王国/魔王/神話
夢の中で、彼は時々、祖母の声を思い出す。
――はじめに長い冬がやってきた。
重く黒い雲が天を隠し、風は一切の穏やかさを忘れ、雪は世界を覆い尽くして猶も降り続いた。木々の葉は枯れ枝は拗くれ朽ち果てて、獣は塒の中で飢えて凍えて死んでいき、地中の種は地中に埋もれたまま忘れられた。
無数の戦乱が巻き起こり、あちこちで城が崩れ、街が焼け、村が消えた。親と子が、兄と弟が殺し合い、数え切れない死が撒き散らされた。放り出された骸は獣の腹に消え、しかし獣が満たされることもなく、恨みがましい遠吠えばかりが夜に響いた。
狼どもの声は災厄を告げる喇叭となり、遂には太陽と月すら喰らわれて、古い世界と神々の終わりがはじまる。
森と丘に囲われた静かな村の、小さな家の暖炉の前で、祖母は物語を彼に聞かせた。冬の夜の静寂の中、死者たちは蘇って軍団を成し、ヴィーグリーズの野は神々と巨人の血に塗れた――巨人が纏う毛皮には、砕かれた虹の橋の破片が七色に輝いていた。父を失ったヴィーザルの悲しみはフェンリス狼を裂き殺しても晴れることなく、その恐るべき慟哭は天地に轟いた。
星々の輝きは失われ、天が砕ける。
世界は焼き尽くされて何もかもが水底に沈む。
連合軍の空襲は七月の終わりに激しさを極めた。
アルトナが焼かれ、ホーエルフトが焼かれ、アイムスビュッテルが焼かれ、渦巻く炎がハンマーブルーク、ハム、ボークフェルデ、ローテンブルクスオルトの建て込んだ市街を飲み込んで尚も燃え盛っても、まだ終わることはなかった。
また長い夜が来る。悲鳴の如く響き渡るサイレンと共に無数の鉄の翼が現れて、月も星も覆い隠され、爆弾と焼夷弾が市街を根こそぎにして猶も降り注ぐ。市庁舎も教会も崩れ落ち、工場も家屋も炎の中に消えていく。
硫黄を塗られた焼夷弾の炎はすぐには消えない。夜の底は煉獄と化す。アルスター湖が炎を映して赤く黒く染まるのを、彼は同僚達と身を寄せ合い息を潜めたまま思い描いた。持ってきてしまった工具を握る手が震えている。間近な爆音に地下室が激しく揺らぐ。揺れる蝋燭の炎を、皆がじっと注視し続ける。
災厄の翼が飛び去り朝がくる。彼は地上に這い出して、瓦礫と炎と黒煙の彼方に、冗談のように澄み切った空を見上げる。
そんな夢だ。幼い頃から繰り返し見る夢。
あり得ない神話、あり得ない歴史、どこにもない国のどこにもない都市の夢だ。
そろそろだろうと予感を覚えて、彼はうっすらと瞼を開いた。
薄暗い室内中に、放り出した荷物が散乱している。背嚢、鉄の手甲、杯、革紐、指輪、紋章入りの外套と剣。
昨夜はどこで寝たのだったかなと、寝起きでまだよく回らない頭で考える。――そうだ、元帥閣下の陣の片隅だ。確か、これで三日目になるか。
じきに、鉄靴が砂を踏む耳障りな音と共に伝令がやってきた。
外で短い問答が交わされ、意向を伺いに従者が入ってくる。傭兵特有の無遠慮な足取りだ。うんざりするが仕方がない。急なことだし、暫くの間だけだ。家から連れてきた従者がいなくなってしまったせいで名目だけでも代理が必要だったのだ。
「おい、起きろ、クソ貴族。自称元帥殿がお呼びだ。魔王軍が動き出したそうだぞ」
女にしては低い声が降ってくる。その声の罅割れが、夢の中の老婆を思い起こさせた。
――はじめに長い冬がやってきた。
秋は終わろうとしている。屋内に篭った空気はあたたかいが、戸口から吹き込む外の風は、少し冷気を帯びている。
例年であれば狩りの季節だ。郎党と供回りを引き連れた父と獲物を追ったのが、もう随分と昔のように思える。……いや、あれからまだ一年だ。故郷を離れてからなら、たったの七月。その間に幾つもの都市が焼け数え切れない村が消えた。惨禍が一年前を遥かに遠い過去に変えた。
「おい」
返事がないことに痺れを切らしたのだろう、傭兵従者はあからさまに顔をしかめた。
「お前だけが疲れているわけじゃないんだぞ。さっさと起きろ。クソ貴族め」
わかっている、と答えようとして、言葉が喉に絡まった。酷く喉が乾いていた。
