22:老人と天
コアは水面に漂い、何をするともなしに虚空を眺める。
脱力した肢体。
四肢を水中に投げ出し、ゆらゆらと揺れるにまかせる。
夏の陽射しは眩しいほどでコアは静かに瞼を閉じる。
秋が過ぎ、冬が終わり、春が来て、また夏が巡る。
育て親である婆さんがいなくなってから丸一年は経過した。
ヘラとの初対面の時に切られた髪も伸び、背にかかるほどで若干うっとうしい。
婆さんには今まで相当に長い間を放置された事はあったが、それにしても丸一年は最長であり記録は更新中なのは不安が募る。
「これは、いよいよどこかで野垂れ死んだか」
不穏な呟きが漏れるのもいた仕方ない。
捨てられた、という選択肢もあるがそれはないと思えるだけの信頼関係は両者にあったように思える。
これからの自分の身の振り方というものを頭の片隅で考える。
「――とはいえやる事はそう変わらんか」
オルトやその傘下組織での活動や企み。
ただただ人並みの幸せを追求する。
うまい物を食って寝て遊んで学んでやりたい事をやりたいようにやる。
金が要るなら金を得、地位や名誉がいるならそれも得る。
気ままに生きて気ままに行く。
人の求める幸福を最大限に追求する。
思えば前回の生ではそこらへんを蔑ろにし、殺傷の技芸に魅了され、夢中で求め、ついには自身の才に限界を感じ落胆し、知らず歪み、仄暗い人生を歩んだ。
今のこれはその反動かもしれない。
ただ近頃はそういう目標を追求する事にも一抹の虚しさを感じるようになってきたのも事実。
有り体に言えば飽きてきた。
立って半畳、寝て一畳。
突き詰めて言えば食うに困らぬ程度に金はあればいいし、気の置けぬ友と酒や肴が少しばかりあればそれで人生は完結してしまうのでないか。
前世を含めてそれなりに生きてしまっているせいか妙な悟りを抱いてしまう。
思えば夢中で強者の術理を求め、最強などという身のない妄想を、痛ましい夢を見ていた時の方が痛々しくも今よりも必死に生きている感じはする。
翻って今生の自身を想い、自分が何をしたいかとつらつらと考えてもみる。
殊更に強くなりたいとも思わず。
金持ちになりたいとも思わず。
地位を、貴族なんかになれたらとも強く思わない。
今この場で死んだとしても、あぁそうか。と流せそうな凪いだ心。
何もかもあきらめているわけではない。
自暴自棄になっているわけでも、思考停止に陥っているわけでもない。
物事の全てをひどく怜悧に、上方から俯瞰するような、自身の生すら将棋盤の駒を見るような、冷酷な視点の発露、獲得。
それは覚者の在り方。
コアは右手を天へと伸ばす。
龍は世界のどこにでも在る。
地に在り、人の内に在り、万物の全てにあまねく存在する。
無論、漏れ無くこの身を包む大気、天にも。
内息を充溢させる。
気脈がこれ以上にない充実を持ち、手が天を、掴む。
その姿を確信をもって幻視する。
同調同期融合。
天龍気脈経絡仙合一。
地の龍とは対極の静かな、清廉なる気がコアの経穴経絡を駆け巡る。
白き燐光が体躯を覆う。
天を、龍を掴んだ手を下ろし水面につける。
水面をまるで硬い、確かな地面のように扱い身を起こす。
次に足裏を水面につけプールの上を歩く。
軽功を極め成れば水を渡るも容易き。
仙の言葉を自身の身で体現する。
今のコアであれば触れる羽虫すら両断する槍の穂先にすら立つ事も出来うる。
何よりも軽く、希薄で、巨大で囚われない。
天より注がれる魔力はコアを他愛なく人外へと塗り替える。
「あれほど求め、御するに難儀したものが要らぬと心底思った時に手に入る、まったくこれは意地の悪い仕組みじゃな」
乾いた自嘲気味の言葉は虚空に溶ける。
足音。
聴勁、コアの耳朶がこちらに向かってくる聴き慣れた靴音を捉える。
さらに天と合一したコアの感知能力は向かってくる者、ヴァルの心音、呼吸、発汗まで把握する。
地龍ほどのわかりやすい強力さを感じないが十分におそろしく驚嘆すべき力。
水面を撫でるように蹴る。
水面には波紋一つたたぬ。
だが肝心のコアの姿はかき消える。
仙道歩法、軽功走法功の極み、これを以て『縮地法』。
