俺を救ったのは、放課後の嘘つきだった
雨の日の図書室は、紙の匂いが少しだけ強くなる。
濡れた制服の裾から伝わる冷たさと、古い文庫本が吸い込んだ湿気。静まり返った館内に、窓を叩く雨粒の音だけが規則正しく響いていた。
俺――高瀬祐史は、カウンター奥の長机で、開いたままの単語帳を目で追っていた。数字とアルファベットの羅列。いくら眺めても頭には入ってこない。
「……先輩って、意外と真面目なんですね」
不意に、向かいの席から声が降ってきた。
静寂を割るには小さすぎる、けれど耳の奥に妙に残る声。
濡れた黒髪を肩に揺らし、白石凛が参考書から顔を上げていた。
「意外とは余計だ」
「だって、いつも面倒くさそうに歩いてるから」
「ただの省エネだろ」
「そういうのを不真面目って言うんです」
凛はそう言って、悪戯っぽく口元を緩めた。
窓からの暗い光が、彼女の少し垂れた瞳の奥で揺れている。
俺と凛の出会いは、四月の雨の日だった。
校舎の踊り場で途方に暮れていた彼女に声をかけたのが始まりだ。「職員室はどこですか」という単純な問い。案内してやれば、翌日は購買、その次は図書室、さらにその次は体育館。
「お前、三年間通う学校で毎日迷子になるつもりか」
一ヶ月ほど経った頃、呆れて尋ねた俺に、彼女は悪びれもせず言い放ったのだ。
「じゃあ、先輩が卒業するまで案内してください」
その言葉の裏にある感情を、当時の俺はただの「懐きやすい後輩」の甘えだと思っていた。
凛には大学進学で家を出た兄がいるらしい。だから俺に兄の影を重ねているのだと。
だが、凛が俺に缶コーヒーを差し出すとき。
『お前、微糖好きだったろ』と不意に呟くとき。
その指先がわずかに震えていることに、俺は気づかないフリをしていた。
「先輩」
凛が机越しに顔を寄せてくる。かすかに香る、雨の日のシャンプーの匂い。
「何だよ」
「私、先輩といるときが一番落ち着きます」
「……参考書開いてから言え」
素っ気なく返して視線を単語帳に戻したが、耳の奥で自分の心臓が嫌な音を立てて拍動を早めていた。
窓の外では、雨がますます強くなっていた。
六月。梅雨の晴れ間は、逃げ場のない蒸し暑さを連れてくる。
グラウンドの乾いた砂埃が風に舞い、昇降口のプラスチック臭さが鼻をつく。昼休みの校舎は、どこか浮ついた熱気に満ちていた。
「祐史、ちょっと」
中庭へ続く渡り廊下。影になったベンチで缶ジュースを飲んでいた俺の隣に、拓海が腰を下ろした。少し離れた手すりには、美咲が寄りかかってスマホをいじっている。
「白石さん……だっけ。一年の」
拓海が、探るような視線を投げてきた。
「ああ。それがどうかしたか」
「最近、ずっと一緒じゃん。付き合ってんの?」
「……付き合ってない」
「じゃあ、狙ってんの?」
不意に訪れた沈黙。
風が吹き抜け、美咲がこちらをチラリと見たのが分かった。彼女の指先が、スマホの画面上でピタリと止まっている。
「……別に、そういうんじゃない」
俺の答えに、拓海は「ふーん」と気のない声を漏らした。だが、その瞳の奥には、確かな違和感のトゲが刺さっていた。
「まあ、噂になってるからさ。気つけなよ」
「噂?」
「なんでもない。ただの軽口」
拓海は立ち上がり、パンっと俺の肩を叩いた。
美咲は一言も発しないまま、俺と目を合わせずに拓海の後を追って歩き去っていく。
二人の背中が校舎の影に消えていくのを、俺はただ冷めた心地で見送っていた。長年の幼馴染という関係が、ほんの少しずつ、軋みを上げて歪み始めているような予感がした。
その日の帰り道。
西日が長く伸びる昇降口の階段で、凛が駆け下りてきた。
「先輩!」
「走るなって。転ぶぞ」
忠告が終わるより早く、凛の足が最後の一段で滑る。
反射的に腕を伸ばし、その小さな体を抱き止めた。
ドサリ、と鈍い音が響く。
腕の中に収まった凛の体は驚くほど軽くて、そして温かかった。
「……ほら、言ったろ」
「……」
制服越しに伝わる、凛の鼓動。それが自分のものなのか、彼女のものなのか分からない。
夕暮れの赤が、凛の耳たぶを鮮やかに染め上げていた。
