悪役令嬢に転生しましたが、遅刻の神に寵愛されているそうですよ?
「マティルダ・カヴァナー公爵令嬢! いや、遅刻姫! 貴様の不品行にはほとほと愛想が尽きた。我が名において婚約破棄を申し渡す!」
ドアマンに頼み込み目立たないように入場した途端、我が国の王太子であるシオドリック・バーソロミュー殿下が声高に宣言されました。
殿下だけではありません。来賓の方々も皆様わたくしに注目なさっておられます。これほど声高に叫ばれましたら当然でしょう。
それにしても今日に限って、なぜ殿下は衆目の前でお怒りなのでしょう。国王陛下主催のパーティーでこのような騒動を起こされてしまっては誤魔化しようもありません。
遅刻姫、とは殿下がわたくしを皮肉って呼ぶ渾名ではありますが、人前で呼ばない程度の分別はおありかと思っておりましたのに。
「我慢に我慢を重ねたが、もうこれ以上は容赦ならぬ! 貴様のような不品行極まりない者と婚約などできようものか! これは国王陛下の命であるとも知れい!」
つまるところ、わたくしが到着するまでの間に何らかの発表がなされたということでしょうか?
おかしいですわね。わたくしの事情は陛下もご存知のはずです。
そっと国王陛下の様子を伺えば、苦虫を噛み潰したようなお顔をなさっておられます。
これはどういうことでしょう。周りの方々もどこか窺うような、好奇と不安が入り混じった何とも言えないご様子です。
「聞いているのかマティルダ!」
王太子殿下が癇癪を起こされました。
こんなのでもこの国の王太子殿下ですから、わたくしは姿勢を正し、たおやかに一礼いたします。
「かしこまりました。婚約破棄謹んで承ります」
このような状況は少々腹立たしくありますが、婚約の解消には異論ありません。
許可が出ないため、顔を上げることもできずわたくしは姿勢を保ち続けます。
カーテシーがどれほどつらいものか殿下はご存知ないのでしょうか? つくづく行き届かない方だと思ったところで、これは嫌がらせの一環なのだろうと思い当たります。
思い返せば、殿下との婚約期間は嫌がらせとの戦いでした。
わたくしが諾々と従う女でなかったことが火に油を注いだことは承知しています。
けれど前世の記憶を持つわたくしにとって、相手が王族であるから、婚約者であるからという理由を敬愛に繋げることは不可能でした。
そう、前世。わたくしには前世の記憶があります。言ってしまえば悪役令嬢転生というものです。
わたくしは前世の世界にあった乙女ゲームの悪役令嬢として転生いたしました。
オタクとは言えない程度にゲームを嗜み、何となく遊んだだけの一作品です。やり込んだとは言い切れませんが、ルート分岐くらいは把握しております。
ゲームのメインヒーローだった殿下は、弟君との確執に悩みながらも立派な王族へと成長なさるはずでした。
婚約者である悪役令嬢からヒロインへ心変わりはしますが、悪役令嬢の行状を思えば婚約解消も致し方ありません。ええ、もちろん破棄ではなく解消です。
ゲームの中で悪役令嬢がしたことといえば、愛するあまり殿下に対してストーカー気味であったこと、恋敵であるヒロインに辛辣に当たったこと、嫉妬から退学させようと手を回したことくらいです。
それだって正当な婚約者である殿下を想ってのことでしたから、情状酌量の余地あって婚約解消、その後は公爵家の縁者と結ばれ穏やかに過ごしたとエンディングで触れられていました。
わたくしの立場はその悪役令嬢ですが、ゲームとは異なる事情が重なったため殿下に対し強い恋心を抱くようなことはありませんでした。
それでも婚約者として適切な対応をしてきたつもりですが、殿下としては不服だったのでしょう。遅刻姫などと蔑み、邪険になさいました。
ヒロインと出会えば精神的に成長されるはずでしたし、いずれ婚約は解消されるものとわかっておりましたからこれまで耐えてきましたが、殿下は一向に変わることなくこのような騒ぎを起こされてしまいました。
その他の攻略キャラ、騎士団長令息、宰相閣下令息、大神官の隠し子、隠しルートの学園教師にして王弟殿下などはごく真っ当な方ばかりです。
彼らとは至って普通の関係を築いてきました。つまり、王太子殿下の側近候補と未来の王太子妃候補です。
ゲームのようにいがみあったりはしていません。いがみあう理由もありません。
