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性格の悪い令嬢の脳に意識が繋がった私の使命は、彼女の性格を矯正する事だった

 ――デカルトの物心二元論。

 身体は機械に過ぎず、それ自体は入れ物で、そこに精神が宿る事で人間は人間として機能する。つまり、簡単に言ってしまえば、身体と心は別というような主張。

 私はこの話を初めて聞いた時、何と言うか、「普通だ」と思ってしまった。身体と心は別で、心にこそ霊性がある。人間の本性は“心”。そんな発想は古くから民間にもあったと思っていたからだ。

 例えば、“ろくろ首”は、本来は妖怪ではなく、魂が人間の身体から抜け出る離魂病という病であるという説があるし、霊に憑かれて別人になるといったような話も“身体と心は別”という認識があったからこそ生まれたのだろう。

 だから私は、デカルトはただ単に民間で信じられていた考えを、理論として明確に提示しただけなのだろうと思っていたのだ。

 が、ある時に“違うのかもしれない”と思うようになった。私が先に述べた“身体と心は別”という認識は日本での話だ。日本では亡者は身体を持たないのが普通だ。しかし西洋では“肉体を持った亡者”はどうも珍しくないらしい。その最も有名な事例はヴァンパイアだろう。

 西洋の民間伝承にはヴァンパイアの類はたくさん現れるらしいのだけど、それは娯楽作品で扱われているような吸血鬼ではなく、“肉体を持った亡者”の1バージョンとして捉えた方が正解であるように思えるのだ。だからだろう。実はヴァンパイアの類が血を吸わないケースも頻繁に観られるのだとか。

 日本は湿潤な気候の為、死体は早くに朽ちてしまう。が、西洋はそうではなく、中々死体が分解されない。日本と西洋の亡者の違いはそのような点から生まれたのかもしれない。死体が長時間経っても残る西洋では、亡者は肉体を持つのだ。そのような文化的な下地があったからこそ、近年になりゾンビなる死者の怪物を西洋文化は生みだせたのだろう。

 この考えが正しいのか間違っているのかは分からないが、いずれにせよ、現在では“身体と心は別”という考えは西洋でも通じるものになっている。

 或いは、パソコンなどのコンピュータの類が普及する事で、それはよりリアリティを持ったのかもしれない。

 ハードは身体、ソフトを心と置き換え、身体に心をインストールしていると捉えるのなら、当に物心二元論を表現しているように思える。

 

 ――だけど、

 と私は思う。果たして本当にそれは正しいのだろうか? 本当に人の心は、身体から独立しているのだろうか?

 

 目を瞑ってじっとしていると眠たくなるのは、身体の“眠りにつこうとしている”というシグナルを、脳が受け取っているからだろう。病気になれば気が塞ぐし、体調が良ければ気分が晴れる。身体と心が密接に結びついているのは誰もが認めるところであるはずだ。

 ならば、仮に誰か別の人の身体に、私の心をインストールしたのなら、その人の身体の影響を受けて、私の心は“私というアイデンティティ”を保てないのではないだろうか? もしそんな状況でも私の心が私自身を保ちたいのなら、或いは、“身体”の方をなんとかするしかないのかもしれない……

 

 「――お起きください。お嬢様」

 

 そう言われて目を覚ました。

 それは決して清々しい目覚めと言えるようなものではなく、まだ眠りを欲する身体に抗うように無理矢理に覚醒させられた私は酷く苛立っていた。

 「煩い! 分かっているわよ!」

 思わず怒鳴ってしまった。

 傍らには家で雇っている3つは年下のメイドの姿があり、彼女は起き上がった私の表情と振り上げた私の手に怯えて顔を歪めていた。

 私は、その明らかに私に恐怖している可愛いメイドの姿に固まってしまった。

 ――いけない、何をやっているのだ、私は?

 自分が反射的に取ろうとしてしまった行動に戸惑い、必死に気を静める。無抵抗なこんな若い子に暴力を振るうだなんてあり得ない。そんなのは絶対に私ではない。

 メイドは私からの暴力を受け慣れているのか、覚悟を決めているようにも見えた。少なくとも私の行動に驚いてはいない。

 私は大きく息を吐き出すと、振り上げた手を降ろしながら言った。

 「ありがとう。起こしてくれて。寝過ごしてしまったわ。弛んでいるわね」

 メイドはホッと安心した表情を浮かべると、軽く一礼をして、「朝食の準備は既に整っています」と告げてから部屋を出て行った。

 

 柔らかく大きな布団。いかにも豪華で偉そうなベッド。一人で眠るには少々大袈裟すぎるそれは真っ白いシーツに包まれていて、そのシーツには染み一つない。そこに横たわる私の身体は、大きな泡のお風呂に身体を沈みこませているようで、貧乏性の私はそれだけで“もったいない”と思ってしまう。

 同じ様に一人で使うには大袈裟すぎる部屋の中には、とても豪華で大きな調度の類が並べられてあった。

 絶対にここまで豪華である必要も、こんなに大きい必要もない。もしかしたら、使用人達を威圧する為にこんなものを設えてあるのかもしれない。

 ――居心地が悪い。

 この部屋は、使用人達だけでなく、私をも威圧している。

 窓の外の木々が綺麗で、そこだけは気に入った。庭が見える。よく手入れされていた。西洋社会において、庭には特別な意味がある。巨大迷路を思い浮かべてくれれば分かり易いかもしれないが、鬱屈した中世のキリスト教の支配へ反発するかのように発展したそれは、一種の異世界で、冒険の場でもある。庭が進化し、誕生したのがテーマパークだと言えばイメージし易いかもしれない。

 先程のメイドが開けておいてくれたのか、とても澄んだ気持ち良い風が窓から入り、部屋の空気をかき回してくれている。

 「――ああ、そうだ。起きないと」

 その風に背中を押されるようにして、私はベッドの上から降りた。スリッパを履いて、ソファの所まで行くと、その上にはメイドが用意しておいてくれた部屋着があった。感謝しながら着替える。

 もう少し厳格な家だと、朝食もきちんとした身なりで取るそうだが、うちは父が大らかな性格をしている所為か、その辺りは比較的自由が認められている。外の人間から馬鹿にされるのは嫌だが、この程度なら別に構わないだろうと思って私としても特に反対はしていない。

 とにかく、さっさと食堂に行かなくては。普段厳しい私が遅れてしまっては示しがつかない。

 そう思って急いで廊下に出る。そこで“あれ?”と思う。

 

 ――私は、何をやっているのだろう? そもそもここは何処だ? 私は誰だ?

 

 何か記憶が混線しているような奇妙な感覚。こんな豪華な屋敷とはまったく無縁の狭く小さな自分の部屋を思い出す。借りているアパートの一室だ。その場所こそが私の本来いる場所であるはずだ。ここは立場、身分、貧富の差の前に、まずそもそも住む世界が違う。

 私の記憶が正しいのであれば、私は日本のとある会社に勤める佐伯一美というしがないOLだったはずだ。確か残業で疲れていた私はコンビニ弁当で食事を済ませ、シャワーの後で洗濯も掃除もせずにそのままベッドに倒れ込むように眠ったのだ。それで目を覚ましたら、何故か富豪の家の娘になっていて、おまけに姿も性格もまったく違う。

 ――いや、と思う。

 そもそも私は本当に目を覚ましているのか? これは夢の中の世界なのじゃないか?

 しかし、その豪邸の廊下を歩く私には、どうしてもそれが現実であるようにしか思えなかった。しかも毎日そこを歩ているという確りとした実感すらあった。

 しばらく困惑していたが、“とにかく、現実であるにせよ夢であるにせよ、今は朝食を済ませるべきだろう”と私は判断し歩き出した。足は迷わずに食堂に向う。全て明確に記憶している通りだった。食堂では私以外の家族は全員既に席に座っていて私の到着を待っていた。私は遅れて来た非礼を詫びると席に着いた。

 「珍しいな。イルが遅れるなんて」

 父のゼナ・セーラーがそう言う。私の名は“イル・セーラー”というのだ。

 「申し訳ありません。少々、体調がよろしくなくて」

 それを耳にして「大丈夫なのですか?」と母のローズ・セーラーが訊いてくる。

 おっとりとしていて、いかにも上品な口調。

 「ええ、休むほどではありません」

 そう言って私は、自分用の朝食に視線を向けた。ほどよく焼かれた柔らかそうなトースト。きっと特別に製粉してある高級なものだ。バターがややたっぷり目に塗られ、それを甘い香りのハチミツがコーティングしている。傍らには、フレッシュサラダとパインフルーツ、アイスクリーム。コップにはミルクが入れられてある。

 とても美味しそうだ。

 私は満足をして微笑みを浮かべる。

 ただ、量は少なかった。

 母親と父親は私と同じメニューではない。パンは同じだが、ハチミツは塗られていないし、アイスクリームもなかった。

 私の朝食の量が少ないのは、プロポーションを気にしているからだ。特別に贅沢している分、減らされている訳ではない。

 ふと、視線に気が付いた。

 歳の離れた妹のカロラ・セーラーが私の朝食を、特にアイスクリームを羨ましがって見ているのだ。彼女も私と同じメニューではなく、母親や父親と同じだ。

 そこで私は思い出す。この家において、私の立場は強い。平たく言ってしまえば、我儘が認められているのだ。だからこそ朝食も特別扱いされている。一応断っておくと、妹にも私と同じメニューを出せるだけの財力は充分にこの家にはある。しかしそれを許してしまっては、自分の特別性が示せない。だから私は、否、イル・セーラーはそれを許可していないのである。

 はっきり言って、性格が悪い。

 こんなに小さな妹が、自分の朝食を羨ましがっているのに。

 その食堂は四人が食べるにしては少々広すぎるように思えた。清潔だが、それが逆に淡白さを助長させているようにも感じる。

 タイミングを見計らって、父親が「それではいただこう」と言うと、それを合図に家族はお祈りをしてから食事を取り始めた。私の食べるハニートーストを羨ましがる妹の視線に優越感を覚えつつ私は言う。

 「そう言えば、兄さんのお仕事の方は問題ないのでしょうか?」

 この発言は、自分の優位を誇示する為のものだ。

 兄のグンナ・セーラーは、現在仕事の関係で遠出をしている。セーラー家が経営している貿易会社との新たな取引先が決まったので、商談に赴いているのである。

 その取引先はイルのお陰で決まったと言っても過言ではなかった。

 彼女はつい半月ほど前、アーサー・ビヨルドという名門貴族の長男と婚約をしたのだが、それにより名門のビヨルド家に近づこうとセーラー家との取引を申し出る企業や実業家などが急速に増えたのだ。今回の兄の出張もその成果の一つだった。

 「問題ないようだな。報告によると、とても好い条件で契約が結べる見込みらしい」

 父親の返答を聞くと、「それは良かったですわ」と私は言った。微笑みを浮かべる。その笑顔は暗に“それは自分のお陰だ”と訴えていた。「アーサーもきっと喜ぶと思います」と結ぶと私は再び朝食を口に運んだ。

 名門貴族の長男、アーサーがイルに近付いたのは、彼女の美貌の為だった。否、正確に言えば、“彼女の美貌の評判”の為だった。アーサーは美人だと有名なイルを妻に迎える事で、己の名声を高めたかったのだろう。少なくとも、私は彼女の脳に残る記憶からそう判断した。

 ――何しろ、アーサーはイルの事をそれほど深く知らないのだ。一応、学校は同じでそれが縁で付き合ってはいたが、デートも数えるほどしかしていないし、それも全て繕った外面での表面上の付き合いに過ぎなかった。上流階級にありがちな、形式を重視した節度ある付き合いと言えば聞こえは良いが、それはお互いにとってお互いが自分自身を周囲によく見せる為の飾りに過ぎないという事でもあった。

 「ええ、そうね。アーサー様も喜んでくれると思うわ」

 おっとりとした口調で母親が言う。少し困ったような表情を浮かべている。父親もそれは同様で、彼らはどうもイルに対して不安を抱いているようだった。

 妹のカロラだけはその会話の意味を理解できず、ただただイルのアイスクリームを羨ましそうに眺めていた。

 

 イル・セーラーが父親と母親のぎこちない態度の訳に気付いているのかいないのかは分からない。いや、今は私が彼女で、その私が気付ているのだからその問いかけはおかしいのだけれど、とにかく、彼女が気付いていてもいなくても大差はなかった。

 父親も母親も、もしアーサーにイルの性格の悪さがバレてしまったなら、縁談を破棄されてしまうのではないかと恐れているのだ。

 が、彼女は自信満々で、アーサーとの関係が崩れるとは微塵も思っていなかった。

 一緒に生活をするようになっても、アーサーは自分の美貌に満足し、今までのような贅沢で我儘な暮らしを認めてくれると信じて疑っていなかったのだ。裕福な家庭に生まれ育ち、何不自由ない暮らしをし続け来た彼女にはそれは当り前の事だったのだ。

 

 「――当たり前のはずがないでしょーが!」

 

 私はそうツッコミを入れている自分の声で目を覚ました。産まれて30年以上になるが、自分のツッコミの声で目が覚めたのはこれが初めてだった。

 そこは自分のアパートの一室で、異世界の豪華な屋敷などではなかった。そして手鏡で慌てて確認した私の姿は、パジャマ姿のしがないOLだった。どう考えてもこっちの方が貧しいし、孤独でもあるはずなのに、それでも私は安心をしていた。

 “良かった。やっぱり、こっちの方がしっくりくる”

 私にはあの異世界のイル・セーラーなる人物がどうしても仕合せには思えなかったのだ。それから少し考える。

 “……あれは夢だったのよね?”

