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おっさんのごった煮短編集

髪は微笑むか

亜久里司法修習生の報告書のスピンオフ作品となります。

https://ncode.syosetu.com/n5854hi/

上記リンクから、前作を読んで頂けると嬉しいですが、読まなくても楽しめる一話完結のお話となっています。




 メディアの収録もなければ、俺が担当する事案もないため、完全なオフを楽しむべく、俺は自宅と事務所がある新宿で当ても無く街をブラブラと散策していた。


 本橋秀(もとはししゅう)、俺は新宿に弁護士事務所を構える弁護士であり、事務所の所長でもある。


 弁護士になってから、数々の民事案件を片付け、企業弁護士として成功した俺は、自分でいうのも何だが、そのルックスと、仕事で得た人脈を使いメディアにも進出した。お陰で、俺の事務所には肖ろうとする弁護士が所属するためにやって来るし、俺の名声にすがって依頼も殺到している。依頼の殆どは所属弁護士に投げているが、力量に合わせて依頼を選別しているために成功率は非常に高い。

 事務所の依頼達成率の高さと企業の顧問弁護士としての人脈、メディアでの人気は相乗効果でうなぎ登りだ。自意識過剰とも思えるが、お陰で恨みも買いやすい、プライベートでは帽子にマスク、伊達メガネと不審者一直線な格好をしてるが、世界的感染症の流行からこっち、マスクをしていても目立たなくなったのは有難いなんて言ったら、不謹慎だろうが事実だ。


 とは言え、ここ最近では直接手掛けた大掛かりな仕事で負けてしまった。正直、草薙弁護士にはこれで、2戦して2敗、相性が悪いとしか言えないし、相手が草薙弁護士なら仕方ないと諦められる。納得いかないのは、俺がたかが司法修習生の小僧っ子にしてやられた形にされたことだ。

 まぁ、失点を取り戻すチャンスなら何処にでもあるさと、空しく自分を慰めていた時、そのチャンスは思わぬ所から舞い降りた。


 何処に行ったもんかと考えて、やや足が遅くなる。唐突に女性の悲鳴がして、思わずと声の行方を探して、出所と思しき女性に目がいった。


 20代くらいの若い女性。一見してお高いとわかるブラウスに、ブランドもののバックを肩から下げ、ローヒールの靴をはく、女性としては高身長に見える彼女。

 透けるような肌と、すこし日本人離れした美貌で、芸能人を見慣れた自分も少し驚くような美人だが、それ以上に目をひくのは彼女の髪だった。

 美しいブルネットのやや栗色に輝く黒髪は光沢があり、緩やかにカーブする様も綺麗なんだが、何よりも長さが凄い。スーパーロングヘアーと言うのか、170センチ以上はあろう彼女の腰より下まで髪は伸びていた。


 ただ、その素晴らしい髪と洋服には、今はべったりとペンキがついていた。

 


 「すいませんっ、間違って倒しちゃってっ」


 そんな言葉と共に若い作業服の男が彼女の元に近寄る。彼女の立つ歩道の向こうには外壁作業ようの足場が組まれているのが見える。

 最初の男に続いて、作業服の男たちが、足場を降りて彼女の元に集まり、中年の責任者らしき人物が謝罪している。どうやら外壁の塗り替え作業中にペンキの缶を誤って倒してしまったことで、彼女に頭からペンキをかけてしまったようだ。


 俺は自然とそちらに歩み寄っていた。

 絶好のチャンス到来にマスクの下で笑顔を浮かべながら。



 ~~~



 近付いてみると、ペンキは彼女の右肩に直撃したらしいのが分かる。

 遠目には髪にかかったペンキのせいで頭から被った印象だったが、右肩を中心に耳の辺りまで飛んだ印象だ。


 「どうしてくれるんですか」


 声こそ張り上げてはいないが、怒っている事がわかる。まぁ、突然ペンキを掛けられて怒らない人もいないだろうから、当然の反応ではある。


 「申し訳ない。衣服については弁償しますから、どうか許してもらえんだろうか」


 頭髪が少し薄くなりつつある中年の小太りの男は平身低頭といった感じで謝っている。まだ、彼女のほうも冷静なようで、スマホを取り出すと何やら調べている。


 「服よりも髪です。この髪、ペンキ落ちるんですか」


 この言葉に中年の男はさらに青ざめている。


 俺は彼女たちの側まで来ると、取り敢えず声を掛けることにした。


 「お嬢さん、取り敢えず、其処に見える美容院で、髪についた塗料を落とせるか訊いてみませんか」


 俺の言葉に彼女も男たちも顔を向ける。

 訝しげな顔をした彼女は警戒した感じで、それでも返事をした。


 「確かにそうしたいですけど、予約もしてないと、対応してくれないんじゃ」


 確かに美容院ともなれば、ほぼ完全予約制だ。彼女の懸念は最もだが。

 俺は胸ポケットにこんな時のために常に仕舞っている弁護士バッジを取り出して見せながら、彼女に答える。


 「僕は弁護士でして、交渉ごとは得意なんですよ。駄目元で僕が訊いてきますけど、どうします」


 バッジと俺の顔を何度か見返した彼女は一縷の希望に託すようにお願いしますと確かに言った。



 道向いの美容院に入った俺にカット中の店員と予約待ちだろう女性がこちらを見る。


 「すいません、予約の無い方はお受けしてないんですよ」


 カット中の美容師の男性はそう言ったのだが。


 「申し訳ありません。それは承知しているんですが、道向かいの外壁の塗装工事中に、作業員が間違って道往く女性にペンキをかけてしまって、髪にペンキがついてしまってるんですよ。見ていて可哀想で何とかこちらで対処して頂けないかと」


 

 俺が言い終えると店内の空気は濁った。美容師や聞き耳を立てていた客たちは何とも言えない表情で困惑している。髪を扱う事を生業にしている者とそのサービスを受けている客たちだ。髪にペンキをかけられるという非日常性への困惑と、単純な同情や、加害者への嫌悪感などを抱くのは当然といえるだけに予想通りだ。


 暫しの沈黙ののち、予約待ちをしていた30代ほどの女性が声を掛けてきた。


 「あの、最悪は私はキャンセル扱いになってもいいので、私の番、譲ってもいいですよ」


 俺は望外の提案に驚いた振りで少し間をおいてから、返事をする。


 「いっ、いいんですか、えっと、あのー、お店の方も宜しいでしょうか」


 話を先程の美容師に振れば、彼は思案のあと。


 「お客様が良いというなら、構いませんが、それでも20分ほどは待って貰うことになりますが」


 「構いません。取り敢えず、彼女に訊いて来ます」


 俺はそう言って、一旦は店を出た。


 彼女と作業員たちに美容院での成り行きを話せば、彼女は美容院での処置を受けることを選択した。


 店には彼女のほか、作業員の中年の責任者らしき男性と、どうやら失態を犯した張本人らしき若い男が付いて来た。若い男は溶剤の缶だろう10Lほどの缶を手に下げている。


 美容院内に戻ると、彼女の様子に息を呑んでいる雰囲気が伝わる。思った以上に酷い惨状に声が出ない様子だったが、先程の美容師の男性が待ち合いの席を案内してくれる。


 「ゆきくん、蒸しタオル何枚か渡してあげて」


 そう指示を出すと、ゆきと呼ばれた美容師の男性は数枚のタオルを持って来た。


 濡れタオルで必死に落とそうとするが、ついてしまったペンキが中々おちず彼女は徐々に苛立ちを増していたが、何とか堪えている様子だった。


 席が空き、洗髪剤などで落とそうと試みるがペンキは完全には取れず固まったまま髪に貼り付いていた。


 「そのペンキ、業務用の速乾タイプじゃから、溶剤使わんと取れんと思う」


 必死に落とそうとしている美容師と彼女に中年の作業員の男は語りかけた。


 彼女と美容師たちは何で今更と嫌悪感を隠せない様子だが、まぁ気持ちもわかる、言い辛かったんだろうとは思うが、俺としては予想通りだ。そのためのあの缶だったんだろうし、彼女が髪を気にするたびに気まずそうにしていたのも、このせいもあるだろう。


 美容師たちがタオルに染み込ませた溶剤で慎重にペンキを落としていく、何とかペンキを落とし終えた時、彼女の髪のペンキが付着していた箇所は見るも無残にごわごわとして、赤茶けた酷いものとなっていた。


 「言いにくいけれど、こうなっちゃったら、もう切るしかないと思う」


 対応してくれていた美容師の男性が本当に言いにくそうに彼女に伝えると、彼女は静かに頷くだけだった。


 彼女の髪がカットされる前、俺は美容師の男性へと伊達メガネを外して小声で話しかけた。


 「すいません、私は弁護士の本橋秀なんですが、彼女の髪、証拠として持ち帰りたいので他とまざらないように、保管して貰えますか」


 あくまでも、万が一だ。まだ依頼もされていない。だが、美容師の男はその事実を知らないし、彼女に同情してる彼等は元凶を敵視しているだろう。ならば、この言葉を上手く誤解してくれる筈だ。

 

 「わかりました。あんな酷いことするなんて赦せません。必ず役立ててください」


 真面目な顔の青年美容師は真っ直ぐに俺を見て頼んで来た。上手く誤解してくれたようで助かった。



 ~~~


 

 カットが終わった彼女の髪型は流石はプロの美容師、毛質が変質してしまったところを極力切り、彼女の手入れされた綺麗な髪だけを残してよく似合う髪型にしてある。

 ただ、スーパーロングヘアーだった彼女の髪は今はショートヘアーに変わり、首もとがはっきり見えるほど短くなってしまっている。


 鏡を眺める彼女は呆然自失といった様子で、誰しも声をかけられなかった。


 無情に時間がすぎる中、中年の作業員が痺れを切らして声をかけてくる。


 「随分と可愛らしい感じに仕上がったようですし、その髪型も似合っていますし、そのー、お洋服とこちらのカット代は払いますんで、うちの若いのの失敗は許してもらえんですかね。まぁ、言ってはなんだが、洋服が汚れたのと、髪を切らにゃならんくなったのは申し訳ないが、たかが髪で済んだんですし」


 男性からすれば、ペンキが目にはいって失明したとか、皮膚が炎症したとかでなく、替えのきく服と、切れば済む髪で良かったと言いたいのはわかるし、自分のところの若い作業員を庇いたいのもわかるが、これは不味い、勿論、そういった発言をする可能性を予想した上で、敢えて放置したんであるが、言ってくれて助かった。