彼が気だるく身を起こし、自ら水差しに手を延ばして泥臭くてぬるい水で喉を潤す間も罵声は続いた。
外で伝令が戸惑っている気配がある。お節介な誰かが、わざわざこちらの事情を教えてやる声がくぐもって聞こえてきた。余計なことを。好き好んで傭兵上がりの女に怒鳴られているわけではないのだ、恥の上塗りはやめてくれ。
「また元帥閣下妄想か。勘弁して欲しいものだな」
言うと、傭兵従者は眉根を吊り上げた。
だが遂に呆れ果てたのか、「さっさと来い」とだけ吐き捨てて、荒々しく出ていった。
彼は大きな溜息を吐いて立ち上がった。あてつけに二度寝でもしてやろうかと思ったが、あの夢の続きに戻るのは、それはそれで気乗りしなかった。
早朝の日差しの下で、陣は悲惨な有様だった。薄汚れ、傷だらけで、悪臭に塗れ、疲れ果てていた。
廃村をそのまま占拠しているからただでさえ元々みすぼらしいのに、更に、人間の不様が加わって、どうしようもない状態だ。
何を燃やしているのか判然としない焚火の周りで死人のように項垂れた兵共が、時々、ああとか、ううとか、言葉にならない呻き声を漏らしている。みなの顔から表情が消えて久しい。このままでは元の顔を忘れそうだ。だが、まあ――粗末ながらも食事があって、一日中歩き続けなくていいだけマシだろう。元帥閣下には心底迷惑しているが、兵を休ませられるだけありがたい。
代わりに伴う義務として、司令部に行くのは憂鬱だ。
しかし、仕方がない。父も兄も死んだ今、彼は少なくも兵を率いる身だ。この馬鹿馬鹿しい行軍を終えて、みなを故郷に戻さなければならない。もちろん、彼自身も無事に帰るつもりだ。
「おい」
天幕の外で待っていた傭兵従者が乱暴に背中を叩いてきた。
「呆けるな。歩きながら寝るつもりか」
「大丈夫、起きている」
一呼吸の間だけ青い青い空を見上げ、瞼の裏の鉄翼の影を振り払って表情を引き締めれば、そこには、苦境に抗う若い騎士がいるはずだった。
彼は襤褸と化した天鵞絨の外套を靡かせて、形見の剣を腰に佩き、繕い痕だらけの鎖帷子を鳴らしながら進む。
「外面だけは立派だな」
「最後の砦だ」
「どういう意味だ?」
彼は答える。
「親父が常々言っていた。兵のために、指揮官は常に平静でいろと。それができなくなった瞬間、瓦解すると」
「で、平静なのか?」
彼は答える。
「外面だけだ」
傭兵従者は鼻で笑った。
「クソ貴族め」
「そうとも。忘れるな」
「一瞬でも忘れるものかよ。お前は怠惰な臆病者だ」
この女を選んで正解だった、と彼は思った。
◆
彼が聞いた限りでは、魔族と称する何者かの王である魔王と名乗る何者かが、王国に対して宣戦布告を行ったのは、春の盛りのことだった。災厄の報せは空からやってきたという。隙間なくびっしりと文字を書き並べられた青い紙切れが、都の空から無数に降り注いだのだ。
曰く、どこそこの森の木を切った罪。曰く、どこそこの川の流れを引いた罪。曰く、どこそこの城の厩番が、灰色の上着を着なかった罪。曰く、どこそこの村の誰それが、嵐の晩に扉に蹄鉄を打ち付けることを怠った罪。曰く、どこそこの街の城壁が、そこに伸びるはずだった木の枝の邪魔をした罪。曰く、馬車の車軸の太さの規格を設けた罪。曰く、言葉を奪って我が物とした罪。曰く、どこそこの市場で銅貨三枚と白株一束を交換した罪。曰く、旅の途上の誰それが、昼の月を指さした罪。曰く、仕掛け時計の鈴が鳴る間隔を三時間毎とした罪。曰く、どこそこの窯で一度に五十二個のパンを焼いた罪。曰く、どこそこの村の誰それが、冬至の日に髪を束ねた罪。
罪。罪。罪。罪。
様々な罪の羅列が降り注いだ。
――以上の理由により、我、魔族の王たる魔王は、王国とその民を根絶するものとする。