 そうとしか解釈しようがない。夢じゃなければ、こうして私が今ここにいるはずがないのだから。

 もっとも、こっちが夢である可能性もあるのだが、そんな事はいくら考えても切りがない。不毛なだけである。

 そこで目覚まし時計のベルが鳴った。変な夢の所為で、目覚まし時計よりも早くに目覚めてしまったらしい。私は目覚まし時計のベルを止めると、それから朝食を用意した。本日二度目の朝食。そんなはずがないし、実際に腹も減っているのだが、それでも私はそんな気分になってしまって、いつもよりも食欲がわかなかった。もっとも、その朝食は全て平らげたが。

 ヨーグルトを食べる時、「これを妹のカロラにあげたらきっと喜ぶだろうに」と変な事を考えてしまった。

 夢の中でイル・セーラーになっていた時は、少しも覚えなかった感情だ。それで私は、自分が富豪の性格の悪い令嬢ではなく、佐伯一美という普通のOLなのだと実感をした。

 変な夢の所為か、妙に怠かった。疲れている。或いは、変な夢の所為などではなく、単に仕事に行きたくなくて憂鬱なだけかもしれないが。

 

 出社すると、私は申請のあったユーザーからのID登録依頼が溜まっていたのでそれを片付け、調査依頼のあったデータをまとめる為のSQLを作成し、後は不足している運行用のドキュメント作成の続きをした。

 私はシステム運用部署に所属しているのだ。長年の積み重ねのある部署で、社内からはそれなりに信頼されていて適切に運行する為のノウハウもあるのだが、それと同時に“膿”も溜まっている。

 運行用のドキュメントが整理されていなったり不足している事もその一つで、それによりシステムの運行が属人化してしまっているのだ。

 早い話が、特定の担当者がいなければシステムの運行が回らないのだ。特に私の担当している仕事は酷くて、新しく赴任して来た男の上司がやる気がない事もあって、私がいなければ仕事に支障が出る状態になってしまっている。

 どう考えても問題で、だからこそ私は常日頃から上司にその問題を訴えているのだが、やる気がない上司はやる気がないから、問題を改善する努力をほとんどしない。仕方なく、手の空いた時に私が自主的に進めている。

 問題が起こった時に、責任を取らされるのはその上司だし損害を受けるのは会社だから、私がそこまで気にする必要もないのだが。

 ……せめて、もう少しだけでも給料を上げて欲しいなぁ。

 ただ、そんな状況だからこそ、会社は私を切る事ができない。そう考えるのなら、その脆弱な体制は、会社にとっては問題があるが、私にとってはメリットもある。そしてそう考えるのなら、ドキュメント作成によって私は自らの首を絞めている事にもなる。

 なんだかな、と思う。

 手が空いているのなら、少しくらいはサボっても良いのではないかとも思う。有給休暇を毎年余らせているから休みを取っても良いだろう。

 ただ、私は根が真面目なのか、そんなような器用な考え方はできなかった。

 黙々と、必要だろう運行用のドキュメントを作り続ける。そのうちに昼休みの開始を告げるチャイムが鳴った。

 “キーンコーンカーンコーン”

 学校を卒業した時は、もう二度とこのお馴染みのチャイム音を昼休みに入るシチュエーションでは聞く事はないだろうと思っていたのだが、職場でも普通に使われている。

 同じ部署の仲の良い女性社員同士が集まって昼食に出掛ける光景が見えた。私はそれには参加していない。チームが別で人見知りをする性質の私は上手く輪に入っていけなかったのだ。うちのチームは男性社員ばかりで、仲間同士で昼食を食べる習慣はなかった。

 もっとも、私は別にその輪に入りたかった訳ではない。むしろ距離を置きたいと思っている。

 はっきり言って、人間関係は疲れる。苦手だった。

 女性社員のリーダー的な存在の園上さんが一人で昼食を買いに出かけようとしている私を軽く一瞥した。

 多分、内心では、彼女は私を気に食わないと思っているのだろう。

 彼女が仲間に入ろうとしない他の女性社員に嫌がらせをしている事は噂になっている。だから新人の女性社員は、彼女に挨拶をするのが課内の慣例になっているのだ。地位は高くないが、女性社員達への影響力が強いので、課長でも彼女にはあまり強く出られない。

 私はそんな彼女のグループの輪から外れているのである。彼女が私に目立った嫌がらせをしないのは、先程述べたように私にしかできない仕事があるからで、もしそれがなければ、私はとっくの昔にこの課から、否、この会社から追い出されていたかもしれない。

 近くの店で弁当を買って来て一人で食べていると、同じ席の並びに私同様一人で食べている女性社員の姿が目に入った。確か、森さんという人だ。目が合ったので、軽く会釈をする。

 つい先日までは、彼女は園上さん達と一緒にご飯を食べていたはずだ。何かあったのかもしれない。そう思って見てみると、軽くやつれているように思えなくもなかった。多分、何かしら園上さんの機嫌を損ねるような事をしてしまったのだろう。嫌がらせを受けているのかもしれない。

 私は溜息を漏らした。

 

 ……どうして、そんな事をするのだろう?

 

 そして、そう心の中で呟いてから、私はイル・セーラーを思い出したのだった。あの性格の悪い令嬢になっていた時の私なら、或いは園上さんと似たような事をしてしまうかもしれない。そしてそう想像してしまったなら、なんとなく園上さんの気持ちが分かってしまった。

 自分に歯向かう者が許せない。否、歯向かう人間を罰することが快感なのだ。そういう意味では、彼女は(私は)むしろ歯向かう者を望んですらいた。

 そんな心持ちで、私はもう一度森さんを見てみた。やつれている彼女、弱っている彼女を見て例えようのない満足感を覚える。自分が彼女を痛めつけているかのような気分になってしまったのだ。

 嗜虐心。

 自分の中に、今まで感じた事もないような黒い炎が灯った気がした。

 その時、森さんが私の視線に気が付いて不思議そうな顔を見せた。私はそれで我に返って赤面してしまう。

 ――何をやっているのだろう、私は?

 有り得ない妄想に浸ってしまった自分が信じられなかった。

 そして、まさかとは思いつつも、“これは、もしかしたら、夢の中のイル・セーラーに引きずられているの?”などと思ってしまったのだった。

 仮にそうでなかったなら、私は自分の中に人を苛めて悦ぶ残忍な部分を隠し持っている事になる。

 否、誰でも多少はそういった部分を持っているものなのだろうけど。

 

 ――夜、食事をきちんと取って掃除を軽く行い洗濯を済ませ、部屋のベッドで横になる。片付いた部屋は気持ちがいい。今日はそれほど残業せずに帰宅できたのだ。多分、昨晩妙な夢を見たのは疲れていた所為だろうと私は考えていた。だからきっと、今日は大丈夫だとも思っていた。

 ただ、昼間の“イル・セーラー”に引きずられてしまったかのような感覚は少し怖かった。自分が自分ではなくなるような。

 “いけない。気にしたら、きっとまた同じ夢を見るわ”

 私はそう自分に言い聞かせると、少し早い時間帯だったけれど電灯を消して目を瞑った。いい夢が見られますように……

 

 気が付くと、私はテラスで風に吹かれながら綺麗な洋服を身に纏って優雅に紅茶を飲んでいた。テーブルの上にはケーキがあり、既に二口ほど手を付けていた。

 混ぜられたチョコレートで茶色になった生クリームと黄色いスポンジ、白い生クリームが薄くコーティングされてある。いかにも甘そうで高級そうだ。

 私はそんな高級そうなケーキを食べられる身分ではない。それで直ぐに事態を察した。

 再び“イル・セーラー”になってしまたのだ!

 それが現実であるのを確かめるように、私はケーキを口に運び、紅茶を飲む。どちらもとても美味しかった。幻じゃない。

 ……なんだこれは?

 頭を抱える。

 絶対に普通じゃない。佐伯一美に戻ったなら、カウンセリングに行く必要があるかもしれない。

 どうやらこの状態を不安に感じているのは私だけじゃなく、イル・セーラーも同様らしかった。私が彼女になっていた時の記憶を彼女は持っていて、“私の意識”(他にどう呼べば良い?)が日本に戻っていた間、“あれはなんだったのか?”と首を傾げていた。

 その不安で機嫌を悪くしていた彼女は、メイドに八つ当たりをしたようだった。昨日の昼、部屋に少し埃が溜まっていたくらいの些細な理由でメイドを折檻した記憶が残っている。

 どうやら私の意識が日本に戻った時から一日以上は経過しているらしい。

 私は自分が彼女から影響を受けていると怯えた訳だけど、どうやら彼女の方も私の影響を受けているらしく、メイドへの八つ当たりに多少の罪悪感を覚えてもいるようだった。

 私の中に隠れた黒い一面があるのと同じ様に、彼女の中にも優しい一面があるという事なのかもしれない。それを私が刺激してしまったのだ。

 とにかく、これはどう考えてもおかしい。これが夢でないのなら、何かが私とイル・セーラーに起こっているのだ。

 私は紅茶とケーキを食べ終え、少し考えると、書庫に向かった。この世界には妖精や魔物、魔法が存在している。そしてこのような怪しい現象はそういった類の何かの力によって引き起こされているとしか私には考えられなかった。

 書庫に向う途中でメイド室に寄った。休んでいるメイドを見つける。昨日、私が叩いた頬がまだ少しだけ赤かった。強い罪悪感を覚える。私は昨日の言いがかりに近い折檻を詫びてそのしるしに甘い飴を渡した。彼女達は滅多に口にできないはずだ。メイドはとても驚いていた。私が彼女に謝ったのは、彼女を申し訳なく思う気持ちがあったからでもあったが、それ以上に私が私である事を確かめたいという思いの方が強かった。

 多少、悔しく感じはしたが、私は彼女に普通にお詫びができたことで安心した。

 よし、“私”だ。

 そう思う。

 それから私は書庫で精神系の魔法の書籍を調べた。他人の中に意識を潜り込めませるような魔法を調べたかったのだ。が、当てが外れた。ほとんどが、心をリラックスさせる魔法や、逆に怒らせる魔法の類ばかりだったのだ。比較的今の状況に近かったのは、誰かを自分は他の何かだと思い込ませる催眠術のような魔法だったが、(魔法をかけられたのだとして)恐らくは私にかけられた魔法はこれとは違うだろう。

 日本に住んでいる佐伯一美の記憶が私には確りと残っている。これだけ社会や個人の設定を微に入り細かに記憶に刻み込めるとはとても思えない。佐伯一美の精神が、このイル・セーラーという性格の悪い令嬢に入り込んでいる以外に何か可能性があるのだろうか?

 通常の書籍で探すのを諦めた私は、娯楽系の魔法書籍を探した。存在が噂されているが、公には認められていない魔法の中になら、私とイル・セーラーに起こっている現象を説明できるものがあるかもしれないと考えたのだ。

 すると、他人の意識を乗っ取る魔法とやらがある事が分かった。軍が極秘に開発したが、危険過ぎると判断されて隠されているとなっている。他にも異世界と通信する魔法が存在するという噂もあるらしい。

 もし、これら噂の中の魔法が実在し、何者かがイル・セーラーにそれを施したとするのならば、今起きているこの現象を説明できるように思える。

 何者かが、異世界と通信し、日本に住む私……、佐伯一美の精神をイル・セーラーの中に転移させたのだ。

 もちろん、何の目的でそんな事をしたのかはまったく分からないが。

 それ以上調べても何も出て来そうになかったので、私は書庫を出た。自分の部屋へ戻りながら、口の堅い魔法使いにでも相談をしようかと考える。

 そこでメイドの姿を見かけた。先ほど、お詫びをしたあのメイドだ。彼女はやや速歩きで父親と母親の部屋の方に向っていた。母親ならもう帰っている時間帯だから、恐らくは母親に会いに行くつもりなのだろう。

 私は気になって彼女の後を追った。一体、何をしに行くのだろう? この屋敷では父親と母親の部屋の掃除は午前中に済ませる決まりになっている。普段の日ならもう用事はないはずだ。

 やはりメイドは母親のローズの部屋に入っていった。ドアの近くに寄り、耳を当てる。するとこんな声が聞こえて来た。

 「報告をありがとう。つまり、イルの性格に変化が見られ始めたのですね?」

 母親の声だ。

 なんですって?!

 私はその言葉に驚いた。当然だろう。もしも今の私が完全な佐伯一美ならば、そのまま黙っていたかもしれないが、イル・セーラーは違った。ほぼ衝動的に部屋に乗り込むと大声で言う。

 「お母様! その発言はどういう意味ですか?」

 母親とメイドは目を大きくしてそんな私を見た。慌てた様子で母親が言う。「違うのです、イル。これはあなたとこの家の為を想って……」。続きを聞きたかったが、私のイル・セーラーとしての意識はそこで消えてしまった。

 

 けたたましい目覚まし時計のベルの音。

 目を覚ますと、そこは日本の佐伯一美の部屋だった。

 ――戻って来た。

 と、私は思う。

 これはもう疑いようもない。私の頭がおかしくなったのか、それとも本当に異世界の魔法なのか何なのかは分からないが、何かしら異常事態が起こって、私の意識が異世界の性格の悪い令嬢と繋がったのだ。

 

 『解離性同一性障害、俗に言う多重人格』

 

 まったく無意味だろうとは思いつつも、会社の昼休みに私は会社のパソコンで検索をかけてそれを調べていた。

 もし、こっちの世界でイル・セーラーに現れた症状を探るのなら、解離性同一性障害だろうと思って。

 まあ、もし彼女が解離性同一性障害だったとするのなら、私は彼女の産み出した第二の人格である事になってしまうのだけど。

 解離性同一性障害は幼少期の虐待など、重いストレスが原因で発症するらしい。催眠療法により治療ができるようだ。イル・セーラーの世界でも催眠は存在しているから、もしかしたら有効かもしれない。ただその場合、私は彼女と融合してしまうのであるが。

 催眠という単語から、私は催眠術のパフォーマンスを思い出した。演技なのか本当なのかは分からないが、催眠術にかけられ、深い催眠に陥った人が自分を他の誰かや動物だと思い込むものがある。よく考えてみれば、解離性同一性障害と非常によく似ている。もしかしたら、何か関係があるのかもしれない。

 因みに、この催眠状態は、人間が憑き物に憑かれた状態とも酷似している。

 解離性同一性障害は文化結合症候群…… その社会の文化と密接に結びついた精神障害ではないかとも言われているらしいのだけど、或いはそれも催眠と関係が深いからなのかもしれない。

 それから私はこんな空想をした。

 本来人間は、複数の様々な人格パターンを持っていて、今の自分の人格はその一つが偶然に現れたものに過ぎないのだとしてみよう。仮にそうなら、何かふとした切っ掛けで、その人格が入れ替わってしまう事もあるのではないか?

