手紙のタビジ、護り人となりて魔女に届けよ
玉都アダラから望む連峰の頂きが、月あかりに滑らかな光を放つ。
それはどこかしら自然の輝きではない不自然さ、不穏さを抱えていた。
あれは凍える頂を覆う雪の冠ではない。
水晶に呑み込まれつつあるのだ。
いつからかはわからないが、この大地を蝕み始めた異常、それが侵食水晶である。
文字通り水晶の結晶が大地を侵食し、何もかもを飲み込んでしまう恐ろしい現象だ。
その勢いは日に日に増していくばかりだ。
貴族であれ知識人であれ、凡その人々は対処のしようもないまま、無数の村々が結晶の大海の下へと消えて行くのを、ただ手をこまねいて見ているだけしかできないでいた。
この原因については、ひとつの結論が出ている。
すなわち、魔女である。
はるか北の国に塔を建て、万里を見渡す強大な魔女国の女王が、この世を呪っているのだ。
魔女は不老不死であり、どんな勇士であっても傷ひとつつけられぬという噂である。
彼女が心変わりを起こさない限り、遠からず滅びの日が訪れるだろう。
だがそのようなことを気に留める者は、ひとまずこの場にはいなかった。
金襴緞子に香油、金銀に真珠、宝石の首飾り、豪華な装飾を施した懐剣や、高価な玉器が次々に運び込まれては積まれていく。東方から取り寄せた朱色の魚が泳ぐ池には小舟が浮かび、貴人たちが語らう。
夜が更けてもバレグ書記官長の真新しい邸を訪れる客は引きもきらない。
絢爛豪華な宴席は、美貌を見初められ後宮に輿入れしたバレグの孫娘、ミシャ姫の懐妊祝いのために催されたものである。
浮世の儚さはひとまず忘れ、ロワは金器に盛られた砂糖菓子を摘まみながら、まさに今をときめく権勢の上司から何がしかのおこぼれを頂戴する機会をうかがっていた。
”優しい気性で温厚という他はこれといって取り柄のなかった男ではあるが、この幸運により、もっと出世するだろう。”
周囲に集まっているのは、そういう浅ましい目論見に目を爛々と光らせている飢狼の群れである。
ちなみにロワには、無数に群れる性根の卑しい者たちの中でも己だけは性質が少し異なるという自負があった。
何しろ彼は過分な出世など望んでいない。『目立たず、飛びぬけず、平穏に』……という家訓を守り、そこそこ出来た上司に取り入り適度に支えながら、宮廷生活を恙なく過ごせれば、それで満足なのである。
しかし、恭しく紡がれる寿ぎの言葉は、招かれざる客の騒々しい足音によって突然の終わりを告げることとなった。
「バレグ書記官長! 王妃殿下謀殺の疑いにより、貴殿を逮捕する!」
一月後、ロワは後ろ手に縄に繋がれて処刑台の列に並んでいた。
民衆の罵詈雑言を浴びながら、バレグは既に首だけの姿となって転がっている。
その目つきは心なしか恨めし気で、何か言いたげでもあるのだが、こうしている間にも同僚たちが刑吏に首を切り落とされて行く真最中なのであるから、今さらどうしてやることもできない。
(まさか、あの男がミシャ姫に毒の小瓶を送りつけ、時同じくして懐妊した第一夫人の殺害を企むとは……)
運に恵まれただけで出世には興味のない男だと思いきや、意外にも首回りにはでっぷりと薄黄色の脂肪がついていたようだ。
毒を後宮に送る手筈を整えたのはバレグの下で働いていたロワたち下級官吏であることも、既に調べがついている。
ロワも全く身に覚えがないという訳でもなく、思い出してみれば後宮に出入りする御用商人に小包を持たせた記憶がはっきりとある。
(後宮では山羊乳の菓子は禁止されているから、などと言っていたが、鵜呑みにしたのが間違いだったようだ)
死を待つ身とはいえ、傍目からみるとロワは非常に落ち着いた様子であった。
