幕間:大魔王様
クラウと呼ばれる魔物が北の地にいる。
レクティア大樹海の奥地には忌まわしい氷妖が棲まう。
いつから生きているのか、いつからそこに居るのか誰も知らない。
古きモノは知識を蓄え総じて賢しい、クラウが北の地に棲まい、周辺に人が、エルフ種が住まうようになってからも彼らと表だって際だっては争う事もなく大体において交渉を用い森を治め、人と渡り合ってきた。
例えばライトとダークのエルフらが統一を掲げ争った時もライトとダーク双方に恣意的な情報を流し、時に森を安全に通行出来るように手配し狡猾に、小賢しく立ち回った。
求めるは森の不干渉。
森という場を領地とすればクラウは王、王と言うに不敬ならば異形の大領主と言い替えていい。
ライトとダークの二国間に跨る地を治める大公。
あれをそう評する者もいる。
過去、この広大な土地を我が物にせんと諸侯が動く事もあった、森に火を放ち、焦土にするも辞さない覚悟で挑んだ時もあった。
静かな憤怒を滾らせた、蒼き、死の女が人々の前に顕われた。
身の丈は二足で立った熊の如き高さで優に三メートルはある。
まず一言で表するならば青衣のボロを纏った女であり、異形の怪物であった。
人型といっていいのだろうか。
地につこうかという長い蒼髪。
死人の如き青白い肌、蒼い目、若い、妙齢の女の顔が頭部にあった。
しかし、目は額にあるものを含め死角を潰すかのように六つを超え、顔は鼻下から肉のない骨を晒していた。
その顎や歯の鋭い形、蒼と白の混じる透明度の高い極北の氷のような骨は他生物にはない異端。
喉もとはまた肉が、死人の如き肌と肉がつき乳房までは存在した、ただその下からはまた骨を晒し臓器などはその隙間、下腹部には見あたらなかった。
魔族と呼ばれる域に達したモノはその生命活動が純粋な肉体に依存しない、魔法、魔力に依存して行なわれ、血肉や臓器などなくても生き動ける。
殺すにはその魔力を枯渇させるか。
その体、依り代の核たる結晶化した脳を砕くしかない。
彼らにとって核以外の体は自己が扱う道具の一種にすぎない。
想像と欲望のおもむくままに如何様にも改変、組み替える事さえ自在。
女の股下には『足』がない。
足のあるべき所、そこに無数の腕が生えていた。
蜘蛛の如く、ムカデの如く、わらわらと、股下、足の付け根、本来は足にあたる部分に足はなくツタの如く這わされた神経と血管を纏う骨の腕が無数に存在、枝分かれを起こし無節操ともいうべき数で蠢いていた。
生理的な嫌悪感を強烈に催す容貌、一体どのような美意識、考えがあれば自らの身体をそのように作り替えるというのか。
その狂気と威容が嫌悪と共に恐怖と忌避感を人々に呼び起こす。
異形の女が吠えた。
耳に障る甲高い、虫のような咆哮だった。
詠唱動作。
肌を、肉を壊死させる冷気の塊が辺りに噴出した。
一瞬にして凍てつく大地と空気。
氷霧を容易に引き起こし、迂闊に肺に取り込めば切り裂かれる惨事の場。
冷気の白煙が引いた時、森を蹂躙すべく展開していた人々、その大半は地に伏し生命の危うい状態に陥っていた。
単独にて広域殲滅の魔法を行使できうる個。
古き魔物は辺りを睥睨し幼子に聞かせるようにさえずる。
次は加減せぬ。
異形はそう言ったきり背を向け森へと静かに帰還する。
森のとばり、その入り口が潜ってはいけない冥府の門へと転じた瞬間だった。
是非もなし。
人々はすぐさまに踵を返し森に手を出す事をやめた。
あの氷の瞳、死の凝視は最上級の魔物というに相応しい怪物の視線。
あれと相対するなど狂気であり、避けるべき、敵対の意思がないのなら放っておけば良いのだ。
■■■
かつて栄光の時代が確かにあった。
人はそれを覚えてはいまい。
だが、たしかに輝かしい黄金の時代があった。
巨躯なる魔獣、異形の魔物が跳梁跋扈する栄光の、輝かしい、楽園がそこかしこにあったのだ。
純然たる強さこそが全て、強きが正しく、美しく、肯定される世界。
人にとっては暗黒の時代。
神々の黄昏後、神なき後に訪れた暗く深い世界。
なにもかもが単純で明快、明瞭で、世界は簡単に割り切れるものであった。
強い者が尊ばれた。
大陸を魔が制した時代があり、やがて魔を頂く王、魔王が現れ地を支配した時があった。
クウラは夢を見る。
魔物は夢を見ないなどとまことしやかに囁かれる俗説であるが嘘もいいところだ。
人外の怪物とて心があり感情があり夢をみれば希望を語る、ただその価値観は人と異なり、弱肉強食に依る所が大きいだけだ。
氷妖は夢を見る。
かつていた魔王様の強さ、苛烈さ、その強大さに多くの魔獣、魔物が従い大陸を思う様に蹂躙していた過去。
