暗闇を抜けた先……猶予などない!
黒い闇の中、俺は漂っている。
周囲には何も見えない。
自分の体も感じられない。
ただ意識だけが、落下している。
上も下もない空間のなか、ただ墜ちている。
浮遊感。
ダンジョンに入るときに一瞬感じるふわりとした感覚に近い。
ゆらゆらと不安定に、なにに縋ることもできずに揺れている。
なにかが、引き抜かれるような感覚。
剥がれ落ちるような喪失感。
俺の意識。俺の体。俺の魂。
なにかわからない。
なにかが、失われた。
「ぐっ! ……げほっ!」
床に叩きつけられる。
痛みに、意識が覚醒する。
「あ……え?」
目の前には床がある。だが、洋館の床板とは違う。
ここは……トウコの家のキッチンだ。
俺は死んだ……ダンジョンの中で……。
そう……死んだんだ。
さっきの爆発で不運にもなにかが背中に刺さった。
運悪く、家具の破片が爆風で巻き上げられた。
運悪く、ちょうど俺に突き立つように飛んできた。
運悪く、当たり所が悪かった。
「ぐ、ぐえ……」
吐き気がこみ上げる。
胃のせり上がるような感覚。
だが、何とか持ちこたえて嘔吐はしない。
「はあ……」
背中に手をまわして傷を確認する。
傷も痛みもない。血も出ていない。
いま、俺は生きている。
ダンジョンの中で死んで、生き返った。
「これが……これが、死ぬってことか? キツイな……」
心臓がバクバクと脈打っている。
もう傷はないのに呼吸がうまくできない。
頭では、さっきまでの負傷を、痛みを覚えている。
体の傷はなおっている。
だが、その差が埋まらない。
心がついてこない。
頭で理解できない。
生き返ったんだ! 傷も消えた!
落ち着け……。
ここはダンジョンの外だ。今は安全だ。
息を吸え。息を吐け。
「はあ……ふうー。――はっ!?」
なんとか呼吸を整えて顔を上げると、開いた冷蔵庫の中が見えた。
――そこには転送門が黒々と蠢いている。
ちらちらと揺れる黒い触手が伸びている。
まるで俺を手招いているようだ。
「はあっはあっ……」
俺は、ぽっかりと開いた闇……冷蔵庫から逃げるように床を這う。
触手は俺を探しているかのように揺れている。
だが、まだそれは俺を見つけていない。
立ち上がろうとするが、体に力が入らない。頭がふらつく。
まだ、今ならここから逃れられるかもしれない。
あの地獄へ戻らなくて済むんじゃないか。
今、逃げれば……。
転送門から離れれば、追ってこないかもしれない。
家の外まで行けば、どうだ?
タクシーを拾って車で遠くまで行けば……?
そうだ。一度ここを離れる。
そして準備を整える。武器を持って、万全の態勢で挑む。
名案だ。家に帰って、ナタやクギを持ち込もう。
「ははっ……名案だ。そうすればクリアできる!」
だけど……俺が戻ってくるまでトウコは耐えられるか?
その間にもトウコは死に続けるだろう。
難易度の上昇とデスペナルティの蓄積。
もう、一人で突破できる目はない。
精神状態も限界だ。
投げやりで、諦めやすく、集中力が切れている。
そんなトウコを置いていくのか?
冷蔵庫の黒い触手が動く。
俺を見つけたのか……。
こちらへうねうねと伸びてくる。
「ううっ……来るなっ!」
キッチンを這いずり、後ずさる。
手が、なにかに触れる。
俺は手についたそれを見る。
それは、乾きかけた血だ。
「……血?」
――この血は、なんだ?
最初にここへ来た時にも感じた違和感だ。
荒れたキッチン、嘔吐物と血。
なぜ、こうなったのか。
死んで復活するとき、傷は治る。
だから、ダンジョンの外では血は流れないはずだ。
ダンジョンの外、このキッチンを汚している血は……。
――包丁だ。血のついた包丁が落ちている。
そうか……!
この血は、トウコのものだ。
ダンジョンからは逃れられない。
死んでも生き返る。だから何度でも、やり直せてしまう。
ダンジョンでの死は終わりではない……いや、終われないんだ。
終わらせる方法はある。
それに、トウコはすぐに気づいただろう。
それは、外で命を絶つこと。
あの包丁は、それだ。
あの血は、その形跡だ。
「ああ……ちくしょう!」
準備を整える? 一度この場を離れる?
そんなことをしている猶予はない!
一刻も早く、トウコをここから救い出さなければならない!
「くそっ! 置いていけるか!」
俺は血の付いた包丁を拾い上げる。
そして、黒く蠢く転送門……ぱっくりと開けた地獄の口をにらみつける。
包丁を突き付け、宣戦布告する。
「俺が終わらせる。俺が助ける! 波を蹴散らして、ダンジョンを突破してやる!」
俺は、悪夢の冷蔵庫へと足を踏み出した。
自殺ダメ絶対!