天国があるとするならば……!
――何か、いい匂いがした。
お日さまの匂いというやつだろうか。
暖かい日差しが心地よく、涼やかな風がさわさわと皮膚をなでる。
身体に痛みはない。
まるで刺された傷なんて初めからなかったみたいだ。
――ああ、ここは天国か。
……俺みたいなやつでも天国に来られるのか。
うっすらと目を開ける。
日差しに目が慣れると、青い空に雲が流れるのが見える。
薄い雲が、風に吹かれてゆっくりと流れていく。
空は広くて、自分がちっぽけな存在のように感じる。
視界の端には緑の草花が見える。陽光を浴びて、朝露にきらきらと輝いている。
アパートで倒れていたはずの俺は、どうやら草原にいるらしい。
草原に生えている草木は、見慣れないものが多い。
……あれ、これってもしかして、異世界か?
異世界に転生しちゃったりして……?
起き上がろうとしたが、体に力が入らなかった。
頭の後ろが、温かい。やわらかい感触がする。
ふわふわとして、心地がいい。
「……やっぱりここは天国か」
「あっ! 目が覚めたんですね、クロウさん! ――よかったぁ……!」
ぽたぽたと、しずくが俺の顔に落ちてくる。
顔を上げれば、オトナシさんが安心したような、泣き笑いのような表情でこちらをのぞき込んでいる。
その目からは涙があふれて、俺に向けて滴っている。
彼女が、俺のために泣いている。
安心したような、嬉しそうな表情で、涙をあふれさせている。
――俺のために泣いてくれる女の子がいる。心配してくれている。
それが嬉しい。なんて、もったいないことだろう。
後頭部のあたたかく柔らかい感触。
見上げた視界を埋める柔らかそうなふくらみ。二つの禁断の果実だ。
俺は、またオトナシさんに膝枕されているらしい。
「……ここは?」
「ここはダンジョンの中ですよ!」
「ダンジョン……? いや、やっぱり天国かな。天使に膝枕されているようだし……」
「ふふっ。まだ寝ぼけているんですか」
天国じゃないみたいだけど、ほぼ天国だな。
オトナシさんが笑うと二つのふくらみも俺の目の前で揺れる。
禁断の果実に手を伸ばしたい欲求をなんとか押しとどめる。
寝ぼけているとはいえ、それをやったら天国――楽園から追放されること間違いなしだ。
それは困る。この心地よい状態をずっと続けていたい。
「もうちょっと寝てたいけど……。いろいろ聞きたいことがあります」
起き上がろうとする俺をオトナシさんが手で制する。
「じゃあ、そのままで聞いてください。ケガは治っていると思いますが、無理はだめですよ!」
そう、けがは治っている。
身体は快調で、刺された背中に違和感はない。
何時間も寝た後のように頭もすっきりしている。
「そう、ケガだ。俺はナイフで刺されてほとんど死にかけてたはずだ」
「ケガはポーション……ええと、ケガが治る魔法のおくすりですね。これですっかり治ったはずです」
オトナシさんは笑顔で説明してくれる。
ポーション……そうか、それで助かったのか。
ポーションはあれほどの負傷も治してしまうのか。
たぶんオトナシさんが部屋から俺を引っ張って、ここへ連れてきたんだ。
ここはもちろん、俺のダンジョンじゃない。
この草原は、オトナシさんのダンジョンなんだ。
そして、ポーションを飲ませてくれたんだろう。
「じゃあ、オトナシさんは俺の命の恩人だな。ありがとう。助かったよ!」
俺は起き上がって頭を下げる。
オトナシさんは驚いて、両手を振って謙遜する。
「ええっ! 頭を上げてください! お礼なんて! 恩人はクロウさんのほうです!」
「いや、俺はあんまり役に立ててなかった。もっと俺が強ければよかったんだけど……。はは、恰好つかないね」
たしかに、ピンチの場面に駆けつけることはできた。
きわどいところでなんとか間に合ったと言えるだろう。
それでも、守ることができたかといえば怪しいところだ。
守り切るだけの強さがなくて、逆に命を助けられた。
勝たなきゃならないところで勝てなくては、しまらない。
なんとかなったから良かったものの、それは結果論だ。
自嘲ぎみな表情を浮かべる俺に、オトナシさんがかぶりをふって告げる。
その眼には涙が浮かんで、真摯に、高まる感情を伝えていた。
「いいえ! クロウさんは恰好よかったです! あのとき、私はもう駄目だって思っていました。このまま連れていかれてどこかに閉じ込められちゃうんだって諦めていました。でもクロウさんが壁を壊して入ってきたとき……私の中にあった心の壁も崩れたんだと思います。それで、動くことができました。戦うことができたんです!」
オトナシさんの目から、また涙があふれ出る。
俺の目にも涙がにじむ。
そうか。力で助けられなくたっていいんだ。
大切なのは助けようとすること。行動することだ。
どんなことからも守ってあげられるような力は俺にはない。
俺はヒーローになんてなれなくたっていい。
人の問題は他者には解決できない。自分で助かるしかない。
そのためにちょっとした手伝いができればいい。
そう思うと気が楽になった。報われたような気がした。
「そっか。そうならよかった。役に立てたならよかったよ」
「はい。とっても! 役に立つなんてもんじゃないです! い、一家に一台ほしいくらいです!」
「一台……?」
「あ、ひとりです。私の家にも一人、クロウさんが……!」
妙に力強く、俺をほめそやすオトナシさん。
正直、それほどのことをできている気はしない。
過大評価じゃないか?
