異常警報! 打ち破れ! 俺と彼女を隔てるモノ!
アパートの薄い壁の向こうから、話し声が漏れ聞こえてくる。
声の片方はオトナシさんだ。声は固く、緊張しているような声色だ。
もう片方は……よく聞き取れない。だが男性の声だ。
友達? それとも家族か?
……でも、それはおかしい。
「――オトナシさんってぼっちだよな……?」
ここに住んでいることは家族にも教えていないと言っていた。
急に友達ができるとも思えない。
家族でも、友達でもない男……?
だとすると、いったい誰なんだ!?
どうにも悪い予感がしてならない。
さらに聞き耳を立ててみる。
「……誰……なんで……」
「やっと……の美少女……運命……」
聞こえてきた言葉は意味の分からない断片だ。
――俺の中で異常を知らせる警報が鳴る。
間違っていたなら謝ればいい。
友達だったら笑い話だ。笑われたってかまわない。
ストーカーだったなら――
迷っている暇はない!
「オトナシさん!? どうかしましたか? 何かトラブルでも!?」
壁をたたきながら、声をかける。
壁越しに聞こえていた会話は、ぴたりと止まる。
……沈黙。
「……クロウさん!? 知らない人が! いつのまに部屋にいて! ――助けてッ!」
「ッ!? いま、そっちへ行きます!」
悪い予感は外れてくれなかった!
くそ、もっと早く行動できただろう!
どうする!? 考えてないで、動け!
急いで自分の部屋を出る。
勢いあまって外廊下の手すりにぶつかりながら、すぐ隣のオトナシさんの部屋を目指す。
玄関のドアに手をかける。
開かない!
鍵がかかっている!
「くそっ!」
ドアノブを力任せにひねっても、ドアを叩いてもビクともしない。
「オトナシさん! ダメです! 開きません! カギがかかってます!」
「……っ! ……そこを、どいてください!」
「……抵抗しないで。傷つける気はないんだ!」
ドアの向こうからは争うような物音が聞こえる。
くぐもっていてよく聞き取れないが、男の声だ。
オトナシさんの声に比べて、男の声は小さく聞こえる。
なんだ? 距離が遠い? 声が小さい?
そもそも、このアパートでは会話の声なんて筒抜けだ。
なんで俺は壁に耳を当てるまで気づけなかったんだ?
くそ、混乱して余計な思考ばかりが回る。
今は体を動かせ。声を出せ!
オトナシさんの話によれば勝手に入り込んだ知らない人だ。
そいつが入り込んでからドアのカギをしめたのだろう。
邪魔が入らないように。己の目的を遂げられるように。
中からオトナシさんが開けられる状況とは考えにくい。
「おい、誰だ! そこにいる奴! なにをしている!」
俺は声を張り上げ、中にいる相手に声をかける。
「……ちっ。邪魔者め……!」
かすかに舌打ちする声が聞こえる。
ドアは開かない。体当たりしても、力任せに引いてもダメだ。
ドア一枚を隔てた向こう側に、オトナシさんと不審者がいるというのに!
どうすることもできないのか、くそっ!
「くそっ! 開け!」
ドアを何度も蹴りつける。力いっぱいぶつかっても、映画のようには蹴破れない。
くそ! 全然ダメだ!
ダンジョンの中でなら、ステータスかスキルでどうとでもできるのに!
大家を呼んでカギを開けてもらうか? それとも警察を呼ぶ……?
ダメだダメだ。そんなもの待っていられない!
何か使えるものは……?
外廊下には使えそうなものはない。
焦りばかりがつのる。心臓がうるさいほどに騒ぎ立てている。
「――なにもない! ここでウロウロしていても仕方ないな!」
自分の部屋に駆け戻り、使えそうなものを探す。
ダンジョンの中には使えるものもある。
だが、持ち出すことができない!
クローゼットに立てかけてあった金属バットをつかむ。
これをドアノブにかませる? ドアを叩き壊すか!?
そんな思考を、壁越しの悲鳴が中断させる。
「きゃあ! ……うあっ!」
オトナシさんの悲鳴。
そして、壁に何かが叩きつけられたような鈍い音。
「くそっ! こんなに近くに居るのに! ドア一枚、壁一枚隔てただけで何もできないのか!?」
俺は力なく、壁を叩く。
――待てよ、壁?
いつも音モレに悩まされている薄い壁だ。
欠陥住宅じゃないかと疑うほどの壁。
鉄製の玄関のドアに比べたら、どうにかできるんじゃないか?
そう、俺と彼女を隔てているのは薄っぺらい壁にすぎない!
「なら――こんなもの、ぶち破るまでだ!」
たかが壁一枚!
これくらい打ち破れないはずはない!
それくらいできなきゃ、彼女を助けることなんてできない!
俺は力いっぱいバットを振るう。
打ちつけられたバットは、自分の部屋とオトナシさんの部屋を隔てる壁に、くぼみを作る。
――いける!