なぜって、ヒロインがいないのですもの。
貴族学院の入学式、ヒロインは現れませんでした。平民の特待生として入学してくるはずが、そもそも特待生枠など存在しなかったのです。
攻略キャラのお顔もお名前も前世でわたくしがプレイした恋愛ゲームと全く同じ、なのにヒロインが存在しないのでストーリーらしきものもはじまりません。
当然わたくしが王太子殿下と親しくなる彼女に嫉妬することも、嫌がらせをすることもありえませんでした。冤罪が発生する余地もありません。悪役令嬢転生とはこれいかに。
ヒロインがどこにいるのか、なぜゲームに登場しないのか、わたくしにはわかりかねます。正直自分のことに手一杯で探る余裕もありませんでした。
ゲームと違うことはもうひとつあります。
それは、わたくしが影で"遅刻姫"と呼ばれていること。
そもそもは王太子殿下からはじまり、王宮で働くものの噂に上り、他の家族の方にも広がり、という形です。
ゲーム設定の"悪役姫"よりはマシでしょうか? ゲームのマティルダは王太子殿下の寵愛を求めるあまり悪役令嬢となってしまいましたが、わたくしの遅刻は事実ですしねぇ。
確かにいささか遅刻の回数が多いとは思いますのよ、自分でも。
まあ、そんな渾名を人前で呼ぶ方はおられませんでしたけれども。王太子殿下を除いて。
「忌々しい女め! 悪神の寵愛を受けておきながら我が国の貴族を名乗るとは。そうだ、そもそもそれが間違いなのだ。マティルダ、貴様を貴族籍剥奪の上、国外追放とする!」
王太子殿下のお言葉に大広間がザワリと揺れます。
「口を慎めシオドリック!」
慌てたように国王陛下が王笏で床を突き、立ち上がられた気配を察してわたくしはそっとカーテシーを解きました。
「残念ですわ、陛下」
「マティルダ、違う」
目を細めたわたくしに、国王陛下は慌てて否定なさいます。
そうですわよね。陛下にできるのは否定することだけ。国王たるもの謝罪などはできませぬものね。
けれどそれ以外にもうひとつ、できたことがあるはずです。
「恐れながら申し上げます。陛下には王太子殿下をお止めすることもできたはずです。それをなさらず彼の神を蔑むことをお許しになった。陛下の御世に彼の神の祝福は必要ないということでしょう」
わたくしは金環の輝く双眸を細めてそう言いました。
金環眼。それは神や精霊が寵愛を与えた者に現れる祝福です。
神霊の力量により金環の太さは異なりますが、わたくしの金環は虹彩の半ばまでを覆うほどのものでした。
彼の神に御目通りしたのは転生に気付いた5歳の時。わたくしの魂は妖精にいたずらされたのだと面白がって、戯れに御寵愛くださいました。
神と遭遇すること自体が珍しいのだと知ったのはその後です。
「ハッ! 何を言うのかと思えば。貴族学院の入学式に遅れ、王宮の舞踏会に遅れ、婚約者としての茶会に至っては間に合ったことなどないではないか。貴様は全て神の思し召しだと曰う。遅刻を司る悪神の力など、私が必要とするはずがない!」
貴族たちがどよめきます。
この舞踏会は永遠に語り継がれることでしょう。愚かな王太子の悲劇として。
「王太子殿下。無礼な発言はお控えください」
わたくしは毅然と王太子殿下に対峙します。
「無礼者は貴様の方だろう。更に不敬を重ねるか」
彼は忌々しげに舌を鳴らしました。とても紳士の態度とは申せません。
「いいえ。彼の神の寵児として申し上げます。悪神などという誹りは撤回なさってくださいませ。彼の方は善なる神。確かにわたくしは遅刻もいたしました。ですが、それは全て」
「もうよい」
全く同じ台詞が、三者の声で発されました。
一人は王太子殿下。怒りもあらわにわたくしを睨みつけておられます。
もう一人は国王陛下。こちらも怒りをあらわに、王太子殿下を睨みつけておられます。あら、お二人ともそうなさるとそっくりですわね。
そして最後の一人は涼しいお声で、ゆっくりとわたくしのそばへ歩み寄って来られました。
磨きぬかれた大理石がコツリコツリと鳴ります。そっと肩を抱いてくださったのは、敬愛するお父様です。
「アイヴァン卿……違うのだ」
陛下は目に見えて狼狽え、お父様に縋ろうとなさいました。
「陛下には再三申し上げて参りました。この婚約は釣り合わない。我が娘にはもっと相応しい方がいるはずだと」