 イル・セーラーは、そんな私の人格のうちの一つなのだ。そして、どちらがメインなのかは分からない。

 イル・セーラーにとっては、私が偽の人格で、私にとっては彼女が偽の人格。

 ……まぁ、もちろん、前もって断った通り、こんなのはただの空想に過ぎないのだけど。

 それから考えた。

 園上さん。

 女性社員達を牛耳り、気に入らない人がいれば嫌がらせをして追い込んでしまう彼女の人格も、本当は彼女の人格パターンのうちの一つに過ぎないのかもしれない。数ある彼女の人格のうちの一つには、或いは優しい人格が隠れている可能性だってある。どうすれば、そのような人格を呼び起こせるのかは分からないけれど……

 ふと顔を上げて、園上さんの席の方を見てみた。まだ昼食から戻っていないようで、席にはいなかった。森さんはやはり女性社員達から仲間外れにされているのか、今日も一人で席にいた。私と同じだ。

 その時だった。

 いきなり急激な睡魔が私に襲って来たのだ。なんだか、何かに精神が吸い込まれるような感覚。普通ではない。私はイル・セーラーになっている時のあの不可思議な夢を思い出した。まさか、昼間のこの時間帯に、私の意識があっちの世界に行こうとしているのだろうか?

 とにかく、まずい。職場で眠る訳にはいかない。

 私はトイレで顔を洗って目を覚まそうと立ち上がった。けれど、そこで私は意識がなくなってしまったのだった。

 

 ……目を開けると、目の前には魔法使いがいた。つばの広い黒いとんがり帽子を被って、黒いワンピースの服を着ている。年齢は若くて20歳くらいだった。可愛い顔立ちをしている。

 案の定、私はイル・セーラーになっていた。自然と口が開く。

 「――で、この人が、私に魔法をかけた魔法使いさんな訳ね?」

 母親のローズの声が聞こえる。

 「ええ、そうよ」

 そこは自分の屋敷の中ではなく、街の中にある倉庫だった。母親と自分の他に人はいない。倉庫からしばらく離れた場所に、従者を待たせてある。

 「オリバー・セルフリッジさんに紹介をしていただいた方です」

 母親の説明に呆れた声を私は上げる。

 「オリバー・セルフリッジって、国の役人じゃない。どうして非合法の黒魔術師と知り合いなのよ?」

 この社会では、白魔術師は神に従っていて、黒魔術師は悪魔の眷属であると説明されていた。ただそれは一般大衆用の建前に過ぎず、本来は違いなどない。ただ単に、国から認められた魔法使いを白魔術師と呼び、非合法に活動している魔法使いを黒魔術師と呼んでいるだけだ。

 だから、今目の前にいる彼女だって、国から認められさえすれば、黒魔術師ではなく白魔術師になるのである。

 屋敷ではなく、街の倉庫で彼女と会っているのは彼女が非合法の黒魔術師だからだ。セーラー家が黒魔術師と契約しているなどと世間に知られる訳にいかない。罪の方は警察に賄賂を渡せばいくらでも誤魔化せるが、世間の評判はどうにもならない。

 非合法の黒魔術師は、白魔術師と違って料金が安い。白魔術師は国にマージンを取られてしまうので、その分料金が高く設定されているのだ。もちろん、セーラー家は多少高いくらいならば気にしない。ただ、黒魔術師は非合法であるからこそ、国から認められてない魔法も施してくれる。今回のケースは当にそれで、だからこそイル・セーラーの母親と父親はアンナ・アンリというこの黒魔術師に仕事を頼んだのである。

 「早くこの魔法を解いてくださるかしら? 本人の承諾を得ずに、精神に影響のある魔法をかけるなど倫理上、許される事ではありません」

 イル・セーラーになった私は威圧しながら、淡々とアンナ・アンリに向けてそう言った。淀みなく言葉が出て来たのは、佐伯一美としての私も同意見だったからだろう。

 イル・セーラーの母親と父親は、彼女の性格の悪さを心配していた。そこで彼らは少しでも彼女の性格を真っ当にしようと黒魔術師を頼ったのだ。黒魔術師と契約をし、魔法によってイル・セーラーの性格を矯正しようとしたのである。

 記憶に残っている。私の意識が去った後、イル・セーラーは物凄い剣幕で母親を責め立てたようだ。怒り狂った彼女に母親は慄いていた。私の意識が彼女に残ったままだったなら、もう少しくらいはマシだっただろうに。

 そして、母親は彼女に何をしたのかを白状したのだった。

 両親が自分の性格を矯正しようと思っている事を知って、更に彼女は激昂した。自分自身を否定されたかのような気分になったからだ。

 だから、“私は間違ってなどいない!”とそう訴えた。彼女は自分がどれだけ悪い性格をしているのかをあまり自覚していないのだ。統合失調症に罹患した人は、なかなか自分を異常だとは認めようとせず、自分からは薬も飲もうとしないケースが多いらしい。それで仕方なく注射に切り替える場合もあるのだそうだけど、統合失調症じゃなくてもそれは同じなのかもしれない。

 健常者だって、自分を“異常だ”と否定されれば認めようとしないだろう。

 だから、イル・セーラーは自分に魔法をかけた魔法使いを呼び出して、魔法を解かせようと考えたのだ。

 そして、その場面に私は呼び出されたという訳である。

 「ご自分の性格に問題がないと、本当に今でも、あなたは思っていますか?」

 ――そうアンナ・アンリが言った。それで私は察した。この倉庫には特別な呪が施されてあって、彼女が佐伯一美を呼び出したのだ、と。イル・セーラーはそれを知らなかった。つまり、罠。騙されたのだ。佐伯一美の脳と繋がれば、性格が大人しくなって話し易くなると彼女は考えたのだろう。

 アンナ・アンリの言葉に私はたじろいだ。

 もちろん、佐伯一美の意識を持っているからだ。

 アンナ・アンリというこの黒魔術師は精神を繋げる魔法によってイル・セーラーの性格を矯正しようと考えた。しかし、そうすると彼女自身や周囲の人間の知られたくはない情報がどうしたって漏れてしまう。が、異世界の人間ならばそれでも問題がない。知ったところで何もできないからだ。だから彼女は、異世界に住む大人しい性格をしている人間とイル・セーラーの精神を結び付けたのだ。

 そして、どうやって見つけたのかは分からないが、それが偶然、佐伯一美だったという訳である。

 アンナ・アンリは再び口を開いた。

 「あなたの立場は、セーラー家だけに影響を与える訳ではありません。この世界に住む、多くの人々の生活に影響を与えます。そして、名門の貴族、ビヨルド家と繋がりができることによって、その影響力はますます強くなっている。

 あなたも、分かっているのじゃありませんか? あなたが多くの人の仕合せにもすれば、不幸にもするという事実を」

 その言葉はほぼ間違いなく佐伯一美に向けて発せられた言葉だった。

 つまり、彼女は佐伯一美である私に協力してくれと頼んでいるのだ。

 「ちょっと待って。それは確かにその通りかもしれないけど、それが私と何の関係があるの?」

 これは佐伯一美としての発言でもあれば、イル・セーラーとしての発言でもあった。

 例えば、遠くの国で暮らしている子供が飢えで苦しんでいる。少しの労力で助けられるのだとしたら助けてあげたいとは思うけど、現実問題として、そんな事を言い始めたら切りがない。何処にだって不幸な境遇の人達はいるのだから。だから“見ないようにする”ことで私達は対応している。それが現実で、それは致し方のない事だろう。

 しかもここは異世界で、姿形はとてもよく似てはいるけど、ここの人達は私と同じ人間ですらないのだ。

 どうして助けないといけない?

 これについてはイル・セーラーも同意見らしかった。彼女の中にも少しくらいは不幸な人達を助けてあげたいという気持ちがある事はある。でも、助けようとし出したら切りがないのだ。

 私達は神ではない。全知全能でもなければ、無限の愛も持ってはいない。無理なくできる範囲の事をやれば良いのだ。責任を感じる必要はないだろう。

 「別世界の何の関係もない人達を助ける義理なんて私にはないわ」

 私のその言葉にアンナ・アンリはこう返した。

 「別に全ての人を助けろだなんて言っていません。ただ、“少しくらいはこの世の中をマシにするのを手伝って”と言っているだけです」

 もちろん、佐伯一美に向けて言っているのだろう。

 「だから!」

 “……私には何の関係もない世界の話”

 私はそう続けようと思った。が、そう続ける前に彼女は「でも、あなたはこの世界を知ってしまった」と言うのだった。

 確かに、私は知ってしまった。

 イル・セーラーの頭の中に残っている。貧乏に苦しんでいる人達の記憶。病。飢え。過酷な労働。

 「苦しんでいる人達を助けられる立場にいるのに無視し続ける事は、果たしてそれはあなたのアイデンティティに適うのかしら?」

 それを聞いて私は黙った。

 そして、想像をした。もし、自分が大金持ちで権力も持っている立場で、日本に貧困に苦しむ人達が大勢いたなら、きっと何かをするだろう、と。もっとも、比較的労力のかからない範囲で、かもしれないが。

 「知ってしまったけど、この世界との繋がりが切れれば、やっぱり関係のない話よ」

 私は絞り出すようにそう言った。

 にんまりとアンナ・アンリは笑う。

 「繋がりが切れるのならな、ね」

 私は溜息をついた。

 「つまり、イル・セーラーの性格が矯正されるまで、この魔法は解いてくれないってことね?」

 そう言って私は気が付いた。いつの間にか、私は完全に自分を佐伯一美だと思って喋っている。

 「繋がりが深くなったのよ」

 私の疑問に気付いたらしく、アンナ・アンリはそう説明した。私は再び軽く溜息をついた。

 「あなたは一体何なの? どうして、こんな魔法を使えるの?」

 黒魔術師が非合法の魔法を使えると言っても、こんな魔法を使える者は限られているはずだ。少なくとも、イル・セーラーは知らなかった。

 「わたしは闇の森の魔女。人間としての年齢は21歳だけど、闇の森の依代でもある。そういう意味では古の魔女」

 「闇の森のよりしろ?」

 「そう。闇の森には、意思がある。人間のそれとは随分と違うけどね。闇の森は全体で一つの有機体と見做せ、生存の欲求がある。わたしは人格の一部を闇の森と共有させている。つまり、今のあなたと似たような状態ってわけね、イル・セーラーの人格と混ざっている、何処かの異世界の誰かさん」

 一呼吸の間をつくると、彼女は続けた。

 「わたしは、それによって闇の森に蓄えられた膨大な魔法の技術を行使する事ができるのよ」

 その説明に、私も私の中のイル・セーラーもとても驚いていた。

 「そんな話、初耳よ。本当なの?」

 「本当よ。だからこそ、国もわたしには手が出し難い。闇の森とは敵対したくないのよ」

 考えながら返す。

 「まだ完全には信じ切れていないけど、その闇の森が、どうしてセーラー家の依頼を請けたの? お金に興味あるって感じには思えないのだけど」

 「人々の営みが、闇の森の存続にも影響を与えるというだけの話よ。あなたの悪い性格が直れば、闇の森にとっても利益になる」

 「国の役人の、オリバー・セルフリッジの紹介だってお母様はさっき言っていたわよね?」

 「そうね。彼は信頼できるわ」

 「ふーん」とそれを聞いて私の中のイル・セーラーが勝手に口を動かした。

 「男か。闇の森だなんだって言ってるくせに、確りと“年頃の女”しているじゃない」

 どうも彼女はこういった事には鋭い性質であるらしかった。アンナ・アンリはピクリと反応した。

 「闇の森の中では、わたしは人の心を読む事ができる。彼は“心を読める方が、信頼を得るのには好都合です”と言って、自ら訪ねて来た。そんな人は滅多にいない。だから信頼しているの」

 「ふーん」と再び、イル・セーラー。含みを持たせた言い方だったが、何も言わなかった。

 「ところで」と今度は私が口を開く。

 「“私”がいなくなったら、イル・セーラーは元に戻るわ。そうしたら、また絶対に怒り出して、“魔法を解け”って言うわよ?

