自転車
「もうこんなところまで来てしまったのね」
ここまで来たことに特に理由はなかった。ただ自分が見たことのない世界を見たいと思ったことから、全ては始まったんだと思う。
目の前に広がっているのは一面の草原。私はそのど真ん中にいる。
風が地面の草をなびかせるのをじっと見つめる。この風景は私が生まれてからこれまで一度も見た事のないもの。そんな事を考えながら私は想いに耽る。
人間の寿命は長くても100年くらい。その間に私はどのくらい多くの景色を見ることができるのだろうか。どれほどの風景と出会えるのだろうか。きっと今までどおりの生活をしていたら見られないものがたくさんあると思う。だったらいっそ今までの生活から抜けだしてみようと思った。
「そう思ったはいいけど、」
私は大きくため息をついた。
「これからどこに行こうかしらね」
適当に旅支度をして、明確な目的地も決めず家を飛び出し自転車に乗ってここまで何も考えずに来た。お金や着替えは今のところは十分あるのだが、それも今だけの話だろう。この先どうなるかは……考えたくもない。
「移動手段が自転車しかないのも難点だけれど。とりあえず進んでみて考えるかしら」
そうして私は自転車を漕ぎ始めた。ハンドルを握り、一心不乱にペダルを漕ぎ続ける。
もう夕方近くなのだろうか、夕焼けが眩しい。こんな風に自転車を漕いでいると、気が付かないうちに考え事が多くなる。
考え事は言ってみれば自分自身との対話なんだと思う。自分が今考えていることを自分自身に問いかける。そして新しい何かを見つけるのだ。瞑想なんかがいい例で、先人たちもきっとそうやって真理を得てきたんだと思う。
「こんにちは」
ふいに横から聞き慣れた声が聞こえてきた。
声の方を振り向いてみると、そこには一人の少女がいた。自転車に乗って私と並走している。
長い黒髪に大きな瞳、小柄な顔。そしてなぜか頭に大きな猫の耳。獣耳の少女である私はこんな娘にはあったことがない。だがどうしても知っているような気がする。それどころかどこか懐かしいような。
「あなたは誰?会ったことはないようだけれども」
「私はあなた、もう一人のあなた。お久しぶりね」
「……一体どういうことかしら」
「いつもずっとあなたのそばにいたのよ。あなたが気づいていないだけ」
私が理解できない事をいきなり言い始めた彼女は、私と同じ自転車に乗っていた。自転車のスピードも漕ぎ方も、仕草も声も何もかも一緒だ。まるで、もう一人の私のように。
なんだか不意に彼女の言うことを信じてみる気になった。
私が自転車を止める。すると彼女も同様に自転車を止めた。
「そう、そうだったわね。あなたはもうひとりの私。生まれた時からずっと近くにいてくれた気がするわ」
「ふふふ。その通り、ずっと一緒だったのよ」
そう言って彼女はこちらに笑いかけてきた。その目は夕日に映えて、宝石みたいにキラキラと輝いていた。
とりあえず立ち話をするのも疲れると思った私は、辺りの適当な草むらに腰を下ろす。彼女も隣に腰を下ろした。
「さて、私はあなたの名前を知らないわ。多分あなたは私の名前を知っているんでしょうけど」
私は彼女に尋ねた。
「ええ、あなたの名前は知っているわ。当たり前じゃない」
「でしょうね。じゃああなたのことはなんて呼べばいいかしら?」
んーと彼女は若干考える素振りを見せてから言った。
「お好きにどうぞ。それが私の名前になるから」
「じゃあ……ミミね。耳が特徴だからミミ。どう?いいでしょう」
「ミミ……ね。わかったわ。私はミミ。“ちゃん”をつけてもらえたりはするかしら?」
ミミがいたずらっぽく言った。
「いやよ、恥ずかしいもの。ミミって呼ばせてもらうわ」
「ぶー。まぁいいかしらね」
ミミはそう言うと、大きく伸びをしてからこちらに向き直った。すごく興味津々の様子だ。
そういえば私はミミが一体何故現れたのか、ということについて何も知らないし、何も聞いていなかったことに気がついた。彼女は何しに来たのだろうか。見当もつかない。
「ふふ。何で私が今ここにいるのかって言うことに対しての理由を考えているでしょう?」
……図星だ。
「……何でわかったのかしら」
「おもいっきり顔にそう書いてあるからよ。『こいつは一体何者なんだ?見当もつかない。』ってね。そんな怖い顔しないでほしいわ」
なんだか口数のへらない娘である。いや、人間かどうかすらも怪しいのだが。
「じゃあ聞かせてもらうわミミ。あなたは何故今ここに現れたのかしら」
「ふふ。そんなに知りたい?」
「ええ、とても」
「じゃあいいわ、話してあげる」
そう言うとミミはさっきまでの口調のまま、しかし力強く言った。
「私は、あなたを導きに来たのよ」
「導き?」
なんだか突拍子もない事を言い始めた。私を導く?どこへ?