「……近いです」
ぽつりと漏らされた声に、俺は慌てて手を離した。
影がふたつ、コンクリートの床に長く揺れていた。その距離が、もう二度と元には戻らないことを、お互いに察していた。
噂が校内に広まるのは、水が低い方へ流れるよりも早かった。
『高瀬祐史が、一年の白石凛をしつこく連れ回している』
『断れなくて困っているらしい』
最初は、どこかの誰かが流した質の悪い都市伝説だと思っていた。
だが、すれ違う生徒たちの視線、教室の隅で交わされるひそひそ話、俺が近づくと急に途切れる会話。
学校という狭い箱庭の中で、俺はあっという間に「有害な存在」へと仕立て上げられていった。
夕方。茜色に染まる図書室にも、凛の姿はなかった。
LINEを送っても、画面の向こうからは何の音沙汰もない。
スマートフォンの冷たい画面を見つめながら、俺は一人、静まり返った教室に座っていた。夕日が自分の影を長く長く引き伸ばしている。
通知が鳴ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
『ごめんなさい。今日、先に帰っちゃいました』
『学校の噂、知ってるか?』
数分の沈黙。
その空白の時間が、俺の胸をじわじわと締め付けていく。
『知ってます』
『白石が困ってるって……本当なのか』
『違います』
即答だった。
『私、そんなこと誰にも言ってません。先輩が困るようなこと、絶対言っていません』
画面に浮かぶ文字を目で追うだけで、途切れかけていた息が戻ってくる気がした。
『明日、話したいです。放課後、体育館裏で』
翌日。体育館の陰、湿った土の匂いが漂う場所で、凛は待っていた。
いつもの生意気な笑みは消え、唇を噛み締めながら地面を見つめている。
「……同じクラスの男子に、告白されました」
凛がぽつりと切り出した。
「断ったら……好きな人がいるのかって聞かれて。『よく一緒にいる先輩がいるから』って言いました。名前は言ってません」
「それが原因か」
「たぶん……その人が、面白がって周りに変な風に話したんだと思います。ごめんなさい、私が余計なことを言ったから」
「お前が謝ることじゃない」
俺は息を吐き出し、体育館の冷たい壁に背をあずけた。
ただの腹いせ。くだらない嫉妬。
だが、それが一旦「噂」という形を得れば、人は面白い方を信じる。事実かどうかなど、誰にとってもどうでもいいのだ。
数日後、噂は決定的な「証拠」を伴って爆発した。
俺が凛に送ったメッセージのスクリーンショット。
『今日、図書室いる?』
『ちゃんと飯食えよ』
『夜更かしするな』
前後の文脈を削ぎ落とし、俺の送信文だけを切り取った画像が、学年のグループチャットやSNSで拡散されていた。
並べられた文字だけを見れば、確かに「執着し、後輩を監視する男」に見える。
凛が教室でスマホを置いた隙に盗撮されたものだと後で分かった。
『先輩はすごく優しい』という凛のメッセージは隠され、『断ったら悪いかな』という無関係な友人への相談だけが、まるで俺への恐怖を語っているかのように加工されていた。
「高瀬。念のため確認するが」
担任の面談室。蛍光灯のジジジというノイズだけが響く空間で、先生は言いにくそうに口を開いた。
「下級生に対して、強引な行為やストーカー紛いのことはしていないな?」
「……していません」
「そうか。だがな、相手の親からクレームが入るようなことになると、こちらとしても――」
担任の言葉は、もう耳に入らなかった。
信じてもらえていない。誰も、最初から俺の言葉なんて聞く気がないのだ。
放課後。三人でいつも使っていた校舎裏のスペース。
「祐史さ」
拓海が、重い口を開いた。
「一回、白石さんと距離置いた方がいいんじゃないか?」
「なんでだよ。俺は何もしてない」
「お前はそう思ってても、向こうが断れない空気になってるかもしれないだろ」
「白石本人が『違う』って言ってるんだよ」
「……噂になるってことは、火のないところに煙は立たないっていうか」
拓海は視線を逸らした。
