前触れ
厨房の扉を開けて、この館の専属コックであるラウルさんを探す。
あれ、いないな。
ラウルさんの姿はみえなかったが、かわりに私と同い年の少女アイカちゃんの姿があった。
「あら、遅かったじゃない。」
厨房といっても16畳ほどしかない、こじんまりとした部屋で、入って右側にアイランドキッチンがあり、部屋の真ん中にはビックリするほど大きな調理台が鎮座している。その調理台の上で、アイカちゃんはお得意のお裁縫をしている最中だった。
「うん、またあれが始まっちゃって。」
「あー、お嬢様の気違い話ね。あたしなら1秒だってもたないわ。こっちが気違いになっちゃう。」
そう言って、やれやれと両手を横にふる。
アイカちゃんは島1番のおしゃれ番長で、その愛らしい見た目と裏腹に、かなりの毒舌ぶりだが、その裏表のない性格が、私は好きだった。
「ねぇ、それよりラウルさんはどこ?」
「あぁ、ラウルならついさっき、薪がなくなったーっとか言って出てったわよ。割りに行ったんじゃない?」
ほんのわずかな時間差で入れ違いになってしまった。
「困ったなぁ。お嬢様に飲み物の御代わりを持っていかないといけないのに。」
「レモンティーなら冷蔵庫に入ってるわよ。」
「ううん。ピーチティーがいいんだって。」
「ピーチティー?それならティーパックしかないわ。ええっと、たしかこの辺だったんだけど…
ちょっと待ってて。」
作業の手を止めて、アイカちゃんが探してくれる。
「げ。」
「なに?どうしたの?」
「そうだ、さっきリンダ様も突然ピーチティーが飲みたいとか言い出して、あれが最後だったんだった。」
「え?お義母さんが?」
アイカちゃんはお義母さんの世話役として自宅からこの館へ通っているのだ。
でもどうしてお義母さんがピーチティーを?
あの人はいつもレモンしか飲まない。なのに。
あれ?そういえばサナさんだってそうじゃないか。
彼女もいつもレモンティーしか飲まない。
容姿も性格も全く違う2人だけど、そこだけは親子を証明するかのように一致していたのだ。
突然もやもやした得体の知れない渦が私の胸中を漂った。なんだか気持ち悪い。
アイカちゃんを見ると、彼女も気がついたらしく
「なんか気持ちが悪いわ。」とから笑いをした。
「でも、ないものは仕方ないしさ。レモンティーでも持っていって、『ピーチティーです』みたいな顔して出してくればいいんじゃない?どうせ、味覚だってあるのかどうか分かんないんだし。」
冗談とも本気ともとれる調子でアイカちゃんかま言った。
「さ、さすがにそれは。」
と答えつつも、内心ではアイカちゃんの言葉を完全に否定できない。
困っている私にアイカちゃんは
「じゃあ私、家に取りに行ってくるわ。確か2、3個ほどあったと思うのよね。」と言って裁縫道具を片付けはじめた。
「ほんと?ありがとう、ほんとたすかる。」
「なにいってんの。あたしとあんたの仲じゃない。」
そう笑ってアイカちゃんは裏口の扉を開けて早足で外に出たーーと思った刹那
彼女の体がフワッと宙に浮いたかと思うと、次の瞬間、ドンッと勢いよく地面に投げ出された。
「痛っ!!!」
「ア、アイカちゃん!?」
急いで駆け寄ると、裏口の扉の前に、白いエプロン姿のラウルさんがいた。
ラウルさんはサナさんと同じ20歳。島で唯一の青年だ。見た目は熊を連想させるほどの巨体だが、その柔和な顔と、ゆったり柔らかい声音が彼の温和な性格を醸し出していた。
「え、アイちゃん!?ごめんね、大丈夫かい??怪我はないかい??」
ラウルさんはそう言って肉厚の手をアイカちゃんに差し出す。
外に出ようとしたアイカちゃんはタイミング悪く、戻ってきたラウルさんに弾き飛ばされたのだ。
「ほんと、空気の読めない男。じゃま、どいて。私急いでるんだから。」
怒りを孕んだアイカちゃんの言葉に対して
「え、どうして??」
と気の抜けたような言葉を返すラウルさん。
「取りに戻らなくちゃいけないの!」
半ばラウルさんを押し返すようにして、無理やり駆け出そうとする。
「何をだい?」
状況を把握できてないラウルさんは彼女の右腕を掴み、何事かを問いただそうと、引き留めた。
「ティーバッグ!!!」
アイカちゃんはそう叫ぶと、思いっきり腕を振り切り、走り去ってしまった。
「え?え?ティ…ティー、バック?」
「ティーパックだよ。」
顔を赤らめて細い目を見開いている彼に笑いながら答える。
「あ。あー、そういうことか。うんうん。そうだよね。ははは。…でも一体どうしてだろう?」
私は事のあらましを話した。
「そっかそっか。そういうことだったんだね。それは困ったなぁ。ん?…ちょっと待てよ。たしかーーあぁ、あったあった。痛て!」
棚に頭をぶつけ、しかめ面で取り出したのは桃の缶詰だった。
「仕方ないから、即席で作っちゃおうか。アイちゃんが戻ってくるよりもこっちの方がはやいよ。」
そう言って5分もたたないうちに、即席ピーチティーが出来上がった。厨房に甘い桃の香りが漂った。
「わぁ。すごいっ!美味しそう。ありがとうラウルさん!」
「何、簡単なことだよ。さ、早く行っておいで。」
私は取りに戻ってくれているアイカちゃんに申し訳なく思いながらも、ラウルさんにお礼を言って、バルコニーへと引き返した。
サナさんは相変わらず無反応だったけど、今度は自然と暇を告げることができた。
一件落着。私はほっと一息ついて、空いたお盆を手に、軽い足取りで階段を下りていったのだった。
「触らないで!」
ギョッ!?
突然、女の悲鳴が聞こえて足が止まった。
「だから、やめてっていってるでしょ!」
まただ。
叫び声は厨房の辺りから聞こえてくる。
何か大変なことが起こっているのかもしれない。
私はまっしぐらに厨房へと駆け出した。
扉の前でお盆を盾のように持ち直し、震える手で、ドアノブをゆっくりゆっくりまわした。