「あなたが…私をどこへ導くって?」
「んー、導くって言い方だとちょっと語弊があるかもしれないわね。どこへ行くのかはあなた次第。私にできるのは、どうやったらあなたが目的地を見いだせるかどうかを教えてあげるだけだもの」
ますます訳がわからない。目的地とはなんだろう。この旅の目的地のことなのだろうか。それとも……
「あなた、なにか悩み事でもあるんじゃないの?」
ミミが問いかけてきた。
「え……」
「だって普通の思考している人間は、こんなところに何の目的も無く来ないもの。」
そう言うと彼女はさっき以上に興味津々の眼差しを向けてきた。
「何か、あったんでしょ?」
……なかったわけではない。この旅の最中に心のどこかにずっと引っかかっていた気がする。
それはもしかしたらほんの些細なことかもしれない。こんなことを考えているのは自分だけなのかもしれない。こんなことを気にしているのは自分だけなのかもしれない。そんなふうに考えていたら、自分がどんどんダメな人間に思えてきて、私はそこでいつ考えるのをやめる。いつか向き合わなければならないことなのに、ずっと逃げている。そんな自分がイヤなのに抜け出せなくて、どうしようもなくなって、また最初のループに戻る。その繰り返しだ。
「私に話してみて。大丈夫、私はあなたなのよ。わかりたくなくてもわかっちゃうわ」
ミミが声をかける。
「そうねミミ、あなたは私だもの」
うん、そうだ。
「じゃあ聞いてもらおうかしら」
ふう、と私は息を吐き出す。
「私ね、実は大学生なの。大学ニ年生。高校を卒業したあと、一年間浪人して大学に入ったわ。部活にも入っていて、友達も沢山いる…と思う。来年度からは部活の部長をやることになるんだけど。成績はまぁ中の上くらいかしら。来年には就職活動ってやつが始まるらしいわ……まだ何にも知らないけどね」
ここで一旦言葉を区切った。ミミはさっきまでの饒舌が嘘のように静まり返っている。ただこちらにやわらかな視線を向けて、まるで私が喋るのを見守っていてくれているようだった。私は言葉を続ける。
「もちろん高校時代もこれまでも生きることについて深く考えることはなかったわ。でもね、最近思うの。私の立場は一体どうやって生まれたんだろうって。
私という属性はたくさんあるわ。娘としての私。大学生としての私。部活の先輩としての私。友達の中の私。所属するコミュニティの大小の違いこそあれど、私という存在に沢山の属性が付与されていることには変わりないわ」
ミミは黙っている。私は構わず話を続ける。
「でも各コミュニティでの私の存在は必ずしも同一ではないの。だって家にいるみたいに部活で振舞ったら、おかしいでしょう。なぜ私というものは同じなのに振る舞い方が違うのかしら。どれが本当の自分なのか。そのことに気づいたとき、自分という存在に自覚を持てなくなったの。私はコミュニティの中でしか生きられないんじゃないかって。そしてそうだからこそ、各場面で別の自分を使い分けているんじゃないかって。これが、自分を見失うって言うこと?ねぇ、どうなのかしらミミ」
ここまで話して、今の自分が何を漠然と考えていたのかを初めて具体的に口に出せた気がする。こうやって他人に話して聞かせると、具体性を持った思考をすることができる。
彼女はここまで聞いても黙ってこっちに微笑んでいた。その微笑みはさっきから変わらず、私を見守っていていた。
