戦乙女の鼓笛銃姫兵 第一話
指揮者の帰還
その帝国は老いていた。
中央大陸アジラル、南方大陸アフィンドル。北東大陸ユンガル大陸。
三大陸の内、アジラル北東部からユンガル西北部全域にかけての広大な領土を、サンタン=ヴェルワスク帝国は支配している。
初代ワシュカ大公パンチェレイモンより数えて1000年、現在のヴィノクロフ朝が興ってから250年、悲願のヴェリーキーワシュカ奪還の栄光より120年、ユンガル大陸最古にして最大の国家は軋み、衰え、崩れ去ろうとしていた。
現皇帝アレクサンドル三世とその忠実なる幕僚である五賢臣により、国力、領土も最盛期を迎え一見かつてない繁栄を見せながらも、膨張した帝国はその実崩壊の危機にあった。
旧弊を抜け出せぬ封建的な社会制度も、大貴族たちの権力闘争も、狂乱酷薄なる暴君の恐怖政治も、痩せた寒冷な大地も、何より人口の8割以上である農奴の困窮が限界に達しようとしていた。
皆が求めていた。
この現状を打破しうる英雄を。
新たな社会制度を構築しうるものを。既得権益に縋りつく貴族たちを抑え込めるものを。悪夢のような狂気の雷帝を倒しうるものを。貧困と抑圧から解放してくれるものを。そして哀れな人民を救ってくれるものを。
これは英雄の物語である。
同時にその傍らにいる美しき戦乙女の神話である。
そして一つの国家の終わりと始まりである。
※※※
サンタン=ヴェルワスクの秋は世界で最も美しい。
帝国は寒冷な気候で知られ、短い夏が終わると広葉樹の葉が黄金色に色づいていく。
落ち葉で道が埋め尽くされれば、澄みきった空からの木漏れ日に照らされて、視界の全てが黄金の輝きに満たされる。
小さな運河の川面にも岸辺の欅並木が映り込み、舞い落ちる葉が小さな波紋を生んでいた。
ドゥルガ湖に面する帝都ヴェリーキーワシュカ。そこへ続く黄金の道を、一艘の渡し船が行く。
乗り合いが当たり前の渡し船にも関わらず、客は少年少女の二人だけ。
色づく葉よりも煌びやかな金髪の少女は年の頃10になるかならぬかで、水面に浮かぶ葉におそるおそる手を伸ばしている。
そんな少女の身体を17歳にしては華奢な左手で支えながら、近くくるであろう冬を思わせる銀色の髪の少年は誰にともなく呟く。
「ああ、帰ってきたんだな。僕はここに……」
メランコリックな陶酔を含んだ声に、鈴のように清んだ声音が反ってくる。
「やはりお懐かしいですか、主様。生まれ故郷というものは」
ようやく取れた落ち葉を宝物のように見せながら、少女――キュエルが緑色の瞳で問うてくる。
「そうだね。生まれ育ったのはここではないけれど、あの街と同じヴェルワスクの景色だよ。空も空気も樹も、ヴェルワスクの色をしている」
少年――ヴェルフェリオ・ツベルビューラはキュエルが目的を果たしたので、左腕を引き寄せて自分の方へ招いた。
子猫のように小さなキュエルはそのままヴェルフェリオの中へと軽々と倒れ込み、膝を枕に空を見上げた。
「ふわぁ……すごいですねぇ。空が川のようです」
金色の並木でまっすぐに切り取られた蒼穹に感嘆、キュエルは落ち葉を空にかざす。その頭を優しく撫でてやると、くすぐったそうに軽く身をよじる。
二人で空を眺めて船に揺られる穏やかな時間。
この平和がずっとずっと続いてくれるならどんなにいいことか。
不意に北風が強く吹きつけて、木の葉を高く舞い上げる。川面も波打ち、喫水の浅い小船は大きく揺れる。
「きゃっ!」
小さく悲鳴を上げてキュエルがヴェルフェリオに縋りつく。その拍子に、先ほど拾い上げた落ち葉は風に飛ばされていった。
「大丈夫か、キュエル」
「はい、主様。キュエルは問題ないです。でも……」
「ああ、葉っぱか……残念だったな。風が吹かなければ……」
この国で初めて見つけた小さな宝物。それを早々に失ってしまったことにキュエルは落胆を隠せないでいた。
風が吹かなければ、この国最初の思い出として大切に残せたのに。
言葉もなく呆然とするキュエルだったが、不意にその頭上の陽光が遮られる。
風が連れてきた雲がわずかな光を隠して暗くなった途端、水路の水面が奇妙に揺らいだ。
雲が作った影から黒く長い手が伸び、風に飛んだ落ち葉を掴む。そのまま船に近づいて、キュエルの手にそっと手渡した。