 今、ここで説得しても無意味だと思うのだけど、どうするつもり?」

 それにアンナ・アンリは「心配には及びません」と言うと紙を一枚取り出した。

 「契約魔法です。ここに署名を」

 私はそれに呆れた。

 「これ、無理矢理酔っ払わせて、契約を結ばせるのとかと変わらないじゃない。ほとんど詐欺ね」

 ただ、そう言いながらも私は署名をする。アンナ・アンリは私の嫌味を意に介さず、「それでも有効です」と言ってにやりと笑った。

 なんだかな、と私は思う。

 私の署名が終わると、母親のローズはようやく安心をしたらしく、

 「これでイルは、性格を直すのに協力的になってくれるのですね?」

 と息を吐き出すように言った。アンナ・アンリは淡々と返す。

 「いいえ、流石にそこまでは無理でしょう。恐らく、怒り出すと思うので覚悟はしておいてください。

 ただ、これで少なくとも“性格矯正”を反故にはできなくなりました」

 その返答に、母親は少し残念そうにしていたが、「分かりました」と言って大きく頷いた。それからまたアンナ・アンリが言う。

 「この倉庫を出ると、娘さんと異世界にいる方との接続が切れますので、早速元に戻ってしまいます」

 どうやら、予想通り、彼女はこの倉庫に罠を張っていたようだ。

 騙されていたと思って、少しだけ機嫌が悪くなる。

 それから倉庫の外に出ると、彼女の言っていた通りに接続が切れたらしく、私の意識は真っ暗になった。

 

 目を覚ますと、私は何処かの医務室で横になっていた。

 病院ではない。どうやら会社のようだ。勤めて長いが、医務室に入ったのは医者との健康相談の時くらいしか記憶にない。

 恐らくは、フロアで倒れた私を、誰かが医務室に運んだのだろう。

 のっそりと動き出す。医務室には誰も人がいなかった。まぁ、当然だろう。医者は常勤はしていないのだから。

 仕事に戻らなければと自分の所属フロアに行くと、課長が慌てて近寄って来て「疲れているようだから、無理はしなくて良い」と勤め始めて以来初めて過労を心配された。驚くのと同時に私は察した。多分、救急車を呼ばなかったのは、課長が過労の責任を取らされるのを嫌がったからなのだろう。

 無理に働くのも変だと思い、私は早退することにした。代わりにやってくれる人はないので別に仕事が減る訳ではないから、後で自分が苦しむ事になるだけなのだが。

 帰りに本屋に寄った。イル・セーラーの性格を直すのに役立つ知識が欲しかったのだ。ネットで調べても良かったが、それだけでは足らないだろうと考えたのである。

 私が繋がる事によって、イル・セーラーが何かしら影響を受けているのは確かだ。けれど、まったく充分ではないし、そもそも私との接続が切れれば元に戻ってしまう。これではいつまで経っても、私と彼女は繋がったままだろう。

 もっと根本的に彼女の性格を直す為の何かが必要なのだ。

 しばらく本屋で色々な本を探して、私は生物学的な特性と暴力の関係についての本を見つけた。

 生物学的な特性が、人間の凶暴性を引き出すという主張は長い間タブー視されていた。それが差別に結びつき、様々な社会問題を引き起こす懸念があるからだ。

 しかしそこには多くの誤解もある。生物学的な特性は“運命の片道切符”ではない。様々な相互作用によって、様々な発現の仕方をする。その性質を見極めて適切にアプローチをしさえすれば、問題行動を起こさないような人間になるよう促す事も充分に可能だ。

 ――それが、どうやらその本の主張したい内容の骨子だった。

 例えば、心拍数が上がらない特性を持った人がいる。恐怖心を感じる能力が欠如しているだろうその人は、それが故に危険を恐れず暴力を振るってしまう事もあるが、その特性を適切な場所で活かせさえすれば、社会にとって有益な人間になる。その本では、爆弾処理班でそのようなタイプがいると紹介されてあった。

 この知識はあまり私には役に立ちそうにもないが、他にもっとシンプルな栄養不足が問題行動の原因になっているケースなども紹介されてあった。

 これはイメージし易い。

 栄養が偏っていて、イライラしていたら、怒りっぽくなるのは当り前の話だ。

 私はその本を買って読んでみる事にした。イル・セーラーの食事はとても偏っていた。あれをバランスの取れた健康的なものにするだけでも、もしかしたら彼女の性格に変化が出るかもしれない。

 

 「食事だけど、魚料理を多めにして野菜も多くしてもらえるかしら? あ、魚は川魚ではなくて、海の魚ね。それと、朝のアイスクリームはこれからは控えるようにするわ」

 

 その日の晩、イル・セーラーとして異世界で目覚めた私は、屋敷のコック達にそのように注文をした。

 夕食の準備中だった彼らは「もう作り始めていまして……」と青い顔をして慌てたが、もちろん私は「次からでいいわ」と言って彼らを安心させた。

 

 ――本の内容を信じるのなら、海水魚などに多く含まれているオメガ3には、暴力行動を抑制する効果があるのだそうだ。

 海産物の消費量と殺人事件の発生率のグラフを描くと、見事に海産物の消費量が多ければ多い程、殺人事件の発生率が低下する(一応断っておくと、これは相関関係であって因果関係ではない。海産物を食べないからといって、凶暴な人間の証拠にはならない)。

 因みに、最も海産物を消費し、最も殺人事件の発生率が低い国は、その本では日本である事になっていた。或いは、それも、日本が平和である一因になっているのかもしれない。

 また、亜鉛や鉄分の欠乏も暴力行動を引き起こすのだそうだ。それも海産物で摂取する事ができるようだ。

 野菜も健康に良いのは当り前だと思ったから多くしてもらうように頼んだ。気にし過ぎではないかと思ったが、糖分は過剰摂取で暴力行動を引き起こす可能性があるらしいので、アイスクリームはカットしてもらった。

 ただ、イル・セーラーの世界の人間が、私達と同じ身体構造を持っているのかどうかも分からないから、本の内容が仮に正しかったとしても効果があるとは限らないし、私達の世界と同様の栄養素をその世界の生物が持っているかどうかも分からないのだけど。

 鉄分を摂りたかったら、私達の世界ならほうれん草を食べれば良いけど、この世界では果たして何を食べれば良いのだろう?

 まぁ、物は試しだ。

 「……それで、頼まれてくれるのかしら? お母様達の許可は取ってあるのだけど」

 そう私はコック達に尋ねる。

 父親も母親も変な顔はしていたが、“性格改善の為”と説明すると認めてくれた。納得してくれていたかどうかは怪しいが。

 突然、厨房に顔を出した私の妙なお願いに、コック達は驚いた顔をしてはいたけれど「はい、分かりました」と了承してくれた。

 それからふと思い付くと、

 「そうだ。妹のカロラにも、できれば次からはハチミツを塗ったトーストを出してあげてくれないかしら? いつも食べたそうにしているから」

 そう言ってみた。

 やはりコック達は驚いていたようだったけど、それも了承してくれた。

 良かった。

 あの子はきっと喜ぶだろう。

 私はハニートーストに喜ぶ妹の姿を想像して、和やかな気持ちになった。

 

 私との接続が切れた後、イル・セーラーがさっきのコック達への注文を取り消してしまうかもしれないと思ったので、一応は食べ物の美容への影響も調べておいた。海水魚にも野菜にも美容効果があり、糖分は肌の張りに悪影響を与えるらしいので、摂るのを控えるメリットがある。

 彼女は自分の美貌を磨く事を、生きるよすがにしているようなところがあるから、きっと美容に効果があると分かれば食習慣を変える事に反対はしないだろう。

 私から得たこの情報を彼女がよく記憶しておけるように、そのメモを書いて机の上に置いておいた。

 まぁ、こんな事をしなくても、美容へ強い拘りを持つ彼女なら覚えておいてくれるかもしれないが……

 

 どうなる事かと少し心配したが、その次の晩もイル・セーラーは、コック達への食事改善の指示を取り下げてはいなかった。

 “美容に良い”という話も良かったようだが、直ぐに取り消したりして、コック達に嫌がられるのも避けたかったようだ。

 ……以前の彼女なら、そんな事は気にしなかったかもしれない。少しは私の存在が彼女に良い影響を与えているようだ。

 因みに、私の、つまり日本に住む佐伯一美の食習慣も私は改善していた。イル・セーラーが反面教師になったのだ。やっぱり身体が健康な方が生きるのが楽になると素直に思ったのである。

 

 食習慣の改善が、彼女の性格に良い影響を与えるのだとしても、その効果が出るまでにはしばらく時間がかかるだろう。

 現在、イル・セーラーは学校を卒業し、悠々自適な身分で毎日を過ごしている。婚約している名門貴族のアーサー・ビヨルドと結婚するまでは、気楽な毎日が続くはずだ。まだ結婚していないのは、アーサーの仕事が忙しい時期だからで、仕事が落ち着いて準備が終わったなら直ぐにでも籍を入れる予定になっていた。

 もちろん、婚前でもまったくアーサーと会わないという訳ではない。彼が訪ねて来る事もあれば、彼女の方から訪ねる事もある。両親や他の家族とも懇意にならなくてはいけないから、それは重要だ。

 ただ、それについてはイル・セーラーの性格が改善していなくても問題ないだろうと私は(イル・セーラーも)考えていた。

 イル・セーラーは、外面を取り繕う技術には長けている。ビヨルド家の面々の本性は分からないが、社交界には気を遣うタイプであるのは確実で、円満な結婚を迎えようとしている長男の結婚相手に失礼な態度を執るとは思えなかった。

 つまり、お互いに表面上の付き合いで交流しているだけなので問題ないだろうと私は思っていたのだ。

 ただ、そんな私にとって予想外の事態が発生してしまった。

 

 馬車に揺られている。

 食事改善を始めてから、二週間程が過ぎようとしていた。私の気の所為じゃければ、少しばかり食事改善による性格改善の効果が出て来たように思える。以前のように少しの事で怒ったり、始終微かに苛立って攻撃的になっているような謎の感覚が消えている。

 もしかしたら、そういった苛立ちが消えたからなのかもしれない。

 馬車の外に見える人々の様子に、イル・セーラーは心を痛めていたのだ。痩せていて、疲れていて、中には病気のように思える人もいる。

 以前の彼女だったなら、そんな光景を見ても平気でいられたはずだ。謎の苛立ちの中に紛れ込ませ、まるごと呑み込み、目を瞑ってやり過ごせた。しかし、その時は忘れる事ができないでいるようだった。

 ただ、彼女はそれを一切、態度には表さなかったのだが。

 その日、彼女は婚約者のアーサー・ビヨルドに会う為に、馬車で彼の邸宅に向っていた。特にそれを楽しみにしてもいなければ、嫌がっている訳でもなかった。彼女にとって彼は自分の美貌の高さを証明する為のステータスシンボルに過ぎず、その意味では重要な人物だが、異性としてそこまで意識している訳ではない。ただ、多少、自宅での毎日に飽きていた事もあって、出かけられるのには喜んでいた。そのいい気分が、外に見える人々が疲弊した光景で消えてしまっていた。

 “……まぁ、もし、何かしら自治に干渉できそうだったなら、少しくらいは口を出しても良いかもしれない”

 そう思ったのが、私なのかそれともイル・セーラーなのかは分からなかった。或いは、私も彼女もそう思ったのかもしれない。

 この辺りの領主はビヨルド家なのだ。当然、長男のアーサーがそれを引き継ぐ。アーサーとの関係によっては、彼女も発言権を持つだろう。

 そんな立ち位置にいるからこそ、魔女のアンナ・アンリはイルの性格を矯正しようとしたのだ。否、それを計画したのは両親で、アンナ・アンリを紹介したのはオリバー・セルフリッジという役人であったはずだから、本当にそう考えたのは、オリバー・セルフリッジという役人なのかも知れないが。

 オリバー・セルフリッジは、いかにも優しそうな風貌の男で背が高い割に威圧感はない。ただ、どこか山師のような雰囲気もあり、イルは彼がそれほど好きではなかった。間違いなく善人なのだが、非常に狡猾であるという噂もある。イル・セーラーとは相容れないタイプの人間だろう。

 

 「オリバー・セルフリッジに紹介してもらいましてね」

 

 アーサー・ビヨルドが朗らかな表情で、イル・セーラーに向ってそう言った。

 オリバー・セルフリッジについて考えていた彼女は、その名前が出て来てやや引きつってしまった。

 彼はその時、イノマタという女性について説明をし、一通り彼女を称賛し終えると、オリバー・セルフリッジに紹介されたと述べたのである。

 そのイノマタという女性は、元は都会に住んでいたらしいのだが、今は寂れた村で孤児や貧窮に喘ぐ家庭を支援しているのだそうだ。都会にあった自宅を処分し、それで手に入れた資金で飲食店を営もうとやって来たが、不幸な人々を目にするうち、いつの間にか支援活動ばかりを行うようになったというのがその経緯らしい。

 もちろん、イノマタはそれほど裕福でもないから支援活動を行うのには資金が足りない。それを助けているのがオリバー・セルフリッジで、彼はその関係でアーサーにも声をかけたのである。

 「あんなに素晴らしい女性がこの世にいるだなんて、僕は思いもしませんでしたよ」

 アーサーは目を輝かせていた。

 「彼女が手を握ると、病気の子供の表情がフッと和らぐのです。痛みが引いたのだと、見ているだけで分かった……。あなたも是非一度会ってみると良い。あんな奇跡は滅多に体験できるものではない。まるで聖女のようだ。

 言葉は一言も発しないのですが、皆が彼女を慕っている」

 “婚約者と会っている時に、別の女の話をするなんて”と、思いつつ、それを精一杯顔に出さないようにしながら「ええ、そうですわね」とイル・セーラーは返す。

 二人が会っていたのはビヨルド家の応接室で、内装がとても豪奢だった。ビヨルド家が彼女をとても大切に扱っているのだと分かる。ただ、だからこそ他人行儀に思え、男女の関係を進展させるには不向きだったかもしれない。使用人が傍に控えていて、あまりに形式的に過ぎるのもいけない。“婚約者同士の逢瀬”を連想させるシチュエーションではない。まるで何かの儀式だ。そして、アーサーのイノマタについて語る口調は情感たっぷりで、彼女への対応との差が際立っていた。