それが本物の罪の告発であると信じた者はいなかった。当時、都では、無差別にビラを撒く宣伝が流行していたから、どこかの商会か劇団が、また何か過激な宣伝を行ったのだろうと思われたのだ。どこの商会も劇団も、日頃から生まれながらの罪を訴える怪しい宗教団体さえも名乗り出なかったが、誰も大して気にしなかった。都では新しいことが次々に起こるから、一度くらい意味不明な紙切れが撒き散らされたところで、他の事件と同じように、すぐ過去になって忘れられてしまうのだ。
だいたい、魔王なんて陳腐な子供騙しの存在を、どう真に受けろというのか。
次に、奇妙な噂が流れ始めた。
王国のどこかで、小さな村が一夜にして無人になったという。そうした話の例によって、数日は面白半分に様々な憶測が囁かれたが――獣でも出て住人が逃げたのだろうとか、昔から廃村になっていたのがそれまで発見されずにいたのだろうとか、だいたいそんなところに落ち着いて、人々は感心を失った。
噂は幾つも囁かれた。原因不明の大火事でどこそこの村が燃えた。どこそこの村と連絡がつかない。あるところでは、住人が消え、代わりに木彫りの獣の置物が幾つも落ちていた。風光明媚を誇ったさる城郭が、一夜にして千年を経たように朽ちて崩れ、瓦礫の中からは黄ばんだ古い人骨が大量に掘り出された。行商人が馴染みの街を訪れると、誰一人として知己がいなくなっており、まったく知らない言語を話す奇妙な生き物が暮らしていた。
田舎では随分と面白い話に事欠かないようだ。だとしても荒唐無稽でリアリティに欠けて、やはり都の娯楽とは違う。たとえば都でのニュースといえば……、それに……どうだ、これらの華々しさ、目新しさよ!
そういえば最近、都の路地から浮浪者が減った。それはいいことじゃないか。
――という都の人々の声は、まあ、彼の多少は悪意の混じった想像だ。確かに荒唐無稽だが、きっと誰もが不安に思い始めていたはずだ。食べ物の値段が少しずつ上がり、市が常ほど混雑しなくなり、繁栄が翳っていくことを、無意識のうちに嗅ぎつけて。
その不安の只中に、青い紙切れがまた降った。
数え切れない罪、罪、罪、罪、罪、罪――これらは罰だと、魔王の名で。
繰り返されるうちに、笑い飛ばす者は減っていった。
その頃にはもう、国中の諸侯や騎士団は混乱しながらも、それぞれに動き始めていた。王からの命令は、一連の事件の真相解明と、これ以上の発生を食い止めること。手がかりは何もなく、ただの丸投げだったものだから、とにかく方々に人を派遣して、一体何が起こっているのか、何が本当で何が嘘なのかを調べて回ることから始めなくてはならない。
彼の父親は主君の都市に呼び出され、その調査を命じられた騎士の一人だった。主君の前から下がった父親が都市を出て、街道からふと振り返ると、ただ静かな湖だけが広がっていた。水は透き通って昼の光にきらめき、水面は穏やかに波を打って浜に寄せていた。人間の営みを思わせるものは何一つなかったという。
あれほど恐ろしい思いをしたことはない、と、半信半疑の彼に父親は語った。
父親と、跡継ぎである兄と、そして彼自身は、従者たちと二十人の兵を連れて、調査の旅に出た。酷い旅だった。父親と兄と従者たちと兵の大半が脱落した。
兄が滝から身を投げ、父親もいなくなった日に、彼は帰郷を決意した。
もうこれ以上は無理だ、と彼は残った人員に言った。帰ろう。お前たちを一人でも多く家族の元に戻すことが、今や俺が背負うべき唯一の義務だ、と。
そして生き残りは数を減らしながらも進み続けた。今日まで間に、彼は、この世で起こり得る(本当に?)不条理な現象のことごとくを見聞きし、体感したのではないかと思うまでに至っていた。
◆
元帥閣下は上機嫌だった。
長い追跡の果てにようやく魔王自らが率いる魔王軍の居場所を捕捉することができた。後は会戦を仕掛けて撃破すれば万事解決であるという。元帥閣下の配下たちも同じく上機嫌だった。
冗談はやめてくれ、と彼は思った。これまで魔王軍など見たことも聞いたこともない。
もしも実在するとしたら、得体の知れない集団と一発勝負で戦うことになるし、実在しないとしたら――とはいえ、発見したという事実がある以上、何かしらの軍隊らしき集団は存在するのだろうが、それが何者であれ、とにかくもっとマズいことになる予感がする。
