新たなる歯車
この世界に来て一年近く経ったと思う。
思う、というのは私が正確な日付を覚えていないからだ。覚えていなければ、確かめようがない。
けれど、紅葉の季節が過ぎ、雪の季節が過ぎ、新緑の季節が過ぎ、そろそろ一年経つのではないだろうか。
この泉に拠点を置いてからは、特筆するような変わった出来事も無く、私はスローライフを満喫していた。
あ、釣竿を買って釣りを始めた。変わった事と言えば、食卓に魚肉が並ぶようになった程度だろう。
この頃には、魔鎧を展開しない日というのも増えてきたようにも感じる。森で野草とモンスターの肉と、果実を集め、川で魚を釣り、瞑想、そして剣を振るう一日の繰り返しだ。
そして、自作できないものが不足してくると、近隣の村へと赴き、モンスターの素材から得た収入にて物々交換のように貰って来るのだ。
家の周囲に人が来た事は無い。不思議と、この場には人が寄ってこないのだ。我ながら良い場所を選べたのではないだろうか。
そんないつもと変わらない筈の朝の事、目を覚まし、朝食代わりの果実をお腹に納め、家から飛び降りた先にそれは落ちていた。
「人間……?」
泉に下半身を沈め、上半身を岸にしがみつかせたまま動かない人間の姿があった。旅人のようで、その身にはローブを身にまとっている。
生きてるのかな。
私は少し警戒しつつ、そのローブの人物へと近付いた。僅かに上下する背中。呼吸をしている。
どうやら、死んではいないようだ。
さらに近づく。
それでも動かない。まぁ、動かれたところでどうなるわけでもないけれど。
触れる。
まだ動かない、僅かにも緊張が現れないところを見ると、どうやら気を失って眠ってしまっているようだ。
水の中から引き摺り上げ、水を吸って重たくなっているローブを脱がせにかかる。
このローブ、所々に爪で引き裂かれたような跡がある。モンスターから逃げてきたのかな?
近づいた時に、もしやと思っていたが、私の手に抱かれている人物は、私とあまり変わらないくらい華奢なようだ。
きつく結ばれていたローブの全面を外し、ローブの中から一人の少女が転がり落ちる。
あどけなさの残る少女のような、気品のある美しい女性とも取れる整った顔立ちに、白く澄んだ絹糸のような肌。朝日を照り返す淡く黄金色に煌めく水で濡れた艶やかかな長い頭髪、私より遥かにある膨らみ。ぐぬぬ。そして、長い耳。
エルフ、というのかな。
うん、きっとエルフさんだ。本当に居たんだ。
エルフの女の子を抱え上げ、木の上にある私の家へと飛び上がる。瞬間的に、魔鎧の脚力を足に付与させたものだ。何かと便利。
家の中に入ると、乾いた布でこの子の体の水気を取っていく。髪も沢山水を吸っていて、私の家の床に水溜りを作らんばかりの量だ。
拭き取り作業を終え、布を日向に干しておく。
以前濡れたままのものを乾燥させ忘れていた時の異臭事件は忘れない。
少女に視線を落とす。
穢れを一切知らぬ無垢な表情を浮かべ、眠り続けている。
だが、暫くすると、太陽が昇るとともに動いた影が少女から外れ、その顔に日が差し込んだ。
「んっ…………? こ、ここは……?」
少女は目を覚ました。だが、答えるものはいない。
なぜなら、この時私もぼんやりと待ち続けていた所為で、うとうとと微睡みの中に居たからだ。
「あ、あの……」
「ん……? ふぁぁ……いけない、私まで寝ちゃってた」
少女に触れられて、意識が呼び戻される。
少女は碧玉をはめ込んだかのような、美しい瞳で私をのぞき込んでいた。
「あ、あの……助けて、くださったんですよね? ありがとうございます!」
さぐりさぐり、私の様子を見ながら少女は言葉を綴る。
「家の前で気を失っていたからね。そのままには出来ないから、家まで運び込んだよ。それより、どこか痛むところは無い?」
「あ、はい。……少し、気怠い感じはしますけど、痛みはないみたいです」
体を動かしつつ答える少女。
ローブの爪跡は体にまで到達していなかったようだ。
「君、名前は?」
「レ、レンフィエンタ・アメニコルフィールです! どうぞ、レンとお呼びください」
「ん、レンね。分かった。私は阿木沙……」
そこまで言いかけて、止まる。
普通に名乗り上げようとしたけど、この世界で初めて名を口に出したかもしれない。
これは姓と名を逆にして言った方がいいのかな。などと思っていると、少女が顔を綻ばせて食いつくように私を呼んだ。
「アギサ! アギサ、ですね? まるで、聖女みたいな名前……! 素敵です!」
などと、勝手に盛り上がってしまった。最早訂正するのも億劫なくらい盛り上がってしまっている。
まぁ、いいか。この世界では、違和感を感じられないような名前なのだろう。うん。
アギサ。
今度から名前を聞かれた時、そう答えよう。
しかし、気になる点が一つ。
「その聖女っていうのは……?」
「アギサはこの辺りの出身ではないのですか? 聖女アギスラール。この大森林に伝わる御伽噺に出てくるんですよ。災厄が世界を包み込んだ時、天の使いより現れて、災厄を収めし者。この泉は、その聖女が天に帰る前に身を清めたという言い伝えがあるのですよ」
「そんな伝承がこの泉に……」
にこやかに答えるレン。
どうやら、この場所はとても神秘的な場所だったらしい。人も来ないわけだ。
そしてもう一つ気になっていること。
「レンってさ、その耳……もしかして、エルフ?」
「あっ……!」
指摘され、素早く耳を隠すレン。
「み、見ちゃいました……?」
「見ちゃいましたも何も、さっきから隠しもせず堂々としてたじゃないの……」
「う、うぅ……どうかこの事はくれぐれも内密にお願いします」
しょんぼりと肩を竦めるレン。
この子、少し抜けてるところがありそう。
「私も人里離れて生活してるからね。面倒事は嫌いだし、誰に言ったりするって事は無いよ」
「ありがとうございます……」
レンの気分の抑揚に合わせて耳も上がったり下がったりしている。面白い。というか、感情がわかりやすいなぁ。
「まぁ、折角会ったのも何かの縁って事で」
「アギサは変わっていますね……」
「どうだろうね。それより、お腹空いてない? 干し肉とか果物とか、大したものは無いけれどそういったもので良ければ何か食べる?」
「あ、お願いします。すみません……」
「いいのいいの。食べながらでいいから、どえしてあんな所で気を失ってたのか聞かせてくれる?」
「は、はい。少し長くなりますけれど……」
「問題無いよ。私は基本、暇してるからね」
「そうでしたか。じゃあ、話しますね……」
こういう風に、誰かと話したのは凄く久し振りなのではないだろうか。私はエルフとかそういうものより、同性の話し相手というのに内心喜びが溢れていた。
干し肉と果物、それと水をそれぞれの器に入れ、レンと私で対面し、その間に置く。
そうして、私はレンの話に耳を傾けた。