今は遠き夢の果て。
なにもかもがわかりやすく何より純粋であった。
いつから夢は終わったか、王が数多の人々に圧殺されたあの日からだろうか。
人は強い。
個として弱くとも群れとした見た場合、これほどに脅威の種もない。
特に人間種の繁殖力、無いものねだりの貪欲さと群れた時の強さは圧巻だった。
個として特化し、それを良し、誇りとする魔にはない多くの思考、概念。
闘いとは数である。とは人間の言葉だったか。
なるほど一理ある。
魔王を討つ事で人は、人間はそれを証明してみせた。
人間以外の人類種もそれに追従した。
群れ、固まり、かつての神の栄華の軌跡をなぞるように栄えだした。
まったくクソのような話だ。
魔物に親はない、あるいは親など存在しない。
魔獣と違い、魔物とは生まれながらにして異形、奇種。
親とかけはなれた怪物、異端。
一代一種の個、特化した種、受肉した精霊。
生まれた時から真に孤独、またそれに類する。
ただ、それは哀れでも可哀想な事ではない、身に刻まれた誇り。
世に同胞なき個、ただ一つの、比類なき宝石の如き希少な生。
個としての生命を尊ぶは特化した魔の本能。
故に並ぶものない強さに憧れ、従う事はあっても好んで群れる事をただ是としない、孤高を好む。
王が人々に破られた後も魔は人に従わない。
個として魔王と相対し打ち破ったのならば今とは違う世があったかもしれない。
魔物達を使役する人の世があったのやもしれない。
王を個として討てる、尊べる相手ならば従おう。
人の言う群れの一員となれと命じられれば腹に一物を含んだままであろうが従いもしただろう、強き者は常に正しい。
その先に待つのが破滅であっても、それは正しいのだ。
人の世をもり立てる為に働けと命じられればそう働いただろう。
しかしそうはならなかった。
人々は策を弄し、数と道具を頼りに王を殺した。
策が悪いと思わない、道具を扱う事が卑怯とも思わない、人が邪悪だとも思わない、王が弱かった。
卑小な策、敵の群れを打倒出来る程に強くはなかった、ただそれだけの事実。
そして自分達はその王よりも弱かった。
生き残った古強者たる知恵も力もある魔物も時の流れの中でくしけずるように命を人々に墜とされた。
あの栄光の日々を知る者はもう少ない。
散り散りとなり大陸の各地で今ではまつろわぬモノとして隠れ住む、僅かな縄張りを主張して粋がるが精々の有様。
人に対し積極的に従う者はいなくてもその群れに対して一定の評価を下す魔物は多い。
賢しい者は奥歯を噛みつつも恭順を見せる。
時代は変わった。
生き残る為に誇りを曲げ、それを是としなければならない。
自分のようなそれなりの強さを持つ魔物も近年ではとんと聞かない。
目に付くような異形が生まれたならばすぐに人が始末するからだろう。
なまじ生き延びたとしても年若い者には老獪さはなく、自身の力を驕り、人に討たれる。
まこと異形たる怪物にはこの世は生きにくく、不純になった。
強さは何よりも尊く美しい、それは理だ。
魔だけに通じる理だとは思わない、全ての生ある者に共通する根源的な理。
人はそれを容易に歪める。
それが悪いとはクラウ思わない、寂しいなどとも言わない、ただ不純で美しくないと感じるだけだ。
「魔王様、魔王様!」
遠く、クラウを呼ぶ声がする。
いつのまにか夢と現実の狭間、益体もない思考に埋没していた。
自分風情を魔王と呼ぶ、若く、弱く、愚鈍な、物を知らない従者の怪物を前にし、ゆっくりと居住まいを正す。
「……私を魔王と呼ぶな」
欠伸を噛み殺しながら静かに応える。
肉も皮膚もない従者、暗色のローブに身を包んだ骸骨は身を震わせると一礼して場を離れる。
クラウの所有する古城、円卓の間。
森の『有力者』が集い、あれこれと議論を交している。
まるで人のような有様にクラウはひそやかに嘆く。
群れる弱き人を嘲る事などもう出来ない、魔も群れ、結託する時代。
一匹の強い個が先頭を走り駆け、従わせ、思い思いに動くのではなく足並みを揃え協調する事を至上とする。
自分は古いのか。
肘をつき、頬杖をし、辺りを見回す。
魔法を操る事を覚え多数の同族を従えるオークが、立派な鎧に身を包んだ骨身の騎士が、人語を解する巨大な蜘蛛が、知性を讃えた目を持つ巨躯なるオーガが、長躯なる身を震わせる蛆虫がいる。
多様な亜人、まつろわぬ者、異形、怪物たちが石造りの城内、部屋にひしめき合っていた。
「北の赤竜をどうするのだ!」
鼻息荒く大声を上げるのはオークの族長、豚の頭、特徴と人の体を持つ亜人。
でっぷりとした肉を纏い、震わせながら面々に対し声高に問いただす。
