31:コアとはじまりの場所2
最初、それはよくある既視感だと思われた。
初めて訪れる場所であるはずなのに来た事のあるような、はじめて見る風景であるはずなのに懐かしく思える感覚、嗅いだ事のない香りに親しみを覚える不可解さ。
記憶は実に曖昧だ。
あの夜、あの時、己は死んだ。
いまだ、自分が何故いまもって存在できるのかは思索し続けてもわからない。
今際の際に見る夢を今もなお見続けているのかもしれないとさえ妄想する事もある。
輪廻転生。
その概念は地球では手垢の付いたありふれたものだ。
肉体朽ちてもその魂は不滅。
命は生まれ、死に、また生まれる。
水は天より流れ落ち、運命という大河に飲まれ、大海に至れば、また天に昇り地に堕ちよう、全ては巡り続けるのだと。
以前、地球にいた頃、俺には前世の記憶がある。などと嘯く者に出会った事がある。
その殆どが愚にも付かないような詐欺師であったが中には本物かと疑えるような者もたしかにいた。
現状、まさか自分にそのような事が起こると知っていれば先達として真摯に話を聞いておくべきだったかもしれない。
全ては詮ない事であるか。
自分には地球での記憶がある。
そして今世で生まれてから、二種の記憶。
命が生まれる瞬間とはどういう時を、状態を指すのだろうか。
産声を上げた瞬間か、親の腹からひねり出された時か、はたまた細胞の分裂がはじまった時か、脳が形成されればそうなのか。
これも詮ない事であろうか。
覚えている最初の記憶はおぼろ気だ。
夢か現か判然としない。
それでもあえて語るならば水の中にいた。
安心感すら覚える、生暖かい無明の湯に浸っている。
音を感じる。
光が生まれる。
風景はない。
盲が、開かずの瞼が急に開いたような感覚、ただ光が在るという事だけがわかった。
押し出される。
肌に触れる刺激、微風、臭気。
暴力的ともいえる情報量
時の経過は曖昧。
一瞬なのか、幾日、数年なのか。
徐々に世界は象と色を結ぶ。
音が聞こえる。
声がする、馴染みない言語。
おそらく己を慈しむ声。
笑い声。
自己の原始的な欲求に従って出される泣き声、叫び。
全ては夢の中のように断片的で、曖昧模糊だ。
あやす声、やさしげな声、慈愛の言葉。
ただただ目の前の存在を愛おしいと想う声。
――コーデリア
頭を撫でられる。
はじめてふれる壊れ物、貴重品にさわるかのようにたどたどしい接触。
白肌、金糸のような髪。
その容姿が絵画のように調和された、そこにいるだけで華やぐ存在。
多彩なる虹の瞳。
いくつもの風景と声が思い出される。
その時には聞き流していたが言語を覚えた今となっては夢の中の言葉が確かな意味をもつ。
過去が想起させられる。
「……思い出してきたぞクロウリー」
コアの言葉にクロウリーは無言を貫いた。
「ここでわしは生まれたな?」
視線が対面に座る老婆を射貫く。
言葉そのものこそ疑問を内包するがそこには確とした意味を、最終確認の音を放っていた。
いくつもの言葉と光景が今も瞬く光のように脳裏に浮かんでは消える。
決壊した堤の如く。
全てが一致し、思い出してみれば何故今まで忘れていたのかとさえ思える。
両親であろう者達の顔、声、匂い、自分を前にして交わされた幾多もの言葉。
生まれ育った家屋敷。
幼く、脆弱な自分を世話してくれた者達。
この世にエルフ種、コアとして生まれ、夢の中のようなおぼろげで曖昧な世界から脱し意識が噛み合ったのはおよそ五歳は経てからだったと思う。
それ以前の記憶は実に不確かだ。
転生というものがどういう術理によって為されるものかは依然不明であるものの、およその推察は出来る。
無垢な紙に出来合いの絵を転写するかのように浸透されていく、その過渡期ゆえ。
生まれ変わりを自覚した後も今の世界に適応する為に必死であったし過去を振り返る事など後回しだった。
赤子であった時の事など取るに足らぬとたかをくくってはいた、重要なのは今とそれに続く未来だとも思っていた。
ふとしと瞬間に自分の出生に興味を抱いても肝心の育て親、婆さんに聞いても濁されるばかり、いつしか藪をつついて蛇を出すこともないと賢明な判断で無視するようにもなった。
また己が浅学なだけかもしれない、魔法は万能である、人の記憶に干渉するような術だってあるのかもしれない。