私は、こんなことを考えているのは自分だけかなと思っていた。私が存在するからコミュニティが存在するのか。コミュニティが存在するから私の存在が保たれているのか。いずれにせよ、私がコミュニティの中でしか生きていけないのは紛れもない事実で、もし一人になったらと考えるととても怖い。自分が他人に依存しているようで怖くもありそして、何より恥ずかしくもあった。
私のそんな感情を見透かすような彼女の眼は、自然と私を安心させここまで話させた。多くをぶちまけた私は、恥ずかしさはあまりなく、寧ろ清々しさが残っただけだった。
「まず、」
彼女が話し始める。
「そんなことを考えているのは自分だけと心配しているでしょう。私はそんなことはないと思うわ。誰だって自分の存在意義について考えて見ることは一度や二度はあるもの。例えば自分の存在を否定された時とかね。きっとそういう時『何で自分は生まれてきたんだろう』って考えるはずよ。そんな時どれが本当の自分なのかわからなくなってしまい、どうしようもなくなってしまう……そんな経験がある人はたくさんいるわ」
彼女は柔らかい口調でそこまで言ってしまうと、一呼吸をおいた。そよ風が吹いてきて、彼女の髪を撫でる。それをかきあげて彼女は続けた。
「そして逆にコミュニティに入っていない人間はすごく怖いと思うの。何でって自分を手っ取り早く証明する属性を持っていないんだもの。言ってしまえば信用できるのは自分だけ。誰の手も借りることはできない。人って一人では生きていけないのよ」
そう。だから誰もが仲間や友達を求めるんだと思う。誰だって一人は寂しいもの。
「そんな人達は他人を求めるの。それも狂おしいほどにね。表面では友達なんかいらない、一人で生きていけると言っても、心のどこかで他人を求めているものよ。例外なくね。そしてそれは、」
彼女は私に眼を合わせてきた。まるで吸い込まれるような錯覚を覚えるほどに、彼女の瞳は澄んでいた。
「それはあなたも同じ。私も同じ。そう、だれだって同じ。心の中では誰かを求めているの。本当に寂しい生き物なのね、人間って」
「でも……もしかしたらこんなことを考えているのは私だけかもしれないし……。みんなはこんなことを深く考えもせずに日々を過ごしているんじゃないのかしら。」
「じゃあ考えてみなさい。あなたの母親について考えてみましょう。あなたの母親は何故今の立場にあると思う?生まれた瞬間にあなたの母親になったわけじゃなく、きっと今まで何十年も人間としての生活をしてきたはずよ。彼女はきっといろんなコミュニティに属してきたわ。きっと友達もたくさんいるのでしょう。ならきっと彼女も寂しかったんだと思う。
もちろん友達は寂しい人間の塊だ、というつもりはないわ。私だってそんなこと考えて友だちになったことはないもの。きっとそれは無意識のうちにそう感じているはず。だから人は仲間を求めるの。でもそれは決して間違いではないわ。むしろ崇高で、幸せなこと。 …きっと友だちやコミュニティとのつながりというものは何物にも代えがたいあなたの財産になるはずよ。……私もね」
ああ、きっとそうなんだな、と私は思う。
一人じゃ生きていけない人間が、生きていく上で必要だから仲間を作る。でもそれはとてもネガティブなことに見えて、逆にすごくポジティブなことなんだな。過程はどうあれ、結果的には非常にポジティブな行動になっている。私は彼女の言ったことをなんとなく反芻していた。
「各コミュニティにおいてあなたの振る舞いが違うのも当然なこと。だってコミュニティ自体の属性が違うんですもの。でもだからといって自分が変わったと考えるのは間違いよ。それらは自分の意志で生まれたあなた自身なんだもの。みんな大切にしてあげなくちゃ。本当のあなたがどれかではなく、全てがあなた自身であるという事を忘れないでいてあげてね」
