30:コアとはじまりの場所
この三日間、かつてジルクレストとよばれたもの、現在はヤトと名付けられた小さき者、彼女は多大な心労を抱えていたと主張する。
まず、食物は好物である鶏のササミを湯煎、丁寧にほぐし、香草と岩塩を適量まぶしたものでなければ満足出来ず。
ストレスからか夜は眠れず、朝にほどよく眠くなり庭の大樹にかけられたハンモックで就寝。
ティータイムも過ぎた午後から起きだし低脳なゴブリン共の縄張りを(コアの威光を借りて)冷やかしては悠々と横切り、川で水浴び、魚を追いかけ回して遊ぶ。
夕暮れも近くなれば家に帰り食事をコアの膝上でねだる。
大抵はクゥンクゥンと鳴いておけば世話役の長耳人間は干し肉でも寄越すのでちょろいもんである。
それに年を食った老婆と違い、この小さな長耳人間は最近とみに良い匂いがするので食欲をそそる。
なんとなしに会話に耳を傾ければ長耳人間の集落に赴いては服や“えすて”だとか、アルなる人物に会う為に色々と準備させられているのだと聞く。
特に“えすててぃっく”なる拷問。
人間族のオスに課せられる試練は苛烈を極めるという。
高温の蒸気溢れる密室に閉じ込められ、全身は擦り削られ、ドロドロとした苦い水を飲む事を強いられ、全身の肉は揉まれ叩かれ、油を塗りたくられ、食事は制限される等々。
その苛烈たるやチビ長耳人間の焦燥をみるに容易に想像できる。
アルという一介の長耳人間に会う為にご苦労な事である。
王にでも謁見するような慎重さ、それほどまでに重要な人物なのであろうか。
しかし、人間の世というのは理解し難い不可解にまみれているものだ。
一目見てくだらぬと看破できるような相手に頭を垂れる事が日常茶飯事、まったく狂気の沙汰。
また、その時その時で身支度、急遽取り繕った所で本質を変えるには至らぬというのに、それならば普段から丁寧な生き様を心がけておくべきだろう。
まったくもって人間というものはどうしようもない、取り繕う事ばかりに長けた卑近な生物である。
だが、この偉大なる、素晴らしき生物である竜、その我から世話役を任じられたチビ長耳人間、コアが身綺麗に、いい匂いを発するようになるのは別段悪い事でもない。
膝に肩、頭の上に座しては、ほのかに漂う花の香りはとても良い気分になるし自分の所有物たるものが煌びやか、美しく、良いものと向上するのは主たる者の格を高め、周囲に知らしめるというものだ。
ことさら見栄などというものに拘りがあるわけでもないが、不当に侮られるというのは癪なものである。
我の素晴らしさ、威光というものは一見してわかるほどのものであり、たとえ汚泥に塗れていようとその輝きはいささかも減じる事などないのであるが、愚物にはそれがわからぬという事も承知している。
であるなら頭の足りぬ者にもわかる、わかりやすい価値というものが必要である。
たとえば手中におさまらぬ程の巨大な玉、滑らかな衣、金銀、脇をはべる美しいオスなどであろう。
そこをいくとこの従僕は種は違えど中々のものと自負している。
日々綺麗になっていく、使えるしもべを前に当初あった不安はなりを潜め、三日目を迎え今では凪いだ湖面のような静かな気持ちでヤトはいた。
我を喰うなどという世迷い言も照れ隠しや卑小な者どもの笑えぬ冗談のようなものであろう。
そもそも上に立つ者が不安な気持ちでいては、下の者の言葉に狼狽するなど示しがつくものではない、鷹揚に構えては下僕がうまくやると信じておればよいのだ。
良きに計らえ~。
「ギョギョ~」
精密な魔法の制御下にあり、悪路にあっても微震しか起こさぬ静謐な馬車内、ヤトはコアの膝上で無防備に腹を晒し熟睡していた。
コアが眠っているヤトの顎を指先でやさしく撫で掻く。
ぽこりと膨れた腹は寝息に合わせ上下に脈動し時折その腹に触れては呼吸に合わせ掌で悪戯に抑えると。
「ギョォー」
寝苦しそうな呻き、実にいい声を響かせてくれる。
「かわいいものよなぁ」
「まったくかわいくない」
馬車の中、コアと向かい合うように座るクロウリーの言葉は冷たい。
やれやれこのかわいさがわからぬとは、という言葉もクロウリーはまともに取り合おうとはせず右から左へと流すばかりであった。
精一杯によく見えるようにとヤトにはサイズの合うズボンやシャツ、服が着せられている。
赤鱗が映えるような黒いハーフパンツに白シャツ。
この手の服飾は嫌がるかと当初コアは思ったが、亜人など、ある程度の知性種の共通点とも言うべきか服に対して忌避などなく当たり前の物として受け入れていた。
むしろコアの所に来た当初、葉や枝を体にしきりに纏いたがったのは服の代わりだったのかもしれない。
魔獣や魔物と一口にいってもそれぞれではある、知性高くとも着の身着のままでいる事に何ら違和感を持たないものもいる。
そこを考えればヤトは人に近しい思考と嗜好である。
就寝時には葉や枝、自作の服(?)を外すところを見るに寝る時は裸派なのかもしれない。
コアはこれほどかわいい(愉快な)生き物はそうそうおらんと考えているのだが理解されず、話題を共有できず些か不満だ。
だが現状でもっとも不満なのは
「随分と遠くまで行くのだな」
クロウリーに投げかけた問いは
「もうすぐだよ、もうすぐ」
と、中身のない答えで返ってくるばかりな事だ。
十三番街にいる時はともかく、今までの相応に慎ましい生活からすれば考えられないようなお洒落、手入れをさせられ、高価な服も用意、着せられ、窓があるような屋根ある馬車での遠出である。