「大丈夫ですよ、主様。キュエルは大切なものをなくしたりしませんから。もう二度と、絶対に、です」
両手で包み込むようにして愛し気に木の葉を見つめる少女の横顔は、どこか儚い切なさを秘めた可憐さで、静かな水面と金色の並木と相まって、一枚の絵画的な印象を強く与えた。
影の腕はいつの間にか消えており、渡守は今しがた起こった不可思議な事象には気づいていなかった。
ヴェルフェリオにもキュエルにも、今のようなことは別段不思議でもなんでもなかった。ただ、人にわざわざ教えることでもないので、今は二人だけの秘密であった。
「どうやら迎えがきたようだね。ごらん、キュエル。あれが僕らの楽団だ」
ヴェルフェリオが指し示した岸辺には少女たちで編成された鼓笛隊が整列していた。鮮やかな赤い軍服に金色のドルマン飾りをつけ、濃紺のプリーツスカートと白いタイツを穿いており、整然と楽器を構えていた。
その中央正面にその中でも特に幼く、小柄で、しかし最も華美な格好をしている少女がいた。
彼女のまとう将校用のコートには、ヴェルワスク文化のものとは違う鮮やかな刺繍が施されていた。
「主様。あの方がキュエルたちを招いてくださった……」
「アーシェ――アナスタシア皇女殿下だよ。少女たちだけの楽団にして精強無比なる騎馬鉄砲隊、鼓笛銃姫兵。その創始者にして隊長だ」
ヴェルフェリオがアナスタシアに向かって頭を下げ、キュエルもそれに倣う。姫の方はそれを認めるとともに小さく頷いて、ホルンを吹き鳴らす。
銃姫兵達がそれに続き、テンポのよい行進曲が演奏された。
およそ5分ほどの小曲であったがその習熟度は高く、キュエルはじっと聞きいって、終了後には思わず拍手してしまっていた。
「素晴らしい演奏でした、皇女殿下。私共のためにこのような歓迎をしていただき、恐悦至極です」
「いえいえ、しょせん田舎の楽団、王族の道楽。先進国エリミアで神童とうたわれた天才指揮者殿にそのようにお褒めいただけるとは光栄です。ようこそ、ヴェルフェリオ・ツベルビューラ様。わたしは――いえ、私共はあなたの来訪をお待ちしておりました」
一見よくある社交の言葉を交わしながら、ヴェルフェリオとアナスタシアは互いに見つめ合う。二人の視線の交錯は千の言葉よりもずっと濃密で複雑に、互いの心情をやり取りしあっていた。
「ところで、ヴェルフェリオ様。そちらの女の子がお手紙の?」
「はい、以前お伝えしたキュエルです」
ヴェルフェリオに紹介されて、キュエルは優雅に礼をする。それはエリミアやソーゾンヴァンテのような中央沿岸諸国における宮廷作法を完璧にこなしたものであり、辺境であるヴェルワスクでは滅多に見ることの出来ない洗練された身のこなしであった。
銃姫兵達から誰ともなく、嘆息が漏れる。
王侯貴族の子女すらかすんでしまいかねないほど、少女の容貌や仕草の可憐さは際立っていた。
「お初にお目にかかります、アナスタシア殿下。主様からご紹介に預かりましたキュエルと申します」
そこで一度、言葉を区切る。同時にキュエルの影が揺れ動く。
華奢な少女の小さな影から、次々と大きな黒い塊が這いずりだして小舟の中を埋め尽くす。不定形の塊はやがて上に伸びあがり、屈強な兵士達の形を取った。
銃姫兵達は皆一様に驚いて言葉を失う中で、しかしアナスタシアだけは笑みを浮かべて小さく呟いた。
「なるほど。聞いた通り影を操るのね。『太陽を喰らう獣』を主とし、流血と策謀の果ての栄光を約束する最も忌まわしき十三姉妹の末娘。500年前にわが国を崩壊に導き、今再び目覚めたという……」
いつの間にか少女自身も影より生まれた軽装の鎧を身につけ、その手には身の丈を超える大剣を握っている。
ヴェルフェリオはその傍らに立ち、妹を労わる兄のような場違いなほど穏やか表情でキュエルの頭を撫でた。
「黒龍の戦乙女として、ヴェルフェリオ様、そしてアナスタシア様のために微力尽くさせていただきます」
正暦1703年10月4日。
後に太陽を喰らう獣にして調和の王と呼ばれるヴェルフェリオ・ツベルビューラ。
長き眠りより再び歴史に現れた十三番目の戦乙女、黒龍のキュエル
そして数奇な運命を背負うこととなる皇女アナスタシア・ヴィノクロワ。
後に三大陸全土を席巻することになる英雄の物語はこの日より始まるのであった。