ごく当たり前の十六歳なら、根拠のない勇気や非論理的なまでに希望に満ちた将来感が行動原理であってもおかしくないというのに、鼠ばかりの牢屋はもううんざりだとでも言わんばかりに大人しく縛についている。仲間の血が頬にかかっても微かに嫌そうな顔をしたのみだ。
刑吏は少々薄気味悪そうな様子で、そんなロワの腕を引き立たせた。
「おい、お前はこっちだ。来い」
そう言って処刑台を降りて行く。
「どこへ行く? 断頭台は逆方向だぞ」
反対方向では最後の仲間の首が飛び、血飛沫が上がっていた。
刑吏は「黙ってついてこい」と言ったきりである。
しかも、その歩みはあろうことか宮廷の方角へと向かった。
途中で宮廷付き武官と交代し、さらにしばらくするとそぞろ侍女たちが現れる。
連れて行かれたのはむくむくと暖かな湯気を立てる風呂である。
「……窯茹でという刑はないはずだが」
侍女たちは少年が身に着けている麻の襤褸布を剥いで、入浴に適した温度の湯船に放り込んだ。
ひと月分の垢を落としたロワを待っていたのは、濃紺の肩掛けと首の詰まった官服だった。
緑縞の腰帯を締め、祖父の形見の懐剣まれ持たされた。
きちんと身支度を整えた後は再び武官と侍女に付き添われ、あれよあれよという間に物見塔の最上階に立っていた。
壁には神話に出て来る美しい女神たちが描かれ、雅やかな麝香の香りが焚きしめられた部屋に、流行の着物や真珠の首飾り、金の腕輪で着飾った女たちが集まって嬌声を上げている。
花びらの舞い散る部屋の最奥に半裸の男の背中が見える。
かなりの長身で、滑らかな蜂蜜色をした背中は鍛えられていて逞しい。
「カダル陛下の御前であるぞ!」
お付きの武官が一声吠え、反射的に地面に両手を突いた。
そこでロワはやっと、自分が王陛下と妃たちの住まいである後宮にいることに気がついたのである。
「よい」と深い声音が未だに威嚇してくる武官を嗜めた。
揃えて床に伏せた指先のすぐそばに裸足の足が止まる。そして酒臭い呼気が頭上に降りかかった。
「顔を上げよ」
おそるおそる従うと、そこにいたのは目つきの悪い大男である。
宮廷に出仕していたひと月前であっても、王陛下本人をこれほどまで身近にしたことはない。
嬉しいとか光栄だとか思うより何でこんなことになってしまったのか、という当然の疑念が満ちた邂逅であった。
疑問の答えは国王自らが口にした。
「お前をここに呼び寄せたのはほかでもない、座興のためである。窓の外の飛ぶ鳥を落としてみせよ。面白ければ死刑を免じてやらんでもないぞ」
そう言って渡されたのは弓兵が戦場で使う、両端の反り返った弓と矢である。
「なるほど、趣味が悪い……」
無意識のうちに口を突いて出た呟きを、武官がわざとらしい咳払いで嗜める。
女たちはいっせいに声を上げて笑った。
この振る舞いは、さっきまで死の淵にいたロワをも大いに呆れさせた。
おそらく彼らはロワがしがない書記官であると知っている。そしてタビジ家が代々、武具など握ったことのない文官の家系であることも理解しているに違いないのだ。
その上で、できそうにもないことをわざとやらせて、戸惑い、恐れ、死を逃れようともがく姿を見て楽しもうとしている――これを悪趣味以外に何と言うだろう。
しかも窓の外には雲ひとつない青空が広がるばかりで、鳥影などひとつもないのだった。
「さあ、やれ!」
言われるがままにロワは弓に矢を番え、わずかに持ち上げた。
「ひとつ忘れている」
すかさずカダル王が見覚えのある緑玉の指輪を投げてくる。
それは弦引き指輪というもので、指輪の腹に刻まれた溝に弦を当てて使う。強く張られた弓の弦が指を傷つけるのを防ぐための道具だ。
少年は指輪を右の親指にはめると、矢羽を包み握り込むよう弓に宛がい、再び引いた。
その瞳に、まるで静かに凪ぐ水面のように薄く伸びた雲がうつりこみ、流れて消えていった。
地上は無風だが、どうやら空の上には風があるらしい。