 「僕も彼女を支援する事に決めました。貧しい子供達を放っておく訳にはいかないし、一から慈善事業を立ち上げるよりも、彼女のような人間を支援する方が効率的だ」

 それからも彼は嬉々としてイノマタという女性について語り続けた。

 それにイル・セーラーは苛立っていた。あなたの婚約者は私なのよ?と。もっとも、その醜い嫉妬を彼にぶつけるような馬鹿な真似はしなかったが。

 相手の女性は庶民。しかも、貧困階級。自分とでは相手にならないし、それにアーサーが異性としてそのイノマタという女性を見ているとは思えなかった。本気で怒るのを見せるのは、あまりにも余裕がなさ過ぎる。それは無様というものだ。

 結局、イルは最後まで自分の不満をぶちまけるような真似はしなかったのだが、応接室を出る頃には心の中に青筋が三つは浮き出ていた。

 外に出てから、怒りが少し治まると彼女は“それにしても”と考える。

 アーサー・ビヨルドとはあのような男だっただろうか? そもそもそれほど深い付き合いをしていた訳ではないのだが、彼はもっと演技的に振舞っていた気がする。打算的で慈善活動などまったく興味のない淡白な人間だったはずだ。

 否、もちろん、慈善活動への支援には領民達へ自分の印象を良くするという意図があるのかもしれないが、それにしても奇妙である。この短期間に彼に何かがあったとしか思えない。

 それから彼女は、ビヨルド家の家族や使用人の中で位の高い者達への挨拶を済ますと、自宅に戻ろうと廊下を歩ていたのだが、そこでオリバー・セルフリッジとすれ違った。軽く互いに挨拶をする。私とイル・セーラーが繋がってしまったこの傍迷惑な事態を画策した全ての元凶かもしれない男である。当然、心中穏やかではない。

 ところが、私が既にそれを知っている事を聞いているだろうに、彼は飄々とした何食わぬ顔だった。

 その瞬間、イル・セーラーはアーサーにイノマタとかいう女を紹介したのが彼であるという話を思い出し、自分の中で全てが繋がったような気がした。

 “もしかして、またこの男なのか?!”

 アーサーの性格が急に変わってしまったのは、何かしらオリバー・セルフリッジが企てをし、実行した結果ではないかと考えたのだ。

 普通なら難しいかもしれないが、彼にはアンナ・アンリという協力者がいる。闇の森の魔法を駆使すれば可能なのかもしれない。

 

 「どうしてくれるのよ!」

 

 数日後、イル・セーラーはアンナ・アンリに怒りをぶつけていた。街の倉庫に彼女を呼び出して責め立てている。

 「何の事でしょう?」

 「しらばっくれないで! あなたの恋人のオリバー・セルフリッジが、アーサーにイノマタとかいう変な女を紹介したのよ! 普通、婚約者がいる男に女を紹介する? 彼、彼女のことを褒めていたわ!」

 「私と彼は別に恋人同士ではありません」と否定してから(ただし、嬉しそうにしてはいた)、アンナ・アンリは呆れた様子でこう言った。

 「気にし過ぎです。アーサー・ビヨルドはイノマタさんをそういう意味で褒めた訳ではないでしょうよ」

 実は私もそう思っていたのだが、イル・セーラーは納得をしていなかった。否、彼女も理屈の上では考え過ぎだと分かっていたようだが、感情と理屈は別である。

 「アーサーは、イノマタって女を聖女とまで呼んだのよ? 放っておけるはずがないでしょうが!

 彼は私の婚約者なのよ!?」

 その凄い剣幕に、アンナ・アンリは溜息を漏らすと「どうしろと言うのです?」と尋ねて来た。

 一瞬だけ間を空けたが、直ぐに考えをまとめると彼女は口を開いた。

 「意識を相手の心に繋げる魔法で、イノマタと私を繋げて」

 その主張に「は?」とアンナ・アンリは首を傾げる。

 「何の意味があるのです?」

 「アーサーは、そのイノマタって女が手に触れただけで子供の痛みを和らげたと言っていたわ。そんな事ができるはずがない。回復魔法は万能ではないでしょう? それに相当に消耗すると聞いているわ」

 「まぁ、それはそうですね。リラクゼーションなどは可能ですが、魔法でそんなに簡単に病気や怪我は治るものではありません」

 「でしょう? だからきっとインチキなのよ。そのインチキを、意識を繋げて私があばいてやるのよ!」

 その言葉にアンナ・アンリは首を横に振る。

 「ダメです。倫理上の問題がある。彼女のプライベートをそのような方法であばく訳にはいきません」

 「あなた、私には同じ魔法をかけたじゃない!」

 「ですから、意識を繋げるのは異世界の人間にしたのです。あなたの秘密がバレても問題ないように」

 少し考えるとイルはこう返した。

 「なら、イノマタをあばく役割もその異世界の人間にすれば良いじゃない!」

 それを聞いて、(自分で言ったのだけど)“え? 私?”と私は思った。

 「確かにそれなら、あなたへ伝わるイノマタさんの記憶はかなりぼやけますが……」

 「ならいいじゃない。私はその女がインチキだって分かるだけで良いのよ」

 それを聞いてもなおもアンナ・アンリは迷っていたようだったが、「あのね、オリバー・セルフリッジに仕返しをしたって良いのよ? 私はそれだけの事をあの男からされているのだから」とイルが脅すと、彼女は「分かりました」とそれを認めた。

 こう告げる。

 「ただし、一度だけです。一度だけ、イノマタさんの意識と繋げたら、それ以降は二度と繋げません」

 「それで良いわ」と、イルは返す。

 なんだな、変な事に巻き込まれてしまった、と私は思った。それを言ったら、イル・セーラーと繋がった事自体がそもそもかなり変なのだけど。

 

 会社のブースで、私は珍しく男性社員と二人きりで話していた。もっとも彼とは浮ついた関係とかそういうのではない。彼は中途で入って来た私のチームの新メンバーで、私は彼に仕事を教えているのだった。新名という名だ。あまり期待はしていなかったのだが、思ったよりも仕事のできる人で、どんどん仕事のやり方を吸収していってくれる。

 私としてはとても意外だったのだが、どうやら先日私が倒れた事で、課が増員をしてくれたようなのだ。まぁ、今の状態で私がいなくなったら運行が回らなくなるからきっと危機感を覚えたのだろう。冷静に考えれば遅すぎるくらいの対応なのだが。

 新名さんは素直な人で、かつ気負ったところがなくとても話し易かった。色恋沙汰からは遠く離れた人生を送っている私だが、なんだか勘違いしそうになってしまう。ただ、仕事を離れたプライベートで彼と会っているシーンなどまるで想像できないから、この勘違いが恋に進展するような気はまるでしない。

 ――勘違い。

 一通りの説明を終えると、新名さんは、私が示した資料を読み始めた。その様子を眺めながら私は考える。

 勘違いと言えば、私としてはイル・セーラーのアーサー・ビヨルドに対する反応が予想外だった。彼女に彼に対するいわゆる恋心があるとは思っていなかったのだが、あの明らかな嫉妬を考えるのなら違っていたのかもしれない。

 否、それもちょっと違う気がする……

 「佐伯さん? 読み終わりましたよ」

 考え事に熱中していると、不意に新名さんからそう話しかけられた。我に返る。慌てて返答した。

 「どうでした? 何か分からない点がありますか?」

 「すいません。分からない点だらけなのですが、まだ上手くイメージできていないので質問すらできない状態です。頭を整理し終えたら質問しに行くかもしれませんが、よろしいですか?」

 「もちろん、いつでも質問しに来てください」

 「はい。ありがとうございます」

 そう返した彼は爽やかな笑顔だった。

 彼はこういった仕事に慣れているのか、思い付きで何度も質問しに来るのではなく、ある程度疑問点をまとめてから、それを分かり易く整理して質問しに来てくれるから有難い。有能な人なのだろう。

 人当たりも柔らかく、礼儀正しい。もし一緒に生活をするような事になってもストレスを溜めずに済みそうだ。

 ……ちょっとだけ、期待をしてしまう。

 もっとも、それが恋愛感情と呼べるものなのかどうかは分からないのだが。

 そこで私はふと視線に気が付いた。

 辺りを見回すと、園上さんが気に食わなそうな顔で私を見ていた。私が楽しそうにしているように見えたのだろうか? 嫌な予感がする。彼女のここしばらくのターゲットは森さんだったようだが、飽きてしまったのかもしれない。

 それとも……

 

 家に帰ってから、私は“吊り橋効果”についてネットで調べてみた。吊り橋を渡る時の緊張を恋愛の緊張と勘違いをし、異性に恋心を抱いてしまうという有名な現象だ。

 イル・セーラーがアーサーへ抱いた思いが、それに近しいものではないかと疑ったからなのだが。

 どうやら吊り橋効果は人間が自己知覚というものを行っている所為で起こる現象であるらしい。

 人間は脳を進化させたが、進化の過程で自身の状態を直接把握する手段を身に付けて来なかった。だから、他者を観察するのと似たような方法で自らを観察するのだそうだ。結果として、恐怖心と恋愛感情を勘違いしてしまうような現象も起こってしまう。

 ……なるほど、ね。

 と、私は思った。

 恐らく、イル・セーラーはアーサー・ビヨルドに対して恋心を抱いていたからイノマタとかいう女性に嫉妬心を覚えた訳ではなく、単に己のプライドを傷つけられた事で怒っていただけなのだ。それを嫉妬心と混同してしまったのではないだろうか?

 もちろん、元から少しは恋愛感情も持ってはいたのかもしれないが。

 いずれにしろ、今彼女は本気でアーサーに対して恋愛感情を抱いているように思える。勘違いが切っ掛けとなって、本物になってしまったのだ。

 ちょっと面白いかも、と私は思った。

 

 ……気が付くと、私は森の中にある小屋の中で料理を作っていた。近くには小川が流れており、水がふんだんに使えて便利なのでここで調理を行っているのだ。外から運び入れたお米の他の食材は、主にこの森の中で採れた山菜である。食費を少しでも浮かせる為だ。

 この小屋が誰の物なのかは不明なのだが、村の許可を取って使わせてもらっている。ただ、半ば放置されているような場所だからとても汚い。しかし私はそれを嫌だとは思っていなかった。

 儚く寂しげな感じがむしろ気に入っている。

 和風に言うのなら、“わびさび”といったところだろうか?

 心持ちは清浄。作っているのはリゾット風の料理で、静かに煮詰まれていくそれを見つめながら嬉しそうに微笑みを浮かべる。

 何かを作るのは、楽しい。

 私はそう思っていた。

 この料理を届けたなら、きっと村の人達はは喜ぶだろう。それを想像して、私は仕合せな心持ちになっていた。

 料理ができたら、容器を移し替えて、村まで運ばなくてはならない。重労働だ。私は体力には自信がないから、少しだけ億劫に思っていた。が少しだけだ。特に嫌だと感じている訳ではなかった。

 しばらくして料理が出来上がりそうなタイミングで、小屋の外から自分を呼ぶ声が聞こえた。

 「イノマタさん。手伝いに来たよ~」

 少年の声。

 彼は村に住んでいる少年で、村の中では体力がある方だ。私は無言でドアを開けると彼を歓迎した。

 「料理はできている? 村まで運んであげようと思って」

 見ると、少年はリヤカーを引く準備をしてくれていた。私は彼に身振り手振りで感謝の意を伝える。言葉はまったく発していない。感謝の言葉だけでなく、私は一度も言葉を発してはいなかった。ただ少年はそれを不思議にも奇妙にも思っていないようで、しかも私が伝えたいと思っている全ては少年に充分に伝わっているようだった。

 不思議な感じ。

 言葉など発しなくても通じるその感覚が、なんだか心地良かった。もっとも、私が言葉を発していないのは、そんな理由ではないようだったが。

 料理を作り終えて、容器を小分けにして移し替えた。村まで運ばなくてはならない。少年と協力して荷台に料理を乗せて固定すると、少年にはリヤカーを引いてもらい、私はリヤカーを押して進む。森の道はそれほど舗装されていない。気を付けて運ばなくては。その途中で私は我に返った。

 ……あれ? 私は誰だ?

 やがて思い出す。

 アンナ・アンリが、イル・セーラーの頼みを聞き入れて、イノマタさんの心と私の意識を繋げると言っていたのを。

 それで私は納得をした。

 私はイノマタさんになっているのだ。

 アーサー・ビヨルドが“聖女のようだ”と褒めちぎっていた優しい女性。

 私はイル・セーラーの嫉妬心から、彼女のインチキをあばく為に彼女と繋がっているのだ。

 考えてみれば理不尽な話だ。

 私は別にイノマタさんに敵意を持っている訳ではない(それ以前にほとんど知らない)。敵意を持っているのはイル・セーラーで、何のメリットもないのに、私はそれに無理矢理に協力させられている。

 ただ、それでも私はイノマタさんの心と繋がるのは嫌ではなかった。否、むしろとても良い体験のように感じていた。

 “あんなに素晴らしい女性がこの世にいるだなんて、僕は思いもしませんでしたよ”

 アーサー・ビヨルドは、彼女をそう評していたが、私もその通りだと思った。一体、何をどのようにすれば彼女のような人間になれるのだろう?

