夜半の国
イーハトーブ。
僕はあの国を、そう呼んでいる。
*
夏の盛りに比べて、月は見上げた空の一層高い雲に宿をとっている。もう一度欠けて、再び満ちる頃には冬がやってくる。厳しい冬、我慢の冬だ。例年より気温が低く、なんて珍しい話じゃない。ここ十三年、時候の挨拶のように繰り返されている。
「だいぶ寒くなってきたね」
言葉といっしょに出た息がかすかに白む。
口元を隠していたマフラーをちょっと下げて、そうだね、と隣を歩いていた彼女は言った。
「冬はキライだな。なんで毎年毎年……」
歯切れの悪い文句をこぼし、ユエはマフラーをくいっと上げ直した。
ユエは特別寒がりで、夏も必ず人より一枚多く羽織っている。彼女にとって服は防寒具でしかなくて、選ぶ基準は暖かいかどうか。そうやって手に取られた服は、同世代の女の子がめかしこむ洋服にどうしても見劣りする。制服だからおとなしくしているのだろうけれど、本当はスカートをはくのだって嫌で嫌で仕方ないはずだ。寒いから。
ユエがまたマフラーを下げた。
彼女は一言喋るのにもいちいちマフラーを上げ下げして、せわしない。口を覆わないように巻くか、でなければ覆ったままで話せばいいのにと言及したら「人と話すのに失礼じゃない?」って。
ユエのそういうところ、好きだよ。
「ユーリ、また買い足し手伝ってくれる?」
「いいよ、もちろん」
「ありがと。お礼はいつもの、氷菓でいい?」
「うん。桐月堂のね」
氷菓っていうのは、普通は白く固まってしまう花の蜜を蜜色のまま結晶にした甘いお菓子で、見た目は氷によく似ている。花蜜の種類や純度、ブレンド、製造方法で味も舌触りもまったく違うものになる。店の味を決める菓子杜氏は、一年以上氷菓ひとつに掛かり切りになることもあるとか。
「桐月堂ね。あそこの氷菓、結構クセがあると思うんだけどユーリは好きだよね」
「うん。……ユエは氷菓湯って知ってる?」
「お湯に溶かすあれだよね。溶けるまでにすっごい時間かかるし、溶けきった頃には冷めっちゃってるから私はあまり好きじゃないな」
「もしかしてマグで作ってる?」
「うん」
「鍋で火に掛ければいいのに」
「うっ」
ああ、マフラーに沈んでいった。可愛いなあ。
「でね、一歳半の時かな、誰かが飲んでた氷菓湯をねだったらしくて、分けてもらって死にかけたことがあるんだって」
意外なことにユエは驚かなかった。ただ静かに、次の言葉を待っていた。
「その時の氷菓が桐月堂。厳密には一代前の菓子杜氏の。死にかけたっていうのにさ、なんでか好きになっちゃったみたいで。でも、やっぱりあの氷菓と今の氷菓は違うんだよなあ……」
先代の氷菓なんて覚えているはずもないのに、二人の菓子杜氏のつくる味は別物だと、確かにわかった。それが、今年に入って誤差程度まで縮まってきている。きっと春一番の氷菓で、当代はあの味に追いつく。でも――
「でも、当代にはジャンプして欲しいんだよ」
「ジャンプ?」
「先代の味を再現するのに反対するわけじゃない。ただ、今のままじゃあ面白くないんだよ。思考が『でも』『だけど』って逆接でぶっ飛んで加速するみたいに、自分だけの氷菓をつくって欲しいんだ」
「ふうん」
関心なさげにユエは声を零した。
道には並んだ影が伸びている。人の気配はなく、会話が途切れた家路には二人分の足音だけが静かに落ちていく。月もずいぶん傾いて、西の山まであと一歩といったところ。もうじき、夜だ。
夜だ。
空に向けていた視線を下ろすと、影がひとつなくなっていた。
「いろんなこと、ユーリは考えてるんだね」
振り返ると、ユエはいつものようにマフラーに指をかけ、立ち止まっていた。
「でも、私には」
ユエは、マフラーに顔をうずめた。
「私にはよく、わかんないや」
「じゃあ、また明日」
また明日と、手を振り返す。ユエの家はもう少し先にある。戸を開けて、体半分入ったところで「あのさ」とユエに呼び止められた。
「あのさ、ごめんね。ユーリに氷菓あげたの、たぶん私だ」
それだけ言うと、右手に握り締めたマフラーを風にひらめかせてユエは駆け出した。
二歳年上の親友の背中を、見えなくなるまで見送った。
窓枠に腰掛けて、稜線にかかった月が吸い込まれるように沈んでいくのを何の気なしに眺める。氷菓をひとつ口に運ぶと、氷みたいに尖っていない、優しい冷たさが広がった。
ばーか。
光の尾が月を追って山の向こうに消えていく。
世界から、光が消える。
夜だ。
*
携帯電話が小刻みに机を打つ音と、カーテンを透過して青く色づいた朝日に目を覚ます。
昨晩、空気は八月かと錯覚するほどの熱を帯びていた。今日は一転、やけに寒い。脇にやっていた掛け布団を寝ているうちに手繰り寄せ、その中で身体を小さく丸めてしまうほどに。
横になったまま四肢を伸ばして震わせると、左ふくらはぎに攣る気配がして、慌てて筋肉を弛緩させた。
深く呼吸をして、ゆっくりと重い上体を起こす。
イーハトーブ。
僕はあの国を、そう呼んでいる。