万年筆
正月二日目、私は通信講座の付録に付いていた万年筆を使っている。昨年の暮、インクカートリッジを購入しようと思い、文具店に万年筆を持参した時のことである。万年筆に合ったカートリッジを特定するためか、店長が丹念に私の万年筆を調べ回したので、私は「安物の万年筆だから」と、恥ずかしくなった。
万年筆に憧れる思いは子供のころからあった。昔の万年筆は本体の中にゴム風船のようなものが付いていて、インクを吸い上げて使っていた。インク壺をひっくり返して、机の上を真っ黒にした経験が一度だけある。あの時は心臓が止まる思いであった。覚悟したが、母はそれほど叱らなかった。カートリッジになった時は「便利になった」と思ったが、社会人になってからはボールペンを使った。
以前、和服姿の作家が太い万年筆を握り、原稿用紙に向っている写真を見たことがある。作家が誰で作品が何かは記憶にないが、あのド太い万年筆だけは私の脳裏に焼き付いて離れない。あの写真が強烈に私の記憶に残っているのは、恐らく、作家の創作への情熱が迸っていたからであろう。その象徴があのド太い万年筆であったのではないだろうか。「あの万年筆は魂を宿している」。私はそう思った。
生活が精一杯の私には、贅沢品と呼べる物が一つも無い。かといって「欲しくは無い」と言えば、ウソになる。もし、望みが叶うならば高級万年筆が欲しい。人前でさり気なく万年筆を取り出して、サラサラと文字を書く。自慢せず、卑下することも驕ることも無く、ただ自然に振舞う。
高価な万年筆であっても、その気になれば手に入れることは可能であろう。しかしそれは、多分に見栄を張るだけの道具に過ぎず、あの写真のド太い万年筆のように、知的な雰囲気を醸し出せるかどうかは疑問である。つらつらと考えるに、どうも私には今の万年筆を大切に使い、この万年筆が「長いこと使ってくれてありがとう。これからは高級な万年筆を使ってください」というまで修行した方がよさそうだ。万年筆は単なる文具か、それとも象徴足り得るのだろうか。私はこの万年筆で夢を描く。