 やがて彼女達は村に着くと、村人達に料理を振舞った。困窮者達、特に子供達を優先させて。

 彼らの笑顔が嬉しい。

 心の底からそう思えた。仕合せだ。本当に。

 村人達の食事が終わると、彼女は孤児の一人に招かれてある小屋の中へ連れて行かれた。子供が一人横になっている。仲間の孤児だろう。病気のように思える。お皿の上に、さっきの料理が容れられてあったが、彼はそれに手を付けてはいなかった。食欲がないのかもしれない。

 イノマタさんは、彼の近くに腰を下ろすとゆっくりと手を握った。

 アーサー・ビヨルドが奇跡だと称賛し、イル・セーラーがインチキだと言っていた医療行為だろう。

 彼女が手を握ると、それだけで子供は心地良さそうな表情を見せた。イノマタさんは何もやっていない。少なくともインチキではなさそうだ。ただ、それでは彼女が何か特別な力を使ったのかと言えば、それもどうやら違っているように思えた。

 彼女自身は本当にただただ手を握っただけだったのだ。

 無自覚の内に何かしら不可思議な力を使ったのでなければ、何もしていないのに勝手に子供の病状が良くなったという事になる。

 それからイノマタさんは、スプーンですくってその子に料理を食べさせてあげた。全て食べ終えたのを見て彼女は安心をする。

 取り敢えずは良かった。できればもっと栄養のある料理を食べさせてあげたい……

 

 そこで私は目を覚ました。

 アパートの部屋のベッドの上。佐伯一美に戻っている。

 

 会社の昼休み。

 私はイノマタさんになった時の体験を検証した。私にはイノマタさんはインチキもしていなければ、不可思議な力も使っていないように思えた。でも、子供の病状は明らかに良くなっている。これを説明できる現象はあるのだろうか? ただ手で触れただけで病気を治せるような。

 そもそもあっちの世界とこっちの世界では、法則が別かもしれないとは思いつつ、検索をかけてみると“ロイヤルタッチ”と呼ばれる奇跡療法があった。

 中世のヨーロッパで、王家の者が手で触れただけで病気を治したらしいのだ。これは催眠療法を無意識に行っていたというのが仮説の一つになっているようだった。

 ならば、イノマタさんも無意識に催眠療法を行っていたのだろか?

 しかし私にはそんな気はしなかった。もっとも、病気の子供の方が、勝手に思い込みで催眠にかかっているような状態になっていた可能性はあるかもしれないが。

 またしばらく検索して、こんな記事を見つけた。

 『親密な人間が手を握るだけで、脳内麻薬が分泌され、鎮痛効果が出る』

 ある女性の出産時、その女性の夫がただ手を握っただけで痛みが和らいだといったエピソードが紹介されてあった。

 それを読んで私は即座に納得した。ほぼ間違いなくイノマタさんが起こした奇跡の正体はこれだろう。脳内麻薬の分泌のお陰で、あの子の痛みは和らいだのだ。つまりはそれだけ彼女が子供達から慕われているという事なのだろうが。

 私は疑問が解けた気になってスッキリした感覚を味わっていたのだが、それと同時にイル・セーラーがこれを知ったらどんな反応をするだろうかと心配になっていた。

 素直にこの事実を受け止められるだろうか? 私にはとてもそうは思えなかった。

 

 「納得いきませんわ!」

 

 案の定、イル・セーラーはそう叫んだ。私の意識が彼女に繋がり、私と記憶を共有してから少しの間の後だった。

 彼女はテラスで紅茶を飲んでいて、近くにいたメイドはそんな彼女を変な顔で見ていたが、彼女はもちろんそんな事はまったく気にしていなかった。

 「それでは、イノマタという女性は本当に優しい事になってしまいます!」

 そう独り言を言う。

 アーサー・ビヨルドが惹かれたイノマタという女性が、彼が評するように本当に“聖女のよう”と知って彼女はショックを受けたのだ。

 今更説明するまでもないかもしれないが、イルはイノマタさんとは真逆と言って良い性格をしている。アーサーがこのままイノマタさんに惹かれ続けたら、本当の自分を彼が受け入れてくれない可能性は大きい。

 そこに至って、初めて彼女は自信が揺らいだ。自身の美貌が全てを凌駕してアーサーを魅了すると彼女はこれまで頑なに信じ込んでいたのだ。

 それからしばらく彼女はずっと不機嫌だった。想定外の事態に混乱していたのだが、それが怒りとなって現れていたのだ。ただ、私の意識が繋がっているお陰か、周りの人に迷惑をかけたりはしなかったけれど。そしてその混乱が治まると、彼女にしては珍しく不安に苛まれ始めた。

 彼女のこの異世界の社会における最大のアドバンテージは、アーサー・ビヨルドと婚約しており、やがては結婚するだろうという点なのだ。もしそれが崩れたなら今の地位を失う。家だって傾いてしまうかもしれない。

 「冗談じゃないですわ!」

 或いは、この不安は私と繋がっているからこそ喚起されたものだったのかもしれない。自慢じゃないが、私には男性に恋愛対象として見られる自信がまったくない。アーサーのような、世間一般から魅力的と思われている男性からは特に。

 いつも自信満々な彼女はこういった不安には耐性がまるでなかったようで、ちょっと無様な程に焦燥し、そうしてやがては「性格を直すしかない」という結論に辿り着いたようだった。

 つまり、彼女の両親やオリバー・セルフリッジや魔女のアンナ・アンリが言っていた通りの問題点をようやく芯から自覚し、受け入れたのだ。

 私はちょっとだけ呆れてしまった。

 ただ、これでようやくイル・セーラーも自身の性格を直すことに積極的になったという事になるのだが。

 ――もっとも、その為に何をどうすれば良いのかはまるで分からなかった。食習慣を健康的なものに変えた効果はそれなりにはあったようだが充分とは言えなかった。

 彼女が性格を変える為には、もっと決定的な何かが必要だった。

 

 ……遠くの席から園上さんが私を見ている。否、正確には、話をしている新名さんと私を見ている。一応断っておくと、仕事の話をしているだけだ。新名さんは直ぐに仕事を覚えてくれて、今では充分な戦力になっていた。以前は私が長期休暇を取るなど考えられなかったが、今なら取れるかもしれない。

 私は園上さんの視線には気付かない振りをしようとしていたのだが、その少しばかりの優越感に思わず微笑んでしまった。

 彼女はほぼ間違いなく新名さんに惹かれているのだろう。だから彼と一緒に仕事ができている私が羨ましくて仕方ないのだ。

 私が微笑んだ事で、自分の視線に私が気付いていると察したのか、彼女はパソコンに目を向けて仕事に戻った。

 そんな彼女の反応に、私はあっちの世界のイル・セーラーを思い出していた。園上さんと彼女の性格は違う。二人とも厄介な性格をしてはいるけど別タイプだ。がしかし、二人とも理不尽に逆恨みをしてライバルに嫌がらせをしそうという点においては同じだった。私と新名さんの関係を変な風に勘違いして、嫌がらせをされたら堪らない。

 ……園上さんの性格を改善する事ができたら楽なのに。

 「人間の性格って変わらないのですかね?」

 そんな風に思った私は、新名さんと仕事の話をしている最中に、ふとそんな事を呟いてしまった。私が何を考えているのかを知るはずのない彼は不思議そうな顔をしてはいたが、

 「変わる事もあると思いますよ」

 なんて返してくれた。

 「人間って年齢と共に少しずつ性格が変わるものらしいです。それぞれの年齢にはそれぞれの年齢のアイデンティティがあって、相応しいそれを身に付けていくのだそうですよ。ただ、これは“年齢”と言うよりは、“役割”と言った方が正しいのかもしれませんが。

 父親になれば父親としての役割、母親になれば母親としての役割、上司になれば上司としての役割といった風に、それぞれの求められる役割で人間は“自分”を形作っていく……

 そして、それに失敗すると、何かしら問題を抱える事になってしまうのだとか」

 「はあ、なるほど」と私はその説明を面白く感じつつも“私が思っているのとは、ちょっと違うな”などと思っていた。

 「そういう“変わる”ではなく、なんと言うか“乱暴な子供を大人しくさせる”みたいなニュアンスなんです」

 だからそう言ってみた。

 まさか“園上さんの性格を直したい”とは言えない。

 すると彼はそれに「そういう話ですか」と頷いてから、少し考えると、

 「じゃ、腸内環境を整えるなんて言うのはどうです?」

 などと私の予想の斜め上の提案して来たのだった。何故、それが性格を直す話に結びつくのかが分からなかった私は、疑問符を伴った声を思わず上げてしまった。

 「腸内環境?」

 しかし彼はふざけている風ではなく、「そうです」と真面目な顔で大きく頷く。

 「トキソプラズマって知っていますか? 鼠に寄生し、猫に食べさせる為に身体を操作すると言われている寄生生物です。これ、実は人間に寄生する事もあって、それが人間を猫好きにさせているのじゃないかという仮説もあるのですよ」

 その話はちょっと聞いた事がある気がした。ただ、彼の話の意図は分からなかった。だから、「それが何か?」と尋ねた。

 「この話は、体内に生息する微生物が、動物の性格に影響を与えている可能性を示唆しています。トキソプラズマの他にも、有名な例では狂犬病なんかがありますよ。その名の通り、狂犬病は犬を凶暴化させます。感染すると人間も凶暴化する場合があるなんて話も聞いた事がありますし、水を飲もうとすると痙攣が起こるようになる為、水を恐れる症状が出たりもします」

 その説明で、私はなんとなく彼が何を言いたいのかを察した。

 「つまり、病気の原因になる微生物以外の他の微生物も人間の精神に働きかけているかもしれないって言うのですか?」

 彼は頷く。

 「はい。その通りです。微生物って原始的な多細胞生物が海に誕生した頃から生息しているでしょう? 原始的な多細胞生物には後に神経になる器官もある訳ですが、微生物ってそれらと共に進化してきたのですよ。なら、人間の精神に働きかけができたって不思議ではないでしょう? 乳酸菌が人間の睡眠改善に効果があるなんて話もあるじゃないですか」

 私は彼の話に納得をした。確かにそう考える方が自然な気がする。病気の原因になる微生物にだけ人間の精神に働きかける能力があると考えるのは無理があるだろう。思わず私はお腹を摩ってしまった。

 「普通に考えるのなら、人間の健康に良い影響を与える微生物の方が、人間の精神に良い影響を与えそうですよね。だから、腸内環境を整えるのが良いと?」

 私がそう尋ねると彼は頷いた。

 成人して既に固まってしまった人間の脳にどれだけの影響がそれで与えられるかは未知数だろう。が、それでもイル・セーラーに試してみる価値はあるかもしれない。

 私はそう判断した。

 

 「腸内にいる微生物を、良い状態にする魔法がないか? ……って、何の話です、それは?」

 

 目の前で闇の森の魔女、アンナ・アンリが目を白黒させていた。例によって街の倉庫だ。イル・セーラーになった私はそんな彼女を眺めながら腕を組んでいる。

 イル・セーラーのいる世界では、人間の身体に数多の微生物が生息している事は知られていない。が、人知を超えた闇の森の魔法を操る闇の森の魔女ならば知っていて、操作する術すらも持っているかと期待して私は彼女を呼び出したのだ。

 しかし、残念ながら彼女は知らないようだった。

 私は仕方なくそれから腸内微生物が性格改善に役立つ可能性がある話を彼女にしたのだった。

 彼女は俄かには信じられないといった様子だった。

 「なるほど。ですが、仮にそれが正しかったとしても、どの微生物が人間の精神に良い影響を与えられるかが分かりません」

 それはそうだろう。何しろ、私の世界でだってあまり知られていないのだから。否、もし知られていたとしても、この世界の微生物と私の世界の微生物は違っているだろうから役に立つとは限らない。

 「取り敢えず、善良な人間の腸内を調べてみれば分かるのではなくて?」

 私はそう提案してみたのだが、それにアンナ・アンリは訝しげな顔を浮かべる。

 「どうやって調べるのです?」

 「それは……」と、言いかけて私は言葉を止めた。否、止めたのはイル・セーラーだったのかもしれないが、とにかく、本当は即座に思い付ていたのだが、言うのが憚られたのだ。

 が、アンナ・アンリはそんな私の様子を敏感に察してしまったようだった。

 「何か案があるのですか?」

 「いえ、別に……」と私は誤魔化そうとしたのだが、彼女は「あなたが呼び出したのですよ? 私はわざわざここまで出向いて来たのです」と言って私を責める。イル・セーラーの意識しかなかったのなら関係ないと跳ねのけていたかもしれないが、今は佐伯一美の支配力の方が強い。自分に負い目があると思ったなら、言わない訳にはいかなかった。

 「便を……」と私は答えた。恐る恐るアンナ・アンリの反応を観察する。

 「べん?」

 「ですから、善良な人間の大便を調べれば良いのですわ!」

 それを聞いて彼女は頷く。

 「なるほど。その説が仮に本当だったとしたなら、性格の良い人間の腸内には性格が良くなる微生物が生息している事になるという訳ですか……」

 「その通りですわ」と私は返し、それから彼女が“性格が良くなる微生物を腸に移植する方法”思い付かないようにと願った。その方法は、イルには耐え難い…… 否、私にとっても耐え難いものだったからだ。

 が、しかし、アンナ・アンリはそれに気が付いてしまったのだった。

 「ちょっと待ってください。なら、わざわざ大便を調べたりしなくとも、性格の良い人間の大便をあなたの腸内に移植すれば良いのではないですか?」

 その彼女の言葉に、私とイル・セーラーは異口同音…… ではないのだが、気分としては異口同音でこう言った。

 

 「それだけは勘弁してくださらない?!」

 

 ……糞便移植という医療行為が存在する。

 新名さんから教えてもらうまでは、私もまったく知らなかったのだが、健康な人間の大便を患者の腸内に移植する事で治る病気があるそうなのだ。

 軽く調べた限りでは、潰瘍性大腸炎や過敏性腸症候群で治療に用いられたケースがあるらしい。腸内微生物を大量に殺してしまうと、腸内環境が乱れ、過敏性腸症候群になってしまう事があるそうなのだが、それが糞便移植で治るのだそうだ。