 今や作業員二人に対する店内の美容師や他の客の向ける視線は犯罪者にたいするそれで。もう、親でも殺されたのかってくらいに睨み付けてるのもいる。

 

 流石に気圧されている二人に、対応していた美容師がむしろキレたのは面白い。


 「アンタふざけんなよ。この髪、この子がどんだけ大切にしてたかなんて、見りゃわかるだろうが、ペンキぶっかけるとか酷いことしといて、たかが髪ってなんだよ」


 このあたりで彼女が決壊した。

 顔を覆って泣き出すと、髪を返してと喚き出したのだ。近くに寄り、客の女性たちが慰めており、美容師たちは彼女を護るように壁になり作業員たちを睨んでいる。


 「そんな、たかが髪で大袈裟な」


 思わず呟いた彼の言葉がとどめだ。

 もう、同情した店内の人間たちが彼等に殴りかかってもおかしくない空気になった辺りで、俺はあいだに入った。


 伊達メガネも帽子もマスクも外した。それだけで俺に気付いてくれるのは有難い、普段は鬱陶しいがこういう時は本当に助かるのだ。


 「この場では冷静にお話は難しいでしょう。私が代理人として、後日改めてお話させて頂きます」


 そう言って名刺を渡す俺に。


 「あ、あんた本橋弁護士だったのか」


 中年の男は震えた声と指で名刺を取り落としたんだった。



 ~~~



 あの日、新宿にある五階建ての商業施設の外壁塗装リフォームを行っていたのは台東区に店を構える権田工務店だった。

 中年の男は3代目となる店主で権田幸吉(こうきち)、56歳、既婚者で成人した息子もいる。

 そして、あの日、あの事故を引き起こした張本人は権田宗一郎(そういちろう)、そう店主の息子で次期後継者でもある男だった。

 

 「元々は福島の出身みたいですね。大震災で店が流れて、従業員共々、一家は無事だったものの、祖父から続いた店は一旦は畳まざる得なくなり、親類の伝を使って、今の店舗をオープンしたみたいですね」


 新宿の雑居ビルにある俺の事務所で、28歳の所属弁護士、菊地雄大がパソコンで資料を見ながら話している。


 「評判はいい店みたいですね。従業員数10名程の個人経営ですが、結構稼いでるぽいですよ」


 俺は別の資料を見ながら、菊地の話には反応せずに話題を変える。


 「東京弁護士会所属で、お前と同い年の権田幸伸(ゆきのぶ)は知ってるか」


 話の腰を折られて、すこし不服そうな顔をした菊地は俺の言った名前に覚えがあるのか、やや思案したあと。


 「なんか知ってる気はするんですけど」


 そう言って考え込む。


 「出身大学がお前と同じだ。同期じゃないのか」


 恐らくな助け船を出せば、今時そんな古典的なリアクションするかってくらいに平手に握り拳を叩きつけて、顔をあげる。


 「そうですそうです。いましたよ、同期に」


 「どんなやつだった」


 「どんなやつって言われても、んー、何て言うか自意識過剰というのか、自尊心の塊というのか、法学部の同期の中じゃ、まぁまぁ優秀な方でしたけど、何て言うか、自分はこんなとこで埋もれる器じゃないって感じで、軽くボッチだったんで、あんまり接点なくて」


 俺は思わず吹き出した。


 「そんなやついるのか。というか、十分覚えてるじゃないか」


 「いや、人から聞いた話とか、何と無く関わった時に感じた印象で付き合い辛いなって遠巻きにしてたんで、ホントのところは良くわかりませんよ」


 頭を掻いて申し訳なさそうにする菊地だが、本当に十分だった。


 「いや、権田工務店周辺を調べて出てきた辺りで万が一のために調べたことの裏が取れた」


 「あいつがなんなんですか」


 「権田幸吉が移転のために頼った親類の息子が権田幸伸だ。今は都内の法律事務所に勤務して、主に個人間の小さい案件の処理を任されてる。聞いた話だと、自分の能力と現状の差異に不満を溜めてるらしい」


 まさしく、俺はこんなとこで埋もれる器じゃないと思い続けてる訳だ。

 

 「変わって無いんですね。町弁から大手に転職出来ないあたり、凡庸な弁護士だと思われてんでしょうけど」


 「随分言うじゃねーか」


 「別に町弁を馬鹿にしてるんじゃないですよ。ただ、不満に思って、本人が望んでも大手から誘いが来ないなら、まぁ、そういう事ですよね」


 淡々と話す菊地は馬鹿にしてるでも見下すでもない様子だ。まぁ、確かにその通りだ。


 「だが、本人は成り上がるチャンスを求めてる。権田工務店とは、今の流れなら確実に訴訟になる。自分の親類の店が訴えられて、その代理人弁護士が俺と知ったら、出張って来ると思わないか」


 「あー、有り得そうですね。それでわざわざ調べたんですか。良くやりますね」


 「弁護士は事前の証拠集めと、情報の収集、整理で勝つんだ。公判が始まる迄が勝負なんだよ」


 「で、今回の一件は勝率は」


 茶化して訊いてくる菊地の額を小突きながら俺は自信満々に答える。


 「公判の勝率は50:50(フィフティフィフティ)だが、結果は俺の予想通りになる筈だ」


 その言葉に菊地は顔を歪ませて、何ですか、それと不満そうに言った。



 ~~~



 「取り敢えず、提示した示談金に応じて貰えないため、訴訟となると思います」


 俺の言葉に思案気味の顔を浮かべるのは、依頼人となった園崎真帆(そのざき・まほ)だ。


 29歳で、都内の商社で事務をしているそうだが、あの日は有給消化のために取った休みで、ショッピングや映画鑑賞など、ひとりで休みを楽しむつもりだったらしい。


 当初は民事賠償訴訟に乗り気だった彼女だが、今は消極的になって来ている。


 「本橋先生は自分に任せれば、十分に相手から取れると言いましたけど、でも、流石に200万を要求しての示談交渉では応じて貰えないのも仕方ないんじゃありませんか」


 そう、俺が示談金として提示したのは200万だ、法外と言われれば間違いないため、彼女の言うことは最もだ。


 「園崎さん、貴女が大切にしていた髪を棄損しただけでなく、たかが髪と罵ったのです。だからこそ、貴女は赦せないと仰った。確かに、この手の民事賠償など10万も取れないのが現実ですが、それでは裁判費用も賄えませんよ。それに相手に反省を促すことも出来ないでしょう。このような悲劇が繰り返されないためにもきっちりと彼等に、その罪の対価を支払わせましょう」


 俺は出来るだけ真剣な表情で言うが。


 「わかるんです。あの人たちに私が髪を失った苦しみをやり返したい気持ちもありますし、その対価なんて何千万でも何億でも足りないくらいです。でも、周りから見たら、やっぱり髪を切っただけのことに200万も要求するなんて、無茶苦茶だと思われると思うんです。先生への報酬で赤字になっても構いませんから、確実に勝てるようにして欲しいなと」


 冷静で頭が良く、そして理解力と判断力に優れている。彼女は結構良いとこのお嬢様だが、投資などで個人資産もかなりあるようだ。だからこそ、相手に求めるのは「金」よりも自分が受けた苦しみを分からせることのようで、金目当てだと思われたくないのだとわかる。


 「心配はわかります。ですが、いくら僕が担当しているからとメディアが必ず取り上げる訳ではありませんし、相手には貴女の事情は良く話した上で示談交渉が決裂しています。彼らは何処までも、その髪に一円の価値も見出だしていないんです。ならば、公判で必ずや、貴女の髪の価値を証明してみせます」


 俺は普段のおちゃらけた雰囲気を消して、真面目に真剣に説く。


 「わかりました。先生を信じて任せます。裁判費用はいくら掛かってもお支払いしますから、あの人たちに私の髪がかけが得ないものだったと分からせてやってください」


 頭を下げる彼女に俺は内心でガッツポーズする。遂に訴状を送れる。



 訴状を送ると、案の定、相手からは裁判なんてとんでも無いと抗議の電話が来たが、示談に応じて貰えないのならば、裁判になると話していたので当然だが、後は裁判所でと伝えて切る。


 「所長、相手方の弁護士にご想像通り権田幸伸が就きましたよ。どうしますか」

 

