脳科学に対する、文系人間からの反撃
この文章を考えている時、わたしは自分の言葉で考えているつもりでした。しかし、書き終えた今、そのほとんどが「ウィトゲンシュタインのパラドックス(クリプキ)」などの様々な哲学書に拠っていることが分かりました。
この文章は、だから、自分が学び、考えてきたことに対するまとめ……それに若干のSF的味付けをしたものになります。
言葉に意味を与えるものは何か。言葉……例えば、空気の振動や、紙にこびりついたインクのシミを意味ある言葉として受け止めることができるのはどのようにしてか、と言った問題について考えてみたい。
素朴に考えるなら、今ここに書かれている文章を、意味あるものとしているのは、書いているわたしの心であり、読む人の心であろう。少し科学的に言うなら、書いている時、読んでいるときに起こる、ある特定の脳細胞の発火こそが、文に息を吹き込むものだということになろう。
だが、それは本当なのか? それが、二十世紀の哲学者が発見した巨大な問いだった。
二十世紀の哲学者……、特に言語の哲学に取り組んだ哲学者達は、有意味な文と無意味な文を明確に切り分ける鉈を欲していた。哲学も、学問である以上、有意味な文からなるのでなければならない。無意味な文からなる文章は、それがどんなに美しくとも、詩にしかならないだろう。そこで、哲学の哲学による自己点検の手段として、文が有意味となる条件を追い求めた。
彼らが問題としたのは、例えば次のような言明だろう。
「不安と無の明るい夜の中で、存在者としての存在者の根源的な開示がはじめて生起する。」
これは、ハイデガーの文章だが、確かにこれだけでは何が言いたいのかよく分からない。何が言いたいのかよく分からないのは見せかけだけで、実は有意味な文なのか、それとも全く意味をなさない文なのか……。どうすれば、それが分かるのだろうか。
この文を読んだときに、心の中で(現代的に言えば脳内で)何かが(思念とか志向とかクオリアとか呼ばれる何か)が生じたかどうかが、この文の有意味性を与えると論証できるだろうか。
問題は、我々の脳は間違いを犯しうる、ということだ。これは、外国語を習得するときに、際立って明らかとなる。日本人が「わたしはあなたにお願いしたい」という意図をもって「ラマニャラマトラルウ」というある外国語のフレーズを口にしたとしよう。ところが、それは実際には別の意味だということを、日本語とその外国語の両方の熟達者から教えられたとする。
この時「ラマニャラマトラルウ」の意味は、その日本人の脳内をいくら探求したとしても出てこない。むしろ、その本人の心の外側……、第三者によってはじめて検証されるのだ。
このようなことが、先のハイデガーの文を読むときに起こっている可能性を、否定できるだろうか。わたしの脳内で、例えどんな思考パターンが検出されても、それは有意味である証拠にはならない。
もちろん、科学者は次のような方法をとることはできるだろう。明らかに有意味な文を読んだときと、明らかに無意味な分を読んだときの、脳細胞の反応の仕方の差を見つけ出し、それに基づいて、有意味か無意味か分からない文を読んだときにどちらの反応が出るのかを調べるのだ。
確かにこれは有効な方法かも知れない。だが、二つ問題がある。一つは、科学者が明らかに有意味な文と、そうではない文を選り分ける際に、既に有意味かどうか識別できるのでなければならないということだ。
もう一つの問題は、たとえある特定の脳波が出たとしても、その文の意味を誤解しているからかも知れない、ということだ。国語の受験勉強をしたものなら分かるが、我々はしばしば文章を誤解しうる。特に、ハイデガーの文を全く誤解せずに読むことなど素人には不可能だし、そもそも誤解しているかいないかを検証するには、結局、脳の電気信号観察以外の手段……、ハイデガー専門家の審問が必要になるだろう。つまり、ここでも、文の意味は、個人の脳内の現象とは独立なのだ。
ここで、一つの問いがあるかも知れない。ハイデガーの文章は、他人の考えた文章だ。確かにそこに誤解が生じる可能性はどこまでも残るが、自分の発話した文章を誤解することなどあり得ない、と。
おそらく、決して少なくない数の哲学者達は「誤解は生じうる」と結論づけるだろう。日常生活で、我々はしばしば単語の意味を間違えて使う。例えば「役不足」という言葉は、しばしば間違って使われることが明らかにされている。
この時「役不足」という言葉の意味を、間違って使用している発話者の脳を調べたところで出てこないだろう。そして、発話者自身、外部で検証されるまで意味が間違っていることに気がつかない。
「『役不足』という言葉を、わたしは謙遜の意味で使ったのである」そう発話者は主張するかも知れない。つまり、彼にとって「役不足」は、ある種の謙譲語だったのだ、と。そして、脳をモニタリングすると、確かに謙遜している時特有のパターンが検出された……。OK認めよう、確かに言葉の背後には、心の(脳の)状態が作用しているのだ、と。
だが、この例で本当に恐ろしいのは、心のいかなる状態も、いかなる文や単語と結びつきうる、ということだ。簡単に言えば、憎しみの感情が「あなたを愛している」という言葉に結びつくことも、論理的にはあり得る、もっと言うならば、空腹の欲求が「わたしはあなたを愛している」という文と結びつくこともあり得る、のだ。
そして、発話者は、脳のある状態が、発話した文章に正しく結びついているか検証する手段はない(例え、脳の状態を完全にモニタリングできたとしても)のだ。
そもそも、正しい結びつき方など存在しないのだから……。従って、文の意味を「発話者の意図(=脳の状態)」としてしまうと、文の意味は完全に恣意的なものになってしまい、言語は瓦解する。
すると、翻って、先のハイデガーの文章の有意味性をどのように検証するべきなのだろうか? むろん、ハイデガーの脳の状態を、タイムマシンで遡って調べる、というのも、完全に間違った方法ではあるまい。それは、有力な資料とはなるが、しかしそれだけだ。
文の有意味性は、当事者の脳の状況とは独立に検証されなければならない。しかし、どうやって? 意味はどこへ行ってしまうのか? そもそも、「意味とは何か」定義するのは不可能なのか。
全ての文・文章・単語の有意味性・無意味性を検証する機械的操作など存在しない、と結論づけてよいだろうか。
これから、もう少し哲学を勉強し、少しでも答えに迫りたいものだ。
脳についての科学は年々進歩している。いずれ「あなたが本当に何を考えているか、この機械で調べれば分かる」時代がくるかも知れない。そして、あなたが考えていることと、「機械で調べたあなたが考えていること」が相違した時、あなたはどうするだろうか。
そのような事態が起こりうることを、現代の哲学は教えてくれる。
わたしに、分析哲学の成果を伝えてくれた、日本の多くの哲学研究者に感謝します。彼らがいなければ、わたしは哲学することの楽しみを知らなかったでしょう。
そして、読んでいただいた皆様に、少しでも楽しみを分けることができたとすれば、望外の喜びです。