「カヴァナー公! 臣下の分際で何を言う!」
声を張り上げた王太子殿下をお父様は一瞥で黙らせます。
ああ、素敵ですお父様。
お母様亡き後、お父様は持てる力全てでわたくしを守ろうとしてくださいました。
前世の話も全て信じ、ゲームの流れと状況が変わった時には一緒に考えてくださいました。
王太子殿下が悪神と蔑んだ彼の神の気まぐれな寵愛も、誰より案じ、喜んでくださいました。
「これほどの恥を呑んでまで娘をこの国に縛るつもりはありませぬ。私も愛する娘とともに出奔いたしましょう。なに、追っ手は無意味。おわかりですね?」
お父様は優雅に手を差し出されます。
「さあ、行こうか。私の愛する黄金姫」
お父様はいつもわたくしのことをそうお呼びになります。
お母様譲りの金の髪。そして、彼の神から賜ったこの金環眼を褒め称えるように。
「わかりましたわ、お父様」
わたくしはお父様の右腕にそっと手を乗せました。
「それでは皆々様。わたくしはこの国からお暇させていただきますが、皆様におかれましては刻の神の御加護あらんことを」
わたくしは淑女らしく微笑みます。優雅に一礼したところでおかしくなり、子供のように声をあげて笑いながらお父様と退出しました。
少々はしたなかったかしら?
いいえ。お父様も大笑いされてましたもの、共犯ですわね。
あとに残るのは喧騒、混乱。
わたくしたちは運のいいことに誰にも邪魔されることなく馬車に乗り込み、その夜のうちにタウンハウスを出立しました。
以前からお母様の生国でのんびりしたいと相談していましたものね。抜かりはありません。
隣国への旅路は順調なものでした。
わたくしがいるのですもの。トラブルなどありえませんわ。
少しばかり早く目が覚めてしまった日は出発時間も早めたことで川の増水による鉄砲水から逃れ、どうしても起きられなかった日には宿屋前で横転した暴走馬車に巻き込まれずに済み、という感じです。
万事時宜に恵まれる、それが刻の神がわたくしに与えた祝福でした。
少し考えればわかることですが、遅刻にはそれなりの理由がありました。その逆も然りです。
歴史に残る寵児のように偉大な魔法が使えるだとか、人にあるまじき異能に目覚めるとか、派手な能力ではありません。
ですが、人の子として生きるには過ぎたる恵みです。
国王陛下はその力を王家に迎え、国家安寧を望んでおられました。
わたくしも王家に対する忠誠心はともかくとして、国が富むこと自体は歓迎しておりました。
故にあのような王太子殿下でも婚約者としてお仕えしたのですけれども、結果はこの通りです。
隣国に向けて出立して5日目。その日は朝からあいにくの雨模様でした。先日鉄砲水を起こした雨雲がわたくしたちを追いかけてきた形です。
旅路を急ぐのは危ないだろうと宿屋での滞在を伸ばすことになりました。
追手がかかることを憂慮すべき場面かも知れませんが、全てはわたくしの神様が良きように計らってくださいます。
なので雷鳴をBGMにお父様とチェスを楽しむことにしました。
「今にして思えば、殿下とのお茶会に遅刻ばかりしていたのは婚約に利がないということでしたのね」
長考に入ってしまったお父様を見つめながら、何気なく呟きます。返事があってもなくても構わないつもりで。
お父様は文武に優れ、善政を敷く名領主でいらっしゃるのに、チェスの腕前はいまいちです。
いえ、わたくしが強すぎると言った方が正解かも知れません。前世では将棋を嗜んでおり、近所のジジイ……いえ、ご老人からお小遣いを巻き上げ……いただいておりましたの。
前世のことを思い出すと、時々口調が引き摺られてしまうのですわ。声に出さないよう気をつけておりますけれども。
「気がついていなかったのかい、黄金姫」
お父様はクイーンを進めますが、残念ながらそれは悪手です。
「お父様はお気付きでいらしたのね」
ポーンを進めてチェックメイト。
ピシャン、と額を叩いたお父様は負けたにも関わらず楽しげに笑われました。
「そもそもシオドリック殿下は王者の器ではないね。あの方は自分より弱い誰かに頼られることで力を発揮するタイプだ」
「それは王として大切なことでは?」
民草の気持ちに寄り添うことは必要です。そうでなければたまったものではありません。かつて民草の一人であったわたくしの正直な気持ちです。
