表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/12

心境の変化、或いは意地の張り合い

我々技術職にとって設備更新の時期というのは蓄積の肯定と否定が入り混じる時期。

今まで良いとしていた事の中から本当に必要なモノを見つけ出し、変えるべき所をより良い形へ変えるチャンスですが、同時に自己否定や様々な制約と自己の限界との闘いで、制約というのは予算・時間・人員から始まり、果ては安全・労働・環境への配慮など、おおよそ考えうる全てに配慮しなければなりません。


あまり学や才能のない私にとって技術の仕事をすることは、文字通り自分の出来うる最大限の能力を発揮しなければならない仕事でしたので、気付けば帰る時間や仕事の密度は非常に高いものとなりましたし、仕事というのは一人ではできませんので数人のチームで行うのですが、やはり人間である以上、思惑や能力・経験・専門分野の違い等、様々な違いからぶつかり合う事は多く、互いの考えや立場を超えて話し合い最善を求め、何を犠牲にし何を求めるかを決めていくのですが、出来上がった作ったから終わりという物でもなく、頭の中には常に自分が作った設備の仕様を残し、ラインに組み込んだ後でも使用感や疲労度の軽減などを目的とした小改造出来る点はないかと作業の流れの中から改善点を常に探す視点を持ねばなりません。


寝ても覚めても図面やデータが頭の中にある、一つの業務をしてても周りの進捗や設備の稼働状況によって優先順位はたやすく変わるし、上を納得させるために自身の言い分の正当性をデータや試作品を作り視覚で納得させ、現場の生産安全を求める突き上げに応えるという精神的な強さが求められる職場環境ですから、当然向き不向きがあるし、個人の能力が違うので足並みが揃わないことも多く、部署にやってきた当時は業務に耐えきれない人もおり、忙殺され多くの案件が遅れ、そのせいで上から下までかなり険悪なムードが漂い、上からの重圧に耐えられない人が辞めていくという悪循環のループが出来上がっていたように見えました。


これはまずいと思った私は、遅れている加工を社内の設備を使ってできる部分は社内で行う事にし、複雑な加工は必要な所以外を簡略化してスピードを上げる提案を行い、自ら機械加工や溶接・塗装・組み立て・試験機の作成を行う事で実証し、部署を変える変革を起こしている中、夏が始まりの気配を見せる頃に、母は退院の日を迎え私の元へ戸籍上の弟から電話が届きました。


「もしもし、初めまして○○です。陽人さんですか?」


少し幼さを感じさせる男の声、そんな第一印象を覚えた彼の声に「はい、私は陽人です。お電話はあなたのお母さま(戸籍上の母)の件でしょうか」と答えたと記憶しています。その私の質問に対し、彼はこう答えました。


「はい、俺は貴方の事はよくわからないし、あまり信用はしていませんが、それ以上にあの男が信用できません。だから母の面倒を看ようと思うのですが、今はまだ働き始めたばかりでお金がありません。もしあなたが自分がまともで信用できるというのなら、俺にお金を貸してください」


随分と失礼で好き勝手な言い分だとは感じましたが、少なくともいきなり兄だと言われても信用できないのは当然でしょうし、いままで全ての事から逃げていたニートが自分の母を何とかしようと奮起した。そんな覚悟を決めた青年の心を折るように、礼儀を弁えろと叱りつけるのは得策ではないだろうと考え、あえてこの無礼を無視したうえでこう語ります。


「そちらの事情は把握していますし、私はそちらに家族とか兄だと言って偉そうな態度を取る気はありません。同時に戸籍上の母に対しては最低限の事しかする気はない。それは貴方に対しても同じですが、ここで私が断ってしまえば貴方は困るでしょうし、後に厄介ごとを残すのは本意でありませんから必要な金額を仰ってください」


彼が求める金額の算出元は病院代や母の車いす代辺りでしょうから、恐らく20万程度、当面の生活費を乗せたとして40万程度。この程度であるのなら最悪返ってこなくてもいいし、それで問題が解決に進むのなら安いものです。ですが仮に彼がそれ以上を求めてくるのなら、恐らく今後も迷惑を掛けてくるのは目に見えますから、彼の言葉は丁度よい試金石になると思い、私は敢えて要求に乗ってみる事にしました。


「え?いいんですか?じゃあ……、とりあえず20万、今はそれ十分です」


きっと断られると思ったのでしょうが、余りに本音が出すぎで少し心配になります。こうした部分が例の交際相手との確執に繋がっているのだろうとは思いましたが、少なくとも今のところ自分の置かれている状況位は理解していると思う事として、今後の事もあるので一つだけ制限を掛ける事にしました。


「わかりました。ですが今回は貴方の要求をお受けしましますが、今後の事はそちらで出来る限りやってください。こちらは彼女に捨てられた身で、本人からも関わるなと言われていますからね」


ここでごねるなら論外、そうでないならニートだった頃より少しはマシになったと期待が出来るだろうと思いながら、相手の返事を待ってみようと考えたのですが、彼は想像以上に早く返事をしてきました。


「ええ良いですよ、いつ頃になりますか?」


あまりに軽い口調に困窮しているからなのか、それとも信用したのか、はたまた何も考えずに上手くいったと考えているのか分かりかねますが、それでも言い分を飲んだのは確かですので、少なくとも早い方がいいだろうと週末を指定してみる事にしました。


「なら、早い方がいいでしょうから今週の土曜辺りに振り込みますが問題はありませんか?」


「そちらも都合があるでしょうし、それで良いです。お待ちしていますね」


元よりこれで終いだと手切れ金代わりに渡す気でいましたので、初めからお礼などは期待していませんでしたが、少なくともこの青年は人に感謝とか謝罪をするのが出来ないのかもしれない。そういう部分が人に不快感を与えて嫌われてしまうんだろうなと、あの人の良い叔母が嫌気がさした遠因を感じてしまいました。


「わかりました。それでは私も仕事がありますので、これで失礼しますね」


家庭の事情を上司に話して許可を得ていましたが、この電話が掛かってきた時間は仕事中でしたので、これ以上の長電話は不要であると切り上げの言葉を口にしますと、彼も自分の要件が通ったのが嬉しかったのでしょう。これまでの緊張が解けたのか、少し気の抜けた返事を返してきます。


「ああ、そうですね。じゃあ失礼します」


まだこの問題は終わらないんだろうなと、いまだ顔を知らぬ青年の少し軽い言葉で切れた電話を眺め、彼が起こだろう厄介事の気配にを感じて私はまた一つだけ溜息を積み重ね、目の前にある遅れた業務(もう一つの問題)へ戻っていきました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