そう考えが及んだ瞬間、身を灼くような憤りが沸き上がる。
――誰の許しを得てそのような事をする。
この身、この心は誰にも侵略されぬ絶対領地。
それを許しなく踏み荒らすなど誰であろうと到底看過できる事ではない。
「キョ!?」
異常を察知してヤトが部屋の隅に退避する。
なんら魔法的要素はない。
はた目には一人の子供が大人には訳の分からない、実に子供らしい癇癪を起こしている。
それだけの事だ。
だが、ただそれだけの事が凄まじい。
空気が粘性を帯びる。
重苦しい、呼吸さえ許可なくば許さぬと場にいる者達に苦渋を強いるような圧。
クロウリー・セベスタ、部屋の際で控えた屋敷のメイド達はソファーに座る子供から“風”が吹いていると幻視する。
四方から叩きつけてくるような渇いた風。
口内がどうしようもなく渇き、それでいて汗は止めどなく噴き出る。
身の危険を知らせる神経、経験がここからすぐに退避しろと囁き、手足が我知らず勝手に震える。
しかし、誰も動けない。
――誰も逃げてはならぬ。
言わずとも吹き付ける幻風がそう語る。
幸か不幸か、それを察せない者はここにはいなかった。
「…たまに、お前みたいな子供が生まれてくるってのは聞いた事がある。酒席の与太話のたぐいかと思っていたが案外馬鹿にできないもんだね酔っぱらいの吹く話も……思い出したって言ったが、まぁいいさ、どっちにせよ生まれの記憶があるんだね」
感心するような、それでいて極力平坦な声で応じられたクロウリーの言葉。
そこに恐れの色はない。
理由をあげつらうならば、もしもの際には十全に発揮される自身の実力に対する自負と矜持。
長年、生活を共にしたコアへの信頼。
このような衆目のある所で相手をどうこうするような者ではないとそれなりの見切り。
目の前の子供は人でなしであるかもしれない、だがただの獣ではなく、確かな理性を持ち思考している。
で、あるならばどうとでも出来る。
知性種にとって言葉とはただ単純な音の羅列でもなければ、意思疎通の一種にとどまるものではない。
人にとって言葉とは相手を刺し貫く剣であり、身を守る盾。
「もうすぐアルが来る。不満や疑問、苛立ち、そういうのはそっちに思う存分ぶつけな」
「そんな言葉で――」
「ここで儂が何を言ったも納得なんて出来やしないだろ?」
渇くような嗤い声。
いささかの動揺も焦りもない。
ソファーに深々と座り込み、メイドの一人に酒を頼む。
厄介な子守りを押しつけられているのだ、酒瓶の一つも開けなければやってられない。
正当な対価であろう。
「アルが来るまで昔話でもしてやろう」
そして老婆は自分が知る過去を語る。
全ては半世紀前、稚気の抜けきらぬ子供達、王子と姫の馬鹿げた邂逅と企み、共犯からはじまったのだ。
■□
道の真ん中に馬鹿がいた。
言葉にすればなんとも他愛ない事である。
――あぁ、暖かいを通り越し暑い季節だしそんなのも湧くのかしらね、まったく嫌だわ。
とでも言ってしまえばいいのだけれど、これが自分に降りかかってくるとなると事情も変わってくる。
加えて言えば、その“馬鹿”が“力持ち”であれば災難といっていい。
「相変わらず美しいなコウ!」
上機嫌な、高笑いの幻聴さえ聞こえてきそうな声音に対して
ヂィィイィィィィィイィ
舌打ちしか出ない。
貴人にあるまじき行いであると自覚もするが、わき上がる苛立ちは御し難く、羽毛に彩られた愛用の扇で咄嗟に口元を覆うのが精一杯である。
「で、殿下、お逃げください」
「……馬鹿なの? あれがそれを許すと思って?」
周辺の従僕が地に伏したまま息も絶え絶えに声を放つが、その言葉にもコウ・ラグナはなんら心を動かされない。
既知、すべてが無駄とわかっているからだ。
コウ・ラグナ・レンフィル、彼が国を出、“馬鹿アルファ”に招待された約束の場所へと赴くにあたって無防備ではいられない。
その身辺を守るは選抜された護衛士、その数およそ一〇〇。
中・近接、鍛えあげられた純粋な肉体、それを更に向上させ生かす魔法と武器術、直接的かつ卑近な暴力を第一として錬磨した魔法使い“騎士”。
全能たる魔法をせめて人の身で万能に扱わんと、知を蓄え、純粋に魔法技術を第一に磨き、探求し続ける、生きた宝石たる練達した魔法使い“魔導師”。