「もちろん大切だ。だが、王というものは自分より強い者、優れた者も使いこなさなければならない。私見だがね」
確かに、と納得してしまいました。
王太子殿下にはヒロインが必要だったのでしょう。
自分よりも圧倒的に弱くて、守ってあげなければならなくて、けれど覚醒したヒロインは王太子殿下を遥かに上回る魔力の持ち主なのです。
愛する少女が強くなり、自分の力を必要としなくなった時、王太子殿下の価値観は変化したのでしょう。今となっては憶測でしかありませんが。
「結局、ヒロインさんは現れませんでしたものねぇ」
ぽつりと漏らした言葉にお父様は笑います。
「それも気付いてなかったのかい」
あら、とわたくしは瞬きしました。
お父様は軽く肩を竦めてワイングラスを手に取り、おっしゃいました。
「お前の不利になるようなことを、刻の神がなさるはずないだろう」
思わず目を見張ります。
言われてみればその通りです。どうして気付かなかったのでしょう。
ヒロインが現れれば、わたくしは悪役令嬢としての立場に……なれたのかは正直自信がありません。王太子殿下がアレでしたから。
とは言え、本気でヒロインさんを愛してしまえば王太子殿下はわたくしとの婚約を解消なさったでしょう。
……あら? わたくし別に不利にはならないのではないかしら。
王太子に捨てられた女とレッテルを貼られたところで、お父様の後を継いで女侯爵になれば婿くらい見つかりますもの。
「ああ。そろそろいらしたようだね。対局も終わったところで、タイミングがいい」
お父様は侍従に目配せすると、グラスに残ったワインを飲み干します。
何のことかわかりませんでしたが、すぐに気付きました。
部屋の外が随分と騒がしいのです。確かに今日は雷雨ですが、それとは違う騒がしさです。
慌ただしいノックの音が響き、侍従が取り次ぎのためにドアへ向かいます。お父様は椅子から立ち、わたくしとドアの間へ移動しました。
わたくしも立ち上がるべきか悩んでいると、勢いよくドアが開かれます。
「マティルダ嬢!」
現れたのはずぶ濡れの殿方です。白金の髪がうなじに貼り付き、冷たい雨に体温を奪われた肌は青白く、けれど玲瓏たる美貌が陰ることはありません。
「ステュアート殿下!」
思わずレディにあるまじき声を上げてしまいました。
ステュアート殿下はわたくしの姿を見て、青褪めた顔に笑みを浮かべます。そのご様子はシオドリック殿下とは全く違います。
ステュアート殿下はシオドリック殿下の双子の弟君です。
同じ日、同じ時、同じ顔、同じ声に生まれたにも関わらず、ステュアート殿下はシオドリック殿下と分けて育てられました。
ゲームでは孤独が原因で国を破滅へ導くラスボスなのですが、この殿下は違います。
ヒロインが現れなかったように、ステュアート殿下は孤独に呑まれませんでした。
王太子殿下の婚約者として最初のお茶会に登城したあの日、ええ、例によって遅刻したわたくしですが、実はステュアート殿下にお会いしたのです。
孤独に苦しみ、泣く子供に、わたくしは言いました。
『そのまま泣いているようでは、ステュアート殿下はみじめなままでしてよ』
ご誕生なさったその瞬間から、王太子はシオドリック殿下に決まっていました。
この国の王国典範には長子相続であることが明記されています。過去に王位継承を巡って争いがあったからです。
そして、今ひとつ古い条項が定められておりました。
多胎児が出生した場合、長子のみに王位継承権を与えるというものです。
多胎児は魂をわけあった同一人物と考えられていた時代がありました。そのため貧しい家庭では次子以降を間引くこともあったそうです。
前世の記憶を持つわたくしからすればありえないとわかることですし、現代においては多胎児であろうともそれぞれ個人として遇されておりますが、シオドリック殿下とステュアート殿下がお生まれになるまで王室では数百年もあの条項が適応されることはありませんでした。
ですが、王室典範に定められている以上、ステュアート殿下は王位継承権を持たず、第二王子と扱われることもなく、一王族としての立場のみを与えられたのです。
私的な席でも父上、母上と呼びかけることは許されません。シオドリック殿下とは徹底的に区別してお育ちになりました。
そのような状況を知りながらも、わたくしはステュアート殿下を更に笑ったのです。