寝床と食料を提供してくれたことはありがたいが、その代価として一緒に戦えと言われるのは御免だった。そもそもが別にこちらから頼んだわけではない。王国の旗を翻した完全武装の集団に囲まれて、さあお前らも元帥閣下の元に参陣せよと恫喝されれば、断ることなどできなかったというだけだ。
陣で三日を過ごした今となっては、彼は、この集団の頂点で元帥らしい格好をしている元帥らしい人物が、本当に元帥であるのかすら疑っていた。
彼は地方の下級騎士の次男であって、本物の元帥など見たことがない。旗や紋章くらいは知っているが、中身が違う人間だったとしても識別できるはずもない。そもそも、本物のお偉いさんが、こんなところで、貧相な陣地を構えて軍団ごと孤立したまま、怪しさ極まりない魔王軍などというものを追っているというのも信じがたい。更に言うなら、彼の幕僚もそれぞれ胡散臭い。
一世一代の決戦にお供したいのは山々だが兵が疲れ切っていてまだ戦える状態ではないと敢闘精神の欠片もない言い分を通すにあたっては、多少は見苦しいところがあっただろう。だがそれは目に見えて明らかな事実でもあったから、何人かは理解を示してくれた。
彼は内心で「どうか、じゃあ回復するのを待とうかなんて言われませんように」と祈りながら、無念極まりない表情を作って言い訳を続行した。
ちらりと見れば、傭兵従者は少し俯いて肩を震わせていた。
「だったら、代わりに僕の護衛をしてくれないかな」
言い出したのは、元帥の横にいた若い男だった。常に元帥の横にいる割に、いまいち役職がよくわからない人物で、彼は、この男のせいで、ますます元帥が偽物ではないかと怪しんでいた。だって、元帥なんて地位に就けるのは大層なお貴族様だけだぞ。こんな怪しい男を近くに置いているとは思えない。
さっきから、思えない、信じられない、胡散臭い、ばかりの自分にもうんざりするが。
「護衛、ですか? あなたは戦場には出ないのですか」
探りついでに訊ねてみる。
「そうとも」男は首を傾げて、ああ、と声を上げた。「きみには名乗っていなかったね。僕は、まあ、相談役のようなものだよ。頭を使うのが仕事で、戦いは全然ダメなんだ。ここまではどうにか着いてきたけど、決戦にはさすがに出られない。それは皆も承知してくれている。かといって一人で取り残されるのも不安でしょうがない……ほら、今時、何が起こるかわからないからさ」
よくわからないが、この男の提案が通れば、彼は戦わなくていいらしい。
「そういうことなら微力ながら」
彼は少し迷ってから、貴人に対する恭しさで承った。
男は満足そうに微笑み、元帥も同意した。
なるほど。相談役か。相談役って何なんだよ。
◆
翌朝は雲一つない晴天だった。秋の空はどこまでも高く、空気は乾燥していた。
疲労困憊した兵達は残したまま、彼は、相談役と二人で、出陣していく一軍を見送った。
色とりどりの紋章旗が翻り、兵達が携える無数の槍は銀に輝く林のごとく、その威容は目映いばかり。喇叭の叫びと進軍太鼓の唸り、軍馬の蹄が大地を叩く音が響き渡り、甲冑の金属音が重なる様は遠雷を思わせた。
軍列は一条の矢のように道を辿り、その先の丘へと進んでいく。
あの丘が決戦の地だということだったが……
「いやあ、大変だったよ。助かった。ありがとう騎士さま」
暢気な声で、怪しい男が言った。
「一緒に突撃させられるところだった。きみのお陰でうまいこと降りられた」
彼は男を横目にした。
「あなたはいったい何なんです?」
「何もなにも。きみより早く、あの集団に捕まってたんだよ。魔王の手下だと思われて斬り殺されるところだった。流れの軍師だって説得してさ、必死に頭捻ってそれっぽいこと言いながら、逃げるタイミングを計ってたんだ」
元は無関係な人物か。怪しいわけだ。
貴人ではなさそうなことがわかったのは安心の種だ。
「……流れの軍師って何だ?」
