第32話 ちょっとずつ
1545年 4月
滝川一益が六角を出奔して6月の真ん中辺りに一乗谷に来てくれるらしい。
とうとう会える。正直言って文のやり取りはダルくなったのが本音だ。紙に筆で長文を書くの面倒だし、間違えても消ゴムを使うことも出来ない。かなり時間を使ってしまう。
現代の様に速攻で書くなんて出来なかった。
俺は書筆についてはてんで上手くないので、手紙の内容を観られる恥ずかしさを抱きながら母上に注釈を戴いて書き綴るっているのが現状だ。
色々な書類を見ていると、書道って手紙が主流の時代には大事な教養の一つ何だなと思う。
偉い人は常に筆を取り、様々な書類に沢山のことを記入していく。父上がそうだ。
字が綺麗な人は書く速度も速いし、ミスが少ない。母上がそうだ。
ちなみに一益の文の返信を母上に見せた折に、母上の分析では一益は相手のことを気遣える人間と評していた。俺は良く判らずに母上に訊ねてみても「自分で考えてみなさい」と言って教えて貰えなかった。内容のことなのだろうか?言われた通りに考えておこう。
父上は一益に会わないだろうなぁ。
俺がずっとラブコールする位の人材とはわかってはいるが、元は六角家の者で半分忍者みたいな者だ。配下になっても暫くは俺から外すと言っていた。俺は朝倉家の機密を扱い過ぎるからだそうだ。
そう言うことなら見張りを兼ねて誰かの下に着かせるのかな?
工藤兄弟でいいかな?朝倉家に来て日も浅いし、まだ友人も少ないだろうから外様同士仲良くなれるだろう。
となると与力扱いだろうか?
その工藤兄弟は現在、与力として宗滴殿の下に組み込まれている。
親の憂き目と北条での飼い殺し永らく主君を持てなかったという事で、朝倉武士として鍛えられている。と言うより学んでいるのかな?宗滴殿は筋がいいと褒めていた。
また孝綱もたまに宗滴殿の所へお邪魔するようだ。宗滴殿は孝綱の心構えは嫌いでも武将としては認めてる。数絵札や石転に興じたり軍学について語り合ったりしてるらしい。
だがまた1つ嫌いな所が出来たと言ってた。
真田家の陣旗を変えた事だ。
陣旗を六文銭マークに変えたらしい。何でも「命を賭けて朝倉に忠誠を誓う」ってまんま史実と同じだった!
凄く感慨深く、嬉しくなった。
改めて現実の孝綱って熱い男だなって思う。
俺の中では冷静で頭のキレるお爺さんのイメージだったんだけどなぁ...
彼の長男と次男は主家に対しての忠誠に篤かったんだから今の歴史(?)ではそれに輪を掛けて三男も命を主家に賭けるくらいの忠誠心を植え付けて欲しい。
でもまぁ、史実のあの状況じゃどうしようもないと思うけどね。
そんな真田家は初めに支給された土地と合わせてニ千石相当になる貫禄加増を受けた。禄だけみたら朝倉家中でも有数の家である。
今回の結果から見たら兵を損なうこと無く、一部の土地を得たのだ。文句の付けようがない。
また長男の源太郎が兄上の側着きになることが決まった。飛ぶ鳥を落とす勢いだ。ますます安泰だね。
俺には次男と三、四男でいいよ。
それと父上に、南蛮人が来た時に将来値上がりするであろう硝石を買い込んでおこうと提案した。備蓄があれば補給には困らないし、余裕があれば射撃練習も出来るかもしれない。それに近場で売ると危険だが船を使い遠国で売れば金になると思う。
それと硝石の開発施設は直ぐにできた。場所は一乗谷近くの山間部。生成方法も教わったがこれで中国人3人はお役後免というわけではない。ちゃんと花火を作って貰おう。花火工房は現代と同じく火気厳禁だから設備造りに時間が掛かるみたい。
花火が出来たら祭りを開こう。
地元だけのお祭りじゃなく国を挙げての大祭り。
越前の人々も安らぎを得ることが出来るんじゃないかな?
また、美濃侵攻が終わってから直ぐに工兵の常備軍計画が始まった。一応農民は入れずに下級武士を中心に人を集めた。ある程度規律がないと進行計画表は立てられないからだ。
隊の指揮官は朝倉景隆になることになった。目立つところはない。堅実な采配も取れる分けではないが、朝倉本家に近いから下級武士は従うだろう。
父上も景隆本人もそれは分かってる。本音を言えば優秀な、出来たなら工藤兄弟のどちらかに任せたかった。
両名にはその立場を今後の武功で手に入れて欲しい。
一応編成はしたがまだチグハグだ。今は鍛練と言う名の一乗谷館の反対側の山を伐採して貰っている。遊ばせておくのは勿体ないのでこれが終われば街道整備の演習だ。かなりの重労働なので中3日で休みを入れている。重機が無い中でこの作業はきついが頑張ってくれ。