 菊地は何故かニコニコしながら訊いて来るが。


 「あー、挨拶にいくさ。なんせ、この裁判の鍵は彼だからな」


 そう、この裁判には彼が必要なんだ。



 

 ~~~



 「初めまして、本橋秀と言います」


 よくあるチェーンの喫茶店の中、手を差し出した俺に、その手を取った若い男は挨拶を返して来た。


 「先生のことは良く存じ上げています。私は安藤法律事務所の権田幸伸と申します」


 年下目下として丁寧に下手に出てきたが、表情に挑発的なものを感じる。

 180センチ弱はあろうかという高身長で細身、神経質そうな狐顔だが、まぁイケメンといって差し支え無い程度に整った顔の男は、その身をブランドもののスーツで固め、腕にはそこそこは高級な時計を嵌めている。

 町弁のまだ新人の域を出ないぺーぺーでは無理をしているのだろうと思える装いに、見栄っ張りだと言う前情報が合致する。

 女受けは良さそうにも思える見た目だが、表情が鬱陶し過ぎる、ごく自然に周りを見下すタイプだろう。菊地が距離を置いたのも頷ける。

 草薙弁護士のとこの小僧っ子は平凡な見た目だが誠実で愛嬌があった、思い返して見れば狸顔にも思える。余程の面食いでなければ、実のところモテるのは目の前の男より、あいつだよなーなんて益体も無いことを考えていた。


 「本来なら、此方から連絡を取るべきところ、こうして時間を作って頂きありがとうございます。早速で申し訳ありませんが、先生、示談についてなんですが、20万に減額して貰うことは出来ませんか」


続く言葉を発しない俺に、あくまでも丁寧な風で切り出して来たが。


 「話になりませんね。此方が提示した10分の1とは、交渉する気があると思えませんよ」


 そう言って俺は一口、珈琲を啜る。


 「先生、このまま訴訟を起こしたとして、先生の主張が認められても、取れる賠償額なんてせいぜいが10万弱ですよ。それは先生が一番良くご存知じゃないですか。20万なら、美容院、クリーニング代に精神的賠償も併せて妥当な金額な筈です。先生への依頼料の分は足が出るかも知れませんが」


 あからさまに俺の報酬目当てだろうと皮肉って来るあたりは肝が据わっているのか、舐めてるのか。妥当なラインで最低限よりは少し高い程度で交渉できると思っているらしい。


 「公判の結果が10万弱程度、それは過去判例でも見て言ってるのかな。私が担当するんですよ、勝算があるに決まってるでしょう」 


 「ですが、つい最近に負けたばかりですよ」


 余裕綽々と言う俺に、被せるように挑発してきた。狐顔らしく、犬みたいな噛み癖の悪さだ。あの小僧っ子なら、不安そうに狸顔をシュンとさせるだけだろうにな。その癖、後で手痛いしっぺ返しをしてくるあたりは化かしが上手い。どうにも比べちまう。


 「私はあくまでも依頼人の利益のために働くだけです。勝った負けたと依頼をトロフィーのように扱うつもりはありませんよ」


 心にも無いことを言って交ぜっ返してみるか。


 「依頼達成率の高さを謳っているじゃないですか」


 「依頼人の要望に応えて来た証ですからね。たとえ負けたとしても要求を叶えられるなら問題ありません。勝率や勝利数ばかり気にするのは依頼人でなく、自分の名声のために裁判を利用するって事でしょう」


 「先生がそれを仰るんですか。とんだブーメランだ」


 大袈裟な身振りで話す感じはかなり苛つく。敵対関係で、好戦的になってるとしても、かなり嫌な奴だという印象しか残らない。もう切り上げて帰ろうかとも思った辺りで、皮肉めいた余裕顔、というか全開のドヤ顔で俺に忠告して来やがった。


 「先生、盤外戦術がお得意なのは先生だけじゃないんですよ。メディア戦術も今や誰もがネットを通じて発信出来る時代ですから」


 やっぱり来たかと思う反面、態々宣戦布告とは頭の悪いことだと呆れる。


 「言いたい事は良くわかるが、君にそれが可能かは疑問しかないな。第一にそれは権田工務店、君の依頼人のためなのか。単に君の名声のために私の依頼人とのトラブルを利用しようと言うのなら、弁護士失格だな」


 期待通りの展開だが、思い止まるべきだと忠告はするべきだろう。それでも仕掛けてくるなら、勿論容赦はしないが。


 「散々メディアに露出して知名度を獲得した先生が言うんですか」


 「弁護士の守秘義務を逸脱しない範囲でメディアを利用することを否定はしない。だがもう一度言うが、依頼人のためを装って自らの名声を得ようというなら、止めておけ。生兵法は怪我の元だ、君が大怪我する分には自業自得だが、依頼人を巻き込めば本当に弁護士失格になる。まして、親類を巻き込めば、君は縁者からも爪弾きにされるぞ」


 「流石に脅しなれてますね。大丈夫です。問題ありませんよ。先生こそ、金目当てに個人経営の工務店を詰める悪徳弁護士と叩かれないように気を付けてください」


 最悪な印象のまま、挨拶は終了したが、あんな若造に煽られたくらい、どうと言うこともない。むしろ、想像した中でも最高の役回りを演じてくれる事に感謝したいくらいだ。


 「まぁ、忠告そのものは煽った部分もあるが、本音でもあるんだけどな」


 昔なら、相手が思うように動く事に喜びはあっても、ある種の罪悪感や寂しさを感じるなんて無かったが、若いのと関わる事が多くなったせいか、破滅の道を歩ませる事に躊躇いが産まれたのは歳のせいだったりするんかね。


 その夜、権田幸伸はSNSに訴訟についての詳細をupした。俺と俺の依頼人を金目当ての悪人として断罪した上でだ。



 ~~~



 「て言っても、こんなん上げても誰も見ないですよね」


 事務所で珈琲を飲みつつ、菊地は俺にそう言った。権田のアカウントをチェックしていた俺達は直ぐに気付いたが、フォロワー数も対していないアカウントでは菊地の言うことが正しいだろう。


 「ご丁寧にタグつけまでしてありますよ。本橋秀に本橋弁護士、極めつけは悪徳弁護士です」


 ツボに入ったのか爆笑しながら言う菊地だが、確かに笑えるとは思う。


 「普通に俺に訴えられるとは思わないのかな」


 「そこはそれ、本人はテレビでお馴染みの先生が金目当てに個人経営の工務店を相手取って起こした訴訟で闘う正義の味方気分なんで、完全に頭にないでしょ」


 「お前、同期の中じゃ優秀な方って言ってなかったか」


 「あくまでもレポートの評価とか、テスト勉強的な意味の優秀ですよ。実務での優秀さは学生時代の成績とは比例しないもんだし、そのあたり見透かされてたから、同期たちも相手にしてなかったんですよ」


 「本人は大手志望でも、大成しないって思われてたのか、憐れだな」


 やっぱり淡々と話す菊地に余計に憐れさが増すが、まぁ、そこはそれだな。


 「折角取り上げてくれてるんだ。俺が直接拡散するのは後々の作戦に響くんでしないが、コネってやつはこういう時に役立つもんだ」


 「メディア関連にも知り合いはいっぱいいますもんね」


 打てば響くような菊地の合いの手に満足する。


 「明日にはワイドショーがこの話題を取り上げてるだろ。取り敢えず、時間もないし、手分けして証人候補や証拠の確保に回るぞ、リストはケータイに送っとく」


 「かしこまりましたー」



 ~~~



 「つっかれたー」


 事務所に戻ってきた菊地は開口一番大声で言うが、他の弁護士や事務員からうるさいと言われてニヤニヤとすいませんを繰り返している。


 「どうだった」


 先に戻っていた俺は進捗を確認する。概ね予想通りのようだ。


 「ふざけていても、仕事は出来るな」


 「でしょー、もっと褒めてください。ついでに疲れたんで晩飯も奢ってください」


 変なポーズを取りながら言う菊地がウザイ。人のことを言えた義理じゃないが、チャラけた見た目で性格もおちゃらけているが、仕事は出来るし、愛嬌がある人たらしタイプなんで、ふざけていても何か憎めないとこがまたウザイ。


 「まぁ、飯くらいは奢ってやるよ、何食いたい? 」


 「マジっすか、じゃあ焼き肉、あの、寿々苑(じゅじゅえん)とか」


 「調子乗んなよ。まぁ、たまにはいいか」


 少し額を小突いてやる。小突かれたことは気にならないようだが、OKを出したことには過剰な反応で喜んでいるが。


 「えー、菊地くんだけズルイー。私もいきたいー」


 そんな感じの言葉があちこちから聞こえる。


 「今度、連れてってやるよ。あとは菊地、散々あちこち口説いてんだから、お前もたまには奢りで飯でも誘え」


 そう言うと、声を上げた所員たちは約束ですよー、なんて返して来るが。菊地の方は不貞腐れている。


 「誘ってんですけど、みんな断るんですよ、酷くないすか、所長にはたかるのに、俺の誘いは拒否とか」


 「下心がミエミエ過ぎなんだよ、お前は。あと、節操なく誰彼構わず声掛けすぎだ」


 「そんなこと無いですよー」


 さらに不貞腐れる菊地だが、所員たちからはその通りだと言われている。

 だが、菊地が本気で口説いていないことは所員たちもわかっている。あいつなりの挨拶というか、ジョークで、皆でそれをからかう事で所内の雰囲気が明るくなる。自ら弄られ役に徹するあたりは、世渡りが上手いんだ、こいつは。

 どうせ、俺が断らない前提で、焼き肉屋にも予約を入れてる事は想像がつく。


 「あそこじゃ、早く予約しないと席とれないだろ。後で合流するから、それまでに予約とっとけ、とれなきゃ別の店な」


 「任せてくださーい」


 ニコやかに言う菊地に、やっぱり日中の内に席押さえてやがるなと思ったが、まぁ、それも含めて菊地の良さだ。


 「じゃあ、先に上がるから宜しくな」


 取り敢えず、俺は事務所を後にした。



 ~~~



 案の定というか、事務所を出たあと、程無くして菊地からDMが来た。

 SNSの告知音にケータイを見れば、ウザイスタンプと一緒に予約とれましたーの文字。


 「あいつ、絶対に事前に取ってたな」


 わかっていたが、夕方に当日夜の予約が取れる店じゃ無い。半分はどうせダメだからとOKしたし、周りもわかった上でのあの騒ぎだ。

 だが、そこら辺加味した上で事前に予約して、さも今思い付いたみたいに演技して、俺の言動まで予測してくる辺りが、頼もしいようなムカつくような、まぁ、わかった上で乗ってやるのが所長の仕事なんだろう。今回はパートナーとして補佐に回って貰うんだしと。現地合流すると返信した。



 ~~~



 満席の店内で店員の案内で指定された席に行けば、すでに菊地は座っていた。


 「お疲れ様です。取り敢えずビールですか」


 挨拶のように言う菊地に。


 「おっさんか、お前は」


 思わずと突っ込んでしまうが、菊地はニコニコと笑いながら、焼き肉ならビールと米ですよと、良くわからん独自理論を展開した。


 取り敢えずコースを2つ頼んで、足りない分は好きに頼めと言えば、遠慮なくアレコレ頼むのも菊地品質だ。まぁ、これ旨いんですよ、なんて言ったやつはだいたい当たりないい舌をしてるんで、ある意味で重宝していると思う事にしてる。


 「所長、あきらかに裁判長引かせる気ですよね」


 コースを食べ終わり、追加した肉を焼いていた菊地が俺に訊いて来る。


 「何でそう思う」


 端的に質問返しした俺に、トングを弄りながら菊地は答えた。


 「いや、誰でもそう思いますよ。言っちゃ悪いですけど、普通なら傷害すら該当しない少額の器物破損事故ですよ。ぶっちゃけペンキ掛かっただけで怪我すらしてないんですから、そんな裁判にどれだけの証拠と証人用意してるんだって話で」


 菊地が言いたいことはわかる。この手の少額の民事訴訟はそもそも略式起訴で簡易裁判にするのが普通だし、本式に起訴して公判に行ったとこで、公判一回で結審が当たり前だ。

 でないと、掛かった費用が賠償額を上回り赤字になるのが日本の民事訴訟だからだ。


 「まぁ、長引かせないとな、公判一回で結審されたら、確実に負ける」


 これは事実だ。いくら戦術を駆使しようと、この内容の裁判で公判一回で結審されたら、ほぼ相手の想定通りの賠償額にしかならない。


 「そのために証拠書類や証人要請を裁判所にする訳ですか、一回の公判じゃ、足りないくらいに、でも裁判所が通してくれますか、争点なんて、髪が価値があるか無いかの一点のみでしょう。無駄な審理は必要無いと却下されませんか」


 「おそらくは問題ない。何せ、相手も徹底的にやる構えを取る筈だ」


 「権田工務店がですか」


 疑問そうに言う菊地に、俺はビールを呷って答える。


 「権田幸伸がだよ」


 「あいつがですか。でも、あいつにとっては結審は早い方がいいんじゃないですか。スピード解決で親族にも恩を売れますし」


 「あれの頭には依頼人のことなんて欠片もないさ、何もしなくても、むしろ、しない方が勝てる裁判で態々、ネットメディアに訴えるような事をしたのは何でだ」


 「所長の知名度に便乗して自分を売り込むためですか」


 「そうだ、あいつがいなければ、出元をぼかして、適当にリークした内容を伝を使って記事にするつもりだったが、あいつは自ら不利を被ってくれた」


 「言っても、こっちが悪者にされてますし、裁判も向こうが有利ですよ」


 「そうだな、ならお前が幸伸だとして、ベテランの知名度ある弁護士が圧倒的に不利な裁判で、しかもメディアも味方についている。裁判は長引いたところで、むしろメディア戦略が嵌まれば、もっと有利な展開になる。そんな状況ならどう考える」


 「相手が長引かせようとしてるのに乗じて、ここぞとばかりに名を売り込むチャンスと捉えますかね。まぁ、俺なら、所長に絶対裏があると思って警戒しますけど、自意識過剰ちゃんじゃ、勘違いしそうですね」


 「あー、得意の絶頂で落とし穴に嵌めてやるさ。初めから全て仕組んであるレールを走ってるだけの出来レースだったと気付いた時には奈落の底だ」


 「所長、とんだ悪役ですね」


 菊地がいい顔で言ってくる。


 「それが俺だろうが」


 勿論、いい顔で返してやるんだがな。