「わかんないけど。咄嗟のウソだよ。みんな信じるものだから僕もびっくりした」
「あれは本当に元帥なのか?」
「知るもんか。僕は元帥の顔なんて知らない。っていうか、元帥なんて職業知らない」
「ご尤も」
「少なくとも本人も周りも信じていたけどね。それに、立派な軍隊をお持ちでいらっしゃる……」
男は少しだけ怯えたように口ごもった。
「あの軍隊の何割かは、僕とおなじように捕まった連中だ。最初は普通だったのに段々おかしくなっちゃって、どこから出してきたのかわからないピカピカの鎧なんか着込んで、今や元帥の忠実な手下ってわけさ」
「魔王軍とやらは?」
彼は、戦意旺盛に隊列を整える軍と、他には誰一人の姿もない丘を見た。
「見てない。見えない。他の連中は違うみたいだけど」
「そうか」
あの日、兄は滝に向かって、いいもの持ってきたなそっちまで取りに行く、と言ってから、玄関でも出るように無造作に飛び降りた。だから、見えるはずのないものが見えるなんて、よくあることだ。
「見えてたらおしまいだったな」
「そうだね。きっと」
久しぶりにまともに会話ができる人間と会った気がする。
兵士たちは俯いてぶつぶつ言うばかりになってしまったし、あの傭兵従者は……会話はできるが、何分、暴言が半端ない。穏やかな気持ちで人と話をしたいというのは贅沢な悩みだろうか。
「僕は魔法抵抗が高いから助かったけど、ずっと一緒にいたら危なかったかも」男は少し俯いて言った。「一緒にいた行商のおっさんはレベルそこそこで、魔法抵抗も30くらいだったからなあ。半日くらいですっかり洗脳されちゃった」
「……何だって?」
彼は軽い困惑と深い絶望を同時に覚えながら、男に向き直り、改めてその姿を眺めた。
至って普通の若者だ。ありふれたような旅装に身を包んで、片足に体重をかけて立っている。視線に気づいたのか、こちらを見た。眸には、眉根を寄せた彼の姿が映っていた。
男は少し考えてから、何かを取り繕うかのように言った。
「いや、30は普通は高い方なんだっけ? 一般的な平均ステータスってやつがイマイチよくわからなくて。僕、田舎で育ったものだから」
「…………」
「そういえば最近見てなかったな。レベルアップしてるといいんだけど」
男はおもむろに宙を指さして、「ステータス、オープン」と言った。
彼は絶望から諦めに変わりつつある感情を噛みつぶした。
魔法? レベル? ステータス? 何のことだ? あの元帥閣下と愉快な仲間とは別口で、こいつもイカレてるのか? まともな人間だと思ったばかりだったために、ますますがっかりだ。また駄目なのか。……いや、しかし、待て。こちらに害を加えてくるわけではないし、意味不明な現象が起こりまくるご時世なのだから、多少の妄想は大目に見るべきではないだろうか。
そうでなければあらゆる人間に絶望する日がくるかも知れない。
「騎士様、そんなにじっくりステータス見られると照れるよ」
「ん、ああ、考え事をしていた。見てないから安心してくれ」
残念ながら、男が熱心に見つめている何かは、彼の目には映らない。
内心で溜息を吐いた。
だいぶ遠ざかった喇叭の音が、風に流されて聞こえてきた。
空が落ちた。
と、一瞬、錯覚した。地を揺るがす衝撃と轟音、火の粉を孕んだ熱風が荒れ狂った。
振り向くと丘が燃えていた。巨大な柱のように迫り上がる黒煙が空を暗黒に落とし、炎は巨大な化け物のように暴れながら、周囲を飲み込んで広がっていく。
――長い夜がくる。天が砕け、世界が焼き尽くされる。老婆の声が脳裏を掠めた。彼は反射的に耳を塞いだ。が、すぐに我に返って手を降ろした。夢に関わっている場合ではない。
熱は二人の元まで押し寄せ、皮膚がじりじりと痛む程だった。夜そのものの闇の中で燃えさかる炎は煉獄じみていた。一帯は赤く黒く染め上げられて、眩しすぎて直視できない。
「何あれ」
男が半ば虚ろに呟いた。
彼に答えられるはずがなかった。
何もかもが焼き尽くされる悪臭の中に硫黄の臭気を嗅ぎ取った時、彼は膝をついて嘔吐した。




