37:エンカウント
そこには知の山が連なっていた。
陽の光が最小にしか射さぬ吹き抜け、数階に及ぶ屋内の内部には知識がひしめいていた。
その壁面の殆どが書架であり古き書には経年の劣化を防ぐ保護・保存の魔法が厳重に施され、数多くの写本は歴戦の兵の如く我が物顔で座し、棚に収まりきらぬものは床の上に積み重ねられては歪な山脈を形成していた。
これは叡智の霊峰と呼ぶに相応しい。
幾人もの先達が書き記した魔導の深奥を示す書物の数々。
遠き異国の賢人、また知性人類のみならず希有なる亜人種が使う魔法の秘奥、はては仮説、迷信、妄想の類を含め、まこと常識人であるなら眉をひそめる怪しいものまで雑多に在った。
パアル共通言語で書かれた物、わかりやすく平坦に書かれたものなどは皆無に等しく、それぞれの部族言葉、方言、種族内で発達した固有言語、言い回しなどで記され、中には門派の符丁を知らぬ者には解読出来ぬような暗号まである。
しかし、それだけならばまだやさしい。
古書の中には安易に読むことも憚られる危険な物さえあった。
“魔本”と俗称されるそれらは邪悪な書き手、とりわけ練達した魔導師によって作られ、上質な物は現代においてもしぶとく生存する。
それらの書は人工的な魔物といっても差しつかえない。
読む者の指を唐突に噛み千切るモノ。
声に出して読めばたちどころに心身を病ませるモノ。
読み進めればひそかに召喚術が発動しヨクナイモノを喚ぶモノ。
書き手の性根の悪さが著しく発揮されたそれら、毒劇物たる古書らは静かに新たな供物、獲物を待っていた。
即ち、これらの本を所有する者は常人にあらず。
魔導に精通し、魔物と化した書を支配し平然と読み解けるモノでなければいけない。
それは賢者である。
また強者であろう。
そして善悪の垣根を容易に踏み越えられる狂人にしか成し得ないだろう。
彼女はいにしえの怪物であった。
万民に等しくかかる世界の法、重力さえ無視し壁を床の如く平然と歩行する者がそこにいる。
頭部からつま先まで黄衣を纏った蔵書の主。
足は見えぬ、腕も、手先すら見えぬ、顔を見ようにも昏く黒煙のような闇がゆらめき、容姿すら外からは窺い知れぬ。
黄衣は重みで床へと垂れ下がりはしない、主が歩く壁、そこが床、下であるかのように従い、振る舞っている。
これを見ればうず高い書架にハシゴの類が一切ないのも納得できる。
自身の重みだけならず周囲の重力さえ制御し、自在に歩行移動する者にそのような道具はもはや必要ない。
怪物の名を『レティシア』と言った。
古き時代を生き、神と戯れ、長い時を経てもなお生き続け化生となった魔導師である。
「ご主人様、ご報告が……」
床上、地上よりレティシアへと従者からの声がかかる。
主が怪物であるなら従者もまた……。
■
「今ここに赤毛の女がいなかったか……」
コアはたいそう柄の悪そうな、目つきの悪いダークエルフに絡まれていた。
「あいつだ……まちがいない、あの女の魔力だ」
なにやら独り言のような、恨み言のような独白が女の、アデライト女王の口から漏れ出る。
コアが赤毛の女に連れられ後宮よりも奥深く、余人には立ち入れない領域であろう庭園に差し掛かった所で
「わるい、ここからは一人で行ってくれ! 健闘を祈ってる!!」
と、大層自分勝手な言葉と共に赤毛女が走り去ってしまった。
あまりに突飛な行動に引き留める暇すらなく、コアにしては珍しい事に呆然としてしまったほどだが
――なるほど、なんらかの手段を用いて目の前の女の存在を察知し逃げたか。
と一応の納得をしていた。
名前すらわからない、上等な服に身を包んだダークエルフの貴人。
怪物的な母親、熟達した魔導師の育て親を含めたとしても、“強い”と臭わせるほどのたまらない覇気を纏っている。
目を凝らして見れば体全体を魔力が薄く覆い拡散していかない。
精緻な魔力の制御、それを呼吸の如く、ごくごく自然な域にまで昇華している達人。
赤毛の女と目の前の女、両者に何があったかは計り知れないが逃げたくなる気持ちもわからなくはない。