「……」
全てが私。
私を構成するもの全てが私。
たとえ外から見て異質なものでも、たとえ内から見て恥ずかしいものでも。それが全て私。大切な私の構成要素。
きっと世界中の全ての人がそうなのだろう。しかし誰もが気付かず日々を過ごしている。……いや気がつきながらも受け入れているに違いない……と思う。
私は自分が今思ったこと、感じたことを彼女に伝えようとした。
しかし、それらをどう言葉にすればいいかわからなかった。いや、わかっていても言葉にするのは……なんだか恥ずかしかった。
だから私は一言だけ、
「なんだかわかった気がするわ」
そう言ってみた。前を向きながら、ぼそっと、呟くように。
「そう?それなら良かったわ」
ミミは相変わらず柔らかな微笑みを顔に浮かべたままそう言った。
さっきまでの燃えるような夕焼けはすでに月と星が浮かぶ夜の闇へと変わり、感じるそよ風も少し肌寒く感じるくらいになってきた。
でもそんな私達に降りそそぐ月の光は一見冷ややかながらも、優しく私達を包んでいてくれる気がして心強かった。
「ミミ」
「なぁに?」
「ありがとう」
ふと彼女に感謝の言葉をかけてしまった。
彼女のしたことは私の話を聞いてちょっと助言をくれただけ。それ以上でも、それ以下でもない。それでも私を理解してくれていたのは確かなんだと思う。やっぱり彼女は……
「別にお礼を言われる程の事はしていないわ。私はあなたを導くために来たの。私との会話であなたが目的地を見出すことができたのならば、それが何よりよ。でも一つだけ……」
彼女は続ける。
「私の言うことは必ずしも正しいとは限らない。他人のいうことを盲目的に信じていると、あなた自身の考えがなくなってしまうわ。だからなるべく自分の考えを持った上で他人の考えを聞くようにしてね。そうしたらきっと“自分”というものが生まれると思うわ」
そう言うと彼女は腰を上げた。パッパッとスカートのホコリを払うと、自転車のスタンドを上げる。
「もう、行ってしまうのね」
なんとなくそんな気がしていた。
「ええ、あなたとおしゃべりできて、とても楽しかったわ」
「今度はいつ会えるかしら」
「忘れたの?あなたは私。私はあなた。いつも一緒にいるわ。また私に会いたくなったらいつでも呼んでね」
そう行って彼女はライトを着けて自転車を漕ぎ始めた。そしてそのままどこまでも続く草原を走っていく。
私はその後ろ姿が見えなくなるまで見つめていた。ライトに照らされた後ろ姿は光の点になり、その光の点は遠く遠く、どんどん小さくなっていって、やがて見えなくなっていった。
さて、私もそろそろ出発しなければ。
気がついたらこんなに真っ暗である。今晩はどこでどう過ごすかを考えなくてはならない。急いで自転車にまたがり漕ぎ進める。
「どこかに民家でもあるといいのだけれど」
そんなことを呟きながら私は、この旅に出たことは決して無駄ではなかったんだなと、なんとなく思うのだった。
初めまして、羽栗明日です。
今回初めて投稿させていただきます。
自分の行きたかった自転車での旅をモチーフに書いてみました。
稚拙な文章で読みにくく、読者の皆様には多大な苦労を強いてしまうことになるとは思いますが、読んでいただけたら幸いでございます。
今後も不定期で投稿していこうと思っておりますので、よろしくお願い致します。