 ~~~




 東京地裁小法廷401号、ついに公判が始まった。


 事故から既に一月は経っているが、ここに来る迄のあいだ、地上波メディアや週刊誌、ネットメディアも俺と俺の依頼人を叩いていた。

 まぁ、マッチポンプだ。依頼人に対する誹謗中傷や事務所への威力業務妨害に該当する行為には法的措置を辞さないとして、実際に殺害予告をした相手と、執拗な電話を繰り返した相手には、プロバイダや電話会社を通じて情報開示を行い、わかっている範囲で訴状を送りつけたので、過激な者は減ったものの、批判は続いている。

 作業中に間違ってペンキを溢しただけの作業員に高額請求という部分だけが強調され、権田工務店側の人間が丁寧に紹介されている。


 「まぁ、公判が進めば、立場は裏返るだろうけどな」

 

 残念だが、この手の誹謗中傷も妨害行為も慣れっこだ。依頼人にもボディーガードをつけているし、追加の訴訟はこっちが有利な分、ガッツリ取らせて貰うさ。



 傍聴席は満席の上、記者もいる。この日の傍聴希望者は多く、抽選が行われたようだ。

 被告席には権田親子と被告弁護人の権田幸伸がいる。余裕顔の権田幸伸と違い、被告の権田親子の顔色は悪い。


 「あの様子を見る限り、SNSへの投稿は権田幸伸の独断だったようだな」


 俺は横にいる菊地に小声で言う。

 確かに法外な請求のためと、元々アンチが多い俺のせいで被害者側が悪役になっているが、そもそも悪いのは被告側だ。当然、権田工務店側がそもそも事故を起こさなければと主張する者もいたが、それでも200万の請求はやり過ぎというのが大勢を占めている。


 「現状は工務店側に有利ですし、全く同意がないとは言えないんじゃ」


 「冷静になれば、通行人にペンキかけるような工務店と宣伝するようなもんだぞ、裁判だって、自分たちに有利だろうと店のイメージダウンなると回避したかった筈だ」


 「権田親子、とくに父親としては粘り強い交渉で裁判そのものを回避して欲しかったのに、メディアまで巻き込んで大事にされて困惑していると」


 「あー、今もたかが髪に大袈裟なって思ってるだろうよ」


 権田親子はメディアの取材にたいしては、被害者への謝罪とともに、裁判へのコメントは弁護人に任せているとの声明を出して一切拒否している。


 「ここからは表舞台に引きずり出してやるよ」


 「ホントに悪役ですね」


 菊地がため息まじりに苦笑いしやがった。





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 裁判官長による人定質問が行われ、出廷した被告が間違いなく被告本人であることを確かめたあと、訴状が読み上げられ、起訴事実の確認後、口頭弁論へと公判は滞りなく進んでいく。


 原告、被告双方が改めて自身の主張をし、その後、争点が整理される。

 

 この公判の争点は過失の割合と、こちらが主張する被害者の髪の価値の有無だ。


 自信満々に話す権田幸伸は、過失こそ被害者には無いことを認めたものの、こちらが要求する賠償額が如何に不当で法外なものかを声高に主張して弁論を終えた。

 俺は、淡々と事故の経緯、その後の彼女の様子を語り、特筆すべきことも無い、淡白な主張にまとめ弁論を終えた。



 被告人質問、権田親子が証言台へと出てくる。

 被告弁護人による質問が先に行われ、権田幸伸もまた、前へと出てくる。

 権田工務店が如何に誠実で評判の良い施工会社であるか、今回の事故で反省をし改善計画を立てているか、賠償の意志があるが、法外な請求に苦心しているか、権田親子への質問の形を取って、被告側の主張を展開しているが、まぁ、これといって目新しい話題も無ければ、何ならば、露骨過ぎる。


 「まるでお涙頂戴の広告だな」


 「それは流石に言い過ぎじゃ」


 思わずと出たぼやきに、菊地が反応した。


 質問を終えた権田幸伸はこちらを一瞥して戻って行く。


 「あの鬱陶しい顔、どうにかならんのか」


 「あれがデフォルトなんです、常時ドヤ顔仕様なんですよ」


 「それは不便だな」


 アホな会話で不快感を和ませていると、裁判官長より呼び出される。


 「では、原告代理人、質問をどうぞ」


 菊地と軽く顔を見合せてから、俺は立ち上がって裁判官長に返事をし、証言台へと歩み寄った。


 「改めて原告代理人の本橋です。宜しくお願いします。さて、先ずは権田幸吉さん、もう10年以上前になりますか。まだ福島にいらした頃、顧客として訪れた近隣の方とトラブルになっていますね」


 挨拶のあと、突然に今回の事件と関わりの無い話で困惑したか、それとも本当に忘れていたか、権田幸吉は無言のまま、眉間を寄せて戸惑っていた。


 「覚えていませんか、訪れた家族の幼いご子息が貴方が大切にされていた盆栽を棚から落として破損してしまった件です」


 「それが何か」


 「先方は当然、弁償すると仰ったものの、その盆栽、30万はくだらない品だったそうですね。貴方がそう言うと、先方の親御さんは『たかが鉢植えに』と言って揉めたそうじゃありませんか。結局は弁護士を交えて示談となったそうですが、何か聞いたことある話のようですね」


 話の意図が読めたのだろう権田幸吉の顔は青くなるが、脇から権田幸伸の声がする。


 「異議あり、本件と全く関係ない話です」


 裁判官長が割って入る前に、やや余裕を持って彼に向き合って俺は反論する。


 「関係ないことは無いでしょう。この件で被告は被害者に『たかが髪で大騒ぎするな』と言ったんです。ですが、被告自身もまた、かつては被害者として『たかがそんなもの』という、配慮に欠いた言葉に傷付いた過去があるのです。何故、彼女に対して配慮出来なかったんでしょうか」

 

 「盆栽と髪では比べる前提が違うでしょう。女性にとって髪は大切かも知れないが金銭的価値を有するものではありません。盆栽は手間暇をかけ、技術をようし、貴重な品種ともなれば、芸術的価値や希少性から高額の価値が出るのは当然です」


 「それでも、価値を知らない、興味の無い人間からすれば、無価値でしょう」


 返答しながら、想像以上の愚かさに頭が痛くなる。小出しにする筈だったものを出してくる必要性が生じて、計画に狂いが出る。それでも、言わざるを得ないだろうが、その前に。


 「裁判官長、今は私の被告人質問です。被告弁護人の勝手な発言を止めさせてください」


 これ以上、こいつと討論しては本当に用意したものが無駄になる上に公判が滅茶苦茶になる。


 「被告弁護人、原告代理人の質問の邪魔をしないように、発言は許可得て行ってください」


 「申し訳ありません」


 やや不貞腐れていたものの、大人しく座ったのを確認して、俺は質問を再開した。


 「先ほど、そちらの弁護人から髪に金銭的価値は無いとの指摘をされましたが、それは間違いですね。被告への質問ではありませんが、本公判において重要な事柄ゆえ、敢えてお話させて頂きたいのですが、裁判官長、宜しいですか」


 本当はもっと後、証人尋問の後の証拠調べ手続きで用意した証拠とともに話す予定だったが、仕方ない。とはいえ、裁判官長の許しなく話せば、またアホが突っ掛かって来るだろうし、取り敢えずは伺いをたてる。


 「被告弁護人の勝手な言動が発端ですから、仕方ないでしょう。許可します」


 ベテランの判事を呆れさせた自覚はあるか。と内心で舌打ちしつつ、俺は話し出す。


 「切るほかなく、カットされた被害者の髪は証拠として私の事務所で保管されています。長さを揃えるために無事だった髪も切られた訳ですが、その無事だった髪を毛髪買い取りを行っている会社に査定に出しました。彼女の髪はスーパーロングヘアーと呼ばれる程に長く、カットされた髪でも、ゆうに1メートルを超えていました。良く手入れされた髪は500グラムで5万円の最低保証価格がつきました。彼女は髪が長かっただけでなく、毛量も多く、カットされた髪の総重量は2キロを超えています。権田幸吉さん、買い取りの最低保証価格でも20万以上になります。日本人の髪は人気があるので、海外のオークションサイトなどなら、その数倍の値段がついてもおかしくありません。そして、買い取られた髪はウィッグなどに加工され、販売されます。そうなれば、最終的には数百万の利益も見込める可能性があるんです。彼女の髪には金銭的価値があるんです」


 俺の言葉に権田親子は固まっている。権田幸吉はぶつぶつと譫言のように数百万と繰り返していて、俯いた顔のまま、ややあって。


 「も……申し訳……ありません」


 そう溢したが、聞こえない振りで無視をする。


 「質問に戻りましょう。権田宗一郎さん、3年程前に今回と同様の事故を権田工務店は起こしてますね」


 俺の言葉に傍聴席がざわめく、視界の隅に見える権田幸伸の顔も驚愕の表情を浮かべている。ポーカーフェイスの対義語は権田幸伸でいいんじゃないか、そんな話は聞いてないって顔に書いてありすぎる。