 ただ、まだまだ確立されていない治療方法で、しかも稀には感染症による死亡例もあるので、実施の検討は慎重に行うべきらしいのだが。

 

 ――自分の屋敷の倉庫の中に、イル・セーラーになった私はいた。

 机の前に座っている。

 机の上には白いカプセルのようなものが大量に皿に盛られていて、その皿の横には、すられた生ニンニクがやはり大量に器に盛られていた。ニンニク特有の嫌な臭いが立ち込めている。使用人達の目などほとんど気にしないイル・セーラーだが、この時ばかりは見られたくないと心の底から願っていた。

 自分の屋敷内ではあるが、食堂ではなく人気のない隅の倉庫を選んだのも、彼女がそんな気持ちを抱いていたからだろう。イル・セーラーの意識は、かなり奥に引き込んでしまっている。そしてそれにも拘らず、精一杯に抵抗しているようだった。

 ――否、抵抗しているのは、私自身だったのかもしれないが。

 この身体はイル・セーラーのものだが、それでも“それ”を食したという事実は私のプライドを傷つけるだろう。つまり、これは単純に肉体だけの問題ではないのだ。

 ニンニクには強い殺菌作用があり、その為、食べ過ぎると腸内微生物が大量に死に、過敏性腸症候群になってしまう事があるのだそうだ。だから大量に食べるのは避けた方が良い。がしかし、そもそも腸内微生物を殺す目的があったのならその限りではない。

 仮に糞便移植を行ったとしても、既にイル・セーラーの腸内を支配しているだろう腸内微生物達が、糞便に含まれているだろう侵入者達に抵抗してしまったのなら著しい効果は得られない。

 だから、既に腸内を支配している微生物を殺してしまう必要がある。

 私達はそう判断したのだ。

 その大量のニンニクは、その為に用意したものだった。

 この世界のニンニクに、私達の世界のニンニクと似たような性質がある事は事前に調べておいた。殺菌効果がある。

 「さて。食べますわよ」

 私はスプーンを握った。持ったスプーンはカタカタと震えていた。私の腕が震えているからだ。

 やはりイル・セーラーが全力で抵抗しているのかもしれない。

 一人にしてくれ、とお願いしたので、その倉庫の中にいるのは私一人だった。仮にイル・セーラーと私を別人物とカウントするのなら、私達二人だけだ。

 ニンニクを食べるのにはそれほどの抵抗はない。生だからちょっと辛味が強すぎるし口が臭くなってしまうが、一時的だしその程度ならば耐えられる。

 “糞便移植”の準備の為に、私はニンニクを食べ始めた。

 しばらく食べ続けると、ちょっとばかり気分が悪くなってきたが想定内だった。食べ終える。腹の具合がちょっと変だった。ただ、それはあまり気にならなかった。それよりも、ニンニクの横にある白いカプセルのようなもののおぞましさの方が数倍は勝っていたからだ。

 随分とマイルドな外見になってはいるが、その正体は大便であるはずだった。アンナ・アンリがコーティング加工し、見た目だけは口に入れやすくしてくれたのだ。

 よくそんな便利な魔法があったものだと思ったが、本来は食べ難い食料を食べやすくする為の技術だそうだ。蜘蛛とか、蛇とか、そういうの。なんでそんな物を食べる必要があるのかは敢えて聞かなかった。

 ニンニクを食べ終え、水を大量に飲み干してからしばらく時間を置く。ニンニクの殺菌効果を消す為だ。

 次はいよいよ、カプセルの方を食べる番だった。

 カプセルを一つ手に取り、私は臭いを嗅いでみた。なるほど、臭くはない。

 糞便移植について調べてみると、昔の中国の医学書にそれに相当するものがあるらしい。下痢などになった時、健康な人の糞便を飲料にして与えれば回復するといった記述があるのだそうだ。また、動物の中にも糞便を食すものは多い(飼っている犬が糞を食べてしまったという経験をしている人は多いのではないだろうか?)。異常行動と見做される場合が多いが、実は体内の微生物を整える為の行為なのかもしれない。コアラが赤ん坊に自分の糞を与えるのは、ユーカリの葉を分解してくれる腸内細菌を与える為なのだという。

 こう考えるのなら、この行為は異常でもなんでもない。人間社会がそれを忘れてしまっただけで、当たり前の生存の為の知恵なのだ。

 私は必死にそう自分に言い聞かせていた。

 それからイノマタさんの事を思い浮かべる。実はと言うか、当たり前に予想できるかもしれないが、目の前のカプセルの“元”はイノマタさんから買い取ったものだった。

 「魔法の実験に使うのです」

 と、アンナ・アンリは言ったらしいのだが、絶対に変に思われているだろう。「恥ずかしいので誰にも言わないでください」と伝えてあるというから、イノマタさんなら他言はしないはずだが。

 まさか、彼女は自分の便をイル・セーラーが食べようとしているなどとは夢にも思っていないだろう。

 私は意を決すると、カプセルを手に取った。これでイル・セーラーの性格が改善するのであれば、大した事ではない。もし、今の性格のままで、アーサー・ビヨルドに見捨てられてしまったのなら彼女の人生は大きく傾く事になるのだ。これからも優雅な毎日を送り続ける為である。

 私はカプセルを口に含んだ。味はしなかったが、糞便を口に含んでいると思うだけで涙が出て来た。私の中のイル・セーラーが泣いている。

 イル・セーラーは当然自分の方が一般庶民に過ぎないイノマタさんよりも上だと思っている。しかし婚約者であるアーサー・ビヨルドが彼女を称賛し、それだけならまだしも私の意識を通して彼女の素晴らしさを実感し、それにより、まったく別の価値観から自分のプライドを貶めなくてはいけない現実を突きつけられてしまった。

 ダメージを負ってしまったアイデンティティは、不安を喚起し、イル・セーラーを苦しめ続けたのだ。

 だからこそ、彼女は性格改善に積極的になったのだろう。

 或いは、食習慣を改善してストレス耐性を上げていなかったら耐え切れていなかったかもしれない。

 その意味で、イノマタさんの糞便を食すという行為は、イル・セーラーの醜く肥大したプライドに対しての最後の止めでもあった。

 口に含んだカプセルを呑み込む時、イル・セーラーの中で何かが壊れた。私は彼女と繋がった意識の中で確かにそれを感じていた。一度呑み込んでしまうと、随分と彼女の抵抗は減った。慣れたというよりは、諦めたのだろう。

 自分はイノマタさんの糞便を食している。その現実が、彼女のプライドを蹂躙していった。涙が流れ、鼻水まで出たが、それでも構わず私はカプセルを呑み込み続けた。半ば自棄だった。最後の方は、ほぼ無意識にカプセルを口の中に運んでいた。

 全てのカプセルを食べ終える。

 お腹の中で、それはしっかりとした存在感を示していた。その感覚が、重しとなってイル・セーラーに絶望感を与えていた。お前が糞便を食したのは現実なのだ、と。

 いつもならば、既にイル・セーラーの脳を私の意識が離れているくらいの時間が過ぎた。ただ、今はアンナ・アンリが特別な呪を施して私を無理矢理に繋ぎ止めていた。もちろん、イル・セーラーの意識だけが取り残されてしまったら、彼女の精神が耐え切れなくなってしまうだろうからだ。

 私はこの時の為に倉庫の中に特別に用意しておいたベッドに横になった。腸内微生物が人間の精神に影響を与え、そしてイノマタさんの腸内微生物にその力があるのならば、しばらく経てばイルの精神は落ち着いていくはずだった。

 お腹の中のカプセルの存在感が徐々に消えていく。

 カプセルが溶けて、腸内に広がっていっているのだろう。私は自分の住む日本の事を考える事でその感覚をやり過ごした。

 実は珍しく私は有給休暇を取っている。もちろん、今日、この糞便移植をやると分かっていたから申請をしたのだ。ただ、今日は重要な運行業務がある日だった。私が直接行う業務ではないのだが、もしトラブルが起こったのなら対応しなくてはならないので、本来ならば休むべきではなかった。私が休めたのは新名さんが仕事を覚えてくれたお陰だ。仕事だから、当たり前の話で、感謝するというのも変な話なのだが、それでも私は彼に感謝をした。

 

 ――明日、出社をしたら、改めてお礼を言おう。

 

 そう私は思った。

 そして、その時に私は気が付いたのだった。

 ――あれ? イル・セーラーの性格が変わっている。

 今までの彼女は、自然と誰かに感謝をするような人間ではなかったのだ。彼女になっている時は、私はいつも佐伯一美の人格を維持するのに必死になっていた。

 お腹の中のカプセルはすっかり消えていた。きっと全て溶けたのだろう。

 なんだか、気分がとても落ち着いていたのだが、それはそのお陰なのかもしれない。ただそれが本当に全て糞便移植の効果なのかどうかは分からなかった。ズタズタにイルのプライドを破壊するという荒療治が偶々功を奏した結果かもしれない。他人の腸内微生物を受け入れたとしても、こんなに短時間で効果が出るものなのかどうかは疑わしい。もっとも、相乗効果が働いたという可能性はあるかもしれないが。

 どうであるにせよ、これでイル・セーラーの性格は随分と良くなったのではないかと私は安心をした……

 

 次の日、私は出社すると既に席にいた新名さんに「昨日はありがとうございました」とお礼を言った。彼のお陰で、イルは無事に糞便移植という荒療治を乗り越えられたのだ。新名さんはにこにこと笑いながら、「いえ、そんな、何もなかったですし」と私のお礼にむしろ申し訳なさそうにした。

 「いえ、非常に助かりました。新名さんが仕事を覚えてくれたお陰です。今までだったら休みの取れない日ですから」

 私がそう言うと、彼は頭を掻く。ちょっとおどけた様子で、「そこまで言うのなら、感謝をされてあげない事もないですが……」と続け、少しの間の後で、

 「でも、やっぱり、それは休みを取れないような体制にしている会社に問題があるだけの事で普通の事ですよ」

 と明るく笑った。

 まぁ、それは、確かにその通りなのだが。

 「理屈ではその通りかもしれませんが、気持ちはそれとは違います。私はあなに感謝がしたいのです。とにかく、本当にありがとうございました」

 その私のお礼を受けると、彼は再び頭を掻き、「そうですか? それなら、ま、どういたしまして、と返しておきますか」と言って、やっと受け入れてくれた。

 私がそれに「安心しました」と言うと、彼は「何を言っているんです?」と笑った。そこでふと気が付いた。傍から見たら、これはじゃれ合っているように見えるかもしれない。何か嫌な予感がして、園上さんの方を見ると、怨嗟の声でも聞こえてきそうな表情で彼女は私をじっと見つめていた。

 「ヒッ」と私は思わず小さく悲鳴を上げてしまった。「どうしたのです?」と、それに新名さんが心配そうに話しかけて来た。「いえ、別に」と私は誤魔化した。

 幸い、私はまだ彼女から嫌がらせを受けてはいない。彼女はそうする事ができないのだ。私の業務は、私にしかできないから……

 そう考えてハッとなった。

 

 “今は新名さんがいるから、必ずしも私は必要なくなってきているのじゃないの?”

 

 私はとても嫌な予感を覚えた。

 もしかしたら、園上さんは、今私にどんな嫌がらせをしてやろうかと計画を練っているのかもしれない。

 そしてその日の午後から、女性社員達が私を見てヒソヒソ話ををするようになったのだった。どうやら地味な嫌がらせがもう始まっているらしい。

 

 次の日の朝、私は久方ぶりに起床時に充分な睡眠を取った後の満足感を味わっていた。何故かと首を傾げて思い当たる。ああ、そうか、眠っている間に異世界のイル・セーラーに意識が繋がらなかったのだ、と(どうやら彼女の意識と繋がる事は、私の負担になっていたようだ)。

 彼女と意識が繋がるのは、彼女の性格が改善するまでという約束だったから、きっと彼女の性格改善が上手くいったのだろう。私は色々な意味で安心をした。ただ、それと同時に少しばかりの寂しさも覚えた。

 私は、イル・セーラーと、いや、彼女だけではなく、あっちの世界の人々と非常に奇妙なものではあるが、多少は人間関係を構築できていたはずだ。それが挨拶も何もなしにお別れというのは随分と味気ない。

 ただ、そう不満に思っても、こっちからは何もできないのだから悩んでいても仕方ないだろう。そう考えると、私はあっちの世界は忘れる事にした。少なくとも、これで私の悩みは一つ解決したのだし。

 ……ただ、その日から私に別の新たな悩みができてしまった。園上さんからの本格的な嫌がらせが始まったのだ。

 デュアルディスプレイ用のディスプレイが何故か他の人の席に勝手に移動させらてあって、軽くその席の人に訊いてみると「ごめんなさい。ちょっと借りたのよ」という事だったが、未使用のディスプレイはまだ余っているので私のをわざわざ借りる必要はない。おかしい。変に思っていると、ちょっと席を外した間で机の上にメモ紙が置かれてあり、読んでみると酷い悪口が書かれてあった。また、本来私の仕事ではない雑用を無理矢理に押し付けられたりもした。

 これは明確に嫌がらせだろう。恐らくは、園上さんが裏で糸を引いている。

 嫌がらせは連日続いた。

 再びディスプレイが移動させらていて、今度は床の上だったり、また机の上に悪口を書いたメモ書きが置かれてあったり。

 はっきり言って、子供の嫌がらせレベルだが、稚拙なだけに余計に腹が立った。どうやら新名さんには知られないように巧妙に行われているらしく、彼は一切それに気が付いていないようだった。

 一応断っておくがこのようなハラスメントの類は社で禁止されているし問題視されてもいる。もし発覚すれば企業イメージが大きく棄損するから当然なのだが。

 私は、だからこれを人権監視委員会(我が社では、ハラスメント対策を行う組織はこのような名で呼ばれている)に報告しようかと悩んだのだが、結局は止めておいた。

 もし仮にそれで園上さんを告発できたのだとしても、それ以降の私の社内での立場は悪くなるだろう。彼女が飽きるまで待つのが得策だと判断したのだ。否、そもそもこの会社に拘る理由もあまりないのだ。給料もそれほど高くないのだし、出て行ってしまえば良い。こういう時は特にスキルを身に付けておいて良かったと実感する。会社に依存しないで良いというのは気が楽である。

 ……ただ、このまま追い出されるのは、園上さんに負けるような気がしてそれがちょっとだけ悔しかった。

 否、違うのかもしれない。

 園上さんにとっても、それは果たして望むべき結果なのだろうか?