彼はこう考えた。
なんて馬鹿馬鹿しい。
不意に弦にかける力が緩み、ロワは弓矢を降ろしてしまった。
一足先に逝った友人たちならば、それを彼らしいと評したかもしれない。
当てねば死の淵に逆戻りだというのに、酒の肴にされるくらいなら大人しく死んだほうが潔いと考えたのだ。
だがカダルは諦めを許さない男であった。
「残念だが、矢を放つ方向が反対だぞ」
待っていましたと言わんばかりに、背にした窓枠から紗幕を取り外す。
女たちが駆け寄り、閉じた鎧戸を開いていく。
現れたものを目の当たりにして、さしものロワも王の御前であることさえ忘れて叫んだ。
「――――外道!」
窓の外には板が渡されていた。ちょうど港から船に渡される板のようなものだ。
不安定な足場のその先に女が立っている。
それは紛れもなくバレグの孫娘、ミシャ姫である。
金糸のような髪は風に乱れ、肌着一枚と翡翠色の打掛だけをまとった姿で、頬を涙に濡らしている。華奢な腕は膨らみはじめた腹を守るように抱いていた。
カダルが言わんとしたことの真の意味を理解し、ロワは立ち竦んだ。
彼が射てみせよと言った鳥とは、このミシャ姫のことだったのだ。
窓の大きさは小さく、まっすぐ射れば彼女の心臓を貫くだろう。当然のことながら、腹にいるはずの赤ん坊も流れてしまう。
斬首よりもよほど惨たらしい仕打ちである。
「何故こんな仕打ちを!? 腹にいるのはあなたの子ではありませんか! 遊びのように人の命を弄ぶのが貴人だというのなら……出世のために殺そうとしたバレグのほうがまだ人間らしいぞ!」
「つまらぬ問答はやめよ。お前が矢を放たねば、私が代わりにやるまでだ。父に殺される子のことを可哀想だと思わないか? ――それ、鳩を放て!」
無慈悲な号令に従い、塔の下で待ち構えていた侍女たちが籠に捕まえていた鳩を放つ。
そのうちの一羽が羽音を響かせて上がってくる。
ロワは慌てて矢を番え、弓を引いた。
ミシャか、それとも己の命か、選べるのは二つにひとつだった。
ただし、そこに立っているのが、ロワ・タビジでなければ。
ロワは怯むことも慌てることもせずに、静かに弓を横に寝かせて構えた。
そうすることで鏃の先が見え、獲物との距離が計りやすくなると知っていたからだ。
運悪く、放たれた鳩はちょうどミシャの背中に隠れるように飛び込んでいく。
彼は咄嗟に番えた矢を中心からずらした。
そして、弦を引く。
引いた、と思ったときには、手は弦から離れていた。
放った一矢は、ちょうど楕円を描くように窓から飛び出して、ミシャの真後ろに来た鳩の体を撃ち抜いた。
全てのことが静かに、素早く行われた。何もかもが澱みなく流れる水のようだった。
ミシャには傷ひとつなく、射抜かれた鳥だけが落ちて行く。
見物人たちはみな、魔術にかけられたように息を止めている。
「見事なり!」と武官が手を打った。「曲げ射ちの技法ですな。熟練の弓兵でも習得するのが難しい弓の妙技でございます」
沈黙の中、カダルが頷く。
「うむ。拳ひとつ、矢を中心からずらして射ることにより、矢を斜めに撃ち出すのだったな」
「はい、そして空気は重いものですから、軌道はまっすぐでなく曲がるのです」
落ち着いた彼らの様子に戸惑ったのはむしろロワのほうである。
命中したことをさぞや悔しがると思っていたのに、あまりにも反応が違う。
カダルの顔つきには、酒色や遊興に溺れる暗愚の王には存在しない知性さえある。
周囲の女たちも、いつからか淑女の顔となり、王のそばに静かに控えているではないか。
「……いったい、どういうことなのですか」
「驚かせてすまなかったな。これは余の謀りごと、全てに理由がある」
そうして、王は窓の外を指で示した。
「あれを見よ。我が国を今にも飲み込まんとするこの世の末を」
王の指先が示した先には遥か彼方にそびえる連峰がある。