 そもそも親戚のくせに信頼関係を築けてないのか、単に打ち合わせ不足か、どちらにしても残念過ぎる。


 「あっ。……はい、あったような」


 権田宗一郎は間をおいて思い出している風に答えた。実際、忘れていたのだろう。ネットで権田工務店に関するレビューなどを所員総出で漁った結果だ。収穫は期待して無かったが、自分の駐車スペースにペンキ跡がついたとのレビューに、過去に請け負った仕事からアタリをつけ、オーナーまで確認したかいが合った。まぁ、オーナーも半分忘れていたが。


 「武蔵野市の駐車場付きのアパートの外壁の塗り替え作業で今回同様にペンキを落としてますよね。同様の事故がありながら、再発した後も思い出さない程に忘れられてたんですか」


 意地の悪い問いだが、権田親子は黙りこんでいる。返す言葉が無いのだろう。


 「今、思い出せる範囲で結構ですので、当時の詳細をお話し頂けますか」


 顔を上げた権田宗一郎はゆっくりと喋りだした。


 「いつの仕事かは正直覚えてませんが、確かにありました。2階部分を塗ってる時に、足場に置いた下げ缶を誰かが蹴って、下の駐車場に落としたんです。幸い車も人もいなかったので、駐車場にペンキが広がっただけで済みました」


 「処理はどうされたんですか」


 「あー、えっと、すぐになるべく拭き取ってから、目地などに入り込んだものや固まりかけてしまったものを溶剤で溶かして、またなるべく拭き取って処理しました」


 それでもペンキが残ったり、アスファルトが変色したため、その駐車スペースを利用していた当時の入居者がレビューしたんだろう。


 「なるほど、それを踏まえて、権田幸吉さん、重ねて申し上げますが以前の事故では直接的な被害が無かったとはいえ、その後の対策を徹底していれば今回の事故は防げたんではありませんか。これは職務怠慢、安全配慮義務に著しく反していたと言わざるを得ないと思いますが、どうでしょう」


 俺の質問に、権田幸吉は絞り出すように、そう思いますと項垂れた。


 「質問は以上です」


 裁判官長に告げると俺は原告席へと戻った。


 「所長、すごい顔してますよ、あいつ」


 菊地の言葉に被告席へ目をやれば、権田幸伸は今にも怒鳴り散らさんばかりの表情で小刻みに震えていた。


 「本日の審理はここまでとし、公判を終了します」


 裁判官長の言葉に続き、木槌(ガベル)の音が響く。第一回公判が終了した。



 ~~~




 菊地と共に法廷を後にし、帰路につこうとする俺達を、記者が囲む。


 「本橋弁護士、今回の裁判についてお話を聞かせてください」


 マイクを向ける記者たちをぐるりと睨め付ける。


 「お話しすることはありません。全ては法廷で話しますから、次回の公判を待ってください」


 今はメディア、特に既存メディアに話すことは本当にない。


 「権田弁護士は記者会見も開きましたが、そのご予定は」


 「今はありません」


 「今後はあると言うことでしょうか」


 「必要になれば開きますが、必要性を現段階では感じません」


 梨の礫な対応に記者たちは痺れを切らしているようだが、訊かれたことにもほぼノーコメントに近い返事しか貰えなければ、話の膨らませようも無い。何か訊かなければとの焦りはあれど、言葉が出ない様子に、さっさと抜け出そうとするが、若い男性記者の質問が待ったをかける。


 「世間では金目当ての裁判との風評もありますが、どうお考えですか」


 質問をした記者を無言で見る。表情は消して、間を開けてやると、少し泡食ったようにオドオドとしている。


 「所属と名前は」


 ぶっきらぼうに問い返す。


 「えっ、……あの」


 「自分の所属と名前も言えないの」


 「あっ、……宝徳新聞の宗田と言います」


 いきなり所属と名前を問われて、頭を真っ白にさせたらしい宗田と名乗った記者へ畳み掛ける事にする。


 「世間って、誰のこと。金目当ての裁判という見解は私の依頼人を侮辱してるんですか。それは宝徳新聞社の総意だと捉えて間違いない」


 「えっ、いや、あの、世間一般では金目当てとの批判も多いですし、えー、これはうちの見解という訳ではなく」


 「宝徳新聞では世論調査でもしたんですか」


 「えっ、いえ、別に実施はしてませんが、ネットなどで炎上も」


 「ネットの炎上が世間全体の多数の民意だというエビデンスある論拠はあるんですか。ネット炎上はネットハードユーザーのごく一部、ノイジーマイノリティが引き起こしているという研究結果が我が国にもあったと記憶してますが」


 「あっ、いや、ですが、ネットでも多くの同様の意見がありまして」


 しどろもどろに話す記者はどんどんと下を向き、声が小さくなる。


 「貴方個人の見解は」


 「えっ、いや、私は、その、……金目当てとは」


 「思ってるんですか」


 「いやいや、そんなことは」


 「なら、何処の誰とも知らない人間の身勝手で無責任な言葉を代弁する必要がありますか。記者なら自身の見解を持って記事を書くべきでしょう」


 ぶつぶつとまだ何か言っているのを無視して切り上げる。


 「無責任な言葉で私の依頼人を傷付けるなら、法的措置も検討することを承知しておいてください」


 そう言って去ろうとする俺に、今度は若い女性記者が噛みついて来た。


 「それは報道に対する脅しですかっ!! 」


 振りかえって見れば本当に若い。ベテランの記者ならこんなバカな事は言わないだろうが、いや、言わないと信じたい。明後日の正義感に浸ってるタイプか、そんな奴に付き合うのも面倒で無言で立ち去ることにしようかと思うが、利用出来なくもないかと考える。

 それでも、敢えて答えずに菊地に声をかける。


 「質問も終わりのようだ、帰るとしよう」


 これにさっきの女性記者がキレた。沸点が低いことで。


 「質問に答えてください。それとも都合が悪いから答えられないんですかっ!! 」


 いちいちキーキー煩い、猿か。


 「調子に乗るなよ、半人前が」


 想定したより低い声が出た。思ったより苛ついてたらしい。言われた方は口をパクパクと金魚のようだが、我に帰ってマシンガンのように無駄弾を撃たれても対処が面倒なんで先手を打つ。


 「俺は元々、下町の悪育ちだ。こっちが素なんで、気にしないでくれ。で、脅すつもりかって、頭は大丈夫か。俺は相手が極悪人だろうが弁護する。それが弁護士だからだ。公判において、誰であっても平等に弁護を受けられる。なぁ、そんな基本も知らんのか」


 「そっ、そんなことは知ってます。でも、そんなこと関係ありませんっ 」


 顔を赤くして身振り手振りでいきり立つが。


 「関係あるだろうが、俺は弁護士としての矜持を持って、職業意識を持って、依頼人の利益のために働いてるんだ。依頼人の不利益に法的措置を検討するのは当然の弁護士としての職務だろうが、それがなんで脅す事になる。むしろ、お前の発言こそ、依頼人を脅しているようなもんだ」


 「私は脅してなんかいませんっ 」


 「なら訊くが、今回の俺の依頼人は、道を歩いていたら、突然ペンキをかけられて、大切にしていた髪を切らなきゃなんなかった、可哀想なただの被害者だと理解してるのか」


 俺が言うと、女性記者は黙り込んだあと、復活して捲し立ててきた。


 「だからと法外な請求で善良な人を苦しめる正当な理由にはなり得ません。それを指摘されたからと法的措置なんて論外です。私への暴言も含めて厳重に社から抗議します」


 肝だけはふてーなと関心したが。


 「別に好きにすればいい。痛くも痒くもない。法外かどうか、それを裁判してるっていうのに、お前はいつから裁判官になったんだ。訴えるなら、それも好きにしな。その代わり反訴されることは覚悟しとけよ。これは脅しじゃない。正当な主張だ。お子様の青臭い正義感に付き合うつもりはないから、社に迷惑かける前に勉強しろ」


 吐き捨てるように言って、沈黙している他の記者たちに都合がいいと。


 「今度こそ質問も無いようですし、これで失礼します」


 大声で言えば、菊地が先陣を切って、人垣を切り分けて道を作ってくれるので、さっさと抜け出していく。


 「まっ待ってください。本橋弁護士」


 そんな声を無視して進んでいると、遠くさっきの女性記者が叱られているのが微かに聞こえた。



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 地裁を出てからは菊地の運転で移動する。黒のCUV(クロスオーバー)はイギリス車のラグジュアリーSUVのクロスオーバー仕様で、あれこれ手を加えて一台で億近く払ってるらしい。


 「よくこんな馬鹿高い車乗れるよ」


 「所長だってレクサスじゃないですか」


 「限定モデルでも何でもない、一番安いやつな。依頼人に信頼されるためで、趣味じゃないんだよ。近場の移動は軽だからな」


 「昭和の社長相手だと、舐められるからでしたっけ」


 「若造が生意気なって奴もいたけど、分かりやすく稼いでるって見せつけないと信用しない即物主義な爺が多かったからな」


 くだらない会話をして、事務所近くのよく行く中華屋へと入る。


 注文をして食べ始めたあたりで、菊地がそう言えばと前置いて訊いてくる。


 「あれ、わざとですよね」


 「何の話だ」


 「記者を怒らしたのですよ」


 はぐらかそうとも思ったが、こいつは人の機微を見るのが上手い。まして、長く行動を共にしている俺の心情なんて丸見えなんだろう。チャラそうな見た目で相手の言動の裏を読み取ってしまう厄介さが頼りになるからこそ、連れ歩いてるとも言えるだけに、正直に答えてやろうと思うが。


 「何でそう思う」


 こいつの考えを聞いて見る。こいつと、あのドヤ顔弁護士やキーキー猿記者との違いをみたい。


 「所長って、人前では感情をよく出して、チャラそうにも見えますけど、実際すごい冷静(クレバー)ですよね。感情的に見える時も計算されてて、相手を誘導するためでしょ」


 こいつにチャラそうと言われるのは心外だが、本当に良く見ている。俺の性格や遣り口を知った上の判断と言うことか。


 「だとして、なら演技した理由は何だと思う」


 更に問うて見る。ラーメンを啜りながらニコニコした菊地が答える。


 「所長の意図が読めて来ました。この裁判のですよ。それで徐々に向こうへヘイトを向ける予定が、あの馬鹿の馬鹿さ加減で想定以上に情報を出した調整のためと、後は依頼人のためですか」


 本当によく見えてる。少し驚くが、まぁ菊地ならば、このくらい当たり前かと嬉しくもなる。


 「まぁ、正解だ」


 そう言うと、菊地は嬉しそうにしている。


 

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 事務所に戻ると駐車場に車を停めた菊地が先に降りた俺のあとを追いかけてくる。


 「所長、でも、あそこまでやる必要ありました」


 さっきの中華屋の話の続きだろう。あそこまで煽る必要は無いだろうってことか。


 「確かに依頼人より所長が目立てば、誹謗中傷のターゲットは所長に向きますし、メディア相手に喧嘩を売れば、少なくともメディア関連はしばらくは所長と敵対してくれると思いますけど」


 俺は前を向いたまま、すこし間をおいた。振り向かずにそのまま答える。


 「弁護士なんて悪役でいいんだよ。国賠訴訟なんか専門の正義の弁護士なんてのもいるが、俺は金さえ貰えば誰の依頼も受ける。俺たちは法の公平性を担保するためのひとつの装置でしかない。立場の違いで正義にも悪にもなるけどな。俺は悪役が似合うんだ」


 柄にもなく語ってしまって、少し恥ずかしくなる。

 そんな俺の背中に。


 「かっこ良かったですよ」


 そんな声が飛んできていた。


 聞こえなかった体でそのまま歩き出した、俺は。


 「……バカが」


 一言だけ呟いた。



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 翌日からは事態はかなり動いた。


 既存の地上波メディアは俺を叩くのに必死だ。

 あの若い女性記者、可愛いらしい見た目で視聴者人気もいい。散々に言われて、俺が去ったあとに涙ぐんでたとこを抜かれて放送された。

 俺にやり込められたせいか、それとも映ってないが先輩記者にこっぴどく叱られたせいかは知らんが、メディアはこれ幸いと、報道に脅しをかける俺と健気な記者の構図に切り抜きで作り上げた。当然、俺の発言も切り抜きで、加工されている。


 ただ、ネットの方は工務店側を叩くものが増えて来た。裁判を傍聴した者たちのブログや、フリーランスのネット記者の記事などで裁判の様子が伝えられたことや、囲み取材の現場に居合わせた人間のメディア報道との実際のやり取りの違いを指摘する投稿が出回ったためだ。

 ネットでは工務店側の無責任さや、担当弁護士を含めた反省の無さ、そして今さらに髪って、価値あるよねって論調が侃々諤々と議論されている。

 女性記者が発した言葉で、俺を叩くのに必死な既存メディアへの非難も、マスゴミの言葉とともに踊っていて。


 「次の公判まで持ちますかね」


 菊地が俺にそう言う。


 そう、これまで俺と依頼人に向いていた誹謗中傷の嵐は、かなりの割合で権田工務店に向き出している。

 権田幸伸も、あいつの所属する安藤法律事務所も、地域の法的案件が専門で、ネットなどのトラブルには不得手だろう。


 「そろそろ、あの人が動くだろうな」 


 「あの人ですか? 」


 「あー、安藤法律事務所の代表、安藤岳人(たけひと)先生がな」


 「お知り合いだったんですか」


 菊地は驚いたように訊いて来るが。


 「直接の面識は無いさ。ただ同じ東京弁護士会所属だ。会報のやり取りやら、会合やらで顔を合わせた事もあるし、地域の法律屋としては長年活躍している先生だけに、そこそこ名は知られてる人なんだ」


 「へー、そうだったんですね」 

 

 ふとした疑問が頭を過る。


 「なー、なんで権田幸伸は敢えて安藤法律事務所に入ったんだ。司法試験も現役合格で、お前が言う通りなら、テストは得意だったんだろ。大手の採用枠に募集すれば、希望通りに新卒で大手に入れたんじゃないのか」


 同期と言うだけであまり交流は無かったと言っていたが、それでもと尋ねてみると。


 「あー、それは同期のあいだじゃ笑い話として有名なんで知ってますよ」


 「お前忘れてたんじゃないのか」


 「ついこないだまでは忘れてましたよ」


 笑い話も含めて忘れ去られていた方が幸せなのか、思い出して貰った方がいいのか微妙だな、おい。


 「まぁ、所長と同じことを考えた奴はやっぱりいて、直接訊いたらしいんですけど、そこから広まった話なんで事実だと思いますよ。俺は訊いた本人から話して貰いましたし」


 「直接本人に訊くって、よっぽど親しかったのか」


 「いや、それほどじゃ無かったと思います」


 「なら、すげー勇者だな」


 「あー、気分を害して疎遠になったとこで、別にどうでもいい相手なら好奇心が勝ったんじゃないですか」


 「辛辣過ぎるな、おい」


 淡々とただの事実を羅列してる風に語られると、反対に不憫で泣けてくるな。


 「あいつの家って、昔は結構大きな商店だったらしいんですけど、祖父の代で上物を壊して商業ビルにしたんだそうで、地元の商工会とかの顔役だったりするんだそうです。なんで、安藤法律事務所とも親がらみで知り合いで、息子が弁護士目指すってなって、色々と相談に乗って貰ったらしいですよ」


 「その義理立てに安藤さんとこの事務所入ったのか、案外義理深いな」


 「あー、訊いた奴もそう思って、そのまま言ったらしいんですけど」


 「本当に勇者だな」


 「ハハ、それがあいつ、とんでもないこと言ったんです」

 

 その展開から、どう斜め上にロケット発射出来るんだよ。そう思ったが。


 「安藤先生は無理に自分のとこに来なくていいって言ったらしいんですけど、父親に不義理をするなって釘刺されて、で、『俺なら何処にいても数年もすれば頭角をあらわして大手から破格の待遇で引き抜きが来る。そうすりゃ、パパの顔も先生の顔も立てられるし問題ない』って、ドヤ顔で胸張ってたって」


 言いながら菊地は爆笑してるが、斜め上どころか異次元をさ迷ってる。何でそんな発想になるのか理解出来ない。


 「強がりでもなく言ったんなら、ある意味本物だな」


 刑事は勿論だが、民事の訴訟すら関わることの少ない町弁で数年でどうやって頭角をあらわすつもりだったんだか。


 「まぁ、弟子の案件だ。地元の繋がりとしてもこれ以上は放っておけんだろ」


 そう予測を立てた通りに、程無くして安藤先生から連絡が来たんだった。