無論、彼女たち全員がそれほどの使い手、達人、兵ではない、コウの世話役などもいれば彼女らを補佐する者達もいる。
しかし、それらを除いても多くは熟達、練達の数歩手前たる者が多くを占め、王子の傍付きの衛士として彼女ら、小隊は長きにわたる練兵から信用、信頼の絆で結ばれている。
人間種族にもひけを取らぬほどの、有事の際には個ではなく群れとしての卓越した力を備えている。
「それがこうも容易く」
コウが呆れた言葉を吐くのも無理はない。
まず馬車が止まった。
巨人の手に捕らえられたのかの如く一角馬が身動き出来ず留められた。
一角馬、ユニコーンとも呼ばれる家畜化された魔物は長命で人に迫る知性を持ち、現在ではエルフの良き友として傍らにある存在である。
魔法を行使し、さほどの苦もなく人と確かな意思疎通すらこなす。
値千金の価値あると言われる生物に相応しく野の獣や使い手の技量にも依るがそこらの亜人、半端な盗賊などものの数とせずに突破、振り切れるだけの力がある。
それが唐突に止まった。
御者はどうした、そもそも周囲を並走する騎士、他の馬車は。
疑問は外へ出た瞬間に容易く氷塊する。
ライトエルフ達の進路を塞ぐように、街道の真ん中に大きなものがいた。
大きなもの。
実に抽象的な、そして陳腐な表現。
だが、それを視界におさめた時に皆が同じ感想を抱く。
巨大なモノ。
圧倒的存在感、その身の丈はこちらを押し潰さんと立ちふさがる壁の如く。
黒闇を凝縮したような艶やかな毛並み、額から突き出る一本の黒角は敵を容赦なく屠る魔槍の如き威圧を秘める。
彼女の巨躯に幾筋も走る傷痕はそれが歴戦の戦士であると何よりも物語り、その眼差し、蹄が地を踏みしめ響く音、呼気さえ堂々とした王者の風格があるように感じられる。
馬である。
一匹の巨大な、黒毛の一角馬、ユニコーンがいる。
見る者を圧倒し、なお惹きつけ、畏れ、見る者に敬う気持ちさえ起こさせる希有なる魔獣が王者の威厳を持ってこちらを見つめている。
何かされたわけではない。
なにか物理的な力が働いているわけでもない。
だがライトエルフ達の馬車、一角馬達はもはやそこから一歩も先に、彼女の許しなくば進めない。
頭を垂れ角を地に伏してなお圧倒的な威圧を増す女王の裁定を待つ。
この場にいる誰も、エルフ種ならばその一角馬の名を知っている。
初見であろうと一目見てそれが“それ”であると解する。
噂で聞く話、伝えられる特徴。
王獣ザザ
誰も背に乗せず、誰の指図も受けず、縛られぬもの、御せぬもの、膝を折らぬもの。
戯れで千里さえ駆ける王馬。
ただし例外が一人。
自由なる王者に首輪をつけられる例外の怪物がただ一人いる。
「頭が高いな」
王馬に跨る影。
怪物アルファの念動力は特筆すべき優れた技巧があるわけではない。
瞬間にして辺り一面に広がった魔力が馬鹿げた重力に即時変換され、場にいるライトエルフ達を地に張り付け強制的に伏させる。
強引な力業。
相対する者達も無策ではない、何の防御や覚悟もしていなかったわけではない。
多くの者はザザに気をとられながら、アルファの存在には気づき防壁術や身体強化を展開させてさえいた。
まったくの無意味、無駄、徒労。
幼子が必死に手を翳し身を守ろうとも大人の暴力を防げる道理はないとばかりに、大人と子供、個と群れであっても両者間にはそれほどの“力”の差があった。
あの怪物なれば山さえ動かせよう、そんな噂を笑い飛ばす事が出来ない。
生来の恵まれた魔力量、その豊富な水源を糧にして作り上げられた人造の怪物、大樹の如き育ちきった巨大な暴力。
これは試合、力の比べ合いではない。
こと“殺し合い”命のやりとりという舞台において魔力量は些末な事であると言う者もいる。
それは瞬間的に高められ、致命的な一打、必殺の一撃を与えれば命というものはあっけなく尽きるものだからだ。
たとえば解毒方法が未知なる毒、魔法攻撃、背信からの一撃。
必ずしも勝つ必要性もない、殺せればいい。
たとえ稚拙で、未熟あろう一撃であったとしても刃がその首筋を、命に届けばいい。
理屈の上ではそうだ。
だが世の中は往々にして理屈、理論と実際の事象はずれている事がままあるものだ。
