遅くなんてない! その手を伸ばせ!
「……ちょっと、トウコに何かあったらしい。様子見てきます。皆は話し合いを続けておいてください」
「トウコちゃんがどうかしたのか? 俺も行こうか?」
キシダが心配そうな顔で同行を申し出てくれる。
だけど、それはできない。
おそらくはダンジョン関連の問題だ。
――ダンジョンのことを知られてはならない。
キシダがダンジョンを目にすれば、禁止事項に触れることになる。
恐らくキシダはシモダさんのように記憶を操作される。そして、この場合、ペナルティを受けるのは……。
ダンジョンの持ち主であるトウコか、ダンジョンがある所へキシダを連れて行った俺か、あるいは二人とも……。
マズいことにしかならない。
トウコを助けに行くつもりが、それじゃあ本末転倒だ。
「キシダ、ありがとう。でも大丈夫だ。俺一人で行ってくるよ。キシダはこっちの話し合いを進めておいてくれ」
「ああ。分かった。オーナーに認めさせることをみんなでまとめとくよ」
「よろしくたのむ。じゃ、行ってくる」
俺は店を後にする。
俺はトウコの家を知らなかったので、店の書類から住所を突き止めた。
住所は……店からは少し遠い。
ドラマだったら、こういうときには走って向かう。
だけど俺はタクシーを使って移動する。
走っていける距離じゃない。時間もかかる。
さいわい、すぐにタクシーはつかまった。
俺はタクシーに揺られながら考える。
――トウコに何が起こったか?
とうぜん、ダンジョン関連の問題だろう。
だけど……それはなんだ?
急いでダンジョンに潜らなきゃならないようなことって、あるか?
今日の打ち合わせは、トウコ自身がセッティングしたものだ。
店の存続を望むアイツにとって、優先度は高いはずだ。
あるいは、別の問題なのか?
たとえばオトナシさんのストーカーみたいに、ダンジョンの外で力を使う誰か。
この街で多いという痴漢や下着泥棒のような……スキルを使う犯罪者に襲われた?
答えが出ないまま、目的地に到着した。
「……ここか」
トウコの家の前に到着する。
表札も出ている。ここで間違いない……。
「トウコの家って……豪邸かよ!」
大富豪の家とは言わないが、かなりの大きさだ。
庭付き一戸建て。隣の家との間隔も広い。
いわゆる閑静な住宅街というやつだな。
俺のアパートとは大違いだ。
チャイムを押して応答を待つ。
返事はない。
――ダメか。
緊急事態なら、チャイムになんて出られない。
トウコはここに一人暮らしのはずだ。
両親はほとんど家に帰らないと言っていた。
「……しかたない。押し入るか……なんでもなかったら、謝ろう」
俺は門を開けて玄関へ向かう。
ドアにはカギはかかっていない。
ドアを開けて中へ入る。
「ごめんくださーい。トウコいるかー?」
返事はない。
トウコはいないのか?
両親が珍しく家にいる、なんてこともないようだ。
家の中はしんと静まり返っている。人の気配はない。
すでに立派な不法侵入だ。
女子高生の家に忍び込んだ飲食店の店長が逮捕される……なんて、ニュースになりかねない。
声をかけながら、家の中を進む。
トウコは冷蔵庫がダンジョンになったと言っていた。
それなら、キッチンにあるはずだ。
「こりゃひどいな……」
たどり着いたキッチンは、荒れ果てていた。
荷物が散乱してひどいありさまだ。
血や嘔吐物で床が汚れている。
「……なんだコレ。強盗にでも入られたのか? ……いや、違う」
冷蔵庫の前にスマートフォンが落ちている。
トウコのものだろう。
トウコはさっき、ここにいた。
俺との通話中にスマートフォンを落として、姿を消した……。
その原因は――そう。冷蔵庫だ。
この部屋の中で、これだけが異質。
強盗に襲われたなんて考えが違うと教えている。
冷蔵庫は開け放たれている。
その内部には黒い水面……ダンジョンへの転移門が激しく揺らめいている。
「な、なんだコレは……!」
……俺のダンジョンとは違う!
俺のダンジョンの転移門の水面は、静かに揺らめいている。
こんなふうに、激しく波打ってはいない。
まるで今にも、なにかがあふれ出てきそうな――
「――うわあああ!」
その水面から、トウコが吐き出される。
床に叩きつけられたトウコが悲鳴を上げる。
「トウコ!?」
「て、店長!? き、来てくれたっスか!? ……だ、だけど、ダメっス! このダンジョンは……あたしはもうだめっス!」
トウコの顔に安堵が浮かび、そのあと、顔がゆがむ。
これは……怖がっているのか?
「はあ? なに言ってんだ。ダンジョンがどうかしたなら、俺が手伝う。ちゃんと説明しろ!」
「このダンジョンはヤバいっス! もう、どうにもならない。店長を巻き込むわけには……」
トウコの背後で、冷蔵庫が唸る。
いや、唸っているのは冷蔵庫の中の、何か。
激しく波打つ黒い水面から、何十という腕が伸びる。
「な、なんだコレ……こんなの俺のダンジョンにはないぞ!」
その腕を見ただけで、嫌悪感が走る。ぞわりと、全身に鳥肌が立つ。
それが、良くないものだと直感する。
「もう、外に出られる時間も短くなってきたっス。このままいけば、死ぬよりも恐ろしいことに……。店長を巻き込むわけにはいかない。放っておいてほしいっス! ――でも……助けに来てくれて、うれしかったッス」
そういって、トウコは笑う。その頬を涙が流れる。
その表情は、諦めだ。
冷蔵庫から伸びたおぞましい黒い腕が、トウコを掴む。
トウコが小さな悲鳴をあげる。
その黒い腕は、ストーカーが追放されたときの黒いドロドロに似ている。
これに捕まったら……どうなってしまうんだ?
体中にまとわりついた黒い腕が、トウコを引きずっていく。
「逃げて! あたしはもう……いいんス」
トウコは泣き笑いのような弱々しい表情を浮かべる。
もういいだなんて……そんなことはない!
「逃げて、じゃねえだろ! なにを勝手に諦めてんだ! 俺はお前を助けに来た! 助けてと、言え! この手を取れ!」
俺は、トウコに向けて手を伸ばす。
トウコはその腕を見て、瞳を揺らす。
「――た、助けて! こんな、こんなところで死にたくないっス!」
トウコは涙を散らせながら叫ぶ。
迷うように差し出された腕を、俺はしっかりとつかむ。
「よく言った! 心配するな。ちゃんと助ける!」
――今度こそ、俺は間に合った。
俺はいつも、少しのところで手が届かない。力が及ばない。
だけど今、差し伸べた手はしっかりと届いた。
この手を放さない。
手遅れだなんて言わせない。諦めさせはしない!
嫌だと言っても、助けてやる!
ご意見ご感想お待ちしております! お気軽にどうぞ!
「いいね」も励みになります!