 ~~~




 「わざわざ足を運んで貰って申し訳ありません。安藤先生」


 事務所を訪れた安藤先生を応接室に案内し、開幕から頭を下げる。


 「こちらこそ、時間をとって貰って悪かったね、本橋君」


 手を差し出して来る先生と握手を交わし、席を進めてお互いに座る。


 「忙しい君に長話も何だ、単刀直入に言おう。50万出す。訴訟を取り下げてくれ」


 「藪から棒に、本当にいきなり本題ですか。だとして、それじゃ受けられませんよ」


 「幸伸君はどうか知らんが、本橋君、君の魂胆はわかっとる。示談金を吊り上げる目的で端から高く請求した。公判を長引かせても結審まで争う気は無いんだろう」


 流石にバレてるな。当たり前か。菊地にだってわかったんだ。いくら訴訟とは縁遠い町弁の先生とは言え、キャリアも長い先生なら、当然わかる筈だ。

 

 「何のことでしょう。私も依頼人も納得いく結果が出るまで、最高裁までだって争う構えですよ」


 「地裁判決が出た時点で200万なんて請求額がやっぱり馬鹿げてると世間に知らしめることになるがな」


 「関係ありませんね。そもそも、まだ判決は出ていませんし」


 のらりくらりとすっとぼける。若造だった頃から、こうやって相手のペースを崩して来た。まぁ、万人に通じる訳じゃない。目の前の先生もそうだろう。


 「幸伸君が事を大袈裟にしたと、依頼人には思われとるし、世間もそう思ってるだろうが、あの子にそんな影響力もコネも無いのはわかっとる。本橋君、大方、君が裏で糸を引いたんだろう」


 「だとして、何か証拠はありますか」


 「否定はしないんだな。……残念ながら無いな」


 「否定したところで、信じちゃくれないでしょう。まぁ、お好きに考えて貰って結構ですよ。先生がどう思おうと、証拠が無ければ、それは無かった事になります。先生ならお分かりでしょう」


 俺の言葉に深いため息をついた先生は、1拍置いて俺を睨むと凄味のある声で言う。


 「100万だ。そこまでなら出させてみよう。それで手打ちにすべきだ。お互いにメディアに乗せられて、これ以上ダメージを負う前に終わらせよう」


 「先生、はじめから100万が交渉に持ち出せる上限だったのがミエミエですよ。権田工務店はここ数年、銀行融資を受けていません。自己資本のみで経営を回せてるなんて、随分と資金繰りがいいんですね。借金もなく、経営も順調だ。ただ、今後はどうなりますかね。すでに何件かのキャンセルが入ってるんじゃありませんか。来年以降の決算が心配ですね」


 珈琲を一口啜り、喉を潤して流れるように吐き出した俺の言葉に先生は少し苛ついているようで、こめかみに僅かに血管が浮き、額に汗が滲んでいる。

 表情に然程変化は無いのは流石と言うべきか。


 「だとして、君の依頼人も悪意ある言葉に呑まれることになる」


 「ご心配には及びません。すでに法的措置の手続きは順次行っていますし、依頼人は資産家のご令嬢で、本人の個人資産も相当ですから、裁判が長引いた所で問題ありません」


 「そうやって、君の稼ぎとパフォーマンスに依頼人を利用するのかね」


 先だって権田幸伸に言ったことだなと、思わず笑いそうになるが。


 「私は対価を得て、依頼人の期待に応えるだけです。安藤先生、稼ぎに拘り、広告に力をいれるのは、所の代表なら当然でしょう。悪し様に言うなら、先生は私の事務所の若者たちに野垂れ死ねと仰るので」


 俺の言葉に憮然として、不機嫌を隠さなくなる。


 「そんなことは言っていない」


 「言ったも同然ですよ。依頼人との信頼関係を結び、依頼人の納得いく結果をもたらした結果として、私は報酬を受けとるんです。ろくに打ち合わせもせずに暴走している、何処かの誰かとは違うんですよ。これ以上は無駄でしょう。後は法廷でお話しましょう」