プール直上から大理石の縁、庭に設置されたテーブル、日傘と椅子、そこに置かれた服の場所まで他愛なく、距離などないかのように一足で到達。
その速力に我ながら驚きを覚えつつ天との繋がりを閉じ、手早く肌着、下着を取ると上下共に急いで身につける。
あの筋肉ダルマは慎みだとか淑やかさだとか『男』らしさにとかくうるさい、人の目がないとはいえ下穿きすらなく素っ裸でプールに入っていたなどとバレればくどい説教を夜まで聞かされる事になりかねない。
ここは十三番街、一等地に構えるヴァル・オルトの屋敷。
落ち着いた雰囲気の洋館というその佇まいはその敷地面積と造りをみれば大商人の屋敷や王都にある諸侯貴族の別邸にも劣らず、緑豊かな庭園には水遊びのためだけにプールや専用の水路まで引かれているしガラス張りの温室まで備えている。
郊外の邸宅ならまだしも街中にありながらこれは如何ほどの財力と力があれば成せる事か
コアは次に服を掴み、着ていく。
白い袖のないシャツ、胸元を蒼い織物の紐で縛り止める。
下は膝まで覆う青く染色されたプリーツスカートは見た目にも涼しげで鮮やか。
革の意匠も細かいサンダル、紋章術の施された指輪に腕輪、装飾品をつけていく、アクセサリーの類はごちゃごちゃして好きになれないコアだが日常的に使う些末な魔法すら使用できない故にこういう物も手放せない。
「難儀な事よな」
知らず呟きが漏れる。
「…何が難儀なんだ?」
コアの背後から声がかかる。
振り返ればヴァルがこちらに歩み寄ってくる。
昏いスーツに身を包んだ姿は夏場では暑苦しく見えるものの、内部では魔法による冷気が循環しておりヘタに薄着でいるよりもこの方が涼しいらしい。
もっとも魔力の消費を少しでも節約したいなら避けるべき手ではあるのだが。
とはいえ、日常から特定の魔法を使用していれば練度は上がり出力や細やかな制御、燃費なども向上していくらしいので制御し続ける面倒さを除けば利点もある。
全てコアには関係のない事だが。
地龍の外法はどうにも下方向に微調整が効かず、天龍は先程やっと御せた程度であるので、やるとしても要研究というところだろうか。
「ゼロには一時の涼を得るにも難儀という意味よ」
コアは何でもないように応える。
「ほぉ…」
獅子はコアの隣までくると
「髪が乾いていないぞ」
と。
「あぁ先程、泳いでいてな」
何でもない事のようにコアは応じ、ヴァルは辺りを睥睨する。
「……水着も何も見あたらんが?」
「先程ここを通りがかったメイドに言いつけて、洗うようにとな、髪は今から乾かすところよ」
腕輪の一つを操作して風を髪に当てるコア。
屋敷には多くの執事(女)やハウスメイド(男)が働いているし警護の者やオルトの構成員などもいる。
すらすらと咄嗟にしては穴のない言い訳であると自負する。
「髪を乾かすのにタオルの一つもないのか」
「あぁ、うっかりしてた、体を拭いてそのままメイドに渡してしまったようじゃな」
「……の割りにはいまいち体を拭けていないようだが?」
コアの着るシャツやスカートが肌に張り付いている。
いちいち指摘が細かい。
この世界の『男』は皆こうなのか。
「……あぁ、それはじゃなヴァーちゃん」
笑みを浮かべコアは獅子を見る。
何かの秘め事を明かすように顔を近づけ、エルフと呼ぶのも異常な筋肉の塊、長身のオーガの如き威容の偉丈夫に向かって。
蹴り足がくり出した。
それは鋭く、虚をついた初手。
そうと事前に知らなければ躱しようのない一撃。
飛び上がったかと思えば頭は地面に足刀は弧を描きヴァルの顎を激震をもって揺らしたる筈だった。
「わかっていればどうという事もないな」
「むぅ」
ヴァルはその足を中空で掴むとコアをそのまま事も無げに腕一本で逆さ状態に吊す。
付き合いの長さは昨日今日でもなく、こういったやりとりも一度や二度ではない、ヴァルにしてみればじゃれ合いの機先を制すなど造作もない。
「色気のないもん履いてるな」
ヴァルの視線と言葉にコアは憮然とする。
その姿はタロットの吊られた者。
スカートは重力により捲れ無骨な下穿きや太もも、肌を恥ずかしげもなく晒している。
その顔を『男』らしい羞恥心でも染めていればまだかわいげもあるのだが、そういう感情は一切そこにはない『女』のようにさばさばしたものだ。