ここ最近の議題にあがるは年の暮れに突如として現れ消えた、謎の『虹』に関する事。
圧倒的な力を示し森を縦断するように裂き、北の山脈を壊した光。
森の被害はそれなりといえる程度、その発生源も問題であるが目下の悩みは北山脈の方だ。
光が直撃したあの界隈には怠惰で気紛れで厄介な怪物、赤竜が棲む。
白炎のジルクレスト。
白き火を操るジルクレストと呼ばれる赤竜は北山脈に居を構えていた。
怠惰で、大体において眠りこけていて森に、南下する事も稀であるものの、魔王なき後に従者を引き連れ、北のこの地、森へと落ち延びたクラウを戯れに何度となく大破せしめた恐るべき相手。
あれにクラウがギリギリの所で滅ぼされず渡り合っていけたのは、亡き魔王が残した遺物の力に加え、相手がこちらを舐めきっていたからで、赤竜はこの地、森に対し格別の想いを抱いていなかった事も大いにある。
取るに足らない矮小な者と侮り、その箱庭に対し弄ぶ事はあっても本気になることはない。
強さだけで言うならばクラウの上に立つ事も叶うが、竜とは一部を除けば魔よりも排他的だ。
生物の頂点に達する種族故の驕慢か。
その強さを認めても、大きすぎるその侮りと驕りはクラウに頭を垂れさせる事をよしとさせない。
魔は個の強さ、強大さを尊ぶが、彼らにも心、矜持はある。
「しかし、本当に赤竜が攻めてくるか?」
話し合いは進む。
住処を荒らされて怒らない者はいない。
それは竜とて変わらないはずであろうが、あの光が山を吹き飛ばした時、すぐにでも飛んでくるかと思えばそうでもない。
「……あの虹に呑まれたのでは?」
そうであればいい、いっその事そのまま死んでくれれば森は安泰だろう。
「――よくて瀕死というところだろう」
クラウは傍らにある暗黒の、得体の知れぬ材質の禍々しい気を内包する杖を抱きながら場に冷たい声を放つ。
場を沈黙が支配する。
竜の性質、暴竜の気性から考えればすぐにでも意趣返しにくる。
それがないという事はそれが出来ないと考えられる。
虹に呑まれ、死ぬ事はなくても大いに傷つき、癒している最中だと考えるのが無難な答えに思える。
「そうであるなら打って出るべきではないか!」
荒々しい、なんとも『女々しい』言葉でオークが吠えたてる。
「――では汝らが先陣をきってゆくがよい」
クラウの冷淡な言葉にわかりやすい程に静かになる室内。
もし罠ならば目も当てられない、竜に会い無残に、凄惨に焼き殺される。
かといってただ待つのも悪手にすぎると断じられても仕方がない。
「……クラウ殿はなぜそんなに落ち着いていられるのか」
人を一飲み出来そうな巨躯なる蜘蛛がしごく当たり前の疑問を、言葉を、森の長たるクラウに投げる。
それはもっともな話。
異常なる虹の発生、一部とはいえ北の山が吹き飛び、竜の脅威、エルフらも騒ぎ立て、森に多勢で無断で入り込む事も多くなった昨今。
闇に潜む者ら、森での生活圏、領地は今も進行形で脅かされ続けている。
見えぬ竜も怖いが、東西、南方の三方よりじりじりと包囲してくる人も怖い。
遠くない将来、森は人の手か竜によって蹂躙される。
明確な滅びが先にあった。
この地を失えば何処にも行くところなどない。
それはクラウも同じはずで互いに協する事が苦手とする魔物同士であっても共同歩調をとるよう、この場はあり、そうやって今までもやってきたはずだった。
が、近年の魔王、氷妖は何かがおかしい。
現状にしてもそうだ、あまりに落ち着きすぎている。
それはいっそ狂っていると言い替えてもいい。
確かな滅びを前にして亡き主君の遺物である黒杖を胸に抱き、目に笑みさえ浮かべ泰然としている。
何よりも異常なのは円卓の、クラウの隣、最上の座、その空席だろう。
細やか、精緻な細工が施された玉座、一際立派なその椅子には誰も座らず、座れず、ただそこに在る。
森の有力者が集う会合、クラウが座らねば誰も座れぬその席に、氷妖は頑なに座そうとしない。
いつからだろう。
この稀なる古強者たる魔物がこうなったのは。
肉に依らず、魔力により命を繋ぎ、あまりに永き時を生きた魔は時に狂うという。
狂った強き魔など側で従う者には悪夢以外のなにものでもない。
ある日、疑問を抑えきれない者がクラウに問うた。
あなたが座らねば誰があの席に座れるというのか?
以前はクラウもあの席に大人しくついていた。
いつから、一体いつからだろう、あの席を空けるようになったのは。
屍人の如き不気味な女はただ静かに答える。
剥き出しの骨、瞳に笑みを張り付かせ、その節足を落ち着きなく沸かせ、喜悦の中で応える。
私如きを魔王と呼ぶ愚鈍な者よ、よくお聞き
あの席は、もう座られる御方が決まったのよ。
と。