『国王になりたいのならば資質を見せつければよろしいわ。王室典範を改めざるを得ないほどに。他になさりたいことがあるのなら、ステュアート殿下はなんて恵まれているのでしょう。国王になる義務なんてない。自由なんですもの』
正直に申し上げると、あの時のわたくしは少し意地悪な気持ちだったのです。
刻の神に御寵愛いただいたことは幸運でしたが、そのために国王陛下から婚約を命じられてしまいました。
ゲームでは悪役令嬢が一方的にシオドリック殿下を恋慕って整った婚約です。回避することは可能だと甘く考えていただけに、王命での婚約は衝撃的でした。
わたくしが悪役令嬢である以上、王太子殿下との婚約など破滅への道に違わぬではありませんか。
今ならばより良い未来は進むよう導いてくださったのだと思えますが、あの時は王族でありながら自分で未来を選ぶことができる、そう、ラスボスにもなれるステュアート殿下が羨ましくてなりませんでした。
それにしてもなぜ殿下がここへいらしたのでしょう。貴族が逗留できるような宿は限られておりますから、わたくしどもの足跡を辿ることが難しいとは申しません。
ですが、わざわざ追いかけていらっしゃる理由がわかりかねます。
「マティルダ嬢。……まずは、このような身形で現れたことをお詫び申し上げます」
ステュアート殿下はすぐに表情を改め、その場で跪かれます。
「いいえ、殿下。どうぞ中へお入りください。暖炉の前へどうぞ。誰か、拭くものを」
わたくしは慌てて椅子から立ち上がり、暖炉の前を譲ろうとしました。
ですがステュアート殿下はその場から動かれません。深く首を垂れ、言葉を続けられます。
「続けて、我が兄の非礼、我が父の遅鈍をお詫び申し上げます。マティルダ嬢への暴言、根拠なき誹謗中傷、いずれも許されることではありません」
ああ、雨の雫が。ステュアート殿下の足元にはぽつりぽつりと雫が落ち、水溜りを作ろうとしています。
「そんなことのために、荒天の中をいらしたのですか?」
王宮内でステュアート殿下が顧みられることはなかったと、わたくしは知っています。
彼が傷つき、声なく嘆く時の多くを共にして来たからです。
婚約破棄を告げられた舞踏会の時だって、参加したくないと言うステュアート殿下の説得を試みていました。
「あの日、貴女の言葉に耳を傾けていればよかった」
悔恨の滲んだ声でステュアート殿下は拳を握ります。
「私があの場にいれば、愚かな兄を、鈍間な父を、叩き斬ってやったのにと、どれほど後悔したことか……!」
またぽつりと雫が落ちます。
今度のそれは、雨がもたらしたものではありませんでした。
ただの令嬢として生きていれば気付かなかったかも知れません。
けれど、わたくしは人生2回目です。気が付いてしまいました。
全てのファンから救済エンドを望まれた悲しいラスボスの、押し殺した気持ちに。
一歩、また一歩、ステュアート殿下に近付きます。
婚約者がいる未婚女性にとっては許されない距離。
婚約者がいない未婚女性にとっても、ふしだらと眉を顰められてしまう距離。
「ステュアート殿下」
わたくしは肩にかけていたショールを、ステュアート殿下の濡れた体にそっと回しました。
「殿下は御自分の意思で、わたくしを追って来てくださったのですね」
それは鳥の雛が初めて見た動くものを親だと思い込むような、ただの擦り込みかも知れません。
義務ではないけれど、自由とも違うかも知れません。
「……マティルダ嬢」
ステュアート殿下はわたくしの手から離れたショールの端を握り、意を決したように顔を上げられました。
その瞳の強さ、燃えるような思いの強さ。
わたくしの背中を何か得体の知れない感覚が駆け上がります。
「マティルダ・カヴァナー侯爵令嬢。私の夢、私の希望。どうか貴女と共に生きる権利をお恵みください。マティルダ、貴女の隣でなら私の心は自由になれる」
シオドリック殿下と同じ顔、同じ声。
けれどその表情も、態度も全く違います。
緊張と不安に押し潰されそうなくせに、表面上は貴公子然として手を差し出すステュアート殿下。その指先には寒さだけではない震えがあります。
「……わたくしに言われたくないとは思いますけれども」
ふぅ、と溜息をついて見せると、ステュアート殿下は肩を揺らされました。
「ステュアート殿下も大遅刻ですわよ」