「わしには男物の履き物よりも女物の方がしっくりくる」
逆さのままにコアは語り、ヴァルは眉をしかめる。
女物の下着でいい。この言葉、それだけ聞けば特殊趣味だが、地球と比べこの世界では男女は逆に等しい。
ここエルフの文化圏ではパンツといえば紐でしばる、筒状、トランクスタイプが一般的。
次点で長短あるドロワーズという具合だろうか。
ドワーフなどの文化圏では布を巻き付けた褌のようなものもあり、その文化圏、個々の国や地域、環境で様々ではあるが。
ただ共通する事は下着一つとっても、男、子供用といえども相応に高級な物にもなれば、それはもう愛らしく美しい意匠となっている。
レースにフリル、リボンもつけば薄く鮮やかな色が乗ったり、肌触りの良い素材を使われる。
翻って女物の下着は無骨、その表現がしっくりくる程に単純な色合い、シンプルさ。
上下、胸部の下着にしても胸の動きを固定するために、運動を阻害しないように、加えて通気性など必要な機能だけあれば良いという体だ。
要するにコアにとっては女物の下着、肌着が良い。
スカートだブラウスだ、なんだのと着させられ続け慣れたものの、郷にいれば郷に従え。としても流石に下着になると譲れない、越えがたい一線がある。
たとえパアル世界においてもそれが普通でもコアは『男』物の下着を回避したい、欲を言うならスカートだなんだのといった諸々も勘弁願いたいくらいなのだ。
目立ちすぎる、奇異な視線で衆人に姿を見られるのが煩わしい、ヴァルがうるさい。こういった諸々がなければと思う事も多い。
「つくづく宝の持ち腐れだな、慎みもなければ折角の良さを生かす術も何もわかっていない」
静かに息を吐くヴァル。
彼の言葉は言外に裸で水遊びしていた事を叱責する意も含んでいた。
「別に誰も見ておらんし、屋敷の周りは高い塀に囲まれておる、不都合もない、そもそも見られて減るもんじゃなし」
「減る!! 恥じらいを持てと言っている! 『男』かそれでも!!」
ヴァルの怒声もコアにはうるさい程度にしか感じない。
「……そういう自分こそ『女』の格好でよく言えるなぁ!」
空いた足でヴァルの手首を局所的に突き叩くと、掴まれた手が一瞬緩む。
危なげなく中空で反転し着地。
「『男』の格好じゃ舐めてくる相手も、何かと不都合もあるんでな、こういうハッタリは必要だろうが」
さも不本意だという言だがコアにはそう思えない。
「と言いながら『女装』が板についてきた、しっくりきたという感じよな」
距離をとりつつ、からかう口調。
ヴァルは距離を静かに詰める。
「言うじゃないかガキ」
「最初はなぁなぁでやって来た事が演じてる内に自然と…すり替わる、全くもって面白いよな人と、は……」
コアのスカートがひらひらと風に舞う。
その言葉はどこか厭世的で多分な自嘲を含んでいるようにも思える。
「ん? 大丈夫か、コア」
「いや、ちょっと、なんというか以前の自分を取り戻したというか、正気に戻った、何してるんじゃろわし」
コアは膝をつき、目頭を押さえ他者からすれば意味不明に近い葛藤に身を苛まれていた。
「全く意味がわからんが」
さもありなん。
ヴァルにとって、いやこの世界に普通に生まれ、生きる者にとって例外を除けば感じる事のない心情だろう。
『男』だが『女』の格好がいい。
男である事に不満も隔意もないものの、その姿は『女』としてありたい、しっくりくるなどと言えば特殊な趣味か頭をこじらせたとしか思われない。
パアル世界においてコアとしては不可思議でならないが女がスカートを履いたりズボンを着用する事はおかしいとされない。
女性がスカートを履いても「あぁ中性的だね」と流される程度であるのに男がズボンを履けば奇異の目で見られる事実。
いったいどんな文化、歴史を経ればそうなるのか。
「不公平じゃろ!!」
唐突に天に向かって放たれるコアの叫び。
弟分の奇行にも動じず、ヴァルは生暖かい目を向ける。
「俺がしっかり導いてやらんとなぁ」
感慨深く、世話好きな、その格好こそ異端であるものの真に『男』らしいヴァル・オルトの言葉は幸いコアには届かなかった。