「……人と相対してる気がしない」
呻くように発せられた一人、衛士の言葉が全てを凝縮して語る。
群れを以て、多大な代価、煌めく才能を湯水のように消費、犠牲を払って魔神たる魔王さえ人間は討ったという。
だがそこには魔族、魔王側にも油断や慢心があったと言われる。
眼前にいる相手は魔神に至らぬ魔人。
しかし人外の領域へと片足を踏み込んだ怪物である。
油断も慢心も持たぬ牙剥く怪物に“人”はどう闘えばよいのだ。
アルファに近づく程に増す超重力の沼。
戦中、かつての戦乱においてこの沼地を踏破した者達が僅かではあるが存在する。
抗う事は決して不可能ではない。
現在、それぞれが一角の者として名を馳せる。
エルフ種【浄眼】コウ・ラグナ・レンフィル
ドワーフ種【無傷】ドロテア
人間種【剣聖】ヒルダ
獣人種【拳聖】ハイレン
英傑、豪傑と呼ばれるに相応しい者達。
忌まわしき沼を踏破するは不可能ではないのだ。
だがそれは天に選ばれた者だけ、勇者のみという厳しい条件がつく。
そして自分達は勇者に至らぬという残酷な事実だけが残るのだ。
「殿下、お逃げください」
「あれがそれを許すと思って?」
身を案じた言葉は鎧袖一触。
「――で、何用かしらアルファ。ザザはお久しぶりね」
コウ・ラグナは臆する事なくアルファを睨み付ける、ガラスを砕くような音が周囲に響くが“沼”はわずかに場から乱れる程度、そもそも両者ともがさして本気ではない。
アルファには無関心に、近くへと寄ってきたザザの顔をコウが撫でる。
他者に対し向ける事のない無邪気ともいえる微笑みは平時の彼を知っていればその落差に驚愕し、また見惚れるほど。
何もかもが絵になる黄金の美貌、その美しさは時を経てもいささかも減じる事なく。
より撫でて欲しいと頭を突き出す王馬と金色の王子の組み合わせは絵画的な調和と美しさを醸し出している。
「迎えに来たんだ」
調和を崩す無粋なアルファの言葉に主語はなく。
「……そう」
沈黙の後、コウの言葉にも詳細はない。
アルファが無言で眼下のコウに手を差し伸ばす。
「そう」
伸ばした二つの手は必然と繋がりコウが馬上へと一気に引き上げられる。
コウはアルファの片腕に抱かれ横座りで大地、地に伏す従僕を見下ろす。
「心配は要らぬ、後で来るがよい」
扇を口元に構え厳かに告げる。
「うむ、のろま共はゆっくり来るがよい!」
コウとは対照的に快活なアルファの笑み。
伏しながらも見上げる衛視達の目が憎悪に染まる。
「いっそ心地よい!」
傲然と鼻で嗤いアルファは手綱を引きザザへ進路を示す。
主の意を汲み大地を踏み抜かんばかりに王馬はその一歩を踏み出す。
黒姫から放たれる魔法は従える王獣を補佐せんと働きかけ、空気の抵抗をなくし、慣性を制御し、ザザごと自己の体重を羽毛の一片にまで減じる。
天上から落下するかのようなデタラメな加速、疾風の前すら走る、先導するかのような最高速度は視界の景色をめまぐるしく変化させ並の者ならば恐怖すら覚えるほど。
「ハハッ!! こうしているとあの時を思い出すなコルネリウス」
「真名で呼ぶなバカアルファ」
拳がアルファの顔を打つ。
しかし腰の入らない、なんの魔法的加護もない『優男』のパンチなどちっとも痛くない。
それどころかアルファ的には、美人の殴打などご褒美ですか?
「この変態め、お前は昔から、昔から!! 阿保、馬鹿!!」
コウは悪態の言葉と共になおも手を出してくるがアルファの視界を煩わせる以上の事にはならない。
それどころかお返しとばかりにコウの尻を揉む。
ぎゃああああああああああああ
貴人の淑やかさも品格も、王子として装飾が一切混じらない悲鳴がザザとアルファの耳朶をうつ。
「んーんー、いい声で鳴く。本当に昔を思い出す」
拳が飛んでくる。
浄眼がアルファの防護壁を壊し、拳が飛来するもアルファは危なげなく馬上で首をわずかに傾けては避け、より密着するように体を寄せる。
耳と耳を擦りつけ、胸と尻に手を置く。
揉む。
揉みまくる。
ここぞとばかりに容赦なく揉みしだく。
ぎにゃああああああああああああああああああああ!!
本当に昔を、かつての過去を懐かしく思う。
全ては半世紀ほど前、一人の夢見がちな『少年』の馬鹿げた話からはじまった。