その隣で、美咲は怯えたような目で俺を見つめている。
「祐史……なんか今の言い方、怖いよ」
「……美咲まで、俺を疑うのか?」
「疑うとかじゃなくて! ただ、祐史が何もしてないなら、なんでこんな噂になるの? 白石さんが何か言わせるような雰囲気出してたんじゃないの?」
美咲の言葉の裏にある、冷ややかな自己保身と凛への排他性。
長年一緒にいたはずの幼馴染が、酷く遠い存在に見えた。
「……もういい」
俺は鞄を手に取り、二人には振返らずに歩き出した。
夕暮れの廊下、自分の足音だけが空しく響いていた。
その日の夜、凛からの電話のベルが鳴った。
「……先輩」
出た瞬間に聞こえたのは、押し殺した泣き声だった。
「なんでお前が泣いてんだよ」
「私のせいです……私がもっとちゃんと言えばよかったのに、先輩がみんなに酷い目で見られて……」
「白石」
俺は声を張り上げた。
「お前のせいじゃない。俺が一番嫌なのは、お前が自分を責めることだ」
受話器の向こうで、凛が小さく息を呑むのが分かった。
「……私、先輩のこと信じてますから」
暗闇の中で、その言葉だけがはっきりと届いた。
「誰も信じなくても、先輩が何も悪くないこと、私だけは知ってます。だから……絶対、信じます」
胸の奥の冷え切っていた場所が、じわじわと熱を帯びていくのを感じた。
親しい友人すら離れていった中で、この少女だけが、まっすぐに俺の手を握り返してくれている。
「……ありがとう」
声が震えないようにするのが必死だった。
「明日、一緒に登校しましょう」
「……お前まで嫌な目で見られるぞ。距離を置いた方がいい」
「嫌です」
凛の声には、迷いがなかった。
「ここで私が離れたら、あの嘘の噂を認めたことになります。絶対に嫌です」
翌朝。駅のホームは冷たい朝靄に包まれていた。
改札を出ると、制服姿の凛が立ち尽くしていた。周りの生徒たちの不躾な視線が突き刺さる中、彼女は俺を見つけると、まっすぐに駆け寄ってきた。
「おはようございます、先輩」
「……おはよう」
凛は俺の隣に並び、当たり前のように歩き出した。
「先輩」
「ん?」
「今日、帰りにアイス買ってください」
「なんでだよ」
「味方だからです」
「理由になってないだろ」
凛はくすっと笑った。
その横顔を見つめながら、俺は心の中で静かに誓っていた。この手を、絶対に離すまいと。
潮目が変わったのは、一週間後のことだった。
昼休み、生徒会室に呼び出された俺を待っていたのは、三年生の生徒会長と凛、そして顔を真っ青にした一年生の女子生徒二人だった。
「高瀬君、噂の発端が特定できた」
会長が差し出したスマートフォンには、グループチャットのスクリーンショットが映し出されていた。
告白を振られた男子生徒――小野。
彼が仲間に送っていたメッセージには、ハッキリとこう記されていた。
『高瀬って奴を潰せば、白石も俺のところに来る』
『ロック画面盗撮した。適当に切り取って流すわ』
呆気ないほどの悪意。そして、浅はかな自爆。
凛が一人でクラスの女子たちに頭を下げ、怪しい書き込みがないか情報を集めて回った結果、小野の自爆ログが引っかかったのだという。
「白石さんが、ずっと『先輩はそんな人じゃない』って証言して回っていたの」
女子生徒の一人が、申し訳なさそうに下を向いた。
「ごめんなさい……私たち、噂を真に受けて……」
翌日、全校集会で「誹謗中傷および情報捏造に対する厳重注意」が行われた。小野の名前は出されなかったが、誰が犯人なのかは一瞬で広まった。
手のひら返しは、笑えるほど早かった。
「高瀬、完全にはめられてたらしいぞ」
「小野って奴、マジでヤバいな」
「俺、最初から高瀬はそんなことしないと思ってたんだよね」
調子のいい声が聞こえる教室で、俺はただ黙って教科書をめくっていた。
一度崩れた信頼は、どれだけ言葉を重ねても元には戻らない。それを彼らは知る由もなかった。
「……祐史」
昼休み。拓海が俺の席の前に立ち、酷く痛々しい顔で頭を下げた。
「ごめん。俺……お前のこと疑って、最低なこと言った」
「……いいよ」
