絡がない? というか。
お母さんはべつに意地悪な人じゃない。でも何も言わずとも夜中に急に水を持ってきてくれるような、そんな妙な優しさには違和感がある。
今まで一度もなかったこと。急にどうしたの? としか言えなかった。
「ていうかお母さん、こんな時間に起きてたの?」
「母さんも暑くて目が覚めちゃったのよ。それに、今はとても寝てる場合じゃないしね」
「は? なんで?」
頭がぼんやりする。
ひょっとすると私は夢でも見ているのかもしれない。
「また、喉渇いてきた」
「水ならいくらでもあるわよ」
そんなのわかってる。蛇口を捻ればいくらでも出てくる水道水。
「でも、こんな水じゃなくてさ」
「ダメよ。水を飲みなさい。一体、何を飲もうっていうのよ、シャオ」
お母さんは何を言っているんだろう。この世には水以外のおいしい飲み物が腐るほどあるのに。
ジュースでも、お茶でも。
いや……。
「冷たくなくていい。冷たくなくていいから、ぬるくてもおいしいから、水じゃなくて……」
私が飲みたいのは何?
手の中でMIONが震える。さっきの人がまたかけてきているのかもしれない。
手汗が酷い。暑いせいだ。
MIONがぬるぬると滑る。汗、汗。こんなにも喉が渇いているから。
「シャオ、電話に出なさい」
「どうして」
「あともう少しなのよ」
どんどん渇いていく。逆に、手の中のMIONはどんどん濡れて、滑ってしまう。
汗で。
汗で?
私の、買ってもらったばかりのはずのMIONが濡れている。なまぬるい、水でも汗でもない。
そうだ。これじゃないか。
私が飲みたいのはこれだ。
喉の渇きを癒してくれるものは、これだったんだ。
「シャオ!」
……。
耳の奥に、じんと響く。
お母さんの私を呼ぶ声。
「お父さん、シャオが目を覚ました!」
体がだるい。でも、暑くない。冷房の風がじゅうぶんに部屋を満たしているのがわかる。
なんだか薬臭い。同時に、清潔感のある空気、雰囲気……ここは……病院?
頭が痛い。
体を起こすと、ここが病室だとわかった。白いベッドに寝かされて、腕からは点滴のチューブが伸びている。
ああ、そっか。
私……。
昨日から家出してたんだ。
お父さんもお母さんも、私にMIONはまだ早いという。未成年がネット犯罪に巻き込まれるニュースがこのところ多いせいで、なおさらだ。
喧嘩の末に家を飛び出した。衝動的に、お金も持たずに。
この暑い中、あてもなくさまよっていたから、熱にやられたんだろう。道端で倒れてしまった。
お医者さんを連れて戻ってきたお父さんとお母さん。
当然のことながら、私は二人にこっぴどく叱られる。
「シャオ、あんたこれで二回目だからね! わかってるの!?」
「ごめんなさい……」
「今日見つからなかったら警察のお世話になるところだったのよ! 人に迷惑かけて!」
私の家出はこれで二度目。前は成績のことで喧嘩になった。
「そんなにMIONが欲しかったのかい?」
ヒートアップするお母さんの横で、落ち着いた声でそう聞くお父さん。
頷く。だって、友達はみんな持っているし。あれがあるだけで世界が広がりそう。
お母さんがため息をついた。深呼吸して、ちょっと落ち着いたみたいだ。
でもその目は厳しい。
「今回のことで、じゃあ買ってあげます、とはならないのはわかるわね? 家出すれば欲しい物が手に入るって、学習されたら困るもの」
「でも、私まだバイトできないんだよ。自分じゃ買えない」
「あのねえ、成績が上がったら買ってもらうとか、あんたにはそういう発想がないの?」
言葉に詰まる。
もちろん、無いわけじゃない。
でも私は勉強が大の苦手だ。そんなんじゃいつまで経っても買ってもらえないし、勉強を頑張る自分の姿がまるで想像つかない。
そんな私の考えを、お母さんは見透かす。
「目標のためにとりあえずは努力するってことを覚えなさい。成績が上がらないどころか、上げようという気もない子には、お母さんもご褒美を与えようという気が起きません。大体そんな子には、危なくてMIONを使わせたくもありません!」
ああ、出た、お母さんの説教。始まると長い。
でも実際、その通りだと思う。本当はわかってる。みんなだって、気楽に買ってもらったように見えて、実際は何かしらの努力したのかも。……まあそりゃ、ぽんと手に入った運の良い子もいるだろうけども。
こうなったらもう、
「ごめんなさい」
としか言えなかった。
その後、私は簡単に検査を受けた。