「そもそも私はずっと、クロウさんに助けられてきたんです。今日にかぎらず、ずっと……! クロウさんが居なかったら、私はずっと前にもう駄目だったんです!」
妙に持ち上げてくるオトナシさん。悪い気はしないけど。
「ずっと前? 何かしたっけ? 絡まれてるのを助けた件?」
なんどか、ナンパ目的のような男に絡まれているのを助けたことはある。
とはいえ、それがないと駄目……というほどのことをしたと言えるだろうか。
納得していない感じの俺を見て、オトナシさんがさらに前のめりになる。
近い! 近いよ!
「それもそうですし! 階段から落ちたときも受け止めてくれましたし!」
「ああ、あれは驚きましたね」
ゴミを両手に抱えて階段を踏み外したときのことか。
叫び声に振り返ったら、空から美少女が降ってくるんだからな。
漫画みたいなシチュエーションだったので、覚えている。
あれは良かった……じゃなくて、ケガがなくてよかった!
俺が下敷きにならなかったらオトナシさんが大けがをしたかもしれない。
「それにほら、缶のゴミの日を教えてくれた時も!」
「いやあ、それくらい普通でしょう?」
「その普通が、どれだけ私には嬉しいことか……わからないかなぁ」
まるで俺が俺自身のなんらかの功績を理解していないことがくやしいみたいな、むきになったような感じがある。
「それに、私がこのアパートに引っ越してくる前も! ……あっ!」
「引っ越してくるより、前?」
俺は首をかしげる。オトナシさんと知り合ったのは引っ越してきた後だったはずだ。
彼女はあっと、口元を押さえる。
勢いで口を滑らせてしまったみたいに。
「あああ! ううーん……ええと……」
オトナシさんは何かを考えているかのようにころころと表情を変える。
恥ずかし気に顔を赤くして悶えたかと思うと、勢いに任せるように表情を引き締める。
「……それは。その。前に言いたいことがあるって言っていた件なんですが……本当に言いたかったことはストーカーさんについての相談じゃなかったんです」
「……え? いや、実際ストーカーが……んん?」
ちょっと、何言ってるかわからない。
「それは、その、言わなきゃいけないとは思っていたんですが、言いにくいことで……。相談というより告白なんです……」
「え? あー。そうか、相談だと俺が言い出したんでしたっけ」
思い返してみれば、彼女が何か言いたそうにしていた時に、俺が相談だと受け取ってしまったんだ。
そのときも歯切れが悪くて……何か態度が妙だった。
ストーカーの件は昔のことだと彼女は考えていたようだったし。
結果的には、現在進行形の危機だったんだから、あながち間違いではないんだけど。
勘違いだったけど、対策できたんだから正解だな。
そうじゃなかったら今頃……。本当に良かった!
相談ではなくて……こ、告白?
つまり、俺のことをス、ス……スキヤキ!?
「隠しているのが苦しくて……申し訳なくて……」
あれ? 申し訳ない?
やっぱり愛の告白じゃないし!
あやうく変な反応するところだったぜ!