俺は顔を上げずに答えた。
「ほんと、悪かった。また前みたいに――」
「拓海」
俺は短く言葉を遮った。
「謝ってくれたのは分かった。でも……前みたいには戻れない」
「……え?」
「俺が一番信じてほしかった時に、お前は噂を選んだ。それだけだ」
拓海は絶句し、悔しそうに唇を噛みしめた。だが、追及はしてこなかった。自分が犯した過ちの重さに、ようやく気づいたのだろう。
放課後。校舎裏の物陰で、美咲とも話した。
美咲は泣いていた。ボロボロと溢れる涙を、制服の袖で何度も拭いながら。
「ごめんなさい……祐史……私、本当は……」
「本当は?」
「白石さんと祐史が仲良くしてるのが……嫌だったの。ずっと私が一番だと思ってたから……噂を聞いた時、二人が離れればいいって……心のどこかで思っちゃった」
ポロポロとこぼれ落ちる幼馴染の醜い本音。
哀れだった。そして、酷く冷めた心地がした。
「美咲」
「……うん」
「俺、お前のこと嫌いになったわけじゃないよ」
「……本当?」
「でも、もう二度と『一番近い幼馴染』として見ることはない」
美咲の顔から血の気が引いていく。
何年もかけて積み上げてきた関係が、ガラガラと崩れ去る音を聞いた気がした。
暴言も吐かず、暴力を振るうこともない。
ただ、自分の世界から相手を静かに排除すること。
それが、俺にできる最大の「ざまぁ」だった。
小野は一週間の自宅謹慎処分となった。
登校再開の日、廊下ですれ違いざまに彼から声をかけられた。
「高瀬先輩……」
痩せこけた顔で、深く頭を下げる小野。
「……すみませんでした。俺、白石さんのことが本当に好きで……頭がおかしくなってて」
俺は立ち止まり、無感情な目を彼に向けた。
「好きだったから何してもいいわけじゃない」
「……はい」
「白石がお前を選ばなかったのは、俺のせいじゃない。お前自身に魅力がなかったからだ。人を陥れて手に入れようとした時点で、お前は永遠に選ばれない」
小野の顔が歪む。
残酷な事実を突きつけ、俺は振り返ることなく歩き去った。
夏休み初日。
俺と凛は、電車で一時間ほどの場所にある水族館に来ていた。
巨大な大水槽の前。青い光が波打つように揺れ、凛の横顔を幻想的に照らし出している。
「先輩」
凛が魚の群れを見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「私と関わったせいで、色々失いましたね」
「まあな。友達も減ったし、散々だった」
「……後悔してますか?」
凛がこちらを振り向く。その瞳には、かすかな不安が浮かんでいた。
俺は少しだけ間を置いて、彼女の手をそっと握りしめた。
「後悔なんて、一度もし発ちない」
「……え?」
「誰も俺を信じてくれなかった時、お前だけが隣にいてくれた。あの時のこと、俺は一生忘れない」
凛の瞳に、あっという間に涙が溜まっていく。
「白石」
「……はい」
「俺、お前のことが好きだ。お前の『お兄ちゃん』じゃなくて、一人の男として。付き合ってほしい」
凛は驚いたように目を丸くし、それからポロポロと涙をこぼしながら笑った。
「……ずるいです。私から言おうと思ってたのに」
「返事は?」
凛は強く握り返してきた。
「よろしくお願いします。……祐史先輩」
青い光の底で、俺たちの新しい関係が静かに始まった。
二学期。
校内の空気はすっかり入れ替わり、俺と凛が付き合い始めたというニュースが新しい話題になっていた。
廊下ですれ違う美咲や拓海とは、軽く会釈を交わす程度の距離感。
かつての熱量はもうそこにはない。だが、後悔はなかった。
「祐史先輩、購買の焼きそばパン、半分こしましょう」
「なんで俺が半分やらなきゃいけないんだよ」
「彼氏だからです」
「理屈になってないだろ」
凛は楽しそうに笑いながら、俺の制服の袖をくいくいと引っ張る。
世界中に背を向けられても、たった一人、俺を信じてくれた少女。
その手を引き寄せ、俺たちは賑やかな校舎の廊下を歩いていく。
雪が降る頃も、桜が舞う頃も。
この温もりだけは、絶対に手放さないと心に誓いながら。