降りた所で「へへへっ、お前は売られたんだよぉ」と悪漢(?)に下卑た笑みを浮かべられ宣言されても納得できる状況だ。
そうなった場合、文字通り血の雨を降らせればいいだけなのだが、ババァをぶっ殺すとなると骨である。
愛用している仕込み傘も今は手元になく、ヤトを庇い立てしながらの立ち回りは面倒くさい。
地龍の術まではクー婆さんにも見せているので対策だって取られるだろう、魔法使い相手に機先を制されると途端に難度は跳ね上がる。
そもそも魔法なんてものが当たり前にある世界、既になんらかの術中に嵌っている可能性も捨てきれない。
「見当違いな心配してるとこ申し訳ないがね、郊外にあるアルの別荘まで距離があるってだけだよ」
「……」
「ああ見えてあれでもいいとこの“嬢ちゃん”なんでね、それなりの見てくれじゃないと、他の者の目もあるだろうし……今は重要な商談の相手も来てるみたいでね?」
「…それならいつも通り、森でアル姉が来るのを待てばいいのでは」
「まぁそれはもっともだけど、アルが自分の弟分を色んな場所で自慢してるらしくてね、それに興味を持った相手が是非見たいとか言い出して、まぁ儂もお前もいい迷惑って事だよ」
妙な意念だ。
あらかさまな嘘は言ってない(と思われる)、しかし本当だと信じられる、確かめられるような事も一つとしてない。
「詫びといっちゃなんだが服やら食事やらなんやらは向こう持ちだからね、精一杯甘えて搾り取ってしまえばいいさ、ひっひっひっ」
言葉に嘘はなく、だが何かがひっかかり、肌のざわつきとして感じる。
難事の前兆や予感。
嵐の前の静けさ。
直接的な害意はなくても、それに類する事態になるかもしれない。
一瞬の油断が命取り。
気を引き締めてかからねばなるまい。
「……緊張するな」
「ほんと話を素直に聞かない子だよねお前は」
「ギョギョ~」
***
金は、富というものは、ある所にはある。
しごく当たり前の事であるが、知識としてわかってはいても、わかっているつもりでも世の中には頭の中の情報と実際に感じる事に差異があるものである。
人というものは美酒という物をどんなに詳細に聞き及んでいても実際に舌で味わえねば本当には実感できぬよう、本当の金持ち、富というものも実際に見、体感しなければわからないものだ。
丘の上、屋敷の周りを隙なく城壁のように築かれた白く高い塀。
最上階から見下ろせば辺り一帯に広がる荘園。
広大な私有地と人の手によって調和、調整され続けている庭。
数多くの使用人。
調度品一つを見ても素人目にも高価、希少であると見て取れる格。
何よりも十三番街にあるような雑多さ、猥雑さがそこにはなく、それが確かな余裕と感じられる。
オルトも現在では相当に金があり、金持ちという括りではあろうがいかんせん成り上がり、成金という臭いは否応なくついてまわるものだ。
これは仕方のない事で時と共に薄れていく、洗練されていく事を期待するしかない。
およそ個の資質ではどうしようもない団体としての歴史。
長い時間をもって醸成される空気とでもいうべきもの。
普通を際限なく高次にもっていったが故に醸し出される豊かさや貫禄。
この屋敷に住まう者、使用する者はここにあるものが相応に価値あるもの、高価であるとは知ってはいても、ごく自然なものとして享受しているのであろう。
コアが年相応の子供であったなら不作法にキョロキョロと周囲を見回していただろう。
これらを以て世界と称するにはあまりに狭いが、まさにここは平民が足を踏み入れたならば別世界と感じられる場所なのだから。
が
「ま、それなりじゃな」
「ギョギョギョー」
コアはそれだけ言うと後はもういいとばかりに案内された客間のソファーに体を預けてくつろぐ。
アル姉様がとんでもない富豪、放蕩娘というのは実感出来たが、それだけの事。
これだけの富、規模は今すぐには無理だが将来的に至ればよい、幸いエルフの寿命は長い。
羨む要素はまるでなく、萎縮する理由もまるでない。
喉が渇いたと側に控えるメイドを自身の家令の如く、自分とヤトの分を含めた果実水を頼む、ババアは自分で頼むがよい。
お仕着せの服や靴はとかく窮屈で普段以上に疲れもすれば足も痛む。
これ脱いでいいか?と身も蓋もない事を唱えればクー婆さんに軽く頭をはたかれた。
ヤトはパタパタと部屋の中を飛び回っては柱に体を擦りつけている、おそらくは匂い付け(マーキング)か何かだろう。
粗相せぬようにと言い含めているが、なにぶん魔物の心情など人には推し量りがたいものでクロウリーは警戒を以て監視している。
不穏な動きがあらば光弾がヤトに容赦なく炸裂するだろうと容易に想像できる。
「気苦労が耐えぬな、ひっひっ」
育て親、老婆の笑い声を真似、殊更に意気地の悪い顔でコアが応じる。
「……気苦労ね、お前がそれを言うのかい」
心労からくる頭痛、気苦労の塊であるコアにだけは言ってほしくない台詞だ。
「なぁ、婆さん」
コアがどこへともなく、宙空に視線を彷徨わせている。
珍しい姿である。
迷っているようにも、何かに想いを馳せ、慎重に言葉を選んでいるように、胸につかえた澱を吐き出そうとしているようにも見えた。
「わし、昔この家に住んでいたな? クロウリー」
不意打ちに背筋が粟立った。
何故ならクー婆さん、クロウリー・セベスタはコアに本名など教えてはいないのだから。