脱水症状を起こしているものの他は問題はなし。ただ倒れたこともあり、念の為今日は入院、というのがお医者さんの診断だった。
正直、点滴でだいぶ楽になったし、家に帰りたいんだけど。
「あ、そうだ。私のバッグある?」
「あるわよ。中はちゃんと入ってるの?」
倒れていた隙に盗まれたりしてないか、と言いたいらしい。
幸い、今回の衝動的な家出に、金目の物は一切持たなかった。というのも、財布を机に出したまま忘れてきたから。
こっそりバッグの奥を確認する。
ああよかった。
ちゃんと『あれ』も入ったままだ。
お父さんとお母さんにも見られてない。もし見つかってたら、説教じゃ済まなかった。本当によかった。厳しいけど、ある程度プライベートを尊重してくれる親で。
お父さんとお母さんが家に帰った。
病室に一人。
私は、バッグの奥から『あれ』を取り出す。
画面の割れたMION。
指でこすれた赤い跡。
「夢の中で電話かけてきたの、お母さんだったのかな」
そう思うと、目の奥が熱くなる。
あの水はおいしかったな。
お母さんの言葉。目標のために努力しなさい。
……これは私なりに考えて努力して、そして手に入れたMIONだ。
でも間違っていたのかもしれない。
これは人から奪った物。
後悔が押し寄せる。他人の契約したスマホを自由に扱えるわけない。ホーム画面を開くためのパスコードすら、持ち主から聞き出せなかった。
それに、位置情報で端末がどこにあるのか割り出すこともできたはず。前にテレビで見た。
それを思い出してとっさにMIONを壊した。有効かはよくわからない。
とにかく、捨てなきゃ。そう思って、簡単に見つからない場所を探していた。さまよううちに、暑さで倒れてしまったんだ。
もう電源の入らないMION。コンクリに叩きつけた。完全に壊れているはず。
けれども。
「?」
真っ暗な画面に光が灯る。
着信。誰かが電話をかけてきている。
なんとなく察した。
たぶんあの人だろう。
電話は、死かそれに近い状態の人、世界を繋ぐ、橋渡しの力があるんだと思う。
「もしもし?」
……、……声は返ってこない。
ただ、息遣いが聞こえる。苦しげな呼吸。ぼそぼそと耳に届く。
この人は、あの夢の私と同じような状態にあるはず。私と違ってもう戻っては来れないだろうけど。
「あなた、喉渇いてる?」
あの渇きを思い出す。
耐えがたい苦痛。口に含みたいと、欲していたもの。
「友達から聞いたことあるんだ。死んだ人は、血を欲しがるんだって。血を飲んで生き返ろうとするんだって」
危うく私も生き血を求める亡者になっていたかもしれない。ずっとずっと、あの渇きに苦しみながらさまよって。
「私に電話をかけてきたってことは、やっぱり怒ってるよね。もちろん、これ、返してあげたいのはやまやまなんだけど」
どうやって返せばいいのかわからない。もう壊してしまったし。
血を求められても、困るし。
「あなたのこれ、わかりにくい場所に埋めようと思ってるんだ。私も捕まりたくないの」
自分の衝動的な行動を悔やむ。目先の欲に飛びついて、後々のことを考えられなくなってしまう。
端末の背面に付着した、変色気味の赤い跡。血を流して、なお奪われまいと握りしめていた、この人の付けたもの。
やってはいけないことだと、認識はしていた。
「埋める場所はまだ決まってないんだけど、まあ」
お母さんの言葉を思い出す。
「その時は、頑張って探して。欲しい物があるなら努力しないと」
電話口の荒い呼吸が、より一層強くなる。
かすかにうめき声が混ざる。女の潰れた声。あの時の、彼女の声だ。
「私の血も欲しいなら、なおさらね」
電話が切れた。
割れた画面には、もう何も表示されていない。端末の側面のボタンを押しても電源は入らない。
私また、余計なことをしたかもしれない。
ちょっと強がって変なこと言った。だって幽霊が電話をかけてくるなんて、怖い。
今のやり取りが脱水症状の幻だったらいいのに。あの夢のように。……いや、案外そうなのかも。
壊れたMIONを見つめる。
「明日から勉強しないと。ほんとに。ちゃんと自分のが欲しいもん」
それと、埋める場所も考えないと。誰も来ないような場所を探すんだ。
バッグの奥にMIONをしまう。
枕に頭をうずめた。
……病室って電話してよかったんだっけ?
そんな疑問もまどろみに薄まる。
明日からのことは明日考えよう。
大嫌いな勉強。埋める場所。あと、血を取られないように?
あの人、絶対、許してくれないだろうな。