「ひと月前と輝き方が変わった。南側から押し寄せていた侵食水晶が頂きを乗り越えようとしているのだ。だが人々は滅びに対してなす術がない。それは何故だかわかるか?」
「それは……この国の法は人々の移動を禁じているからです」
「そうだ。民が土地を捨てれば、麦は実らない。土地を捨てることは反逆に次ぐ重罪とされている」
この国で旅を許されているのは、商人や兵士たち、特別の許しを得たごく一部の民だけである。
水晶の呪いは、そのような事情を歯牙にもかけずに村々を飲み込んでいくが、逃げ出したとしても、土地を奪われた者たちは流民となり、捕まれば罪となってしまうのだ。
何もこれはこの国に限ったことではなく、周辺諸国すべてに大なり小なり似たような制度がある。
「既に聞き及んでいるかもしれぬが、巷では使者を北の国に送り出すことが流行しておるのだとか……」
もちろん、その動きのことをロワも知っていた。
水晶の呪いを解く方法は誰にもわからない。生まれた土地に縛れられたまま滅びの日を待つしかない哀れな民草は、せめて呪いの主である魔女に慈悲を請おうと、手紙を使者に託すのだ。
送り届けた請願の手紙が、万に一つ魔女の心を打つかもしれない……。
「もちろん見つかれば死罪は免れぬが、何もせずともいずれ水晶に呑まれるのだから、結末は同じだ。今後、侵食水晶がさらに広がれば、手紙の使者はますます増えるだろう。そこでだ、私はこの際、法を変えてしまうのが良いと思っている」
「法を?」
「ひとつの村や町につきひとり、手紙を携えた者にのみ北への旅を許すこととする。――ロワよ、お前を生かしたのには理由がある。お前は生きて使者の護り人となれ。彼らの旅路を守り、魔女への請願を果たすのだ」
ロワはそれを聞き、これまで傍若無人そのものであった王の振る舞いは、自分に隠れた弓の才能を試すためだったのだと理解した。
理解してなお、ロワには飲み込めぬ心もあった。
強い衝動が彼の心を突き動かし、考えるより速く言葉が出ていた。
「陛下、恐れながら申し上げたき儀がございます」
「無礼である、控えよ」
下級官吏が王陛下に直言するなど、普通なら考えられないことだ。
武官が腰のものに手を伸ばすが、カダルは受け入れた。
「この者に課せられた宿命は我が国の命運を左右する。それゆえに聞こう。何でも申してみよ」
「民草の移動を禁ずる法典は、百年書き変わることのない不動の律令にございます。それを貴方の一存で突き崩せると仰るのなら何故、何も知らずに罪に問われた私の仲間たちをお救い下さらなかったのでしょうか」
カダルは、刑に赴くとき、そしてミシャに矢を向けたときでさえ、わずかにも震えなかった少年の掌に目を留めた。
そして考えた末に、ただ一言のみを返した。
「許せ」
その言葉は、どのような風が吹いたとしても、けして倒れぬ心の楔となった。
ロワは緑玉の指輪をしかと握り込み、じっと俯いていた。
玉都アダラでよく語られる噂話に、こんな話がある。
とある役人の家で若い妻が産気づいたが、大層な難産で夜ふけになっても生まれなかった。
そこで姑が神殿に百度参って無事を祈ったところ、子は生まれた。だが、夜が明けて、姑は大変な間違いに気がついた。
願掛けをした神殿は安産の女神ではなく、隣にある弓の守護神の神殿だったのだ。
どうやら、暗い夜道で道を間違えてしまったらしい。
子どもは緑玉の弦引き指輪を手に掴んで生まれ、やがて弓の名手となったそうだ。
ただし――。
平凡な文官の家に生まれついたのと、本人の《怠け癖》のために、長いことその名は埋もれたままだった。
それも今日この時まで。
これから語られるのは、とある弓使いからはじまる語りにして、手紙に託された人々の祈りと願い、その行く末に関する無数の物語である。