そう言って、わたくしは冷たく濡れたステュアート殿下の手のひらに手を重ねます。
驚いたように硬直したままの手を握りしめると、氷のような冷たさでした。
「あと3日もあれば隣国でしたわ。間に合ってようございましたわね、ステュアート殿下」
「貴女という人は……!」
ステュアート殿下は途端に顔を真っ赤に染め、わたくしの手を離そうとして、そのくせ離れがたく、結局現状維持を選んだようです。
「まあそう厳しいことを言うものではないよ、黄金姫」
お父様が手を上げるとドアの外からわらわらとメイドが現れ、わたくしとステュアート殿下を引き離すとたくさんのタオルでぐるぐる巻きにしてしまいます。
曲がりなりにも王族相手に不敬ではないでしょうか。いえ、お風邪を召された方が大変でしょうか。
「正直もう少しかかると思っておりましたよ。王太子殿下」
お父様がくつくつと笑っています。
わたくしはお父様とステュアート殿下のお顔を交互に見ました。
何をおっしゃっているのでしょうか。ここにおられるのは間違いなくステュアート殿下です。シオドリック殿下ではありません。
「違う」
むっとしたようにステュアート殿下が否定されました。
「今は私が国王だ」
何の冗談でしょう。私は首を傾げ、お父様は一拍後に呵呵大笑されます。
「何と! それはいい。それは愉快だ。たった5日で王権を掌握なさるとは。女冥利に尽きるとはこのことだろう、私の黄金姫」
お父様はまだ笑っていますが、わたくしは話についていけません。
「腐っても王太子があんな形でやらかしたんだ。貴女にはもっと尊い場所を用意したかった。王太子妃よりも上と言ったらひとつしかないだろう?」
メイドたちの仕事により、ステュアート殿下の髪は少しずつ乾き、いつものやわらかさが戻りつつあります。
殿下、いえ、これからは陛下とお呼びするべきなのでしょうか。
陛下と……。
「陛下……?」
「何かな? ……貴女にそう呼ばれるのはくすぐったいね、マティルダ嬢。……マティルダ」
ステュアート……陛下が仔犬のように笑います。
ええと、つまり。
ステュアート殿下は、シオドリック殿下と国王陛下のなさりように酷くお怒りになって。
どうやってか、お二方を排除して。
わたくしを追いかけたい気持ちよりも、わたくしの帰る場所を作ることを優先なさって。
たった5日で戴冠なさった……?
正直訳がわかりませんが、不可能と言い切れない理由があります。
それはすなわち、わたくしが刻の神の寵児であるということ。
「大遅刻と申し上げたことは撤回いたします」
せざるを得ないでしょう、こんなもの!
ですが、ステュアート殿下は首を横に振って、甘く、切なく微笑みます。
「いいや、大遅刻だ。マティルダ、貴女と出会ってから12年も経ってしまった」
12年。前世では干支の回る年月です。
ああ、そんなにも長く、この方は。
胸が熱いです。顔が赤くなるのを誤魔化せません。表情を繕うこともできません。
王太子妃になんてなりたくありませんでした。
顔だけは最推しと同じだからと、必死に自分を宥めていました。
神様も1番の願いは叶えてくれないのですね、なんてちょっと拗ねたこともあります。
シオドリック殿下の婚約者になってしまったわたくしは、王宮の隅でいじけているステュアート殿下にお説教をすることしかできなくて。
……幸せになって、欲しくて。
そんな思い全部、ステュアート陛下の顔を見ていたら吹き飛んでしまいます。
「さあさあ陛下。暖炉のそばへ。しっかり体を温めてください。じきに雨は上がるでしょう。王都へ取って返して陛下の御世を確固たるものにしなければなりません」
侍従が暖炉の前へ動かした椅子へ殿下は引っ張っていかれます。
「あれほど激しい雨だ。そう簡単に止むとは……」
窓の外は視線を向けたステュアート殿下は言葉を失われました。
雷は遠くへ去り、空には金雲をまとった虹が二重にかかっていました。まるで陛下の御世を祝福するかのように。
バーソロミュー王朝12代目国王ステュアート・バーソロミューは時宜王と称される。
11代国王ブライアン・バーソロミューと当時の王太子が刻の神の寵児を不当に扱ったことで反旗を翻し、国王の退位と王太子の廃嫡を強行した。
刻の神の寵児は後に時宜王の妻となり、バーソロミュー王朝が現代に至るまで繁栄する礎を築いたと伝えられている。