この位階の相手が本気でかかってくる場合、ずいぶんと難儀であろうよ。
「坊や、名前は?」
女が、アデライトが静かに問うた。
昏く重い響きを含んだ声色を聞いた途端、不可思議な事が起きた。
「コーデリア」
考えるよりも早く口が動いた。
「そう……いい名前だね。 何しにここへ?」
「レティシアという人に会いに……」
一見してごく普通の会話、だがそこに対話者の意志は存在していないという異常。
魔法だ。
それも巧妙に仕掛けられたもの、コーデリアは即座に敵対だと断じる。
ゆえに
「殺すぞ」
「跪け」
脅しの文句もむなしく、女王の言葉で自分の意志とは関係なしに跪かされる。
なるほど強力無比、これは無敵の力かもしれない。
言葉を聞き、理解したが最後、体が否応なしに自由を奪われる。
相対したが最後、常人では勝ち筋など見えない。
攻略の手段として妥当なのは声も届かぬ遠方からの一方的な攻撃だろうか。
だがここまで接近を許したが最後、赤毛が逃げ出すのも今更ながらに深く理解した。
正にこれは王者の力である。
これに勝てる者などごく限られていよう。
「コーデリア、母親の名前は?」
致命的な問い、そればかりか言葉の強制力が増したような気がした。
名前が知られたからだろうか?
呪いの使い手には対象の名前や嗜好を知れば知るほどに術を深く掛ける事が出来ると聞いた事がある。
一体どういう理屈だ。
だから魔法は嫌いなのだ。
合理は薄く、感覚と経験則ばかりの理不尽な超常技能。
「アルファ」
アデライトの呪言による強制力は反射に近しい、かかってしまえば抵抗の意志が介在する余裕、余地というものが見当たらない。
そしてコーデリアの言葉、アルファ、母の名前はアデライトにとって見過ごせないものだった。
「そう……やはりお前がそうか。 全て読めたぞ馬鹿娘め」
アデライトの目に冷たいものが宿る。
「恨むなら浅はかな両親を恨め、私を呪いたければ呪うがいいコーデリア」
ただそこに親愛はなくとも僅かな憐憫はあったようにコーデリアには思えた。
――生まれて来た事がそもそも間違い、罪なのだ。
息を止め、自害せよコーデリア。
■
人の感覚は六つある。
視覚
嗅覚
聴覚
触覚
味覚
そして、魔覚
である。
しかし、賢人いわく、人の感覚は十にも及ぶと言う。
六つの内、その一つである魔覚、魔力を感じる感覚であるが魔力を視覚や触覚として感じるように魔覚には魔力を感じる五つの感覚が内包されていると提唱するのだ。
即ち
視覚
嗅覚
聴覚
触覚
味覚
魔覚(魔力を感じる・視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚)
である。
しかしこれには反論も多く、目を凝らして魔力を視る、肌で感じるなどは一般的な技術としてあるものの魔力を味わう、聴く、匂いを嗅ぎ分けるという者は確固としてあらわれていないのである。
また魔覚に五つの感覚が内包されてるのではない、十の感覚ではなく視覚で魔力を見るなどの魔覚はそれぞれの五感に属するものであり人の感覚数は五つではないか?という近代の提唱も存在する。
即ち
視覚(魔力を視る事も含む)
嗅覚
聴覚
触覚(魔力を感じる事も含む)
味覚
である
だが目を潰された戦傷者が魔力を視認したという例もあり、やはり魔覚は五感とは違う例外的な感覚とする論もあり
視覚
嗅覚
聴覚
触覚
味覚
魔覚(魔力を感じる・視覚と触覚)
で人の感覚は七つとする昨今の提唱もある。
まこと魔導は深淵で計り知れず、有史以来おおくの者が挑み、いまだにその底すら見えない。
十の感覚を持つ者がもし存在するのならそれはまことに人であるのか?
かつて存在した魔王と呼ばれる異形の存在は魔力をその舌で感じ分けたと言う逸話がある。
だがそれは神話、神々の話。
神ならざる者には縁の無い事であろう。
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