何度もバットを壁に打ち付ける。
何度も何度も!
「開け! 開けッ! 開けえッ!」
一撃ごとに、壁の穴が大きくなる。
もろい石膏ボードを打ち破る。
その向こう側に現れた木材をへし折る。
バットから、ひびが入ったようないやな手ごたえがする。
クラフトによる強化も何もない金属バットだ。
ダンジョンができてから、ずっと愛用してきた。
これまでの戦いで傷だらけ。そろそろ、限界が来ている。
たのむ! 相棒! もってくれ!
「もう少し! もう少しだ! うりゃああッ!」
なんとか、人ひとり通れるほどの隙間が開く。
強引にこじ開けて、穴を抜け出る。
オトナシさんの部屋へと踏み込む。
「――オトナシさん! 大丈夫ですか!?」
叫びながら、部屋の状況を確認する。
部屋は荒れている。
机は倒れ、荷物が散乱している。
部屋の中にはオトナシさんと、不審な男。
壁を破って出てきた俺を、呆けたように眺めて硬直している。
間違いない! こいつこそ、オトナシさんが言っていたストーカーだ!
だが、その男……男の姿は……なんだ? よく見えない!?
部屋には照明がついていて、充分に明るい。
見落とすはずはない。
そこに居ることはわかる。
そのはずなのに……まるでモザイクでもかけられたみたいにぼやけて見える。
……目にゴミでも入ったのか?
だが異物感は無い。じゃあ疲れ目か?
寝不足や疲れたときに文字が読みにくくなるのに似ているが……。
目を瞬かせても、やはり変わらない。
オトナシさんが、ぼやけた男に壁に押し付けられている。
彼女の両腕は、テープでぐるぐるに拘束されている。
拘束された腕をつかまれ、身動きが取れない。
彼女は俺を見て、驚きと喜びの表情を浮かべる。
「ク、クロウさんっ!」
「……助けに来ましたよ。オトナシさん!」
俺は、安心させるように笑みを浮かべる。
少しひきつっているかもしれない。
……ずいぶんと、待たせてしまった。
事前に危険を知らせておけばよかった。
怖がらせないように蔭ながら守るなんて、思い上がりだったかもしれない。
こんなことのないように警戒していたのに、部屋まで侵入させてしまった。
怖い思いをさせてしまった。
こんなとき、漫画やアニメのヒーローならドアを破ってすぐに駆け付ける。
壁でも窓でもぶち破る。
時間も距離も無視するかのように都合よく現れるんだ。
そして、ちょうどよくピンチの場面に間に合う。
そのまま颯爽と助けてしまう。
――そんな力があればと思う。
だが俺は、これだけ準備してもぎりぎりだ。
ギリギリ――でも、なんとか間に合った!
あとは颯爽と助け出す場面だ。
……なんとかして、この状況を打開しなくてはならない!
正直、こんな展開は想像していなかった。
ストーカーが実際に現れるかも怪しいと思っていた。
現れたとしても、荒事にはならないと考えていたんだ。
この男は……ストーカーは……ただものではない!
だからと言って、退くことはできない!
俺は壁の残骸の上に立って、不審者をにらみつける。
その姿は不気味に揺らいで見えた。
「――なんなんだお前ッ! 彼女を放せ!」
男が、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
向けたように見えた。
「……お前こそ、なんなんだ? 壁から……?」
男が口を開く。
わずかに、その姿が鮮明になる。
黒っぽいパーカーをかぶっていて、顔はよく見えない。
顔だけではない。
姿かたちもぼんやりとしている。
目の焦点が合わないような違和感。
この不思議な感覚……!
これは……。この現象は、まさか……!
ここはアパートの部屋――ダンジョンの外なんだぞ!
……そんなバカな!
「……いや、どうでもいい。邪魔をするなら……消えてもらうか」
ストーカーがつぶやく。
こちらに少しも興味がないかのような声色だ。
うっとうしい小虫に投げかけるような、ぞっとするような感情のない声。
その声は、不自然に小さい。
ノイズがかかったように。ボリュームを下げたかのように。
目を凝らしても、うまくその姿が認識できない。
かすみがかかったような、霧の向こうにいるかのような感覚だ。
男の周囲だけが認識できない。脳が理解を拒んでいるかのように。
これは目にゴミが入ったとか、そういうことではない!
「うう……クロウさん、この人は普通じゃありません! 早く警察を!」
オトナシさんが必死の表情で警告する。
「警察は呼んだ! すぐに来る! ――さっさと帰るんだな!」
これはブラフだ。
電話をする暇はなかった!
それに、スマホは手元にない。
ストーカーに動じた様子はない。
オトナシさんから手を放し、俺のほうへ向き直る。
オトナシさんは小さく悲鳴を上げて、受け身も取れずに床に転がる。
……コイツ! なにが傷つける気はない、だ!
「ふん……。帰らなかったらどうするんだ、邪魔者」
「そりゃあ……ぶん殴ってでも帰ってもらうしかないな!」