 私はそう悩んでいた。

 ――もちろん、私は異世界のイル・セーラーを思い出していたのだ。私は彼女と園上さんを重ねていた。

 彼女が“悪い性格”という問題を乗り越えられたように、園上さんも乗り越えるべきなのじゃないだろうか?

 

 いつまで経っても一向に園上さんからの嫌がらせは治まらず、これは彼女は本気だと判断すると、私は会社を辞める事を考え始めた。

 耐えられないほどでないが、無理に耐える意味もあまりない。

 が、そんなある日に奇妙な夢を見たのだった。

 『――お久しぶりね。佐伯一美さん。いえ、はじめましてと言うべきかしら? ちょっと変な感じだけれど』

 彼女は真っ暗な空間の中に立っていた。暗いはずなのに、何故か彼女だけはくっきりと見えた。

 『あなたは…… イル』

 そう。それは、何度も私がその身体に乗り移ったイル・セーラーだったのだ。鏡越しに彼女の姿を見ることは何度もあったけれど、実際に相対するのは初めてだった。当たり前だけど。じっくりと見つめると彼女は本当に美人だと実感する。彼女が自惚れてしまうのも分かる気がした。私なんかとは全然違うんだ。

 『これはどういう事なの? ここは一体、何処?』

 戸惑っている私に向けて、彼女は『アンナ・アンリに頼んだのよ。あなたに会わせてくれってね』と何故か勝ち誇った感じで言った。別に勝ち誇る台詞でもないと思うのだが。あまり性格は変わっていないのじゃないかとちょっと不安になった。

 『どうして?』

 『“どうして”って、当然でしょう? このままじゃ、私、あなたに一方的に貸しがある状態じゃない。そんなの、私に許せるはずがないわ。絶対に返すわよ』

 同意を求められたが、私は困ってしまった。イル・セーラーなら、“自分に他人が奉仕をするのは当然”と気にしないでいられそうな気がする。ただそこで“なるほど。彼女の性格は変わったのかもしれない”と思い直したのだけれど。私の性格が混ざっているのか、イノマタさんの性格が混ざっているのかは分からないが。

 『あなた、相変わらずうじうじしているわね。いえ、私と繋がっていた時よりももっと酷いわ。“あなただけ”になると、こーなるのね。はっきり言って見ていられないわ』

 私はその彼女の言葉を聞いて、嫌な予感を覚えた。

 彼女は“返す”と言った。それは或いはただ単にお礼をするという意味だけではなくて……

 

 会社の月例会。

 長机を囲って全員が向き合うような形のレイアウトで行われていて、右斜め前には園上さんの姿があった。表情がよく分かる。その真正面には新名さんがいた。月例会は基本的には報告だけだ。だから、滞りなく順調に進んでいった。

 が、「では次に、ハラスメント対策について」と議長が口にした瞬間に異変が起こった。いや、“異変を起こした”と言うべきかもしれない。少なくとも半分は“私自身の意志”だったのだから。

 気が付くと、私は手を挙げていたのだ。もちろん、それはイル・セーラーの仕業だった。

 「佐伯さん。どうぞ」と議長が私の発言を認めた。園上さんがわずかに眉を上げたのが分かった。私は…… いや、イル・セーラーは口を開く。

 「先日から、私は嫌がらせを受けています」

 軽く会議室の雰囲気がざわついた。何を言い出すんだ? といったような顔をしている者もいる。

 “どうせ辞めても良い会社なら、掻き回してしまえば良いじゃない”

 イル・セーラーはそんな風に思っているようだった。私の身体で勝手をしてくれる。もっとも、それは半分は私の意思でもあったし、私も彼女に似たような事をしているからお互い様とも言えたのだけど。

 だけど……

 “やっぱり、イルは私にやり返したかったのね”と私は思っていた。別に私は自分で望んで彼女の意識と繋がっていた訳ではなかったのだけれど。

 「机の上に悪口を書いたメモが置いてあるのです。しかも何度も。それ以外にも、ディスプレイが勝手に移動させられてあったりといった事が何度かありました」

 自信満々な口調で私はそう言い終える。

 “うじうじしているのを見ていると、むかつくのよ”

 心の中にそんなイル・セーラーの声が響いた気がした。

 それから私は自然と腰に手を当てると、「明らかにこれはハラスメント行為です。企業のコンプライアンス違反に当たるかと」そう堂々と言い放った。

 「なるほど」とそれに議長。

 「では、その性質の悪い悪戯の犯人を見つけ出しましょう」

 そこで園上さんが嫌味っぽく笑っているのが見えた。どうせ犯人は分かるはずがないと言っているかのようだった。周りには充分に注意をして私に嫌がらせを続けていたのかもしれない。

 が、構うものかとイル・セーラーは口を開く。

 「犯人は分かっています。園上さんです」

 その発言で会議室内に驚きの声が走った。園上さんの顔が真っ赤になっている。勢いよく立ち上がった。

 「何を言うかと思ったら。完全な濡れ衣です! むしろ、これこそハラスメントなのでは? 私がやったと言うのなら証拠を出してください!」

 イルは腕を組むと、いかにも彼女らしい横柄な口調で威圧するように言った。

 「あなたが気に食わない女性社員に対して嫌がらせをしているのは有名な話ですよね?」

 それから森さんを見やる。園上さんから仲間外れにされていた女性社員だ。

 「森さん。あなたも嫌がらせを受けていましたわよね?」

 完全に私の口調はイルになっている。

 森さんは少し迷ったような顔をしてはいたが、恨みがましい目つきで園上さんを見ると、どうせ追い出されるのならと意を決したのかこう言った。

 「はい。嫌がらせを受けています。ずっと仲間外れにされていました」

 それを受けて、会議室内は一気に騒がしくなった。

 「事実だとすれば問題だぞ」

 「何故、今まで誰も言わなかったんだ?」

 以前から園上さんが嫌がらせを行っていた事を知っている社員達は“遂にバレたか”といった感じで黙っている。呆れている者、まずそうな顔をしている者、面白そうな顔をしている者。実に様々だ。

 園上さんは抗議をする。

 「確かに最近、森さんと一緒に食事をする事はなくなりましたが、それで仲間外れだ、嫌がらせだとするのは無理があります!」

 彼女の主張は一理あるだろう。

 人間関係が途絶えただけで嫌がらせと言えるかどうかは微妙なところだ。私は内面のイル・セーラーに問いかける。一体、どうするつもりなのだ? と。

 そこで誰かが私の死角で手を挙げたようだった。議長が視線を向ける。口を開いた。

 「新名さん。何でしょうか?」

 新名さん?

 私はそれに驚いてしまった。

 彼がこの状況で何を言うのだろう?

 「僕は佐伯さんとは席が近いですが、それで何度か見かけているのです。園上さんが佐伯さんの机に悪戯をしているのを。

 見かけた時は、何をしているのか分からなかったのですが、今、佐伯さんの話を聞いて納得がいきました」

 その彼の言葉で「ほー」と声が上がる。園上さんは顔を真っ赤にした。

 「そんなの嘘ですわ! 見られるはずがありません!」

 多分、彼女としては細心の注意を払っていたつもりだったのだろう。その言葉は自分がやった事を認めた発言にも受け止められかねないからか、慌てて「だって、やっていないのですから」と続けた。

 しかし、それから淀みなく新名さんは園上さんの犯行を目撃した日を言うのだった。

 「昨日の昼休み、遠目からですが、園上さんが佐伯さんの机の上にメモ用紙を置いているのを見ました。その前の日は、会議で皆が出払っている時に佐伯さんのディスプレイを移動させていました。奇妙に思ったのでよく覚えています。まだ他にも……」

 私はその証言に驚いていた。人間の記憶力はそんなに良くない。その程度の些細な内容は覚えていないのが普通だろう。だが、スケジュールを確認すると、確かに証言と一致していた。そこでこんな声が頭に響いた気がした。

 “……ふふ。やり過ぎですわよ。闇の森の魔女”

 それで察した。

 新名さんは、今、闇の森の魔女、アンナ・アンリに操られているのだ。彼女なら、園上さんが私に嫌がらせをした日を魔法で調べるくらいできてもおかしくはない。私は彼女にも“貸し”がある。そう言ってしまって良いと思う。だからきっと手伝ってくれたのだ。

 新名さんは言う。

 「僕は佐伯さんとは同じチームで仕事をさせてもらっています。優秀な方で、色々と助かっています。もし、彼女に抜けられでもしたら相当にきつい。

 だからという訳でもありませんが、ハラスメント行為など絶対にあってはなりません」

 その後で“彼、脈があるのではなくて?”とイルが心の中で言った気がした。“どうせ、この台詞はアンナ・アンリが言わせているのでしょ?”と私は返したが、彼女の意識を繋げる魔法は完全に相手を支配できる訳ではない事も私は知っていた。

 園上さんは顔を青くしていた。何も言わずとも、新名さんの証言が正しいとその表情は認めていた。彼女が明らかに気のある新名さんからの証言だったから、より効果があったのだろう。

 それを受けて、私の中のイル・セーラーは満足そうにした。

 “これで、貸し借りはなしですわよ”

 そんな声が頭の中に響いた気がした。それから間もなく彼女の気配は消えた。

 “さようなら。異世界の性格の悪い令嬢さん。ありがとう”

 彼女が完全に消える前、私はそう心の中で挨拶とお礼をした。そして、自分の性格にも直すべき点はたくさんあるし、彼女に見習うべき点もあるのだろうと思ったりした。

 

 月例会での告発は、直ぐに社内でも話題になった。元より、園上さんがハラスメント行為を色々な女性社員に行っている事を知っている人は多かったので、その噂は瞬く間に広がって、しかも疑う人もあまりいなかった。

 一気に、園上さんの社内での立場が悪くなったのは言うまでもない。

 森さんや、他の彼女から嫌がらせを受けていた人達はこれで溜飲を下げただろう。自業自得と言えば自業自得かもしれない。

 ただ、私はどうにも座りが悪い想いを抱えていた。

 まったく関係のない別の課の人の話だ。ある男性社員がパワハラを上司から注意された。その人は反省して行動を改めたのだけど、何故か大体一か月くらいで元に戻ってしまうのだという。本人曰く、「駄目だとは分かっているのだけど、ついついやってしまう」との事らしい。

 つまり、自分で自分がコントロールできていないのだ。

 今、その彼はパワハラ癖を治す為に、カウンセリングを受けている。病気と言ってしまって良いかどうかは分からないが、本人の自由にならない事だけは確かだ。

 もしかしたら、園上さんも同じなのかもしれない。

 

 「――何よ、話って?」

 

 私が園上さんをブースに呼び出すと、彼女は私を睨みつけながらそう言った。私を恨んでいて当然だろう。ただ、彼女はあの事件以来随分と弱気になっていたので、それほどの迫力は感じなかった。

 私はそれから「人間って、そんなに自分で自分をコントロールできていない生き物なのだそうですよ」と告げると、性格改善に成功した人の話としてイル・セーラーの事を話した。食事改善と腸内環境の改善で効果があったとも。もちろん名前は伏せたし、異世界の令嬢などとも言わなかったけれど。

 彼女が納得しているのかどうかは分からないし、仮に納得したとしてもそれを彼女が自分のこれからに活かしてくれるとは限らないが、ただ、それでも彼女は最後まで私の話を聞いてくれた。

 或いは、彼女自身にも何か思い当たる節があったのかもしれない。

 

 ……動物のヒルが逃げる時のニューロンの活動を調べた実験がある。その実験によると、ヒルが泳いで逃げるのか、それとも這って逃げるのかを決めるのは、なんと膜電位の差でしかないと分かったらしい。

 この“逃げ方”の選択は、果たしてヒルの意志だと言えるのだろうか?

 私は少し無理があると思う。

 これはヒルの話だが、人間でもこれは大差ないという意見もある。人間の行動の準備は、意志が生まれる0.5~1秒前、場合によってはそれより前に脳の中で既に始まっていて、それは脳の“ゆらぎ”だと言われている。そして人間が自由意志だと思っているものは、その脳の動きに対する後付けの“作話”に過ぎないのだという。

 つまり、本当の意味での自由意志など存在しないのかもしれないのだ。それは人間の“思い込み”に過ぎない。

 ただ、もちろん、それでも人間が自由意志を持っていると思い込む事には意味があり、だから価値もあるのだが。

 もし、人間の自由意志がその程度のものなのだとすれば、後は人間の脳の…… 否、脳も含めた身体の状態をコントロールするしかない。

 そして、その為にコンディションを整える事は、或いは“自由意志”と言えるのではないだろうか?

 少なくとも私はそう思っている。

自我同一性を扱うのに、異世界転生ものは使えるな(これは異世界転移だけど) と以前に書きましたが、今回、使ってみました。ただ、メインテーマは自由意志の方ですが。

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