「じ、実は私がこのアパートに引っ越してきたのは偶然じゃないんです」
「……え?」
ちょっと、意味が分からない。
「……クロウさんが住んでいるから、ここを選んで引っ越してきたんですっ!」
「……え?」
ちょっと、意味が分からない。
「つ、つまりですね。私はずっと前から、クロウさんのことを……」
「ことを……?」
「ス……」
「――スキヤキ?」
意味の分からないことを口走ってしまった。
「――いえっ、その……ス……ストーカーみたいな感じで……」
「みたいな感じで!?」
まったく、意味が分からない!
え、俺が鈍いのか? 勘違い系主人公みたいになっているのか!?
いや、わからんわ。
「駅前でクロウさんを探して……後をつけて……」
「……え? ええ?」
ちょっと、どういうことだってばよ!?
「お仕事しているお店や、このアパートを突き止めて……」
「うんうん……突き止めて!?」
「ちょっと気持ち悪いですよね!? 私のやっていたこと! ひ、引きますよね?」
「ちょっと意味が分からない。よくわからないけど……なんで?」
マジ分からん。
俺はストーカーされるような超絶イケメンだったりしないし。
意味というか理由というか、動機がわからない。
「そ、そうですよね。なんでそんな気持ち悪いこと……!」
「いや、そういう意味じゃなくて! 気持ち悪くはないけど、意味が分からないだけです」
オトナシさんはしょぼんと、うつむいてしまう。
オトナシさんほどの美少女にストーカーされる理由がわからない。
特殊な好みにバッチリハマったとか?
ううーん。わからん。
「うーん。意味……? えっと、理由……ですよね。ほら、前にお話ししたちょっと精神的に追い込まれていた時期のことです」
「うん」
相談された件か。友達とモデルの件で気まずくなって、落ち込んでいた頃。
あるいはストーカーに狙われたり個人情報が漏洩して引きこもっていた頃。
さぞ心細かったろう。
「道に迷って困っていた私にクロウさんが声をかけてくれたんです。何の見返りもなく。下心もない感じで、ただただ親切で……。あのとき私は……誰も助けてくれない、どうにもならないと思っていたんです。そんな私をさりげなく助けてくれたことが嬉しくて。……それで、そのあとクロウさんを探して、このアパートにたどり着いたというわけで……」
もじもじとややうつむいて、いたずらのバレた子供のようにこちらをうかがっている。
上目遣いのその表情はズルい。
たしかにストーカーじみている。
どうやって俺の家を突き止めたのかも気になる。
どうやったんだ?
駅前で見つけたって……俺は徒歩通勤だから、駅は使わない。
店に行くとき駅前は通るけど……うーん?
全く気付かなかったな。
というか、果たして何日張り込んだんだろう。
俺の通る時間もわかるはずないのに。
普通に考えたらかなり……怖いぞ。ヤバイ子だぞ。
まあ、オトナシさんだから、悪い気はしないけど。
ただし――オトナシさんに限る! というやつだな。
それに、道に迷っていたオトナシさんを助けた?
俺はその出来事を覚えていない。
重大なイベントだったなら、覚えていなきゃいけないような気がするけど。
「そ、そうなんだ? いつのことかわからないけど、ちょっと思い出せないな」
彼女は少し寂しそうな顔をして、それから喜ぶような、安心したような表情を浮かべる。
ん? 表情が明るくなる意味がわからないな。
「……そうですよね。いえ、覚えていなくて当然です。たぶん、クロウさんには普通の出来事なんです。クロウさんは普通に、なにげなくいつも人を助けてるんですよ。クロウさんには特別なことじゃなくても、私には特別だったんです。あの日、私は救われたんです!」
オトナシさんは目を閉じて胸に手を当てている。心の中の大事な何かを確認するみたいに。
俺はその祈るような姿を見て、いとおしさがこみ上げてきた。
「オトナシさんがそれを大切に思っていてくれたことは嬉しい。――俺なんかが、誰かを助けることができていたんなら、なんだか報われた気がするな……!」
「もっと自信を持ってください。もっと誇ってください。――クロウさんはずっと、私のヒーローなんですから!」
彼女は力強く、そう口にする。
ヒーロー、か……。
俺は、誰のことも救えないと思っていた。
力が足りないと思っていた。
だけど――
彼女のダンジョンも、ストーカーの襲撃も関係なかった。
俺の家にダンジョンが現れたことも、関係ない。
それよりも前に、俺は彼女を救えていたんだ!
俺に最高の笑顔を向けてくれるオトナシさん。
俺もつられて笑った。少し、誇らしげに。