 「後悔することになるぞ」


 「そっくりそのままお返しします」



 先生を送り出し、応接室に戻れば法律事務の清水さんが片付けをしてくれていた。

 事務所立ち上げ当初から支えてくれていて、今年で45になる中年男性だが、渋い出来る執事がアニメやドラマから飛び出したような、スタイリッシュで有能な人物かつ、柔和な表情と人柄で、何で、事務所を立ち上げようとしていた若造だった頃の自分の誘いに一つ返事で応じてくれたのか、未だに謎な人だったりする。

 

 「清水さん、そんなの俺が片付けたのに」


 「いいんですよ。雑用も気分転換になりますから」


 穏やかに微笑みながら、トレンチに載せたカップなどを持って清水さんは部屋を出ていった。


 かわりに入って来た菊地が両手に持った缶コーヒーを前に出しながらこっちに来る。


 「どっち飲みます。一応、両方微糖です」


 俺の好みに合わせたんだろう。どちらかと言えばブラック派なんだが、歳のせいか、ブラックを飲むと腹が下りやすくなったことと、元々、缶コーヒーのブラックは缶臭くて、あまり好きじゃ無いために微糖ばかり飲んでるんだが、そんなこと一回も菊地に話したことは無いんだが、良く見てる奴だ。


 「ありがとな、どっちでもいいぞ」


 「じゃあ、こっちで、次回公判、向こうも証人を立てるようです」


 「安藤先生が手を回したのか、それとも権田幸伸の仕事か、どっちにしろ対策しないとな。証人の情報は」


 「勿論、バッチリです」


 そういって親指を立てる菊地。

 次回公判、安藤先生か、それとも権田幸伸が続投か。


 「まぁ、どっちでも潰すだけだな」


 俺は缶コーヒーを飲んで。


 「あっま、これ甘過ぎだろ。なんだよ糖類25%カットって、元はどんだけなんだ」


 そう愚痴る俺に菊地は爆笑していた。



 ~~~




 第2回公判。

 東京地裁小法廷401号、前回と同じく、此処で裁判は開廷を待っている。

 傍聴席は前回同様に満席だ。


 被告人席には権田幸伸と共に安藤先生の姿もある。


 「今日は保護者同伴か」


 そう溢した俺に、菊地が吹き出すが。


 「追加の証人は安藤先生の手配だったんですかね」


 菊地は息を整えてから、そう問い掛けて来る。

 

 「どうだろうな。公判が始まればわかるさ」


 そんな会話をしているうちに開廷となる。


 証人が証言台へと出てくる。

 先ずは被告側の証人。依頼人、園崎真帆の同僚、神原里奈(りな)だ。


 裁判官長より、人定質問の後、証人として黙秘の権利や偽証を行えば罪に問われることを確認され、被告弁護人から証人尋問が開始される。


 「尋問は安藤先生か、これでほぼ決まりだな」


 被告人席を立った安藤先生を見て、思わず呟く俺に菊地も無言で頷く。被告側の弁護は権田幸伸から安藤先生に完全にスイッチしている。証人を用意したのも安藤先生と安藤法律事務所の面々総出での拙速だろうと速さを重視してのものだろう。


 「安藤と言います。さて、神原さん、あなたと原告である園崎さんの関係を教えて貰えますか」


 安藤先生が質問を始める。口調は穏やかで、恰幅が良く、柔和そうな初老の紳士である先生の見た目そのままな語り口だ。


 「園崎さんとは同期入社で配属もずっと一緒なんです」


 証言している神原という女性はアラサーというには若く見える。幼いという印象は無いが、実年齢よりは数歳は低いと思われるだろう見た目だ。派手さは無いが、20代中頃の明るく可愛らしい女性といった感じだ。


 「では、園崎さんとは親しいんでしょうね」


 「うーん、会話もしますし、何度か一緒にご飯とか、遊びに行ったこともありますけど、そこまで親しくは無いんです」


 「なぜでしょう」


 「彼女、髪の毛ためにって、あんまり遅くまで遊びに付き合ってくれないんですよ。誘っても、今日はジムがー、とか、今日はヘアエステの予約がーとか、断られることも多いし、皆で行くからって、前もってお願いしておかないとそもそも来てくれないし、それでも断られる方が多いんで、皆もあんまり誘わないんですよ」


 「社内でも孤立していると」


 「いや、すっごい美人でしょ。だから人気はありますよ。男性とかには。ただ、女性からは嫉妬含めて、すこし遠巻きにされてるかなーって、まぁ、あんだけ綺麗だと逆に憧れてる若い子もいますけどね」


 質問が続いているが意図が読めない。そもそも関係が無さすぎて意味がわからない。菊地も困惑しているが、とにかく原告のイメージダウンを狙ってるだけか。何なのか。


 「周りとの人間関係の構築より、髪の毛に異常に執着しているんですね」


 「えー、そうです。一度、誰かが『園崎さん美人でハーフみたいだし、カラーして、髪も可愛らしい感じにセットしたほうが』って、別に悪気なんてなく、本当にその方が似合いますよーって感じで言ったんですけど、そしたら、ブスッとして、『私は髪の色も長い髪も気に入ってるの』って一言言って、なーんか気まずい空気にしたことあって」


 「なるほど、ありがとうございます」


 証人に頭を下げつつ感謝を述べた先生は裁判官に向かい話しだす。


 「このように原告は自身の髪に異常な執着があります。そのことで原告代理人は依頼人の凡そ一般的と言えない価値観にそった賠償を提示せざる得なかったのでしょう。心中察しますが、法廷では法の下、平等な判断が下されることを期待しております」


 あくまでも、俺の戦略でなく、髪に固執する我が儘な依頼人のせいだと印象付けたいのか。未だに依頼人へ誹謗中傷をする輩はいる。そこを焚き付けて、権田工務店側の非難をかわす目的か。


 被告人席に戻った安藤先生が着卓すると、裁判官長より、声を掛けられる。質問が無ければ、最初の証人はお役御免となるが。


 「では、私からも」


 俺は立ち上がって、証言台へと歩を進めた。


 「原告代理人の本橋です。よろしくお願いします。神原さん、本件とは関係(・・・・・・)ありませんが(・・・・・・)、原告である園崎さんは神原さんから見て、どんな人物でしょうか」


 俺の質問に対して、顎に指をあて少し考えた彼女はややあって答え出した。


 「……うーん、あれですね。いい意味でお嬢様、良いとこ育ちだなーって」


 「どういうことでしょう」


 「なんて言うんだろ。マイペースなんですけど、自己中って訳じゃなくて、おっとりしてるんです。仕事もちゃんと出来るし、話しも普通に出来るんですけど、割りと天然というか、あとはお金に関して、本当に無頓着なんですよね。ほら、バックとか買うにも、皆はボーナス出たらご褒美にーみたいなノリなんですけど、園崎さんは気に入ったものがあれば即、買っちゃうみたいで、お金あるから、あんまり金額とか気にしないみたいで羨ましいなーって。でも変に自慢とかしないんですよ。園崎さんバック変えたとか聞かれて、『かわいいから買っちゃった』って言うくらいで、だから嫉妬されても嫌われてはいないんですよね。なんかすっごい美人なのにかわいいんですよ、園崎さんって」


 百点満点の回答に笑みが出る。被告人席では権田幸伸は不満そうな顔のまま、彼女の証言など聞いてない様子だが、安藤先生は真顔のまま、手元の書類に目を落としている。


 「ありがとうございました」


 俺が質問が終わり、最初の証人の出番も終わる。


 次に出てきたのは美容院cereza(セレサ)の店長、松前康人だ。


 原告側の証人である彼にたいして、裁判官長の定型の流れのあと、先ずは原告代理人である俺が質問に立つ。


 「松前さん、原告代理人の本橋です。よろしくお願いします。松前さんは原告である園崎さんの通う美容院、cerezaを経営されている美容師で間違いないですね」


 俺の問い掛けに、短く頷き、はいとだけ答えた彼は、42歳の落ち着いた雰囲気の男性で、人気美容院の店主だけあり、洒落た着こなしでカジュアルジャケットと、主張し過ぎない程度のアクセサリーがよく似合う、細面のイケメンだ。


 「彼女はどの程度、そちらを利用されていますか」


 「月に2回ほどです。ヘアエステやヘッドスパを利用されてます」


 「利用に関して、どの程度の金額を毎月支払っているかはわかりますか」


 俺の問いに、すこし考えるように間をおいて、ゆっくりと答える。


 「……だいたい月に6、7万くらいです。指名料を頂いているのと、ヘッドスパが2万、ヘアエステは高いコースをうけていて3万5千円、この他にヘアパック用のクリームやシャンプー、コンディショナーを買ったり、最新のヘア用のグッズや新しいサービスは率先して試されるので」


 「とても髪への思い入れが強いのですね。因みに他の常連の方の平均的な利用額はどのくらいかはわかりますか」


 「うーん、人によりますが毎月来られる方でも、月に一回、それもカラーだけといった感じで1万ちょっとくらいかなと、2ヶ月か3ヶ月にいっぺん、カットと一緒にヘッドスパやヘアエステも利用されるといった方が多くて、グッズも全てうちで買う人は少ないですね。何せ高いですから、平均すれば、年に5万円くらいじゃないですか。だいたい、女性の方の髪にかける金額って」

 

 人気美容院の店主らしく、認識に誤りがない。顧客の分析が出来ているからこその、安定経営だろう。

 彼の店を利用する女性たちが、髪にお金をかけていることを、踏まえた上で、ほぼ正解を出してるあたりはプロなんだろう。


 「女性の年間にかける髪への金額の平均という意味では、だいたい年で4万円程度だそうです。ですが、原告のように高額の方もいる。反面で美容院を利用しない年で1万以下の方も一定数います。園崎さんに以外にも、高額利用者はいるんでしょうか」


 「勿論います。毎週通われる方もいますから。園崎さんまでいかなくても、毎月1、2万くらい払ってる方はそれなりにいますよ」


 「話を纏めますと、園崎さんは年間で美容院代だけでも70万以上は払っていらっしゃって、松前さんのお店では、少数ですが、それ以上に利用されている方もいると、年間で10万以上いくお客様も一定数はいると」


 「まぁ、全体の1割強くらいですけどね」


 爽やかに笑いながら言う彼の言葉を受けて、質問を総括する。


 「彼女が殊更、特別に髪を大切にしていたのは確かですが、かといって、全く同様の方が存在しない突き抜けた存在という訳でも無かったようです。資産のある女性が美容にお金をかけるのは珍しいことでも無いでしょう。長い時間と手間、お金を掛けていたことは間違いなく、それは自己研鑽と趣味を兼ねたものとしては十分に理解出来るものです。彼女が髪にたいして、賠償を請求をするのは改めて当然と言えるでしょう。なにせ、結局はペンキで使えなくなった衣服とバックはどちらも高級ブランドのものですが原告は一度も弁償しろとは言っていません。彼女にとっては、髪こそが最重要事項だったと言うことです。質問を終わります」


 その後、もう二人ほどの証人尋問ののち、この日の公判は閉廷となった。



 ~~~


 「すこし時間を貰えるかな。本橋くん」


 閉廷後、帰り支度を進める俺たちに声を掛けて来たのは安藤先生だ。


 「いいですよ。近くの喫茶店でも宜しいですか」


 「あぁ、どこでも構わんよ」


 そう答えた安藤先生の顔はだいぶ窶れて見えた。



 パーティションで仕切られたテーブル席に座るのは俺と菊地、向かいに安藤先生だけだった。


 「権田弁護士は来ないんですか」


 「必要ない。原告の用意した証拠資料をろくに見てなかったんだ。君よりも、あれに嵌められたような気分だよ」


 呆れたという顔で心底疲れたと言った風に言う先生に、俺は笑顔で応じる。


 「まさかと思いますが、棄損された衣服がクリーニング不可能だったことを権田弁護士は知らなかったと」


 「原告側から何も言われていなかったことで、勘違いしていたそうだ。何故、争点としなかったのかね」


 疲れきった顔で言う先生だが。


 「依頼人は初めから衣服の弁償は求めていませんでしたから、それなのに、服の話ばかりして、ろくに謝りもせずに髪については『大袈裟』だとバカにされたことにたいしての訴えですからね」


 「だとして、君は衣服とバックについて、証拠として書類を提出しとる」


 「当たり前でしょう。いくら原告が賠償を求めていないと言っても、実際に被害にあってるんですから、証拠として預かった上でクリーニング店や正規代理店にクリーニングや修理の見積りはとりましたよ。結果は全て不可能というものでしたけどね」


 「当日のバックだけで販売当時の値段で100万を超えるそうだな」


 「えー、人気ブランドの限定品で今はプレミアもついてますよ」


 深いため息が聞こえる。


 「それだけでも、賠償を請求すれば君のいった示談金に届くじゃないか。なんでこんな回りくどいこと」


 「まわりくどいですか。彼女とすれば、たとえ限定品で二度と手に入らないとして、まぁ、替わりなら別に買い直せばいいもの(・・)よりも、10年以上をかけて大切にしていた髪を奪われたことを理解し、心から謝罪して欲しいということですよ」


 その言葉に大きなため息をもう一度つく先生。


 「結審まで争ったとして、君の提出した衣服やバックの被害額が加味されるかは難しいぞ」


 「可能性はゼロでは無いでしょう。ですが、被害額の大きさにあわせて、たとえ50万程度の判決でも、世間に与えるインパクトは大きい。たかが数万で終わるはずの賠償がそれだけの金額になるだけでも、権田工務店側の印象はかなり悪くなりますよね」


 「結審まで争う気は、あるんだな」


 「えぇ、こちらにはマイナスとなる要素はありませんから、というか、公判の中でもその点に触れたんですから、ネットなどでも取り上げられれば、そちらの主張の根幹だった『クリーニング代』が存在しないことになりますからね。衣服の『クリーニング代』を弁償しようにも、そもそも、高級ブランド服だった依頼人の服は『クリーニング不可能』で廃棄するしかなくなったんですから。それについては、権田弁護士には書面で送ってますよ」


 「見たよ。幸伸くんはクリーニングせずに捨てたようだとは認識してはいたが、クリーニングした場合の相場で考えていたようだ」


 「前提条件で思考が凝り固まったからですかね。……安藤先生、示談なら200万でお受けします。これ以上長引かせると、世間から、『棄損した衣服の賠償をすべき』だと言われ始めますよ。自分たちが主張していた通りに」


 先生は頭をふって、天井を見上げたが。


 「手仕舞にする用意はあるのか」


 「キャンセルになった仕事の替わりなら、伝を使って斡旋出来ますし、示談に関する記者会見では権田工務店側の誠意ある謝罪があったとしますよ。権田工務店側への誹謗中傷や営業妨害行為には、依頼人が心を痛めていますから、示談成立後の協力は惜しみません」


 「ふんっ、1人勝ちだな、……君の。まぁ、いい。説得しておこう。もう、勝ち目がない」


 「いえいえ、安藤先生が腰を上げて下さったから、すんなり終わらせられます」


 「初めから君が敵と知っていたなら幸伸くんには任せなかったんだがな。まぁ、もう二度と敵にまわすことはない。今後は協力を頼むよ」


 差し出された手を取りつつ、俺は笑った。




 ~~~~

 

 

 「実のところはどうなんです。結審まで争うつもりだったんですか」


 安藤先生が先に帰られて、暫くして菊地が訊いてくる。


 「安藤先生だって、わかってるさ。結審まで闘うことは権田工務店がもう出来ないってな」


 「まだ、推定される資産ならイケル気もしますが」


 「本気でいってるか。このまま代表と息子が係争に掛かりきりなるだけでもキツいだろうが、仕事の依頼が減り続け、抗議の対応に追われる中で、賃金の支払いに不安が出れば、熟練の職人たちに逃げられる心配だって出てくる。手仕舞にして仕切り直すのに200万を払う方が早いと思うのも、頼りない親戚の小僧をこれ以上信用することも出来ないだろうからな」


 「初めから、そのために全て準備するんですから、やっぱ怖いですね」


 にこやかに言う菊地を小突いて俺は立ち上がる。


 本格的な示談の交渉は安藤先生とのあいだなら、トントン拍子で進むだろう。約束通りに工務店側のフォローをすれば、全て解決。

 少額賠償が当たり前の日本で、その実は裏があるとしても、結果だけ見れば「要求通りの金額」を取ったなら、うちの宣伝にも持ってこいだ。


 「記者会見の原稿、きっちり精査するぞ」


 「どうせ、会見の時は原稿なんて見ないくせに」


 愚痴を言う菊地とともに喫茶店を出る。


 明日には依頼人へと報告が待っている。



  ~~~




 予め席を取っておいた店で、依頼人である園崎さんと話す。


 「このまま行けば示談のほうも成立します。ご心配なさっていた権田工務店側への誹謗中傷や、仕事への影響も私のほうでもフォローしますから、1ヶ月ほどで解決するでしょう」


 「ありがとうございます。先生に頼んで本当に良かった」


 「それは良かった。それで、これ私としてはサービスのいっかんなんですが」


 そう言いながら、目で合図すると、可愛らしいウェイトレスの女性が彼女の背後から、ごく自然な手つきで彼女の頭に何かを被せた。


 というか、それなりに装着に手間がいる筈なんだが、一瞬でセットしてしまった。どんな魔法だと驚いた顔をしていると、依頼人の園崎さんが不安そうにしているので、用意していた手鏡を渡す。



 「これ、わたしの……かみ」


 セットされたウィッグを手に取りながら、彼女は震えながら鏡を見つめていた。



 「勝手をしては怒られるかとも思いましたが、大切にされていた髪を、そのまま捨ててしまうのもと、そのままお返しするべきかとも思いましたが、買取り額のお見積をした店から提案されましてね。無事な髪だけでもウィッグにしましょうって」


 前のようなスーパーロングとはいかず、肩口より少し長い程度になってしまったが、まだまだショートヘアーだった彼女の久しぶりのセミロングに。


 「あなたにはロングヘアーがよく似合います。その綺麗な髪が何よりも素晴らしいと私も思っていました」


 俺の言葉を聞いているのかもわからないが、弁明のようなものを捲し立てていた。本当は事前に話して許可を取るなり、相談すべきだと思ったんだが、サプライズのようなことをして、驚かせようなんて考えたのは魔がさしたとしか言えない。


 無言のまま、食い入るように鏡を見る彼女の目から、一筋、ポツリと涙が流れるのを見て、盛大に後悔する。


 「申し訳ありません。やっぱり許可も得ずに勝手な……」


 「違うんです。嬉しくて、こんな風にウィッグにするなんて発想、まったく思い浮かばなくて、本当にわたしの、わたしの、……かみ……なんですね……。ありがとうございます」



 顔をあげた彼女はとても綺麗な笑顔で、そう俺に感謝の意を告げた。






 ~~~



 そのあとは概ね筋書き通りに進んだ。 

 安藤先生と菊地の協力で記者会見も予定通りに終わらせ、約束通りに権田工務店側へのフォローも滞りなく済ませた。


 200万の示談金を園崎さんが受け取り、俺への依頼料を支払って貰ったが、結局、彼女は大赤字だ。

 それでも素晴らしい結果だったと大変満足して貰えた。まぁ、実態としてはこれでも赤字なことで、「民事おける賠償は勝っても原告側の不利益になる」ことが多いという訴えを通しやすくなった。

 その事で彼女への同情から誹謗中傷はめっきりと少なくなったし、工務店側が反省し、一括の示談金支払いを決め、彼女と和解したと説明したことで、工務店側への誹謗中傷も和らいだ。まぁ、俺が今後は法的に対応すると明言したからだとも言うが。



 「所長、植木くんに負けた傷はこれで癒えました」


 憎まれ口を叩く菊地を小突いてやる。


 「初めから傷なんてついて無い。まぁ、多少は汚名を返上出来たかもしれんがな」


 「素直じゃないですね。まぁ、取り敢えず見た目のわりに奥手なんですから、本番はここからですよ」


 ニヤニヤしながら言う菊地の周りではうちの所員たちが同じくニヤニヤしている。


 「……かっ、勘違いするな、これから園崎さんの所にいくのは報告のためであってだなっ! 」


「お忙しい所長に変わって、私がいきましょうか、ご報告だけなら、代理の者でも大丈夫かと」


 真面目な顔で清水さんが言ってくるが。


 「いえいえ、最後の報告ですし、そこはー、ほらっ、私がいかないと」


 菊地が「わたしが」と繰り返しながら過呼吸気味に爆笑してやがる。後で覚えておけよ。



 「所長、ご武運お祈り申し上げます」


 所員たちのそんな合唱に。


 「だから、……違いますって……違うんですよっ、覚えておけよっ、菊地ー!! 」



 こんな感じで、俺の事務所はいつも通りに今日も終わっていくんだった。






 

感想お待ちしてまーすщ(´Д`щ)カモ-ン

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